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§944, X-72 & §945, X-75: 再臨の債務と履行 (1999-2000)

大団円としての幸福の科学14-15

ここでは、あたかも『預言集』冒頭の二篇の四行詩が相伴う聯詩であった如く、これら同じ第十サンチュリで互いの至近に位置する二篇を、完全に相互に浸透しているペアと見なして解釈するのが最善の方法である。それは、解釈の結果によって御納得いただけると思う。

第十サンチュリ第72詩  キリスト再臨の「債務弁償者」ダンゴルモア大王(1999.7): X-72 (§944).
1999年に、7ヶ月経って、
天から一人の大王が「実費支払人」として到来するだろう、
そしてかの大王ダンゴルモアを再生させるだろう。
その前後、マルスは運良く支配するだろう。


§944, X-72: A great King Dangolmois (1999.7)
In the year nineteen ninety-nine seven months having elapsed,
From the heaven shall come a great King as defrayer
To resurrect the great King Dangolmois.
Before after Mars shall reign in luck.

            
L’an mil neuf cens nonante neuf sept mois
Du ciel viendra un grand Roy deffraieur
Resusciter le grand Roy Dangolmois.
Avant apres Mars regner par bon heur.
                                                     
第十サンチュリ第75詩 大ヘルメスの系譜に乗るアジアの大王(2000): X-75 (§945). 
待望久しき人は、ヨーロッパの中へ
決して戻って来ないだろう。アジアに、
大ヘルメスの系譜の連盟の一人が出現するだろう。
そして東洋諸国の全ての王を凌駕するだろう。
     
§945, X-75: One great King of Asia issuing from Greece (2000)
A so expected shall never return
in Europe, in Asia shall appear
One of the ligue issuing from the Great Hermes,
And promote himself above all kings of oriental countries.


Tant attendu ne reviendra jamais
Dedans l’europe, en Asie apparoistra
Un de la ligue yssu du grand Hermes,
Et sur tous roys des orientz croistra.
 
このように和訳した場合、特に72詩は従来の大方の訳詩とは随分、面目を異にした感じがするだろうが、それは、第一に、テクストの採用に関して、ノストラダムス書誌学の最新の知見を取り入れた為であり、そした第二には、そのテクストについて入念な解釈を実行した為である。

テクストに関しては、ノストラダムス・テクストの書誌学的研究において当代随一の、フランス国パトリス・ギナールの研究成果(e.g. Patrice Guinard, Chronologie des éditions Benoist Rigaud de 1568, Corpus Nostradamus 40, 2006-2011; Id., Introduction à l’édition du second livre des Prophéties, Corpus Nostradamus 82, 2007-2011 )を活用した。それに拠って、私は、フランス国グラース図書館所蔵の「ブノワ・リゴー1568年版」(本研究テクスト・リスト№3)(Propheties On Line (http://www.propheties.it/), Digital Library: 1568-002)を、現在最も信頼性が高い本詩原文として採用した。

そこで、X-72詩に関し、従来のものと決定的に異なる点が二つある。いずれもアポストロフィーの有無に関するものである。

一つは、un grand Roy d’effraieur が、un grand Roy deffraieur となっている点。
もう一つは、le grand Roy d’Angolmois が、le grand Roy Dangolmois となっている点である。
(このグラース版テクストと同じものに、Stockholm 版(Propheties On Line (http://www.propheties.it/), Digital Library: 1568-003), Jaques Rousseau 版(Propheties On Line (http://www.propheties.it/), Digital Library: 1590-001)がある。又、パトリス・ギナールの「第十サンチュリ試版」(Corpus Nostradamus 83)もこれと軌を一にする。これは単なる印刷不明瞭の蓋然的判別の推定結果ではなく、決定的に明瞭な印字の確証である。)

その結果、第一点に関しては、「一人の恐怖の大王」という従来の読みが、「他の人に代って実費を支払う一人の大王」といった全く別の意味になる筈だ。何故ならdeffraieurというノストラダムスの表記は、「ゴドフロワ古仏辞彙」では「desfraieur」に該当し、「実費を支払う人 celui qui défraie, he who defrays 」(Godefroy)[défrayer (人の)費用を支弁する](Suzuki)「to defray〔費用・経費など〕を支払う (pay) 」(Obunsha) という意味だからである。

又、第二点に関しては、「かのアンゴルモアの大王」という読みが、新たに、「かの大王ダンゴルモア」と読むべき様になる。つまり、従来は「アンゴルモア(大文字のイニシャルA)」は大体「地名アングーモア」ないし「モンゴル系人」を表すと考えられていたが、「かの大王ダンゴルモア」となると、「ダンゴルモア(大文字のイニシャルD)」は「かの大王の名前・固有名詞」ということになる。

以上を前置きとして、以下、個別の事項の検討に入ろう。

 先ず、72歌一行目の、l’an mil neuf cens nonante neuf = the year thousand nine hundreds ninety nine は、前置詞の無い、「時の副詞句」であって、「1999年において, in the year 1999」という意味である。次の sept mois = seven months は、 mois が単複同形の複数であるから、「7ヶ月, seven months」ということであるが、これを「7ヶ月間, for seven months」と解すると文脈上適合しないので、sept mois passés または sept mois révolus の省略形と見て、「7ヶ月過ぎて」「7ヶ月経って」の意味と理解することにしたい。例えば、第1章48歌 (§941,I-48) の vingt ans …passés([月の支配の]20年が過ぎて)という表現、或いは第10章74歌 (§940,X-74) の、an révolu (一年が過ぎて)という表現を参考にして良いであろう。この読み方はイオネスク氏が提起している。しかし、前節で見たように、彼はこの年月(日)を「フランスの将来を担うべき大王の誕生日たる皆既日食の日(1999.8.11)」としており、「食」一般の凶性を説く『預言集』ノストラダムスの精神とは相容れない解釈となり、結果的に「悲惨な帰結に到った」から、その内容は採用できない。

では、何故「7ヶ月」なのかと言うと、多分、「1999年が半年経っても」「その半ばを過ぎても」というニュアンスの表現と思われる。フランス語で面白いのは「2週間」のことを14日ではなくて「15日quinze jours, fifteen days」と言うが、そのような感じで「半年」のことを6ヶ月ではなくて「7ヶ月」と言ったのであろう。

 次に、二行目と三行目であるが、原文を直訳すれば、「天から、実費を支払う一人の大王が到来して、かの大王、ダンゴルモア、を蘇生させるだろう。」となる。ここで先ず留意すべきなのは、二行目の un grand Roy, a great King 及び三行目の le grand Roy, the Great King を文字通り「大王、つまり一人の人間としての社会に於ける最高指導存在」として理解すべきであって、<人間以外の自然的ないし人工的存在や現象・事態>として解すべきではない、ということである。何故なら、ノストラダムス『預言集』に於ける un Roy (a King), le Roy (the King), des Roys (Kings), les Roys (the Kings), un roy (a king), le roy (the king), des roys (kings), les roys (the kings) 等の用例[全部で123 例]中に、人間存在以外のものを比喩的に表現しようとしている例は全く一つも存在していないからである(X-72詩の2例も含む)。つまりそれらの用語は必ず、文字通り「王、君主、主権者、支配者、実権所有者、最高指導者、最高権威保持者、王者的人物、等々」を指しているのである。そしてこのガイドラインに沿って解釈を進めて行くならば、解釈の達成は相当確実・容易となる。逆にそれを比喩と取って人間以外のものへと解釈対象を拡散してしまうと、「歴史的唯一性に焦点化したオートクチュール仮説(これは私が提起したもので、ノストラダムスの各預言詩は、あたかもオーダーメイド服が注文者に合うように、該当事件にピッタリ合うものだという考え方。これに対して、私が「プレタポルテ仮説」と呼ぶのは、ノストラダムスは全く出鱈目に作詩し、ただ極めてあいまい、且つ多義的な表現を用いた為、歴史上の様々な出来事の中で「的中したように見える」ものが偶々存在するだけ、というノストラダムス預言否定論者の理屈。)に基づく解決」は遠のくばかりになってしまうであろう。以下に、各用例の歴史的該当人物を掲げておきたい。

「王」の用例121例の分類
X-72詩には「王」(Roy = King) という語が二度出て来るが、ノストラダムス『預言集』の中では他に121回の使用が認められる。依って、合計123回の用例が存在することになる。そこで、X-72詩以外の121例について、それらが全て「人間としての王、君主又は王的指導者、元首等」を表す事、逆にいえば「飛行機のような物体」等を表す例は無い事を確認しよう。そのことから、X-72 詩についても全く合理的に同趣旨の事が言えると期待されるだろう。

1. アンリ2世(I-10, IV-34, IV-77, IV-87, VI-71, IX-22).
2. フランソワ2世(I-13, III-41).
3. シャルル9世(VIII-38, VIII-52, IX-81, XI-97).
4. アンリ3世(I-85, III-50, VI-94, X-28, X-44, XII-56).
5. アンリ4世(IV-57, VII-15, IX-36, IX-73, X-44, X-45, XII-56).
6. フェリペ2世(IX-22, X-95).
7. 1570年キリスト教連合艦隊司令長官ザンネ(III-89).
8. ルイ13世(IV-16, IV-86, VI-75, IX-73, X-80).
9. ルイ14世(I-97, II-7).
10. ルイ15世(VI-18).
11. チャールズ1世(VIII-37, IX-49, X-36).
12. クロムウェル護国卿(VIII-76).
13. ジェームズ2世(IV-89).
14. ウィリアム3世(IV-89).
15. ルイ16世(II-2, V-37, VI-23, VI-92, IX-21, IX-23, IX-77, X-16).
16. ルイ17世(X-9).
17. ロベスピエール公安委員(IX-17). 
18. カルロス3世(I-99).
19. カルロ・エマヌエレ4世(VIII-88).
20. ジョージ2世(III-78).
21. ジョゼ・マヌエル王(I-99).
22. シャー・アシュラフ(III-77).
23. ナポレオン・ボナパルト統領・王・皇帝(I-52, II-69, IV-22, IV-54, V-13, V-77, VI-46, VIII-32, VIII-62, IX-33, X-21, X-22, X-86, X-87).
24. ルイ18世(VI-1, X-22, X-86).
25. シャルル10世(IV-45, VI-84).
26. ルイ・フィリップフランス人の王(IV-64, V-6, VI-14, IX-7, IX-57bis).
27. マッツィーニローマ共和国臨時政府執政官(VIII-99).
28. サッフィローマ共和国臨時政府執政官(VIII-99).
29. カッターネオローマ共和国臨時政府執政官(VIII-99).
30. ルイ・ナポレオン大統領・皇帝(V-6).
31. マクマオン大統領(VI-53bis, VI-54).
32. グレヴィー大統領(V-97).
33. カルノー大統領(V-17bis).
34. シャンボール伯(III-91, IX-8).
35. フランツ・ヨゼフ1世( X-63).
36. ヴィットリオ・エマヌエレ2世(VIII-44).
37. アマデオ王(VI-51).
38. ヴィクトリア女王(IV-99).
39. ヴィルヘルム1世(IV-100, V-84).
40. ニコライ2世(V-54).
41. アマデオ戴冠式の外国君主代理者達(VI-51).
42. 1874年ミケーナイ出土古代黄金マスクが象徴する或る王(IX-84).
43. フランス共和国暫定政府(GPRF)首班ド・ゴール(VIII-90).
44. ヴィットリオ・エマヌエレ3世(II-71).
45. ウンベルト2世(VIII-66).
46. ムッソリーニ統領(IV-35, VI-31, VI-36).
47. ゲオルギオス2世(IV-38).
48. ヒンデンブルク大統領(X-66).
49. ヒトラー首相・総統(II-36).
50. ルーズヴェルト大統領(VI-15).
51. ニクソン大統領(VI-24).
52. ケネディ大統領(VIII-73, VIII-74).
53. レーニン人民委員会議長(V-52).
54. スターリン人民委員会議長(VIII-92, IX-90).
55. シャー・パーレヴィ(IX-92bis).
56.20世紀 諸国元首達(III-18, III-26, IX-90, X-75).
(「王」(king or kings) 一語が IX-22詩で2人、I-99詩で2人、VIII-99詩で3人に該当するため、挙掲詩延べ数は121+4=125になっている。)

従って、二行目の un grand Roy, a great King は単数不定冠詞付きとして文字通り「或る一人の大王」を意味するし、三行目の le grand Roy, the great King は、単数定冠詞付きだから、「かの大王、例の大王」と言った意味のものである。そして、それに「ダンゴルモア Dangolmois」という固有名詞が「同格に in apposition」置かれている。しかも両者の関係が resusciter という語によって示されている。resusciter は ressusciter であろうから「蘇生させる to resurrect、復活させる to revive」の意味である。従って、骨格的意味は、「或る一人の大王があの大王ダンゴルモアを蘇生させる」となる。ここで、「蘇生させる」とはいかなることであろうか。重要なのは、両者とも、具体的個別的人間存在であるということであり、しかも、後者は過去に名の知られた歴史的存在としての人間であるということであるから、可能な解釈としては、前者が後者の生まれ変わりという関係のみであろう。即ち、「或る一人の大王が、あのダンゴルモア大王の生まれ変わりとして出現するであろう」ということが語られていると解釈されるのである。

 では一体、「あのダンゴルモア大王」とは歴史上の誰なのか。また「或る一人の大王」が du ciel viendra, from Heaven shall come (天からやって来る)とはどういうことか。更に「或る一人の大王」と、これも矢張り、同格的位置にあって形容している語 desfraieur, defrayer ](実費を支払う人)とは何の意味なのであろうか。そしてまた、これらのことと、一行目の年月の規定とはどのように関わるのであろうか。

 これらの細部まで追求するためには、ペアのパートナーである75歌を参照し、肝胆相照らし、有無相通ずる妙手に訴えなければならない。即ち、第1章1歌と2歌のペアの場合は、事柄の記述の展開の総合といった形で両詩の一体化があったが、今回は、言わば完全なドッキングといった、より融合的な形の総合を案出すべきと考える。つまり、72歌と75歌とを並べた上で適合部分を横に繋げるのである。次のようにである。

L’an mil neuf cens nonante neuf sept mois tant attendu ne reviendra jamais dedans l’europe.
Du ciel viendra un grand Roy deffraieur resusciter le grand Roy Dangolmois;
En Asie apparoistra un de la ligue yssu du grand Hermes et sur tous roys des orientz croistra;
Avant apres Mars regner par bon heur.
 
In the year nineteen ninety-nine seven months having elapsed, a so expected shall never return in Europe,
From the heaven shall come a great King as defrayer to resurrect the great King Dangolmois.
In Asia shall appear one of the ligue issuing from the Great Hermes, and promote himself above all kings of oriental countries.
Before after Mars shall reign in luck.
                                       
1999年に、7ヶ月経って、待望久しき人は、ヨーロッパの中へ決して戻って来ないだろう。
天から一人の大王が「実費支払人」として到来するだろう、そしてかの大王ダンゴルモアを再生させるだろう。
アジアに大ヘルメスの系譜の連盟の一人が出現するだろう。そして東洋諸国の全ての王を凌駕するだろう。
その前後、マルスは運良く支配するだろう。
     

 そうすると、では、「待望久しき人」とは誰か。この場合tant attendu, so waitedを「待望久しき人(かくも待ち望まれている者)」と訳すのはtant attenduをun tant attendu, a so waited 又はle tant attendu, the so waited と見るからである[第5章96歌 (§158,V-96) にl’attendu, the waited (待ち望まれし者)とあり、16世紀フランス宗教戦争の終結を期待されたアンリ四世と解される (cf. Dufresne, 1995, p.258-259)]。

ノストラダムス時代のフランス語は未だ形成途上にあって、特に不定冠詞は常に使うとは限らず、例えば先に第1章1歌で見た secret estude の場合も冠詞が無く、また性の一致も厳密なものではない用例が時たま見られる。それだけでなく、tant attendu を名詞句と考えないと、ne reviendra jamais dedans l’europe の主語が他には見当たらないことになってしまうから、必ずこれは名詞相当句と取るべきである。そして、勿論我々はここで、ノストラダムス『預言集』の精神的背景を成すキリスト教的世界観・歴史観の中で「かくも待ち望まれている者」が誰であるかは、<再臨すべきイエス・キリスト>以外に候補は居ないと言わざるを得ない。

 先に我々は、ノストラダムスの大局的紀年法の体系構成においては「キリスト紀元(A.D.;ANNO DOMINI 主の年々)」が採用されていることを見た。実際、「アンリ2世への手紙」(1557年)の中でノストラダムスは、紀元前の年代特定を聖書の諸記事から求める試みを一通りしながらも、確実なことは言えないとしており、ただ「イエス・キリストの贖罪」を起点とする紀元後の年代だけが確実であると述べていた。そしてノストラダムスは大局的歴史記述者らしく、物事を1000年単位で区切って見ている。その中で、A.D.2000年間は第6千年紀第7千年紀と位置づけられており、来たるべき第8千年紀へとノストラダムスの視野は推移しつつあり、その境界地帯にいま彼の預言的精神が集中しているかのようである。ここにおいて、第7千年紀を印づける最も代表的な年号の一つである 1999 年という特定の年号がこの四行詩組の中で帯びる意味は甚だ重い。それは、より明確な言葉で焦点を絞りつつ「イエス・キリストの再臨問題」がここでのテーマであることを語っているのである。そしてなお驚くべきことは、その問題への回答が、否定的に与えられているということである。「1999年において、7ヶ月経っても、かくも待ち望まれている者は、ヨーロッパの内に決して戻っては来ないであろう。」とはっきり宣告されている。

reviendra (戻ってくるだろう)という正直な言葉遣いだけに、特に信者にとっては、その ne…jamais(決して…無い)という強い否定形はショッキングなものであろう。のみならず、「1999年において、7ヶ月経っても」という時間規定は、今後の将来的可能性をも残さない否定の意味の拡大であろうから、要するに、この否定は、「イエス・キリストの再臨の可能性の完全な決定的否定」ということになる。しかし、勿論これは『新約聖書』(e.g.『マルコ伝』XIV,62;『使徒行録』I,11)において、「雲に乗じて消え去ったイエス・キリストが、やがて、同じく雲に乗じて戻ってくるであろう」という態様の再度のイエスの到来を完全否定しているだけであって、それ以外のことには及んでいない。

そして、更に注意すべきは、dedans l’europe (ヨーロッパの内部には)という限定である。「ヨーロッパという限られた地域内には決して戻って来ない」ということから、何が帰結するか。勿論我々は何も材料を持たないが、詩文は明らかに語っている。即ち、

 「アジアに、大ヘルメスの系譜の連盟の一人が出現するであろう。そして、彼は、東洋の国々の全ての王の上に凌駕する者となるであろう。」と。

これは、「イエス・キリスト」ではないが、多分、イエス・キリストにも匹敵するような、即ち「メシア的権威を持つ人」が、アジアには出現するであろう、という神託であって、具体的には、「東洋の国々の全ての王の上に凌駕する者となるであろうような、大ヘルメスの系譜の連盟の一人」と言われている。ここで、「東洋の国々の全ての王の上に凌駕する者」という規定と、「イエス・キリストにも匹敵するような、メシア的権威を持つ人」という規定とを結合すれば、まさに「東洋における仏陀」の存在を想定せざるを得ないであろう。しかし、そういう「東洋的要素」に対して、「大ヘルメスの系譜の連盟の一人」という規定は矛盾するのではあるまいか。「ヘルメス」と言えば、ギリシアのオリンポス12神の一人として著名な神であり、ギリシアであるならば東洋(オリエント)、アジアということにはならないのである。そもそも「アジア」とか「オリエント」とかいう地域指定を行った張本人がギリシア文明に中心化した人々であって、ヨーロッパとはその直系であろう。

しかし、我々はここで、最もアジア的・仏教的な、「生まれ変わり」「転生」という存在生命システムの概念に訴えて、この矛盾を解消することが出来ると思われる。既に我々は72歌の解釈の中で、resusciter(ressusciter)「蘇生させる」を「生まれ変わり」の意味で押さえておいた。そして「天から一人の大王が到来するだろう、そしてかの大王ダンゴルモアを再生させるだろう。」と解しておいた。そこに照合すれば、「大ヘルメスの系譜の連盟の一人」というのは、「ギリシアにも転生したことのある魂の多くの転生経験の中の一転生としてのアジアにおける今回の出現」というように理解すれば、地域的矛盾は解消される。しかも、既に連綿として論考して来った我々の主テーマたる「幸福の科学」及び「その最高指導者大川隆法氏」との関連からこの点を追究すると、言わば、答えは向こうからやってくる程にも明快となる。そこで、大川隆法氏の割合最近の転生履歴は回顧的に辿ると、

 <大川隆法=エル・カンターレ[日本]← ゴータマ・ブッダ[インド]← ヘルメス[ギリシア]← オフェアリス[ギリシア]← リエント・アール・クラウド[インカ帝国]← トス[アトランティス大陸]← ラ・ムー[ムー大陸のムー帝国]>

というようになると言われる(大川隆法『太陽の法』pp358-359。なお、ヘルメス及びオフェアリスの実像については 大川隆法『愛から祈りへ-よみがえるヘルメスの光-』幸福の科学出版, 1997, 第4章参照)。

ここから我々は多くのことを理解することが出来る。先ず、75歌三行目の la ligue yssu du grand Hermes(大ヘルメスの系譜の連盟)という一見不可解な、取りつく洲もないような表現は、実は「転生して個体化した各魂経験のグループ」を意味しており、この場合は<大川隆法=エル・カンターレ、ゴータマ・ブッダ、ヘルメス、オフェアリス、リエント・アール・クラウド、トス、ラ・ムー>という7者の集合を、その内の一人であるヘルメスを代表として、「大ヘルメスの系譜の連盟」と言っているのである。従って、今回アジアに出現するそのうちの一人とは、エル・カンターレ大川隆法氏ということになる。

では、いよいよ核心へと入って行くことになるが、そういう文脈に於いて、72歌二行目の un grand Roy deffraieur とは、大川隆法氏ということになる。すると、大川隆法氏がその再誕者とされる le grand Roy Dangolmois(かのダンゴルモア大王)とは誰なのであろうか。もしかして上記 ligue (リーグ、連盟)のなかに該当者は居るであろうか。

ここに我々は、ノストラダムス預言詩の最も華やかにして奥深い意義を蔵する役割を担う「アナグラム」の問題に直面するに至った。即ち、可能であるならば、Dangolmois (ダンゴルモア)を一個のアナグラム(字謎)と見て、その分析を果たすべき時に至ったのである。

もう既に音韻の微かな響きが聞こえているはずである。<ラ・ムー>というような音響が確かに<Dangolmois ダンゴルモワ>という音声連続の中に捻り入れられているような予感がある。ここで Dangolmois という字母を、アナグラム規則に則って、並べ変える工夫をすれば、signé la moo という字並びを得る確率は大きいが、これを、le grand Roy signé la moo と一連に並べ合わせると、「la moo(ラ・ムー) という署名がしてあるその大王、ラ・ムーの特徴が見られるその大王」と読めるのである。

何故なら、Dangolmois は、signd la moo という並びへと、単純変換できるが、ここで、「一字代替可能」という伝統的なアナグラム規則(cf. Torné-Chavigny, 1862, p.61; Leoni, 1982, p.113)に従い、d 字を、é 字で置換して、signé la moo (signed la moo) とすることが許されるからである。そうすると、それは、「la moo という署名が入った~、署名入りの~」という意味になる。また,延いては、比喩的に、「la moo という特徴が見られる~」という意味にもなる。

そして、この la moo については、「モア大陸。のちの名をムー大陸といいます。ムーは、太平洋上に浮かぶ大陸でした。ムー大陸が、その最盛期を迎えるのは、ラ・ムーの時代でした。ラ・ムーとは、何代か前の釈迦の過去世です。また、ラ・ムーとは、「ムーの光大王」という意味をもっています。ラ・ムーの時代に、ムー大陸は、巨大な大帝国となったのです。もともとは、モア大陸と呼ばれていたのですが、ラ・ムーの時代に、その名をとって、ムー大陸、ムー文明としました。」(大川隆法『太陽の法 エル・カンターレへの道』幸福の科学出版, 1997, PP.260-265)《 The name La Mu means,“the great king of the light of Mu.”Although the land was originally called the Moa continent, both the continent and its civilization came to be reffered to as Mu during the age of La Mu. 》(Ryuho Okawa, The Laws of the Sun, IRHpress, Tokyo, 1990, p.163) という大川隆法氏自身の霊感的書物の記述との合致を認めることが出来るのである。

即ち、la moo という綴りは、La Mu(ラ・ムー)及び Moa(モア)の両義を暗示しており、「もともとモアと呼ばれていた大陸の大王ラ・ムー」を意味する蓋然性が極めて大きく、その他の有意味な解釈は殆ど想像出来ない。

従って、この解釈によれば、「かのダンゴルモア大王」とは、「大川隆法氏の過去世の一人であるムー大陸の大王ラ・ムー」ということになる。

このように、詩の「 the great King Dangolmois 」という表現は、英文『太陽の法』の記述“ the great king of the light of Mu ” にほぼ正確に合致するものとなっていることが分る。

では、その転生者とされる un grand Roy deffraieur(実費を支払う一人の大王)とは、いかなる意味になるのであろうか。ここでは、就中、deffraieur(実費を支払う人)の意味が正確に把握されなければならない。この語は、後の版では d'effraieur (恐怖の)となっている例があり、「恐怖の大王」といった語句として多くの物議を醸して来ているが、公刊され一般にアクセス可能な最も古い版ではそうではなく、我々の取り扱う deffraieur(実費を支払う人)の形になっているのであり、これを正しく解読しなければならない。

この、deffraieur(実費を支払う人)という語の中心的意味は、「他人の分を代わって支払う」というものであって、元来自分の債務を支払うということではない点に注意しなければならない。では、この大王は、一体、他の誰の債務を代わって弁済すべく引き受けるのであろうか。それは当然、両詩を通じた主テーマ、つまり再臨問題の当事者であるイエス・キリスト以外には誰も居ない。では、イエス・キリストのいかなる債務がここで問題になっているのであろうか。

そもそも、先にも述べたように、再臨におけるイエスは、文字通り、「雲に乗じて、天から、戻って来る」と信者に期待されているから、それを背景にして、72歌二行目の du ciel viendra (天から到来するだろう)という表現が使われていると思惟される。つまり、この表現は、「『聖書』への言及による歴史的比喩の一種」であり、大川隆法氏が実際に「雲に乗って天からやって来る」ということを言おうとしたものではなく、「イエス・キリストの再臨にも似たメシアの到来が大川隆法氏において見られる」ことを言おうとしているのである。つまり、相詩75歌二行目に言われている apparoistra (この世に出現するであろう)という意味と同じであると理解されるのである。 

では、最後に残された問題として、イエス・キリストの残したその負債とは何であるのだろうか。そして大川隆法氏がイエスに代わって実際の支払いをするとはどういうことなのであろうか。答えは、勿論、これら二つの詩を貫く主題たる「キリストの再臨」問題の最終的解決以外には無いであろう。即ち、イエス・キリストへの帰依者達が待望するキリスト再臨の課題は、イエス・キリストが世界史に残した課題として、未決のままであったが、その中心的趣旨の実現が、東洋の精神的盟主たる仏陀の再来としての大川隆法氏の「幸福の科学」における宗教活動を通じて果たされようとしている、つまり、キリスト(ヨーロッパのメシア)の人類史的課題は、第8千年紀に向かっては、新たな仏陀としての大川隆法氏というアジア的メシアの出現を通じて遂行されつつあるということである。実際、既に見たように、『預言集』第5章53歌 (§942,V-53) においては、<大メシアの法>としての<太陽の法>が示されているが、『太陽の法』とは、「幸福の科学」総裁大川隆法氏の主著にほかならない。

「その時が到来したのだ。まだ気づかぬ多くの日本人へ、そして世界の人々に、本書を贈る。救世主は、仏陀滅後二千五百年を経て、この日本の地に再び姿を現したのだ。これだけ法が説かれて、肝心の日本人がまだ信ぜぬとは「情けない」の一言に尽きる。そしてこの「仏陀再誕」は、意味的に、「キリストの再臨」をも兼ねている。地球の危機を救い、未来の宇宙時代を切り拓きたいのだ。「慈悲と愛の時代」が再び、その到来を宣言されたのだ。」(大川隆法『救世の法』幸福の科学出版, 2011, まえがき)。

そして、大川隆法氏の、1999年7月時点におけるメッセージは、氏の7月7日の生誕日を記念した説法:「サクセス・マインド」として表明されている:

真実の世界認識とは いま、日本および世界において必要とされているものは、成功への大きなうねりであり、波動であると思います。そこで、「サクセス・マインド」という題で述べることにします。人生には不遇のときもあれば好調のときもあります。しかし、いったいどちらがほんとうの姿であるかということを、心に深く思ってみる必要があるのです。地上に生きているすべての人間は、霊天上界からこの世に生まれ変わってきた存在です。この世に生まれてくる前に、人間は天上界において、霊界の太陽である霊太陽の光を受け、調和とエネルギーに満ちた世界のなかで生活していたのです。人間は一人残らず、そうした天上界からこの世に生まれ変わってきているのです。この世を去った世界のなかには、地獄界という暗黒の世界もありますが、この世界は実体化した世界とは言えません。そして、地獄界からは、地上に生まれ変わることはできません。
 地獄界は、光を拒絶した人たちが巣くっている場所です。暗い世界を好む人たちが、そこに生息しているのです。それは、どんなに強い太陽の光線が当たろうとも、洞窟のなか、洞穴のなかには光が射さないことに似ています。彼らは、なぜ、そうした暗い世界に生息しているのでしょうか。それは、根本において考え方に誤りがあるからです。その誤りとはいったい何でしょうか。それは、「みずからもまた光の子である」ということを忘れ去った人生を生きたことです。
 地上での数十年のあいだ、みずからが光の子であるということ、仏の子であり、神の子であるという真実を忘れて生きたために、あの世に還ってから、天上界の光がまぶしくて、自分の住む場所を見つけることができずにいるのです。そのため、彼らは光をさえぎる「物質の砦」を欲します。あの世においては、悪想念の雲をつくって仏神の光をさえぎり、暗闇のなかで生活しています。そしてまた、この世に生きている人たちの心の闇のなかに巣くって、この世へ還ってこようとしています。これが真実の世界認識です。
 そうであるならば、私が語ろうとしている成功がいったい何であるかが、あなたがたにも分かるはずです。それは、この世的なる成功理論や、この世的なる栄達の理論ではありません。人間が光の子として本来の使命に目覚め、見事に今世の試練に打ち勝ち、光の仲間たちから「よくぞ使命を果たした」と言われるような生き方をするということです。そうした生き方が求められているのです。」(大川隆法『奇跡の法』幸福の科学出版, 2001, p.227-239)


なお、これと共に、イエス・キリストの世界史的負債の大川隆法氏による実費支払いの意味には、当然、「再臨」というキリスト教的通念に代わって、その真理としての幸福の科学的「転生」概念を定置するという理論的修復も含まれている(「転生」についてのノストラダムス預言詩第二章17歌は次節 (§946,II-17) で取り上げる予定)。

つまり、イエス・キリストは、人類の教師と呼ばれ得る十人の九次元大霊、即ち、釈迦(エル・カンターレ)、イエス・キリスト(アモール)、孔子(セラビム)、マヌ、マイトレーヤー、ニュートン、ゼウス、ゾロアスター、モーセ、エンリルといういわば「メシア集団」の一員として、人類史の流れの中で、他のメシアの方々の降臨と相互調整しつつ、基本的には2000年乃至3000年に一度は地上に肉体を持つという真実の転生を行っているのである(大川隆法『太陽の法』pp.231-236)。大川隆法氏は釈迦以来実に2600年振りの転生であり、同様にイエス・キリストの次回の転生、つまりその真の再臨はなお400 年後とされるから、実に2400年振りの受肉ということになるであろう(大川隆法『黄金の法 エル・カンターレの歴史観』幸福の科学出版, 1997, p.342 。なお、真実のイエス伝については 同書pp.286-293、そしてイエスの詳しい転生履歴については、大川隆法『神理文明の流転』幸福の科学出版, 1992, 第1章参照)。

このようにしてまた、キリスト教的再臨問題の混迷を生んだその個別霊魂の一時的創造と永遠性並びに直線的終末論的歴史観も、全霊魂の創造と輪廻転生を核心とする長久雄渾なる螺旋展開する新たな人類史概念の、その単なる一断面図に過ぎなかったことも判明する。[初出:二瓶孝次「幸福の科学の仏教論的意義(9)」北海道教育大学釧路校紀要『釧路論集』vol.31, 1999, pp.31-38。改稿:2013年8月16日。]


そして東洋諸国の全ての王を凌駕するだろう。
この場合も、我々は注意深く、「東洋諸国の全ての王を凌駕するだろう」という規定の中に、「覇王」ではなく「聖王」を理解すべきだろう。何故なら、「覇王」であれば、「単に凌駕するに留まらず、平らげる」のであろうが、ここでの「凌駕」にはそこまでのニュアンスはなく、「東洋諸国の諸王が健在なままに、彼らを超え導く哲人王として一頭他を抜きん出る」者としての存在感を横溢させる表現となっているからである。即ち、「凌駕する」の原文は、単に「他の上へと成長する・生長する croistre sur, to grow above 」であって、自己の生来の可能性のままに伸びてゆく、ということであって、他者を侵食し、犠牲にして肥え太るのとは明らかに異なっているからである。従って、大川隆法氏と幸福の科学を擁する日本国が真に友好的な「東洋の精神的な盟主」となる、というノストラダムスからの実に有難い託宣が、この簡単な一行の詩句の意味である。

その前後、マルスは運よく支配するだろう。
さて、X-72 詩の最後の行は、「その前後、軍神(マルス)は運よく統治する。」となっているので、少なくとも、「1999年とその前後」という形で、1999年の後の時期も間接的に意味されている。では、それは何時までのことか? 又、「軍神が運よく(幸運に)統治する」とは何の意味か?

そこで、第一に気付くのは、「軍神が幸運に統治する」という同一の表現が、1999年の前と後とで同様に妥当している、という見方が出来るということである。つまり、それら両時期には、或る「対称的な(シンメトリーな)事態」が見られる、ということである。そうすると誰でも思い浮かぶのは、1991年と2003年の二度の「湾岸戦争」であろう。両者は、最も関わりの深い当事者が、「合衆国のブッシュ大統領とイラクのフセイン大統領」ということで基本的に同じである。その場合、父ブッシュと子ブッシュの相違は、政策的継続性を勘案すれば、捨象してもいいだろう。

では、「軍神が幸運に統治する」というのはどういう意味なのか。

「軍神」というものが居るならば、その使命は、多分、一方では戦争遂行と勝利、他方では根源的な正義に基づく国家政策への寄与、ということに違いない。その両方の任務が達成出来れば彼は「幸運に仕事ができた」ので、幸福だろう。反対に、世界的視野に叶うような国家政策に対して否定的でそれを無視した単なる軍事的冒険や、逆の軍事的怠慢は、軍神には「不運」と感じられるに違いない。

ということは、この詩句は、どう見ても「勝利者」の視点に立った表現であることにならざるを得ない。何故なら、「軍神」にとっては、「敗戦が幸運と幸福に結び付く」という選択肢は無いだろうからである。そのような「幸福」は彼には「降伏」としか映らないだろう。

従って、湾岸戦争が2度とも合衆国の勝利に帰したことが現時点で認められるのであれば、ここに述べられているのは「合衆国に味方する軍神」である。もっとも、必ずしもそれに限定される訳ではない。もし、なお継続中のイラクの戦時的情勢が経年して、ついに合衆国の敗北として世界的に認められるようになる可能性も皆無ではない。

その場合は「イラクに味方する軍神」を読み込むことになる。ただし、予言はやはり、「年代限定性」を身上とするから、2003年の当初の戦闘における合衆国側の圧倒的優勢と勝利宣言を以って、シンメトリー的内容を持つこの詩の予言範囲とするのが自然であろう。このように理解すると、「1999年とその前後」という年代は確かに明確になった。

そして、この最後の一行の詩句の意味は、それが含まれる二つの預言詩全体の中にあっては、米国の軍事力が優位する状況が21世紀でも相当期間続き、日本国はその事を最大限に考慮するのが最上策である、という慧眼の預言者からのさりげないヒントであろう。最大限に考慮するとは、自助努力を最大限実行し、同盟国と同盟軍を最大限尊敬し信頼するということである。
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