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§946, II-13: 「転生」を含意するノストラダムスの新たな「心身観」

大団円としての幸福の科学16 「転生」を含意するノストラダムスの新たな「心身観」

『預言集』全編の眼目と見なし得るその第10章72歌と75歌に深く関わる概念として、「再誕すなわち転生」という仏教的概念があるが、実はノストラダムスは既に、自らキリスト教的心身観を脱却して、仏教的輪廻転生を含意する新たな心身観に到達していたことが、第2章13歌の解釈から見て取ることができる。

第二サンチュリ第13詩 「転生」を含意するノストラダムスの新たな「心身観」: II-13 (§946).
魂なき身体はもはや神聖なものではなくなるだろう。
死亡の日に、魂は誕生へともたらされるのだから。
神霊が魂を至福にするだろう。
魂は永遠の相におけるコトバを観照する故に。


§946, II- 13: Transmigration theory of Nostradamus.
The body without soul shall be no more sacred.
On the day of death the soul given a new birth.
The divine spirit shall make happy the soul
who is contemplating the word in its eternity.


Le corps sans ame plus n’estre en sacrifice.
Jour de la mort mis en nativité.
L’esprit divin fera l’ame felice
Voiant le verbe en son eternité.    

神聖なもの」の原語は、sacrifice で、英語と同様、通義は「犠牲」であるが、その語源的意味は「神聖にする → 神聖にされたもの、L. sacrificium, sacred + make」(Obunsha)であるから、本詩文脈に適合し得るこの意味を採用した。

死亡の日に」の原句は、単に、jour de la mort, the day of death であるが、これは、当然、前置詞のない時の副詞句と取っていい。

 この一行目「魂なき身体はもはや神聖なものではなくなるだろう」という命題は、キリスト教的教義に合致しているか否かを問えば、信者であるなしに関せず、殆ど全員が、合致しているに決まっている、と答えるような気がする。しかし、時の限定がこの問題に深く関わっていることを忘れることは出来ない。つまり、一体どれ位の時間が経過すれば、死における心身の分離が完全なものになるのか?という問題が正しく答えられる必要があるのである。仏教的にはかなりはっきりしている。というのも所謂「お通夜」という習俗などからも推測されるように、およそ一昼夜程度の時間が経過すれば、心臓死から始まった死のプロセスが真の意味で完結し、身体と霊魂の分離が不可逆的に確定すると考えられるのである。従って哲学者・梅原猛氏等が強く主張する「脳死」=「生命」論は、本人の自発的意思に基づく自己生命体の犠牲的奉仕行為として臓器移植のための臓器提供を法的に認めるとの社会的譲歩を余儀なくされている点を除けば、仏教的真理の立場からは当然である(梅原猛・原秀男・光石忠敬・米本昌平「輝ける少数意見!それでも脳死は人の死ではない」月刊『諸君!』 文芸春秋社、1999年7月号、pp.174-184)。

 では、キリスト教的にはどうなのか。心身が実体としては別物である、と考えられているのは疑問の余地がないが、更に突っ込んで、では死において何時心身は完全に分離するのか?第一に典拠とすべき『聖書』に従ってこの問題を追及すると、意外な結論に到達せざるを得ないのである。それは「キリスト再臨問題」と深く関係する。即ち、キリスト再臨の教義支持の立場に立てば、

再臨
 →  復活 →  審判(より詳しくは、再臨 →  第一の復活 →  千年王国 →  第二の復活 →  最後の審判)

という人類史の終末のプロセスの中で、第一の復活に与かるキリスト教の聖人と殉教者を除く一般人は、第二の復活の時点到達以前は、「復活前状態としての死の状態」に留まっている。これは「ただ乾いた骨に化してしまっている者でも生前の肉体相において蘇る」復活を今か今かと待ち望んでいる状態であるから、その肉身蘇生という線上で推測すれば、「一片の白骨が復活の可能性を持つ」わけであって、その限りにおいて、この教義思想の中では、死者の屍体や遺体、遺骨の持つ意味は感覚的には極めて重く、「神聖なもの」としての価値を有するほどのものであろう。

また、キリスト教史的に見ても、特に聖職者や有力者の遺体の取扱いには、明らかに、「遺体神聖視」の感情が認められ、これは「イエス・キリストの磔刑とその無惨な肉体の栄光に満たされた蘇生」という復活の教義・信仰と不可分となっており、この<原復活>を典型にして、<第一の復活>も、<第二の復活>も思念されており、従って、一般信徒・俗人の死体についても、基本的に、同様の神聖感情が伴っていることは否定し難いところである。

そして、このような基本線の上に、前に取り上げた『預言集』第10章74歌 (§940,X-74) の四行目:
Que les entres sortiront de leur tombe. 中に入っていた者たちがその墓から出て来るであろう
を置く時、これが紛れもなく死者の復活として解釈されるのは、その限りにおいては当然である。

例えば、現代の最もポピュラーなノストラダムス研究者の一人であるフランスのジャン・シャルル・ド・フォンブリュヌは明確にこれを『ヨハネの黙示録』第20章に告げられている「第一の復活」と解釈している(Fontbrune,1980, pp.281-282)。只、その場合、アウグスチヌスの、

<イエス誕生 磔刑 復活 昇天[キリスト第一来臨]
 →  教会的キリスト信仰[第一の復活]の機会がある中間不定期間を象徴する千年王国 →  キリスト再臨・第二の復活・最後の審判>

という解釈(アウグスティヌス『神の国(五)』服部英次郎・藤本雄三訳、岩波文庫版, 1991, pp.134-165)に沿うカトリック的通念に従っているため、未来不定時の「キリスト再臨」の詩篇同定及び解釈が欠けているのは極めて不完全である。

それに、若し本当にアウグスチヌスの解釈に忠実であるならば、その「第一の復活」は「墓から出て来る」式の肉身蘇生ではなく、「恩寵の命を得させる洗礼」のことである(バルバロ訳『口語訳旧約新約聖書』ドン・ボスコ社, 東京, 1964, 「新約聖書」p.460 脚注参照)。そして、そこでも、終末における第二の復活は文字通りの肉身蘇生として以外には想定されていない。よって、この『預言集』第10章74歌の四行目は、フォンブリュヌのように文字通り「肉身蘇生としての復活」としてよりも、先に我々が行ったように、単に「諸故人の霊的顕現」として解釈した方が妥当であることが分って来る。

そして、これとの関連において、第2章13歌の解釈を位置づける時、以下のような考察が妥当性をもつことになるであろう。

即ち、このような「死体の神聖な運命」の可能性が純理論的には『聖書』の記述から引き出され得ると共に、同時に他方において、キリスト教的には「死者の霊魂の近未来的行方の不明性」が色濃く印象づけられている。つまり、仏教的輪廻転生観によれば、一度身体から死において分離した霊魂は、その期間は色々議論があるにしても、とにかく物質世界とは違う異次元世界(霊界)に赴く(仏教以前のウパニシャッドの或る思想家は、転生とはあたかも一匹の森の蛭が一枚の木の葉から別の木の葉に移るようなものと説き、敢えて異次元滞在を認めなかったが)ものと想定されるのであるが、この点、キリスト教的にはどうなのであろうか。

死者の霊魂も、例えカトリック的に洗礼による恩寵の命を、<その永遠の相のもとにある言葉>、即ち天国のキリストの傍らに限り無く近在せしめるとしても、最終的には、最後の審判までは、天国か地獄かの去就、又は、肉身蘇生が、確定し得ないこととなっているために、それ以前の状態については、はっきりしたイメージが描かれていないと言わざるを得ない。従ってそれは、「乾いた白骨の存在状態」と一体とも見なされるのであって、霊肉峻別の厳しい理念的思想とは裏腹に、現実のキリスト教的死生観は、生者も死者も、「霊肉一如・霊肉未分」という状態以外の姿を想像し得ないことになってしまっているのである。

ただし、ダンテの『神曲』には既に明確に描かれている、いわゆる「煉獄」の思想が、キリスト教社会に導入・浸透されて来た結果として、今度は死者の霊魂の最終運命の去就未定状態が、全面的に煉獄内滞留状態とほぼ完全にオーバーラップされ、且つ歴史的人物がもう地獄や天国に住んでいるという『神曲』の描写の強い印象が相伴って、理論的未決着問題を、いわば、うまくオブラートに包んでしまっており、聖人や殉教者たちは死後直ちに天国においてイエス・キリストの御許に赴くはずであるといったアウグスティヌス的解釈に依拠する希望的観測とも相乗されて、通用している如く、先の我々の問い:「魂から切り離された身体はもはや神聖なものではなくなっている。」という命題は、キリスト教的教義に合致しているか否か?という問い自体が全くのナンセンスであるかのような錯覚さえ生み出すという逆説的事態に立ち到っていると言わざるを得ない。

そして実際のところ、ダンテの『神曲』がキリスト教教義の天才霊感詩人による非教会的修正である(この点については、ジャック・ル・ゴッフ著、渡辺香根夫・内田洋訳『煉獄の誕生』法政大学出版局、1988、参照)とするならば、同様に、ノストラダムスの本四行詩第2章13歌も稀代の大預言者によるその基本的な理論修正であると言わなければならない。而して両者はほぼ同様の内容を持つわけである。「魂なき身体はもはや神聖なものではなくなるだろう。死亡の日に、魂は誕生へともたらされるのだから。」

これは、キリストの再臨問題を真剣には受け取らない、という恐るべき怠惰な信仰心の問題が未解決ではあるが、現在では既に事実的に常識となっているキリスト教的真理であると言えるであろう。つまり、ノストラダムスのこの詩は、単に事実的に通用して来ている習俗的信念を、真理命題として言明化したものである。何故なら、ここで言われている「誕生」というのは、輪廻転生論的な意味での「この世への再生」ではなくて、単に「往生」つまり、「あの世に往きてそこに新生する」ということだからである。

神霊が魂を至福にするだろう。魂は永遠の相におけるコトバを観照する故に。」

永遠の相におけるコトバ>とは、勿論、第一にイエス・キリストの霊界における曇り無き存在であるが、この点だけから見てもこの詩では第一の復活と第二の復活の区別が撤廃されており、更に、第一の復活もキリスト再臨を介在させずに想定されていることになる。この点までは、まさに、既に事実的に通用しているキリスト教的通俗信念の命題化以外のものではない。

 従ってそれは、もう一歩を理論的に徹底すれば、<最後の審判の結果の最後ではない実施>をも当然含意するであろう。

つまりこのように復活という<天国への往生>があれば、逆に<地獄への往生>もあるとしなければ均衡が取れないことになるはずである。結局、ノストラダムスはこのようにしてキリスト再臨問題を御破算にしようとしているものと推定し得る。

何故なら<死者達の復活を含意するキリスト再臨の約束>というのは、その歴史哲学的真理からすれば、<明言詳説はされずに単に緊急避難的に直観的に告知された転生システムの普遍性>以外のものではないからである。

そして、ノストラダムスの、このような、「非キリスト教化のプログラム」は、事実的キリスト教習俗信念の合理化を超えて、更に、一層先まで進み、紛う方なき仏教的輪廻転生観との合致にまで達するのである。事実、先に見た如く、大川隆法氏に関してではあるが、ノストラダムスは、明確に「ラ・ムーという古代霊の再誕」について語っていた。「往生」と「再生」を以て、一連の「輪廻転生」が完成する訳である。かくして、この詩は、ノストラダムスが古代ギリシアの哲学者プラトン等と同様、「霊眼」を以てする「霊界探訪」をして悟り得た「実相世界」についての「未来認識の地平へと投じられるべき先見的事実報告」であろう。
[初出:二瓶孝次「幸福の科学の仏教論的意義(10)」北海道教育大学紀要IA,vol.50-2, 2000, pp.1-3。一部改稿]
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