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§942, V-53 : 「太陽の法」即ち「大メシアの法」

大団円としての幸福の科学12  太陽の法」即ち「大メシアの法」: V-53.

第五サンチュリ第53詩  「太陽の法」即ち「大メシアの法」: V-53 (§942).
太陽の法、而うして相競わんとするヴィーナス、
いずれも預言の精霊を占有しているが、
一方も他方も相聞き従わんとすることはないであろう。
太陽によって、大メシアの法が堅持されるであろう。


§942, V-53: The Laws of the Sun, i.e. The Laws of the Great Messiah.
The law of the Sun, and the contending Venus,
Appropriating the spirit of prophecy:
Neither one nor the other shall listen to each other,
By the Sun the law of the great Messiah subsist.


La loy du Sol, & Venus contendens,
Appropriant l'esprit de prophetie:
Ne l'un, ne l'autre ne seront entendens,
Par Sol tiendra la loy du grand Messie.
        
 ここで、従来の普通の読み方は、「太陽の法と金星(ヴィーナス)の法が競う」というように解釈するが、厳密に見ると、「金星」には「la loy 法 the law」は係っていないであろう。つまり、一行目では、la loy du Sol (太陽の法 the law of the Sun)と Venus contendens(相競わんとするヴィーナス the contending Venus)という二項が &(而うして and)によって並べられているのである。勿論第二項も純文法的には、la loy de la Venus(ヴィーナスの法 the law of Venus)として読めないことはない。しかし、ここで言われている ヴィーナス(金星 Venus)が何であるかを明らかにすれば、その内実から見て、そこに「法」と呼べるほどのものを認めることは困難である。

では、ヴィーナス(金星)とは何を指すのであろうか。第一項の la loy du Sol (太陽の法 the law of the Sun)が、「幸福の科学」総裁大川隆法氏の基本的理論書の首位に来る『太陽の法』(英訳タイトルは文字通り The Laws of the Sun である)を指し、且つ、同時に、氏の説き明かしている宗教的法体系全体を指すのだとすれば、第二項の Venus contendens(相競わんとするヴィーナス the contending Venus)としては、大川隆法氏ないし「幸福の科学」に対抗的に振る舞っている或る宗教的主張者が想定されるであろう。そして、「ヴィーナス」と称されている以上は、その人は男性ではなく、当然女性でなければなるまい。

思うに、このような立場の人が確かに居るし、大川隆法氏自身がセミナーで或る一人の幸福の科学会員からの質問に対して返答した中で、この人の存在を明らかにしてもいる (大川隆法『ノストラダムスの新予言 1989年幸福の科学特別セミナー』幸福の科学出版、1989年、カセットテープ第2巻参照)。それは、大川隆法氏の特に最初期の活動において霊天上界にあって重要な役割を演じた GLA 主宰者高橋信次氏という人があったが、彼の娘で、且つ、彼の没後 GLA の後継者となった高橋佳子氏である。
 
高橋佳子氏は GLA に於いて、大天使ミカエルの再誕者とされている。よって、彼女の著書等の霊的インスピレーションの源泉は大天使ミカエルとされる。従ってその限りにおいて、この四行詩二行目「預言の精霊を占有している」とのノストラダムスの言葉は妥当している。しかし大川隆法氏によれば、高橋佳子氏はミカエルの生まれ変わりではないし、ミカエルの霊的指導も受けてはいない。そもそも天使の中でも最も勇猛果断で最も男性的な徳に優れているとされるミカエルと、ひとりの日本女性との魂の繋がりは不自然であろうから、大川氏の判定は間違っていないだろう。

大川氏は更に彼女の魂の本当の経歴をも明示している。その父・高橋信次氏の魂の本当の転生経歴を、<高橋信次[日本、1927年~1976年]← 役小角 (えんのおづぬ)[日本、A.D.7世紀末]← 左慈 (さじ)[中国、A.D.2~3世紀]← サナト・クマーラ[北インド、B.C.8世紀頃]← ヤコブ・イスラエル[古代ユダヤ、B.C.1800年頃]← エンリル[古代シュメール、B.C.2800年頃]>、という系譜として明らかにした後、「ちなみに、長女、佳子(けいこ)の過去世は、明智光秀の娘、細川ガラシヤである。」としている (大川隆法『太陽の法 エル・カンターレへの道』pp.354-356)。

なお、大川隆法氏の雄渾な三部作『大天使ミカエルの降臨 1』『大天使ミカエルの降臨 2』『大天使ミカエルの降臨 3』(大川隆法『大天使ミカエルの降臨 1』土屋書店、1988年。同『大天使ミカエルの降 臨 2』同、1989年。同『大天使ミカエルの降臨 3』同、1989年)は、高橋佳子氏とは関係のない本物の大天使ミカエルの姿を余す所なく明らかにしている。故に、ノストラダムスの言う「預言の精霊を占有している」との指摘は、大川氏に関しては特にこの点を衝いているのだと受け取ってもよいであろう。要するに、当詩に言う l'esprit de prophetie (かの預言の精霊 the spirit of prophecy)とは、具体的には大天使ミカエルを指すのである。

そして、高橋佳子氏も既に多数の霊的内容に満ちた著書を公刊しているが、それら著書を読んで受ける感じから言うと、先に述べたように、それらを一貫し一括するような骨格的な思想体系といったもの、つまり「法」と言い得べきものは存在しない。そこに在るのは、極めてソフトな、確かに豊かな感受性を示しはするが、本質的に機会的(occasional)な思念、つまり偶感・所感の数々である (「幸福の科学」出現前の高橋佳子氏の著作『真創世記天上編』祥伝社,1977,等は、生前の高橋信次『心の原点』三宝出版,1973, 等の流れに棹さしている趣があるが、「幸福の科学」出現後の高橋佳子『ディスカバリー』三宝出版,1995, 等は、その趣をなくして、心象風景の叙情といった方向に入っている)。

 次に、三行目「一方も他方も相聞き従わんとすることはないであろう。」の解釈であるが、事実として、高橋佳子氏とその信奉者たちは、大川隆法氏とその「幸福の科学」の世界史的真理性に心を開こうとしてはいないのであろう。

他方、大川氏の方が相手側に何か聞き求め、聞き従って、価値あるものを得られる、と期待しているとも思われないのであるが、それは、「太陽によって、大メシアの法が堅持されるであろう。」とのノストラダムスの四行目の予知判断が即、大川氏の現実の堅忍不抜の自己確信となっているからであろう。

 このようにして本詩の趣旨は明瞭になったが、その詩的魅力はおそらく『預言集』の群詩中、最高ではないかと感じられるのは、等位的に相競う二項ではなく、太陽と金星として、空の天体としても、本来段違いの力量の二者が、なお浅からぬ因縁の流れの中で、図らずも表面上に呈する競合について、美しく流暢に語っている所から発し来るのであろう。

「浅からぬ因縁の流れ」とは、例えば、高橋佳子氏の誕生日は、大川隆法氏のそれと完全に同じく、1956年7月7日であるといった点にも認められるであろうし、勿論、その父高橋信次氏が、大川隆法氏の宗教家としての立ち上がり過程において、陰陽両面、プラスマイナス兼合で、深く影響しているという点にも認められるのである (大川隆法氏による高橋信次氏の最終的評価については、大川隆法『太陽の法』pp.351-361、及び大川隆法『黄金の法』pp.312-317参照)。

 ここで言われた意味での「金星」に限定されるわけではないが、「太陽と金星」のテーマは、他の幾つかの預言詩でも扱われていた(§935, V-24, §936, V-72)。

ここでは、「太陽の法」を構成する「太陽の真義」に関して、「月」の意味との関連で、大川隆法氏自身の説明を聴聞したいと思う。

」の意味と「太陽」の意味について

 先に論考した第1章48歌(§941: ノストラダムス大預言の完成と終了)では、「月の支配の2000年」と「太陽の支配の7000年」が交代継起するものとされていた。そこで「月の支配」とは、「イエス・キリストの贖罪を紀元原点とする紀年法」を内容とするものであった。従って「太陽の支配」というのは、それに準じて解釈すれば、「大川隆法=エル・カンターレの『太陽の法』を中心とする法体系の出現を紀元原点とする紀年法」ということになるであろう。その場合、重要なのは、「月」の意味及び「太陽」の意味を十分に明らかにすることである。即ち、何故イエス・キリストが la Lune (月 the Moon)の象徴で語られ、またエル・カンターレ(大川隆法氏)が le Soleil (太陽 the Sun)の象徴で語られるのか、という質問が当然提起されてこよう。実は、これについては大川隆法氏による明快な説明が存在する。

 「私は、『釈迦の本心』という著書のなかにおいて、今から二千六百年前のインドにおける釈迦の考えがいったい奈辺にあったのかということを明らかにしたつもりであります。その思想はきわめてわかりやすく語られていると思いすが、その骨格を成すものは仏教の精髄そのものであります。何万巻あるいはそれ以上の仏典を読んだとしても、『釈迦の本心』のなかに盛られている思想がわからなければ、仏教をわかったとは言えないのです。また、ことばを換えて言うとするならば、この一冊の書物のなかに、ゴータマ・ブッダ釈迦牟尼仏が、八十一年の生涯のなかにおいて説き来たり説き去った教えが、思想的骨格として凝集されているということであります。釈迦の全生涯そのものについては、いずれ改めてその全容を本にしていきたいと思っておりますが、まずは出発点として、その精髄を、骨格を、この『釈迦の本心』にてみなさまに明らかにしたわけであります。

では仏陀はいったい何を言いたかったのか。この一冊の書物に盛られた内容を、さらに一点に凝縮するならば、一点に集約したとするならば、それは「反省ということの意昧を知れ」ということであります。

何ゆえに、とみなさんは問うでありましょう。何ゆえの反省であるのか。それがよいことであるからするのか、はたまた、反省というその方法論のなかに今一段高い意味合いがあるのか。そこに、私たちが察知し得ていないなんらかの深い意味合いがあるのではないかということを、考えざるを得ないのであります。

私は、みなさんが見えないものを見、みなさんが聴けないものを聴き、みなさんが知らないものを知る、そのような運命の下に生まれた人間として、一つの重大な事実をみなさんにお教えしておかねばならないと思います。それはすなわち、みなさん一人ひとりは、ご自分が主体的なる人生を生きていると思っており、そして、その意思決定と行動の決定の九十九パーセント以上は、自ら為していると思っているとしても、実はそうではないところがあるということであります。みなさんの目に見えない世界のなかでは、さまざまな様相が展開されているのです。そして、そのなかで最も人間の幸・不幸を分けているものが、霊的なるものの影響であります。世界にはこれだけ多くの人びとが、およそ五十億もの人間がおりながら、自らがどのような影響下に今あるのかということを、知らないままに生きているという事実。この事実を、私はなんとも許しがたく感じるのです。みなさんは目覚めなければいけない。自らが自分の判断で生きていると思いながら、その実、単なる操り人形になっていることがあるという、その真実を知らなくてはならないということです。

さらに具体的に申し上げましょう。私が会う多くの人びとは、多かれ少なかれ霊的な影響を受けております。しかし、そのなかでよい影響、すなわち守護霊や指導霊といわれる者から直接に影響を受けている者はごく稀であって、その時間とその接触面積は人により違いはあれども、たいていは、一日のうちのどこかで悪しきものの波動を受けているというのが、万人共通の事実であると思うのです。それは、「神の子人間」として、見ていてまことに情けない状態であるのです。万物の霊長といわれる我われ人間が、動物霊や、あるいは迷っているものなどにさまざまに影響されて、彼らのそのまちがった意図のままに人生を流され、運命の淵のなかに沈んでいくのを見るときに、私は、断固としてこうしたものの影響を排除していきたいと思うのであります。そして、みなさん一人ひとりが、ほんとうに自分自身の人生を生ききったと言えるようなそういう毎日にしていきたいと思うのです。みなさんの多くは、まったく自分のものと思えないような人生を生きていて、その結果を享受し、その責任を負わされているという、このような運命の流れのなかにあるのです。けれども、あなたがたもほんとうに神の子であり、神仏の子であるとするならば、もはや目覚めねばならないと私は思うのです。そのようなものにいつまで惑わされているか。早く神の子としての自覚に目覚めよ。そして、本来の人間の誇り高き神性を光り輝かすべきである。その時が来ている。そう私は思うのであります。

そしてその方法として、ひじょうに簡単に思えるかもしれませんが、二千年前も、三千年前も、そしてそれより遙か昔からも、人間は「反省が大事である」ということを教わり続けてきたのです。

反省ということを、過去を振り返るのみと誤解している人が数多くおられますが、ほんとうの反省の目的は、その自分の思いと行ないを正すことによって、より積極的なる人生を展開するところにあるのです。これを単なる消極的行為ととらえてはならない。マイナスをプラス・マイナス・ゼロにすることのみととらえてはならない。反省の奥にあるものは、より積極的なる自己を展開し、神の心をこの地上において、ユートピア実現という名の下に成就していくことであります。反省には実は複雑な要素がつきまとっているのであります。たとえば反省の効果という点に関して、みなさんは残念ながら追体験できないでいることが多いだろうと思います。その反省の力というものがどのようなものであるか、実際に知っている人は少なかろうと思います。それは、霊的な目で見るとするならば、まさしく、みなさんが反省ということを始めたその瞬間から、みなさんにいろいろなかたちでとり憑いていた悪しき者たち、悪しき霊たちと言ってもよい、そうした想念の塊が、崖から堕ちるがごとく、ロープを切られたがごとく、次つぎとはがれ落ちてゆくのです。私はこれを見ているのであります。この反省というものの力の強さを知っていただきたいと思うのです。

そして私はここに、次なる事実をお教えしなければならないと思います。みなさんは、「光」というものは外から来るものである、他力によるものである、そのようにお考えであることが多いのではないでしょうか。高級霊の力によって光というものが与えられるのである。それによって救いも与えられるのである。このように考えがちでありましょうし、事実そうしたものもあります。『愛から祈りへ』という本のなかで、私は数々の祈りの方法を、また祈りのことばをお教えしております。そうした祈りのことばを口に出して読んでいるということは、みなさんがた一人ひとりが霊的震源地となり、霊的波動の発信地となって、高級霊界に黄金の橋が架かっていくことになるのです。それによって、いろいろな指導霊たちが力を加えてくることがあるでしょう。そのような経験をされることでしょう。

けれども敢えて私は、「祈りの原埋」に先立って「反省の原理」を説いた理由の一つとして、光は外から来るものだけではないということを言っておきたいのです。この、釈迦が説き来たった反省という教えの根本は「光は内から出てくる」という考えであり、このことを教えんとしてやっていたのであります。「幸福瞑想」というものを多少なりとも実習された方は、「満月瞑想」という修法を経験されたことがあると思います。この満月瞑想は、瞑想であって単なる瞑想ではないのであります。それはひとつの反省を突き詰めた姿であるということを、みなさんは知らねばなりません。私自身、自らを振り返るということがあります。自らを振り返り、自己の内を観ていったとき、心の奥に沈潜していったとき、そこに私は一つの自己像を見ます。その私は、肉体を持っている私ではありません。それは、ちょうど金色の仏像のごとく見えるのであります。そして、その金色の仏像は、その内から、ちょうど丹田といわれるあたりより、明らかに光を発しているのです。この満月瞑想の姿は、実は反省の完成された姿でもあるということを、みなさんに知っていただきたいのです。

すなわち、みなさんは心のなかに去来したいろいろな思いを、一つひとつ反省されていくことと思いますが、そうして定(じょう)に入っていったときに、このような自分の姿が見えてこなければその反省は完成していないということなのです。反省が完成したときには、全身から光が出ます。これをオーラということばで呼ぶこともありましょう。後光と言うこともありましょう。しかし、それは単に外面的なる後光ではなくて、霊的な目で見て、全身が金色の像になっていなければならないということです。そしてその内から、強烈な光が四方八方に散乱していなければならないのであります。ここに私は、祈りとは違った「光」が存在することを感じるのです。祈りの光は遥かなる上空から降ってきます。しかし、反省による光は自らの内より発するのです。これを見たときに、知ったときに、私たちは、『新・心の探究』その他の書物で説かれている心の構造論の意味がわかるのであります。私の理論書には、私たちの心は、玉葱型に幾重もの層からなっていて、一人ひとりの人間が心のなかに四次元領域、五次元領域、あるいは六次元、七次元、八次元、九次元、十次元という領域を玉葱状に持っていると書いてありますが、それがまさしく真実であるということを、みなさんは知るに至るのです。

心の中核、中心の部分には、実相世界へと通じ、そしてさらには人霊を超えた世界に通じる「核の部分」があるのです。人格霊としては八次元、九次元が最高領域であるというような話もありますが、私たちのなかには、これを超えた十次元、十一次元、あるいはさらにそれ以上の光が注いでくる部分があるのです。その奥の奥の一点は、究極には大宇宙の遥かなる奥にいます神へと通じているのであります。この事実を知ったときに、我われは、内なる光を求めるという方法が存在していることを知らねばならないと思います。釈迦が説いた教えも、結局ここにポイントがあったのです。

 釈迦とキリストという二大聖人を比較したときに明らかなる違いとして現われてくるのもこの点であります。

キリストは、自分を超える絶対者というものが遥かなる彼方にあるという認識を示しておりました。それを「父」と呼ぶこともありましたし「神」と呼ぶこともありましたが、「超越的なる存在が、肉体に包まれた霊的我をはるかに超えてある」という認識をし、それを説きました。これが他力信仰の出発点であると思います。

しかし釈迦は、このような他力を説かなかった。何ゆえに説かなかったかというと、地上にある人間を、肉体に宿れる魂を、弱小なる存在とは見ていなかったからであります。イエスの教えにおいては、まだ人間は弱く崩れやすい、ときに罪人のレッテルを貼られるがごとき、そのような弱き姿として浮かんでまいりますが、釈迦の目には、人間とは真に強きもの、その中心において強きものと見えていたのであります。もちろんその外面において、外見においては、人生の流れのなかで、運命の激流に流され、カルマの渦に巻き込まれ、そして翻弄されていく数々の人を見てはきたが、その意味においてはイエスと同じく弱い人間を数多く見てはきたが、しかし釈迦は、それぞれの人間の核の部分に、確かなる神の光を見いだしていたのです。それ故に、釈迦は敢えて信仰ということは説かなかった。信仰というものを、どこか彼方にあるものへの畏敬ととらえずに、「自らの内にあるこの核ともいうべき光の部分に目覚めよ。さすればそこにすべてがある、すべてが見えるすべての力が与えられる」。こう説いたのです。内的宇宙が外的宇宙をも包含するそういう世界観を観てとっていたのです。こうした見地において、信仰というものがさらに力を得て、強大なエネルギーへと転化していったのであります。

内なる自己と外なる超越意識があるというのではなくて、実は同じ一点を通過するエネルギーであり、根源において共通するものであるということをつかみきった人間は、非常に強く、逞しく、勇気を持って生きることができるのであります。

すなわち、弱者から逃避せんとして助けを求めるのではなく、「汝、弱者に非ず、汝のなかに神仏あり。その神仏を見よ、その神仏に目覚めよ。汝の心のなかにある仏性を顕現せよ」--仏教の教えはこの一点に集結していくのであります。この一点がわからなければ、道破できねば、仏教を学んだことにはらないし、知ったことにもならないのです。その内なる火を、炎を、光をどこまで観ることができるか、ここがみなさんがたに試されているのであります。
」(
大川隆法「反省の原理」(1988年第4回講演会)『ユートピアの原理 救世の悲願』 幸福の科学出版、1990年、pp.129-146)

 このような、「光は超越的神から来る」というキリスト教の他力信仰の立場を「月」によってノストラダムスは象徴化し、また「光は内部から発し来る」という仏教的自力開発の立場を「太陽」によって象徴化したことが明確となった。そして時代は大きく「月」から「太陽」へと転回するというのがノストラダムス大預言の強き声である。

即ち「罪人意識に閉じ籠りつつ、外部の高みに光を求める」依頼の姿勢を転じて、「自己の罪過を反省し浄化しつつ微かにも発光する内心の光を掻き立て増幅する」萌え揚がる自立の姿勢が新時代のものである

[初出:北海道教育大学釧路校紀要『釧路論集』第31号,1999。一部改稿。]

太陽の法」という名前について:
「さて、このノストラダムスについてさらにお話しをしますと、「幸福の科学」との関係が明らかにあるのです。明らかにあるというのは、これは我田引水ではないかと思われては困るのですけれども、私は『太陽の法』という本を出しています。これは幸福の科学の基本書です。ただ、この『太陽の法』という本の題は、私が考えて決めた題ではないのです。この『太陽の法』という本を出さなければならないということはすでに決められていたのです。そういういきさつの本であります。そして出版しましたが、この『太陽の法』という教えが出るということは、ノストラダムスが一五〇〇年代にすでに予言しているのです。これはけっしてノストラダムスをまねして言ったわけではなく、実際その計画どおりのものが出たということなのです。これは会員のみなさんであれば『新・神霊界入門』という本をお読みかと思いますが、小桜姫という方からの通信で、一九八五、六年のころに自動書記で書いた文のなかに、この『太陽の法』という言葉が出てきているのです。そのときにはまだ私は『太陽の法』の構想も何もありませんでしたから、書く予定もなかったのですが、そのように書こうと思う前に出てきていたのです。」(大川隆法『ノストラダムスの新予言講義』幸福の科学事務総合本部,1989,p.29-31)

日本と神理(一九八六年五月二十日の霊訓) これから約百年の間、日本には、かつて地上になかったような、黄金の時代が訪れます。科学文明はもちろん世界一の発展をみ、日本から宇宙へと旅立つ人びともたくさん出てきます。が、一方、国際政治、経済でも、日本はまさしく世界のよきリーダーとなります。各国の政界、経済界の重鎮が、毎日のように日本を訪れ、東京は「外交の都」と呼ばれるようになります。他方、宗教のほうも、日本を核とした新たな明晰かつ合理的な教えが、ヨーロッパに、北米に、そして東南アジア、中国にと広がってゆきます。産業界でもトップの国が、宗教でもトップの国へと変貌してゆきます。こうして二十一世紀には、日本は「神と太陽の国」と呼ばれるようになりますでしょう。そしてあなた [自動書記者・大川隆法] が説かれた教えが、「太陽の法」として、諸外国に知られてゆきます。それはまさしく、日本の国の象徴が太陽であると共に、あなたの説かれる法が、太陽のごとく人びとに注ぎかけるときでもあるからです。」(大川隆法『新・神霊界入門 現代女性を幸福にする小桜姫の霊訓』幸福の科学出版,1990,p.128-130)

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