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§943, V-41: 「黄金時代開鑿者」の誕生 (1956.7.7)

大団円としての幸福の科学13   「黄金時代開鑿者」の誕生: V-41.


第五サンチュリ第41詩  「黄金時代開鑿者」の誕生 (1956.7.7; 2000): V-41 (§943).
僻陬の地に、暗黒の時代に生まれ出たる人は、
支配の位に就き、至高の善意に満ちるだろう。
古代の骨壺のおのが血を再誕せしめるであろう。
而して青銅に替えて黄金の時代を再開するであろう。


§943,V-41: Birth of the founder of the golden age (1956.7.7).
A born in an out-of-way place and in a time of darkness
Shall be in reign and in sovereign goodness:
He shall cause his blood to be born again from the antique urn,
Renewing a golden age instead of a bronze one.


Nay soubz les umbres et jornee nocturne
Sera en regne et bonté souveraine:
Fera renaistre son sang de l'antique urne,
Renouvelant siecle d'or pour l'ærain.
 
 これは、これまで我々が集中的に追及して来たノストラダムス『預言集』における「幸福の科学」運動というテーマに沿って解釈すれば、その最高指導者・大川隆法氏の誕生とその使命を告げたものであることは一目瞭然である。何故なら、本詩に見られる「至高の善意」「黄金の時代を再開」といった表現は、これまで出会った「神託」(XII-71, III-4)「半神」(I-25)「」(I-17)「太陽の法」(V-53)「大メシア」(V-53)「聖職者」(I-25, IV-29)といった表現と同様、聖なる諸規定 (die heilige Bestimmungen, les identifications sacrées, the sacred qualifications)という特質を持ち、これらは全て「太陽的大メシア(エル・カンターレ)・大川隆法」幸福の科学総裁に直接関連しているからである。

先ず、「僻陬(へきすう)の地に soubs les umbres, in an out-of-way place」とは、大川隆法氏の生誕地が「徳島県麻植(おえ)郡川島町(現:吉野川市)」であることを考慮すれば、うなずける表現である。そもそも四国が全体として、日本国内では、例えば北海道の道東(私が現在住んでいる釧路を含む)・道北や、沖縄、山陰、東北の日本海側の諸地方と並んで、「僻陬の地(ひなびた地域)」と称しても、強ち単なる差別的表現とはならないであろうし、四国の中でも吉野川中流域が特に開けているというよりも、田舎田舎した地域であることは誰も否定しないであろう。

次に、「暗黒の時代に jornee nocturne, in a time of darkness」とは、『預言集』第1章17歌 (§938,I-17) にあったような「虹の見えない時代(昭和20年から60年までの40年間)」の只中の「昭和31年(1956年)」が大川隆法氏の生年であることを考慮すればうなずける表現である。「虹の見えない時代」とは、宗教的真理から遠ざけられた人々の心の乾いた時代であり、またそれは当然「太陽の光が射さない」時代として、「暗黒の時代」なのである。「暗黒の時代」を比喩的に表現しているその原語 jornee [= journée] nocturne (a nocturnal day) (この場合、時の前置詞が無いのは、無くても副詩句として通用するからである)とは、「一日24時間の内の夜の部分」を意味する。何故なら、フランス語 journée には、この場合、① 朝から夕刻までの昼間の一日; ② 24時間としての一日 (cf. Suzuki) という二義が可能で、且つ、フランス語 nocturne は、diurne (① 一日24時間の; ② nocturneの対語としての昼間の) の対語として、「昼間に対して夜間の」という意味となる (cf. Suzuki) から、結局「journée nocturne」とは「一日24時間の内、昼の部分を除いた夜の部分」 という意味になるからである。 つまり、全体として、人物の誕生を特定する「所 place」と「時 time」が、一行目で提示されているのである。因みに、冒頭の nay (born) は、名詞形 (a born) と取るのが適切で、それに「所と時の限定」が入り、全体として、sera (shall be) の主語になっているという構文である。

従って、イオネスク氏等がこれを「皆既日食中の薄明」といった意味に取るのは誤りである。しかも彼はその前にある「soubs les umbres, under the shades」という句(影 shadesは複数形)も、同じく「日食中の影ある状態」と解しているが、そのような同事反復は無用であるのみならず、そもそも「日食の影」は「一連のひとつのもの」であって、複数は存在しないから、原語に合致しない解釈である。

実際、イオネスク氏は本詩と第十章72歌 (X-72) をペアと見て、次のように訳している(和訳は竹本忠雄による)。
「   『諸世紀』第5章41歌
 (その人は)日の影と夜陰の一日のもとに生まれ、
 王侯にふさわしい善意をもって君臨するであろう。
 遠つ世の骨壺より尚き血筋をよみがえらせ、
 青銅の世紀のかわりに黄金の世紀をもって時代革新するであろう。

    『諸世紀』第10章72歌
 紀元一千九百九十九年七月(ななつき)に
 天から一人の恐怖の大王が到来するであろう。
 しかして、アンゴルモワの大王をよみがえらせ、
 (その到来の)前後に火星は幸いの時を君臨するであろう。


二つの四行詩をつうじて非常に大事なある事実が、おぼろめかした形で表現されている。皆既日食が起こるだろうということ、そしてその期日である。最初の四行詩の初句(第一行)で「日の影と夜陰の一日」les ombres et journee nocturneという言いかたで暗示され、二番目の四行詩の、これまた初句で、その期日が明瞭に示されている(どちらも初句において言われている点に留意されたい)。その期日が、いまや満天下に知れわたった「一千九百九十九年七月」なのである。しかし、西暦一九九九年はいいとして、「七月」のほうを「しちがつ」と読んでしまったのではすでにノストラダムスの術中にはまってしまうことになる。解読家のほとんどすべてがこれまで引っかかってきたこの誤読に、私は、注意せよと叫びたい。これは「しちがつ」ではない。「ななつき」なのである。つまり、「過ぐる七月(ななつき)のちに」の省略形なのだ。この期日の問題を、まず、究明しておこう。この点をいいかげんにしておいたのでは、近未来の解読はとうてい不可能だからだ。くりかえしいえば、ノストラダムスは「ななつき」sept mois と書いているのであって、「しちがつ」juillet と書いているのではない。そのわけは、ほかにも用例があるように、「ななつき過ぎて」sept mois revolus の省略形だからである。意味としては、したがって、「八月はじめに」といった感じになる。なぜ、このような言いかたをしたのかということは、じっさいに皆既日食がフランスにおいていつ起こるかという期日と照らしあわせてみて、初めて納得がいく。そこで、この点をまず天文学上から検討してみよう。
 今世紀において、太陽の本影(または、全影)がフランスの国土を通過した皆既日食は、一九九二年の現在までに、たった二度しか起こっていない。皆既日食とは、いうまでもなく、月が地球のまわりを回る軌道上でちょうど地球と太陽のあいだに来て太陽光を完全にさえぎったときの現象のことで、そのとき地球上に落とされる長円錐形の濃影、これが本影と呼ばれる。この長円錐の尖端がフランスの地表を滑っていく次の機会は、
① ユリウス暦による一九九九年七月二十九日か、
② グレゴリオ暦による一九九九年八月十一日か、
そのいずれかであることが判っている。現代のわれわれの暦は言うまでもなくグレゴリオ暦で、従って、これによる②の「一九九九年八月十一日」の皆既日食の期日を、あえてノストラダムスは「ななつき」という語法で言おうとしたと見ることができる。ローマ法王グレゴリオ十三世によってその名を冠した暦が施行されたのは一五八二年からで、これはノストラダムスの死後十六年目にあたる。しかし、その施行前から、天文学者のあいだではユリウス暦と現実の観測結果とのあいだには十日間のずれがあることは判っていたし、ノストラダムスもこのことは承知していたのだ。この知識にもとづいて、正確には「第八月の始め」を言おうとして、省略的に「七月ななつき(過ぎて)」という言いかたをとったものと考えられる。天文学上、この皆既日食は、獅子座十八度二十一分において太陽-月のあいだに起こる合(コンジャンクション)の現象である。正確には八月十一日の十一時九分の予定だが、では、占星術においてはこれがいかなる意味をもつかを考えてみなければならぬ。」(V.イオネスク『ノストラダムス・メッセージ II』竹本忠雄訳、角川書店、1993年、PP.132-135)。

しかし、原理的に見れば、イオネスク氏が「将来のフランス救国の大君候は日食の日に誕生する」という解釈(その骨格的構想は既に、Centurio, 1953, pp.226-227 で呈示されていた) を提起する時、彼は、「ノストラダムスにおける食(日食と月食)の否定的価値」を完全に無視している。何故なら、ノストラダムスは、「食」という現象については、その天文学的メカニスムを完全に理解していた(§681,V-93: 「月の丸い球の領地の下に [太陽が隠れて地上に食が起り]、水星が支配星となる時、云々...」参照: この日食は1869年8月7日の金環食 (Oppolzer №7334) で、本影がカナダを通過している。これは大英帝国がカナダ植民地を失うという凶事と重なる。)けれども、その人生論的・社会的価値については、伝統的な占星術師達と同様、「凶中の凶兆」と捉えていたから、「英雄的天子的君主たるを約束された人物がわざわざ日食の日に誕生する」などという「禍々しい予言」を行う筈はないと断言できる。ここで、ノストラダムスの「日食と月食」に関する見解を確認しておきたい。

ノストラダムスに於ける「食(日食・月食)」の否定的価値について。
A: 日食の凶性について。

これについて、ノストラダムスは「アンリ二世宛書簡」の中で、ロシア10月革命への予兆として語っている。そして、実は、イオネスク氏はその10月革命の個所は特筆大書して取り上げながら、その直前のこの日食関連個所は無視している。イオネスク著、竹本忠雄訳の10月革命論(a)を最初に引用し、次いで、本来それに先立つ日食関連個所(b)を掲げよう:

a: 「『アンリ二世王への書翰』第46-47節。そして「十月」に、なにか回天の大事件(十月革命)が起こり、その凄まじさは、重力とともに地球もその自然の運行を失って永遠の闇ふかくへ沈んでいくかと思われるほどのものでありましょう。それに先立って、春分の時期(三月)に、別の大変革(三月革命)がありましょう。こうしたことの結果、《大地震》(第一次大戦)によって、政府転覆のような極端な変化がぞくぞくと起こり、それとともに、最初のホロコースト(フランス革命)に輪を掛けておぞましいその惨めな娘、《新バビロン》が増殖するでありましょう。しかして、この(状態は)、きっかりと、七十三年と七ヵ月しか続かないでありましょう.... 」((V.イオネスク『ノストラダムス・メッセージ』竹本忠雄訳、角川書店、1991年、PP.283-284)。

b: 『アンリ二世王への書翰』第44-45節。「次いで、反キリストの大帝国勢がアッチラ圏とZERSES (**) の中へと極めて大量に侵入し始めて、ために、聖霊が出現して、反キリストを嫌って、48度以降から、追い遣り、移住を為さしめるでしょう。反キリストは、イエス・キリストの大いなる代理人たる王室に対して、またその教会に対して、その世俗的支配体制に対して、戦争を仕掛けるでしょう。- そして、その前に日食が先立って起りますが、それは、世界の創造からイエス・キリストの受難と死までで、且つ、その死から現在までで最も暗く、最も闇深い日食なのです。」(№10,p.160-161)

** Zerses は実在名ではない。唯一、レオニがヒントを与えてくれている。即ち、彼はこれを「the new Xerxes 新たなるクセルクセス」と英訳した (Leoni, 1982,p.333)。但し、これだけでは猶物足りなく、文脈に合わせて推測するならば、この近代のクセルクセスとは、話題がロシア革命で、革命によって崩壊した勢力に関わるようだから、さしずめ「帝政ロシア皇帝」と読めるのである。 その前の「アッチラ圏」は、勿論、当時のロシア帝国領に相当する。

つまり、この日食は、「その史上最も暗い食」という性格(自然的には日食の暗さは一定の限界内にあるから、この最大値は、来るべき事件の最大の凶性の象徴である)によって、来るべきロシア革命が史上最悪の事件である事を告げているのである。古今及び未来の日食と月食を網羅した「オポルツェル (Oppolzer) 著『食典』(B.C.13世紀~A.D.22世紀)」によれば、ロシア革命直前の日食に該当するのは、「Oppolzer №7446」で、ポーランドからロシア一帯で見られた部分日食である(1917年6月19日)。部分日食であるから、史上最も暗い、とは言えない訳だが、ロシア関連の予言として見た場合、その特定の「日食」が先行し、直ぐ後で「大革命」が起こる、という図式が現実のものとなったことになる。この図式に留意していたならば、「日食時誕生」⇒「将来の名君」といったイオネスク式のノストラダムス預言解釈は、基本的にナンセンスであることになる。

B: 月食の凶性について。
また、月食についても、ノストラダムスは、日食に関してと全く同様、否定的価値のものと見ている。「...1559年9月16日に起るでありましょう月食、これはその全ての悪しきアスペクトを、殆ど1560年の年の全体にまで及ぼすものでございますが、これに関してもっと広範に、そしてもっと明白に、来たるべき二年間が劣らず危険なものであることをお示しして、ご説明申し上げたいと存じます。と申しますのも、この食は、非常に長くて非常に深い拡がりのピラミッド形の一つの影 (un ombre, one shade) を伴っておりまして、劣らず危険性を有し、その危惧される威力たるや、実に、1559年の3月の初頭に増大を開始し、主に6月から年末まで拡大致します...。...もし、万有の上に立つ神が手を加えられない場合は、諸々の災難が、十分に、且つ、大いに、危惧されるのでございます。と言いますのも、私は、時間の観察に基づきまして、大いなる、且つ、多様な、諸々の裏切り、破滅、落胆、濫用、秘密分派を予言致すのでございます、又同様に、分派集団に依ります或る謀略の秘密を予言致します、そして又、その謀略が暴露され表面化されて阻止されるという事も予言するのでございます。... 次に、最も偉大な君主たち、権力者たち、王侯たちが、世俗と聖職とを問わず、全員、憂鬱にさせられることでしょう。そして、一般人民に対する圧制が甚だ大きいであろうことから、人民は逆に君主たちを窮地に追い込むでありましょう。だからしてこの月食は、第二ハウスに関して何らかの奇妙で意表を衝いた出来事を示しているのでございます。それは牛小屋、又は牛舎に関わっておりまして、主としては、馬どもに関しての或る大事件なのでございますが、とは申せ、しかじかの動物どもに関して、しかじかの出来事を個別的ケースとして完全に認識するなどという事は、全くの秘事に属するものであり、最高の禁句事項であるのですが、ただ、当該事件の期限は遠くは無いのでございます。...1559年と1560年の為に、1558年8月14日、サロンにてこれを著す。ミカエル・ノストラダムス。」(ノストラダムス『1560年全体まで悪影響を及ぼす1559年9月16日将来の食の諸々の意味について』in Chevignard, 1999,pp.445-460)

この月食(Oppolzer №4272に該当)の悪影響下に生じたと思われる出来事として、第一に、1559年6月30日に行なわれた相対する騎乗武者による「馬上槍試合」で重傷を負った国王アンリ二世が、10日後に死亡した大事件が思い浮かぶ(馬どもに関しての或る大事件)(§39,I-35;§40,II-42;§41,VII-38;§42,VI-71;§43,VII-7参照)。第二に、1560年3月に「その後を継いだ長男フランソワ二世の側近のカトリック、ギーズ公一派を排除して、自分たちプロテスタント勢力の方に王を奪取せんとしたコンデ公一派によるアンボワーズの陰謀」が露見し阻止された(分派集団に依ります或る謀略の秘密を予言致します、そして又、その謀略が暴露され表面化されて阻止されるという事も予言するのでございます)(§55,I-13;§56,VII-2;§57,II-20参照)。第三に、そのフランソワ二世が、その1560年の年末(12月5日)に若くして病死した(悪しきアスペクトを、殆ど1560年の年の全体にまで及ぼす)(§73,X-39参照)。

このようなノストラダムスの基本的立場を無視し、伝統的日食観念を踏みにじって、「日食時に産れた人物」に「英雄的天子的王者」を期待したイオネスク解釈は、案の定、途轍もなく悲惨な帰結に到達する事になった。何故なら、彼が、これと密接に関連するものと見立てた第4章86詩 (IV-86) の解釈によって導き出した「2023年に姿を表すという未来の理想的大君主」は、全く逆に、「凶王中の凶王として歴史に深く深く刻まれてしまったアドルフ・ヒトラー」についてのノストラダムス預言に他ならないからである。つまり、それは既に実現済みの四行詩であって(日本関連の預言詩3,IV-86詩:「嘱望の大君候」は凶王か?=§790,IV-86:ナチス独裁・フランス占領・ユダヤ人殲滅[1933-1945]参照)、それを、こともあろうに、この未来の理想的君主の到来と見なして希望的解釈を嬉々として展開しているのは、傲岸不遜な一面を強く持つ解釈家の悲惨の極みとしか言い様が無いのである(彼はそこで、驚くべき事に、「無辜の人を殺害するのも、その大君のあるべき所業」として認めているのだ!)。

しかも、この「月食論」でノストラダムスは明確に、「この食は、非常に長くて非常に深い拡がりのピラミッド形の一つの影 (un ombre, one shade) を伴っておりまして」と述べており、「影は一個」との認識を明示しており、この事は「日食」を含む「食一般」に当てはまるから、「複数の影les ombres, the shades」を「食影」と解釈するイオネスク解は妥当ではない。仮に、「本影」と「半影」を合して「影は複数」と計算する奇策に訴えるとしようとした所で、肝心要な事は「ピラミッド形、即ち円錐形の一つの本影」の事象に含まれているのだから、理論上その奇策は無効扱いしてよい。よって、それは「食影」以外の何かであるに違いない。

事実、ombre (shade) というフランス語には種々の意味がある。「陰、日陰、物陰、木陰(shade);影、投影(shadow)。vivre dans l’ombre ( to live in the shade) 世に埋もれている。rester dans l’ombre (to rest in the background) うだつが上がらない。」 (Suzuki) 「陰、[特に]日陰;(半影pénombre, penumbraと区別して)本影(umbra);[比喩的に]保護された(避けた)場所。無名(obscurity)、目立たない身分:sortir de l’ombre (to get out of the shadow)世に知られるようになる、無名の状態を脱する。sous ombre de qn [qc] (under shadow of ...)《廃》~という見せかけ〔口実〕のもとに:sous ombre d’amitié ( under shadow of friendship) 友情を装って。」 (Ibuki)

すると、本詩の複数形を用いた「sous les ombres 」というのは、その後に「de ~, of ~ 」を伴わないから、「見せかけ、口実」という意味ではない。やはり、最初に和訳したように「僻陬の地」、「保護された、避けた場所、目立たない状態、無名」という意味が一番適切だろう。その複数形は、例えば、「重なり連なる山々を背にした立地」といった状況に合致する。又、「soubz = sous (under) という前置詞」は、「~の内部に、~の状態で」というsousの意味からすれば全く問題ない用例である。そして、当の大川隆法氏自身も、自らの幼少時からの体験談で、「田舎育ちと平凡意識」という早生の自己認識を、平凡ならざる独自の観点から語っている:

「さて、この二十年間、自分の過去というものを振り返った時に、まったく亀の如き人生であったということを、つくづくと感じるわけです。『太陽の法』という書物にもすでに書いたことがありますが、私自身、四国の田舎に生まれ、そして平凡な子供として育てられたわけです。小・中学校を平凡な町立の学校で終え、やがて次第次第に自分というものに目覚めていったわけです。その頃、私の家には離れがありました。両親が生活の場としている家から、およそ二百メートルぐらい離れた所に離れの家があって、そこに私は通って勉強をしておりました。それは、まことに不思議な感覚ですが、小学校の高学年となって、自分のお城を与えられたようなものでした。夜、夕食が終わると、カバンを持って離れの家まで暗闇のなかを歩いていきました。そして階段を上がり、電球をつけて、そしてやがて自分の勉強部屋に入ったものです。この頃、まだ私も小さかったこともあって、闇というものに非常に怖い感じがありました。そして両親から離れて、離れの家に行くということが、とても怖く思いました。こうした離れにおいて、毎日一人で考えごとをしたり勉強したりしていたということが、後に長ずるにしたがって、私がもの思いに耽ったり、思索をしていくことの基礎になったのではないかと思います。十才にして、自ら一人でものを考えるという癖をつけ始めたということです。

その離れの家は大変古い建物であって、冬は隙間風がずぶん吹きました。また、その頃は暖房とてありませんでした。したがって、私は冬になるといつも腰にボロボロの毛布を巻き、そして手には手袋をはめて勉強していました。また、あまり寒いので、厚いジャンパーを着て、そして頭からすっぽりと帽子をかぶり、口にはマスクをして勉強していたのです。ところが手に非常に厚い革手袋をはめた場合に、鉛筆を持って字が書けないために大変苦労をしました。そうして白手袋を使うようになっていきました。薄い絹の白手袋です。ただ、それは寒さよけとしては十分なものではなかったために、私の手はいつも青くかじかんでいました。こうして、だいたい毎日、夜になると一人でその離れの家にこもり、夜中の十二 [十時?十二時?] 頃までいろんなことを勉強したり、考え事をしたりしていたように思います。その頃は、私は大変勉強の能率も悪かったのでしょうか。例えば社会科に関して言うならば、世界の地理とか歴史とかをまとめたそうした参考書、これを要点だけを読むというようなことをせず、ひとつひとつノートに丸写しをしていた自分を思い出します。それは後に学んだ勉強の方法からいえば、とてつもなく平凡な方法でありましたが、私は写経か何かをしているような気持で、その十才や十一才の頃、そうした参考書を夜な夜なノートに書き写していたのです。そうした自分に、今となっては何とも言えない懐かしさを感じています。

まだ自分の向かうべき方途は見ることができなかったわけですが、何かより高次なものへ、高尚なものへ向けて自分が努力をしているという感覚が、たまらなく好きだったのです。私はこの感覚を今も鮮やかに思い出すことができます。その頃、四才年上の兄がいたわけですが、兄は大変利発な方であって、すでに幼稚園、小学校の低学年の頃から、大変優秀な頭脳であることが証明されていました。そうした兄と自分とを、その歩みをひき較べるにつけても、自分の歩みはいかにものろいものだと感じたものでした。そうしたなかにおいて私が常に思っていたことは、「自分は平凡である。自分は頭がそれほどよくない。頭がよくなくても、しかし人が一時間やったことを自分が三時間、四時間すれば、なんとか追いついていけるのではないのか。人が一年で飽きてしまうようなことを四年、五年続ければ、きっと もの になるのではないか。平凡な自覚はあるけれども、しかし五年、十年、二十年と続けていくうちに、なんらか変わったものになっていくのではないか。自分の頭脳はとてつもなく平凡だけれども、蓄積ということ、継続ということにおいて努力していけば、やがてある時点で化学変化でも起きるように、大いなる飛躍を経験することもあるのではないか。」そうしたことを夢見て、白手袋に息を吹きかけながら、鉛筆を握っていた私の姿があったのです。

そうした少年時代を送っていたわけですが、私が日々心がけていたことが、ひとつだけあります。それは、どんな田舎に住んでいても、どんな小さな社会に生きていたとしても、そのなかで光ってくる人、この光がどれほどのものかはわからない、といった考えでした。それは、私の父もよく言ってくれたことです。小学校の五年、六年になって、ようやくクラスで一番をとれるぐらいの私となってきましたが、いかんせん草深い田舎のことですから、クラスで首席をとるということは、おそらく都会の学校で言えば平均か、平均を少し越える程度の学力であっただろうと思います。けれども、父はいつも私を励ましてくれました。「どんな田舎の学校であっても、どんな小さな学校であっても、一番だけは違うよ。全国比較しても、まったく違うところにいるかもしれないよ。どんな天才がいるかもわからないよ。どんな田舎においても、どんな小さな学校でも、どんな狭い地域社会においても、一番だけは値打ちがあるかもしれないよ。」そうしたことを、いつも父は言ってくれていました。私はその言葉が非常に支えになったと、今思い起こします。つまり、番号が一番であるか、二番であるかというようなことは、今の時点で振り返ったならば、たいしたことではありませんが、私がそこで学んだ心得というのは結局何かと言うと、どんな小さな場所においても、地域においても、立場においても、そのなかで非凡なる光を発しているということは、実はそれは思いもかけぬような価値を持っているかもしれない、という教訓であったと思います。長ずるにつれて、やがてこれが真実の言葉であるということが身にしみてわかってまいりました。たとえどのような環境に置かれても、人間は自らの置かれた場所にいてダイヤモンドの如く光っていれば、やがて新たな人生が展開してくる、新たな道が開けてくるということ。これが真実であるということを私は知るに至りました。」(『平凡からの出発』土屋書店,1988,p.14-21)。

かくして、その地、その時に生まれたこの人は、「ラ・ムー、釈迦牟尼」の再誕者として、「古代の骨壺のおのが血を再誕せしめ」ているわけである。そして、特にラ・ムーとしては宗教的大師であるとともに皇帝でもあったわけで、まさにその時代を文明文化の黄金時代たらしめた実績があり(ムー大陸及びラ・ムーについては、大川隆法『太陽の法 エル・カンターレへの道』幸福の科学出版, 1997, p.260-269参照)、今回は『預言集』第5章53歌 (§942,V-53) にあったように、まさにユダヤ・キリスト教的な「メシア(キリスト)」に該当し、「太陽の法」を携えて精神世界の一大革命を為し遂げ、世界史的に疲弊した人類生活を心の太陽発火により黄金の文明に輝かそう、との大志に邁進している。

従って、「彼は支配の位に就き、至高の善意に満ちるだろう」という第二行目の言葉は、このような大川隆法氏の宗教的使命を述べていると解釈されるのである。この点、原文が en regne et bonté souveraine (in reign and sovereign goodness) という風に「支配 regne, reign」と「善意或いは正義 bonté, goodness」とが、「至高の」という形容詞が付く・付かないで以て分けられているから、いわば、現代的な政教分離の原則に則った表現となっている点に留意しなければならない。

粗雑に取ると、この一人の人が「最高の政治的権力と最高の宗教的権力を一身に兼ね備える」者のように解釈される可能性がある。しかし、そうではないだろう。何故なら、先ず第一に、souveraine というフランス語形容詞は、「女性単数形」であるから、直前の bonté という「女性単数名詞」に係るが、その前の regne という「男性名詞」には係らない。souveraine という二行目末の語は、元来、四行目末の語 ærain と押韻すべきで、そうすれば男性形の souverain という形になる。そしてもしそれが、regne という単数男性名詞と bonté という単数女性名詞の両方に係るには、形容詞を「souverains という男性複数形」にするのがフランス語の規則である。しかし、そうなっていない以上、ノストラダムスは、ここに敢えて承知の上で「単数女性形」を置いたのであるから、その意味は深く考えてみなければならないだろう。

従って、第二に、regne に「souverain」という形容が付かないとすれば、どういう意味になるのか?ここで思い浮かぶのは、「The British queen does not rule but only reigns. 英国女王は統治せず君臨するのみ。」という英語の警句である。regne から、わざわざ「souverain」(最高実権者たる)という形容をノストラダムスが外した形跡が窺われるとすれば、こういった意味が強く推測されるのである。他方において、bonté souveraine(最高実権的善意)は、前者とは対照的に、「名実ともに宗教的最高指導者」(氏自身の自己規定では「主エル・カンターレ」)という意味に取っていいだろう。

とは言え、regne に souverain という形容詞が付かなくても、regne だけで既に「いわゆる政権」、即ち「帝政、王政、共和政等の如何を問わず、一国の最高政治権力、特に最高行政権」という意味が認定される。実際、ノストラダムス『預言集』に登場する regne (reign), regner (to reign), regnant (reigning) 等の用例全96例中、実に92例は明確にこの意味で使われている。他方、本詩を含む残り4例を見ると、以下の通りである。

1° 「金星の下の支配と法」(§935,V-24)
2° 「太陽による法と支配」(§935,V-24)
3° 「月の支配の20年」(§941,I-48)
4° 「僻陬の地に、暗黒の時代に生まれ出たる人は、支配の位に就き、至高の善意に満ちるだろう」(§943,V-41)

このうち前3例は既述事項であって、そして、1°と2°とは相対的に比較され、その「法と支配」とは、「世の中の、或いは世のなかにおける、一般的潮流としての、或いは際立った、意識、想念、思想、理論の勢力」といった意味であったから、いわゆる政権ではない。又、3°は「キリスト教が人々の精神生活を導く主流だった西暦2000年間」といった意味であった。それに対して、同詩で、「月の支配の二十年が過ぎたら、七千年間、別のものが君主政を保持するだろう。」(大団円としての幸福の科学11参照)と詠われたその「君主政 monarchie, monarchy」とは、世俗的制度・政治体制ではなく、「仏典」や「聖書」や「コーラン」といった「聖典とその教え」全体の、この場合は「『太陽の法』を中核とする大川隆法氏の宗教思想を中心とした法体系」の支配的潮流の確保といった意味だろう。

故に、これらに連なる文脈上に位置する4°の場合も、その支配とは、矢張り、世俗的な政権の意味ではなくして、「精神的、思想的な圧倒的影響力の行使」という意味に違いない。そして、そこに、後続の「至高の善意」という規定が加わって、一層肯定的な「精神的支配」のイメージが増幅されるのである。

従って、イオネスク氏がこれを、「王侯にふさわしい善意をもって君臨する」として、「世俗的君主権」として解釈したのは、『預言集』全体の中でのその位置づけを欠いた短見に過ぎない。

但し、このような単純な「政教分離型解釈」は必ずしも「幸福の科学総裁並びに幸福実現党総裁(ないし創立者)大川隆法」氏には当てはまらないように見える。実際、氏はここ数年来、本気で政治的運動に「アンガジェ」(自己拘束、参加、挺身)しているように見えるのである。しかし、その本当の所は、氏は「あくまでも政治理論家」としての域をはみ出ないのであろう。或いは、氏自身がどんなに「政治の実際運動」に熱を挙げるように見えても、必ずそれは「本質的に理論的な活動の一環」であり続けるだろうし、そのように余儀なくされるだろう、ノストラダムスの正確無比な預言の数々を閲(けみ)して来た我々として、本詩二行目の意味を精細に検討した結果を踏まえるならば。

つまり、大川隆法氏が、「支配の位に就くだろう」というノストラダムスの表現と予言は、どんなに薄く見積もっても、如上の「精神論的解釈にも矢張り付随する形での」政治的色彩が伴なっているが、しかしそれはあくまでも、「マルクスの唯物論の世界的伝播に対抗し、それを無化する普遍的理想的政治理念の構築と伝播」というマルクスと同様の、しかしその対極に立つ「原理的理論家」として最高度の影響を世界に与える、という託宣なのである。言い換えれば、政治世界において、大川隆法氏は、「一人の現実の実権掌握・行使者」(a sovereign)として使命を帯びているのではなく、日本であれ、外国であれ、世の中の政治家たる者一般及び国民・市民一般に対して、プラトンが説いたような「哲学者たる君主」の政治学に類似の方向性を有つ《政治哲学理論》を、「最高度の宗教的覚醒感に裏打ちされた理念・構想・目的」として教示する立場(氏自身の自己規定では、「日本の国師」「世界教師」)を神与されているものと考えられるのである。

更に言いかえれば、要するに、その「支配 regne, reign」という言葉は、伝統的な「しろしめす」という大和言葉において理解すれば、大過ないであろう。何故なら、「しろしめす」とは、「し(知)りてし(領)らす」ということ(久松潜一監修『改訂新潮国語辞典 - 現代語・古語 - 』改訂第7刷、新潮社、東京,1980,参照)、即ち、「政治的領導の根本知識がある故にまつりごとを預かる」ということであるからであって、「単に先ず権力を掌握し、而してそれを行使する」という順序とは相いれない叡智の業であるからである。そして、これは、「知りて、自ら領らす」というよりも、「知りて、その知る所を現実の為政者等に伝える」という活動である。

我々はこの意味において、ここに「聖王」という概念を導入することにしたい。つまり、ここで我々が「聖王」と言うのは、「ブッダ、メシア、キリストに相当する宗教的大指導者に匹敵し、且つ、政治的認識においても打開性を有する人」のことである。そして同時にそれは、「特に政治的、軍事的に特化した指導者」としての「覇王」の概念との比較において、そして「覇王」から区別されるべきものとして確立される。

大川隆法氏自身、この事を「仏法(ぶっぽう)は王法(おうぼう)を超える」という箴言を用いて表現している(大川隆法『奇跡の法』幸福の科学出版, 2001, p.138-141)。

最後に、第四行目:「而して青銅に替えて黄金の時代を再開するであろう。」とは、、矢張り先の§941,I-48詩で見た次の章句:「月の支配の二十年が過ぎたら、七千年間、別のものが君主政を保持するだろう。太陽がその[月の]倦まれし日々を自らの手にするだろう時、その時太陽は我が預言を完成し終わらせるのだ」(大団円としての幸福の科学11参照)との照応によって明らかな如く、「青銅の時代」=「月の支配の20年」(静かな鈍い光、幽かな輝き)VS. 「黄金の時代」=「太陽の支配の時代」(強い黄金の光)という図式で説明可能である。従って、その交代時期は、理念的には西暦2000年と言えるだろう。

強い黄金の光: 反省が完成したときには、全身から光が出ます。これをオーラということばで呼ぶこともありましょう。後光と言うこともありましょう。しかし、それは単に外面的なる後光ではなくて、霊的な目で見て、全身が金色の像になっていなければならないということです。そしてその内から、強烈な光が四方八方に散乱していなければならないのであります。ここに私は、祈りとは違った「光」が存在することを感じるのです。祈りの光は遥かなる上空から降ってきます。しかし、反省による光は自らの内より発するのです。これを見たときに、知ったときに、私たちは、『新・心の探究』その他の書物で説かれている心の構造論の意味がわかるのであります。私の理論書には、私たちの心は、玉葱型に幾重もの層からなっていて、一人ひとりの人間が心のなかに四次元領域、五次元領域、あるいは六次元、七次元、八次元、九次元、十次元という領域を玉葱状に持っていると書いてありますが、それがまさしく真実であるということを、みなさんは知るに至るのです。心の中核、中心の部分には、実相世界へと通じ、そしてさらには人霊を超えた世界に通じる「核の部分」があるのです。人格霊としては八次元、九次元が最高領域であるというような話もありますが、私たちのなかには、これを超えた十次元、十一次元、あるいはさらにそれ以上の光が注いでくる部分があるのです。その奥の奥の一点は、究極には大宇宙の遥かなる奥にいます神へと通じているのであります。この事実を知ったときに、我われは、内なる光を求めるという方法が存在していることを知らねばならないと思います。釈迦が説いた教えも、結局ここにポイントがあったのです [前節参照]。) [初出:『北海道教育大学紀要』IA, vol.50-2, 2000。改稿:2013年8月14日。]
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