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§954 -§955, I-1 & I-2: ノストラダムスの「発声的書記」

大団円としての幸福の科学9(続& 1/2ノストラダムスの「発声的書記」

出口ナオとノストラダムスとにおける「自動書記」の現象について

 意識的自己(W. ジェームズはこれを記号的に『人格のA領域 the A-region of personality』と呼ぶ(James,op.cit.p.526 )。)と連続している潜在意識的自己(W. ジェームズはこれを記号的に『人格のB領域』と呼ぶ(id.)。従って、《 ひとりの人格全体 = A+B 》。)の非日常的な強力な活動が、安丸良夫氏の説明にあったように、出口ナオ女史の場合には、「腹の中に別の活物が入って問答したり、文字を書かせたりする」という固有に宗教的な経験となって奔出して、「お筆先」という文書として残されており、また、はるか以前16世紀にノストラダムスの場合には、自動書記及びそれに伴う独特の声と視覚像の展開という形で発現して、その筆記記録の結果たる独自な稀有の『預言集』として伝わっている。また最近では、大川隆法氏における「神託の開始」の時に「鉛筆を取ってカードに書かれたイイシラセ」として我々の記憶に新しい所である。そして、「幸福の科学」の第一の基本理論書『太陽の法』も、実は、大川隆法氏の「自動書記法」で書かれたものである。

「一九八一年三月、はじめて霊道をひらいて以来、さまざまな霊現象を経験し、私の神理探究は、今日まで、六年余りつづいております。この間、霊言集の読者のみなさんからは、単なる対話篇や霊示集でない、神理の体系的な理論書をと、要望する声が日ましに強くなってまいりました。そこで、このたび、現在までの私の体験、悟りを踏まえて、神理の基本書ともいうべき『太陽の法』を刊行することとなりました。本書では本格的に、高次元世界の秘密、宇宙創造の秘密、人類史の全貌ということをはじめて公にしたばかりでなく、個人の悟り、修行方法に関しても、的確なる指針を呈示したつもりです。全篇に流れる格調の高いことばの響きに、読者諸氏はお気づきになられるはずですが、本書は、単に地上に肉体をもっている私の小さな脳細胞から生み出されたものではありません。霊天上界、九次元世界にある私の潜在意識から啓示を受けつつ、これを文字として、また私自身の思想としてあらわしたものなのです。ペンを握る筆者の手は、まるで生きもののごとく勝手に動き、一九八六年八月末に取りかかった草稿は、九月の第一週には完成しておりました。わずか十日あまりで、一冊を書きあげたことになります。本書によって、より多くの人々が、心の目をひらき、真実の生き方に目覚められんことを切望いたします。」(大川隆法『太陽の法 新時代を照らす釈迦の啓示』土屋書店, 1987, まえがき)

そして、このような自動書記は、単なる機械的現象ではなくて、本人の広大・深遠な潜在意識(人格のB領域)との連絡を前提としたものである。「私は、第2章、3章、4章に、それぞれ西洋史、東洋史、日本史に現われた高級霊の歴史を記してきました。本書は、高級霊の活躍の歴史を全体像で捉えたという点では、かつてなく、これからも書かれることのない記録だと思います。私は、人類の歴史を一万年でも、十万年でも、百万年でもさかのぼって書くことができるのです。しかし、これは、もちろん、地上に肉体を持っている大川隆法という個人の脳細胞の記憶には、とうてい残っていようもない内容です。では、なぜ私は、そういう歴史を書くことができるのでしょうか。なぜならば、これは、実は、私の魂の約八十パーセント、即ち、霊天上界九次元世界にある私の全魂の八十パーセントの潜在意識部分によるものだからなのです。」(大川隆法『黄金の法 エル・カンターレの歴史観』幸福の科学出版, 1997,pp.258-259

 ここでは、特にノストラダムスにおけるこの自動書記的現象について考察し、彼の預言詩の解釈一般に対する基本的方向性の確立のための契機にしたいと思う。それというのも、この問題は彼の『預言集』全体の開巻劈頭に置かれた二つの四行詩の中に深く込められているものであるからである。事実、第3章5歌 (§939, III-5) の、「二人の大いなる光輝ある者たちの欠如は近く且つ遠く」というこの詩文中の表現(特に下線部)の特異性は、多分、自らの預言詩作成作業のなかで、指導的霊存在の、到来と現前を、常に体験していたノストラダムスの、熟知的実感を反映していると考えられるのである。『預言集』劈頭の二つの四行詩が彼のそのような体験を語っている。しかも、その中の主動詞は、すべて、直説法現在形であるから、問題になっているのは将来的事象の予言ではなくて、諸々の預言四行詩を作成した預言者自身の預言詩作成作業そのものを描写しているのである。

『預言集』第1章1歌と2歌(ノストラダムスの霊的体験の恒常性について)
 ここに、霊存在感の独自性を熟知していたであろうノストラダムスの体験の証明として『預言集』冒頭の第1章1歌と2歌を取り上げておきたい。最初に要約的に簡単な解説を述べ、次に文法的に精緻な解読を実行したい。

第一サンチュリ第1詩 神秘の研究の基礎附け(1555): I-1 (§954).
神秘の研究は夜間に基礎づけられるが故に、
孤独者が青銅の小椅子に寄れば、
孤寂の境より発し来たりし微小の炎が、
信じて虚しからざる事柄を語らしめる。

§954 ; I-1: The foundation of the secret study (1555).
The foundation of the secret study being laid by night,
The solitary being reposed upon the stool of bronze,
A fine flame coming out of the solitude,
makes pronounce what is not worth believing in vain.

( ESTANT assis de nuit secret estude,
Seul repousé sus la selle d’ærain,
Flambe exigue sortant de solitude,
Fait proferer qui n’est à croire vain.


第一サンチュリ第2詩 神々しい輝き(1555): I-2 (§955).
多数の小枝の真ん中に置かれた棒(羽ペン)が手に執られると、
彼が液体(インク)を楷書する、リボン状のもの(羽弁)が楷書する、足(羽柄の先 = ペン尖)が楷書する。
恐れと声とが一つになって両袖口の辺りで顫動する。
神々しい輝き。神霊が身近かにおわします。

§955 ; I-2: The divine splendor (1555).
The stick put in the middle of branches being in the hand
He moulds the liquid and the ribbon [moulds] and the foot [moulds].
My fear and the voice in unanimity tremble about my cuffs,
A divine splendor. The Divine sitteth by.

(La verge en main mise au milieu de BRANCHES
De l’onde il moulle & le limbe & le pied.
Un peur & voix fremissent par les manches,
Splendeur divine. Le divin près s’assied.


要約
 
これを見ると、ノストラダムスは明らかに、神霊の導きの下に、自動書記という形で、預言詩を作成していた、つまり「書き取っていた」という事が疑いも無く断定できる。そして、そのようにして、『預言集』に収録すべき四行詩の原形を紙に写し取ったあと、これがつまり、彼の予言詩作成という神秘な研究の「基礎作り(assis )」なのであるが、あとは、「長時間の計算で夜間の研究を甘美なものと化しつつ、私は、夫々が100篇の天文学的預言四行詩を収める複数の預言書を作成した。これらの預言を私は若干分りにくく工夫して仕上げようと欲した。それらの預言は、今より3797年までの中断無き占断である。」(№1,p.39)ということになる。

 1歌一行目の主語は何かというと、secret estude (神秘な研究)という名詞以外には存在せず、estant assis(基礎付けられるが故に)がそれに対応する述部である。ところが大抵の研究者はestant assis ( being sat) を見ると直ちに「人が座っている様子」を思い浮かべ、従って二行目のrepousé sus la selle d’aerain(青銅の小椅子に寄れば)と同じと取る。しかしこれでは一行目と二行目が同じ事を重複して述べることになり、貴重な四行という枠を無駄に使うことになるばかりで望ましくないのみならず、secret estude という語句が文法的に入る余地がなくなってしまう。

 
また「微小の炎が事柄を語らしめる」というのも、次の2詩で説明されているように、文字通り「声がして語る」ということである。のみならず、ノストラダムスが手にした羽根ペンが、彼の意志とは関係なく動いて文字を書く。従って、羽根ペンの「リボン状の羽毛(羽弁)limbe」も、「足状の棒先(羽柄)calamus」も、彼の意志ではなく、「神霊の意思」に沿って、同様に動くのである。なお、その「彼、il (he)」という単数男性人称代名詞は、既出の「孤独者 the solitary (seul)」、つまりノストラダムスを受ける。他に、後出の「神霊 the Divine (le divin) という単数男性名詞も候補にはなり得るが、いかんせん、既出と後出の競合であれば、圧倒的に既出語が優先するし、そのように解して特別の不都合も見出せない。

 
それと同時に声が聞こえて、多分、その出来事のありのままの表現としての「原四行詩」がノストラダムスの耳に伝達され、その通りに彼はペンが自動で文字を書くのを眼で追ったのであろう。筆記については、2詩一行目が、La verge en main mise au milieu de branchesという洒脱な表現で示唆している。
 La verge en main mise au milieu de branches (多数の小枝の真ん中の棒を手に)は, 私の如上の解釈以外には明瞭な読み方はないであろう。「鵞ペンのような羽ペン」というノストラダムス時代の通常の筆記用具を前提にして、それを謎々的に表現するとして、「la verge mise au milieu de branches 多数の小枝の真ん中に置かれた棒」と言うとすれば、無意味ならざる一種の詩的言い回しとなるであろう。それが、「en main 片一方の手の中に」ということで、ますます羽ペンのイメージに接近することになる。

 次にl’ondeは、多くの解釈者がやるように古代の降神術に関係する水を意味するというよりも、「液体としてのインク」を想定すればよい。

 またUn peur & voixというのは、peur voix も共に女性名詞ではあるが、「その二つが区別もつかず一体的に」振動する様子をunという形容詞(「一体をなす」という意味がある(Suzuki))で表している(その場合、その形容詞は副詞的に機能する)。しかし動詞が frémissent という複数形であるのは、実際は二つのものが別々のものであることを示している。つまり、ノストラダムスの両手の袖口あたりが顫動するのは、一つには彼自身のおそれおののく心の表れであり、と同時にそれは彼の身近かに神々しくも輝きとして臨在している神霊の意思に基づく或る声の響きの振動でもある。

 なお、「声」については、息子セザールへの序文の中では、「微小の炎に由り、lymbeに発せられる声 la voix faicte au lymbe moyennant la exigue flamme 」と説明している。ここで「lymbe」というのは、当時の表記法でy=i だから、詩文の「limbe」と同語で、「羽弁」のことである。従って、「声」の発生場所が、具体的には「羽弁」であることが判明する。確かに、羽弁は振動しやすいから、響きを発生させることも「神霊」にとっては容易なのであろう。従って、また、羽根ペンを握るノストラダムスの手の袖口とも近い位置にあることになって、彼の手の震えと羽弁の発声的振動が一緒になることも理不尽ではない。
 また、「神々しい輝き。神霊が身近かにおわします」における「神々しい輝き」というのは、「微小の炎」として最初に出現した神霊が、増光した姿ではあるまいか。そして、「神霊が身近かにおわします」という表現に含まれる人格的存在感を考慮すると、机に向かうノストラダムスの、その彼の横傍ら、または斜め後ろ辺りに「神霊」が「神々しい輝き」として現存しているのであろうと考えられる。

 いずれにしても、先にも述べたように、『預言集』四行詩の多くは、少なくともペアを成して一つの事柄の立体的表現を実現していると思われるが、その典型的事例が、劈頭のこれら二つの詩に見られるわけである。

(文法的考察)
一般にノストラダムス『預言集』の各四行詩の配列は特に明確な意図なくして、極めて偶然な手法によって適当にバラつかせたもののようであるけれども、冒頭の二つの四行詩だけは例外であって、この二篇はまさに巻頭に置かれるべくして置かれているものと考えざるを得ない。というのもこの二篇は他のものと違って、本質的に「預言を含む詩篇」ではなくて、むしろ、「我が預言詩がいかにして出来たか」という極めてデリケートな問題を、作者たるノストラダムス自身が、例の彼一流の隠蔽工作の下にでではあるが、率直且つ正確に語ったものであると思われるからである。
 構文・語彙・正綴法等において中古の名残りをいくらか留めているそのフランス語への不慣れから、我々には、一見、相当変則的で杜撰な印象を与えるので、多くの場合研究者はそこに徹底した正確さを求めないまま、解釈像の性急な焦点化に走り勝ちである。これを「不文の輩barbares」と呼んでノストラダムス自身が彼の作品に近寄るなと予め警告している。18世紀初頭、ノストラダムス作品への真摯な真理探究の鶴嘴を本腰を入れて打ち込んだ史上最初の研究者と称してよいジャン・ル・ルが最も重視したノストラダムス研究の先決要件も「文法把握」であった。ジャン・ル・ルは熱情の籠った敬愛の念から、ノストラダムスを「フランスの託宣者 l’Oracle de la France」とさえ呼んでいる。

ジャン・ル・ル『ノストラダムスの鍵 この有名な著者の予言集の真実の意味への入門』(1710
「フランスの託宣者の予言集を読むのにせよ、或いは説明するのにせよ、単に自己の精神の力と働きに頼るだけで、語学研究(l’étude des belles Lettres)の助けを欠くならば、誰もそう欲しても殆ど決して目標に達することはなく、大抵、その掴む所は、(自分で自分についてどんな立派な思い込みをしていたところで)風か、空虚な観念でしかないに決まっている。その理由は、就中、文法(la Grammaire sur-tout )が、その暗闇の中でうまく身動きを取るために必須であるからであって、それは丁度ラビリンスの中に入って確実に歩を進めるためにアリアドネの糸が必要不可欠であるようなものである。従って文法を欠けば、その外の色々の、極めて精緻で極めて透徹した世智が供する物差しを頼んだとしても、この種の予言集の中でそれなりの進展を見るのは全然不可能である。それ故、フランスの託宣者は、その第6章の終りでこう言ったのである:「語学を知らぬ者はすべてここに立ち入るべからず。Barbari procul sunto: Arrriere d’icy tous ceux qui ne sçavent pas les belles Lettres.(Jean le Roux, 1710, p.4.

主節と従節
 さて、上掲二詩の言語構造を、先ず、主節と従節に分類して、詩意解釈のアプローチとしよう。
A:
主節 les propositions principales主語動詞.
1.
孤寂の境より発し来たりし微小の炎が、信じて虚しからざる事柄を語らしめる。A fine flame coming out of the solitude, makes pronounce what is not worth believing in vain. (Flambe exigue sortant de solitude fait proferer qui n'est à croire vain.)
2. 彼が液体(インク)を楷書する、リボン状のもの(羽弁)が楷書する、足(羽柄の先 = ペン尖)が楷書する。He moulds the liquid and the ribbon [moulds] and the foot [moulds]. (De l’onde il moulle & le limbe & le pied.)
3.
恐れと声とが一つになって両袖口の辺りで顫動する。My fear and the voice in unanimity tremble about my cuffs. (Un peur & voix frémissent par les manches.)
4.
神霊が身近かにおわします。The Divine sitteth by. (Le divin près s'assied.)

B: 従節絶対分詞節les propositions participes absolues.
1. 神秘の研究は夜間に基礎づけられるが故に、The foundation of the secret study being laid by night (Estant assis de nuit secret estude).
2.
孤独者が青銅の小椅子に寄れば、The solitary being reposed upon the stool of bronze (Seul repousé sus la selle d'ærain).
3.
多数の小枝の真ん中に置かれた棒羽ペンが手に執られると、The stick put in the middle of branches being in the hand  (La verge en main mise au milieu de BRANCHES).
4. 神々しい輝き[ありて]A divine splendor [being]. (Splendeur divine [étant]).

以下、順を追いつつも、密接に関連する事項は随時集約しながら、文法的分析を中心に詩句を吟味するが、その際、「息子セザールに宛てた『預言集』序文」(№1,p.31-44) の中から、関連事項を援用するであろう。

A1. 孤寂の境より発し来たりし微小の炎が、信じて虚しからざる事柄を語らしめる。A fine flame coming out of the solitude, makes pronounce what is not worth believing in vain. (Flambe exigue sortant de solitude fait proferer qui n'est à croire vain.) + B4. 神々しい輝き[ありて] divine splendor [being]. (Splendeur divine [étant]). + A4. 神霊が身近かにおわします。The Divine sitteth by. (Le divin près s'assied.)

この文A1.は、「確実な未来事象に関する言説」、つまり「ノストラダムス作品」と一般に信じられている「預言四行詩」が、「微小の炎」に依って語らしめられる事実を述べている(「語る」proférer = pronouncer, to pronounceについては、次節A3「声」voix, voiceの項を参照)。そして、この「微小の炎」は「神々しい輝き」として「身近におわす」「神霊」としてノストラダムスに感知されている。

それは、「セザール宛序文」の中で「火炎 «flambe de feu»」、「火の精気 «subtil esprit du feu»」「微小の炎 «exiguë flamme»」と言われているものに合致する。そして、それは「諸予見の源泉たる永遠の神と、諸予見を自分流に受け取り諸予見を人間的に言表する神の霊感を受けた預言者との中間のもの」、つまり、神と預言者との媒介者である。
火の精霊を介してのみ受け取ることのできる玄妙なる諸予見 «les occultes vaticinations que l'on vient à recevoir par le subtil esprit du feu»(№1,p.35)
創造主たる神が、彼の差配する火の伝令を伝令火炎として送り来たりて、外部諸感覚に対して、更には我々の眼に対してさえ、未来事象を指し示す未来予言の諸原因を呈示して下さるのです«Dieu le créateur par les ministres de ses messagiers de feu en flamme missive vient à proposer aux sens extérieurs, mêmement à nos yeux, les causes de future prédiction significatrices du cas futur.»(id.p.43)

従って、微小火炎の出現により、預言者に対する幽玄な諸予見の神的霊感が告知されるのであり、預言者は、それに対して、「精神の休息と静穏によって、霊魂と精神と心情から全ての憂慮と心配と不快を取り除いて準備する」(id.p.6)。そのように準備が整うと、「微小の炎が孤寂の境より発し来」ることになる。

A2. 彼が液体(インク)を楷書する、リボン状のもの(羽弁)が楷書する、足(羽柄の先 = ペン尖)が楷書する。He moulds the liquid and the ribbon [moulds] and the foot [moulds]. (De l’onde il moulle & le limbe & le pied.)+ B3. 多数の小枝の真ん中に置かれた棒(羽ペン)が手に執られると、The stick put in the middle of branches being in the hand  (La verge en main mise au milieu de BRANCHES).

先ず、大多数の解釈者は、moulle (№1, №2, №3, №5, №6, №7, №8, №9, №10 等の主要な版は全てmoulleとなっている)という最も信頼できるテキストを無視して、これを敢えてmouille (From mouiller, to wet, to damp, to moisten) と読み、古代ギリシアの降神術の一つの作法に準拠して、「水もて縁(へり)と足を濡らしむ。」(№8,p.48; ブランダムール著、高田勇・伊藤進編訳『ノストラダムス予言集』岩波書店, 1999, P.11)などと説明するけれども、moulle はあくまでも moulle であって、実は、現代語のmoule と同語である(cf. Littré, s.v. «moule» )から、決してmouille と読み換えることは許されない。そして、mouller (mouler, to mould = to mold) の意味としては、「鋳型に入れて作る」が基本であり、特別に、「完全な形態の精緻な書体で字や語を書く «Mouler une lettre, un mot: l'écrire d'une écriture soignée, parfaitement formée» (Petit Robert)」という意味もあり、ここではこの特殊的意義を斟酌して「形作る」と解釈すべきである。つまり、「鋳型に嵌めたようにキッチリした文字を書く」ということである

そして、ノストラダムス時代の最も一般的な筆記具は「羽根ペン quill-pen」であって、その「羽根ペン」のすがた形は「多数の小枝の真ん中に置かれた棒」という描写、及び「リボン状のもの」「」という表現とピッタリ合致するのである。即ち、ここで云う「棒 verge (stick, cane)」とは、下部の「羽柄(うへい)」とか「羽軸根」とか「翮 (かく)( calamus, quill) という部分と、上部の「羽軸(うじく) rachis」を一本の全体として見た「体羽 contour feather (おおばね) の中心軸」のことである (cf. Corbeil, 1993, p.110)。また、「多数の小枝」とは、「羽軸の両側に対称に生えて、全体として細長くて薄い一種のリボン、ないし柔らかい帯を形成する羽枝(うし) barbsの集合体」で、「翈(こう) 」とか「羽弁」vane, web」と呼ばれるものに他ならない (cf. id.)。従って、次に「リボン状のもの le limbe」というのは、正に「羽弁 (うべん)」とか「翈(こう)」と呼ばれるもの ( vane, web) を意味し、そして「 le pied」というのは、「羽柄 (うへい) calamus, quill」の先端を削って尖らせたペン先 (bec, nib, penpoint) を指し示す。

実際、limbe の語源たるラテン語limbus は「反物の縁布として使う帯、ないしリボン」(Ernout & Meillet) を意味する。また、«BRANCHES» という大文字で書かれた語も、ノストラダムスの『預言集』では、必ずしも常に固有名詞とは限らず、場合によっては全く普通名辞と解して差し支えなく、現に今の場合がそうで、単に branches、つまり「枝, branches」を意味し、この場合は「小枝」と取るのが適切である。依って、その一つ一つは羽枝 barbであり、その集合体としての「羽弁」ないし「翈」(vane, web) が詩の中でle limbe(リボン)と呼ばれているのである。そして、「多数の小枝の真ん中に置かれた棒」というノストラダムスの表現は、一本の羽軸がその左右に対称に生え揃った無数の羽枝の 真ん中を貫いている様子を正確に捉えている。

しかし、大方の研究者は、«BRANCHES» という大文字で書かれた語を固有名詞として受け取り、例えばブランダムールの邦訳者達は以下のように解説している:「原文ですべて大文字で記された「ブランシュ」(BRANCHES)は「ブランコス」(Branchos)のラテン語形「ブランクス」(Branchus)のことであるらしい。ブランコスは小アジアのミレトス南方のディデュモイにアポロンの神託所を開設した人。山中で家畜を追っている時、アポロンに愛され、予言力を授けられた。彼はミレトスの入り口に、アポロンに献ぜられた神殿と大勢の神官をもっていて、ディデュモイ神託所の神官職は彼の子孫によって継がれた。従ってここでは、「ブランシュ」はアポロンの託宣の神殿を指すと考えてよさそうである。」(ブランダムール著、高田勇・伊藤進編訳『ノストラダムス予言集』岩波書店,1999,P.12)。

けれども、高田・伊藤氏等が「ブランシュ BRANCHES」はラテン人名「ブランクス」のフランス語的表記だと主張する点は、性も数も格変化も持たない日本語の習慣を最大限生かした便法ではあるが、欧文規則を顧慮した厳密な批評には耐え得ない粗論である。一体、ラテン語の影響を強く受けて成立したフランス語は、そのフランス語化 (francisation, gallicizing) における規則を有していた。それに依れば、例えば「ヒエロニムス Hieronimus」というラテン人名は、フランス語としては「ジェローム Jerôme」になる (Scheler, pp.24-25)。ここで重要な規則は、語末が「無音のe 」で終るという点であり、従って、「ブランクス Branchus」は「ブランシュ Branche」になるのであり、高田・伊藤氏等が言うような、「語尾にSが付いた Branches」にはならない筈なのである。因みに、ノストラダムス Nostradamusという名前は、ノートルダム Nostredameというフランス語本名を預言者ミシェル自身がラテン語化して付けたもので、従って、これを逆にたどれば、Nostradamusというラテン名はNostredameというフランス名になる筈で、確かに語尾は「無音のe」で終っている。それは決してNostredamesにはならないのである。

この点、高田・伊藤氏等の訳業の原書の著者ブランダムールはもう少し注意深い説明を行なっている。つまり、ブランダムールはこれ (Branches) を「アポロン神託センターといった地理的意味の語」とするが、その論拠はイアンブリコスのテキストにある「ἐν Βραγχίδαις」というギリシア語複数形表現及びフィチーノに依るそのラテン形 in Brancisであると言う(№8,p.48)。しかし事はそう単純ではない。
先ず、ギリシア語複数形であるΒραγχίδαιthose who belong to Branchosの意味として考えられるのは、以下の二つである。
①「男性複数形οἱ Βραγχίδαι, les Brankhides, ブランコスの子孫達、ディデュマのアポロン神殿と神託を預かった神官たち」(Bailly)
②「女性複数形αἱ Βραγχίδαι, ブランコスの神殿と神託」(Pillon)

他方、au milieu de... というフランス語複合前置詞(~の真ん中で[]、~の最中に)に接合される語句は、「集合名詞(群衆の中に、など)、場所(客間の中央に、など)、又は時間(継続的な事柄)(映画の最中に、など)」という三者の内のいずれかである(久松健一編著『仏検対応クラウンフランス語熟語辞典』三省堂, 東京, 2012, p.65)。

そうすると結合上は、先ず、に関しては、「神官達の真ん中で」が可能。

に関しては、「当該神殿及びそこに於ける神託活動の最中に」が可能。

次に、直前に置かれた「la verge en main mise, the stick in hand put、手の中の棒が置かれて、置かれた手の中の棒」という語句ととの接合性を吟味すると、「神官達の真ん中に置かれた手の中の棒、手の中の棒が神官達の真ん中に置かれて」といった意味になる。この場合、「棒を手にした者が大勢の神官達の真ん中に置かれて」いるという光景が見える。

次に、「la verge en main mise, the stick in hand put、手の中の棒が置かれて、置かれた手の中の棒」という語句ととの接合性を吟味すると、「神託活動の最中に置かれた手の中の棒、手の中の棒が神託活動の最中に置かれて」といった意味になるが、これは「誰かの手の中の棒が神託活動に参加するに至った」というように理解される。そして、結局、上記の可能な二義を、「孤独者たる預言者ノストラダムス」に当てはめれば、「棒を手にした者(ノストラダムス)が大勢の神官達の真ん中に置かれて」いる (6°) ようなことはあり得ないから、「誰か(ノストラダムス)の手の中の棒が神託活動に参加するに至った」という読み (7°) だけが妥当として残る。これだと、ブランダムール等が主張するように、ノストラダムスはこの詩文を書くに当って、下記の著者の作品 (a,b) を下敷きにしたかのようである。
(a)
イアンブリコス『エジプトの秘儀について』:「ブランキデス [ブランコスの子孫達] の巫女についても、彼女が初めは神から譲渡された棒を持ちながら神の光に満ちているにせよ、.....」(高田・伊藤訳、上掲書, p.12)。
(b)
アグリッパ・フォン・ネッテスハイム『隠秘哲学について』:「しかしブランクスの神殿にも、木の板に座ったり、さる神から譲り受けた棒を手に持っている、予言する巫女がいる。」(同上書, p.13)。

次に、なお、もう一つの可能な解釈を挙げると、Branchesという名前の小村がフランスのシャンパーニュ地方ヨンヌ県に存在する(Bescherelle)。そして、上記ブランコスの子孫達の神殿を中心としたミレトス前門の町はBranchideと呼ばれた。しかしこの町は紀元前5世紀に古代ペルシア王クセルクセスによって略奪・破壊され、彼等はアジア奥地(Sogdiane 現アフガニスタン)に逃れそこに同名の町を創建した。しかしその町も、紀元前4世紀アレクサンダー大王が占領した時、住民が進んで神宝・財物を大王に寄進したため、裏切りと瀆聖をことのほか憎む大王の怒りを買う始末となり、大王の命令で破壊されてしまったという(Bescherelle)。兎も角、Branchesという原文の名前を、この伝説的なBranchideを暗示するものとすれば、「その真ん中で」とは、「Branchideの町の真ん中の神殿で」と言えるだろうから、意味としては先のとほぼ同じになる。

しかし、いずれにしても、これはあくまでも「歴史的比喩」と見るべきで、1詩の「青銅の小椅子」が「デルポイの神託で使われていた青銅の床几」(高田・伊藤訳、上掲書, p.9)を喚起しつつ、ノストラダムス実用の小道具を表すのと全く同様に、同じく「古代ディデュマの預言の状況」を語ってはいるが、預言方式の実態そのものは、ノストラダムスのそれとは似て非なるものがある。実際、この解釈だと二行目の詩句には繋がらないし、無理に繋げようとすれば「moulle 彼は象る」という真実の原文を「mouille 彼は濡らす」という形に改竄せざるを得なくなってしまう。だが、ここに全く新たな解釈の手掛りが次の一事によって与えられる。つまり、古代ギリシア文字は「小文字」を持たず「大文字」だけを使用していた、「小文字」は後にビュザンチオンの学者達が発明したものだ(cf.古川晴風『ギリシヤ語四週間』大学書林、東京, 1988, p.4)、という史実を想起してみよう。すると、そこでは、全ての語が大文字表記で、従って固有名詞も普通名辞も区別なく大文字で書かれたのだから、この«BRANCHES»という大文字だけの語も、そういう古代ギリシアの流儀の修辞的且つ韜晦的投影にしか過ぎないのなら、既に17世紀のノストラダムス研究家ジョベールが行なったように(下記参照)、全く「branches 多数の小枝」というフランス語普通名詞複数形の謎的表記として捉える事が出来るだろう。そうした場合、後続詩句に連絡し完全に意味が通る、という結果は黙殺できないのである。

更に、l'ondeは普通、「波」という意味だが、やや古い用法又は文語として「(海・湖・川の)水」(Suzuki) という意味があり、そこから「インク encre」と無理なく敷衍して解釈出来る。その場合、«de l’onde» というフレーズになっているのは、大方の研究者は「水によって」などと、前置詞 «de» を「手段・方法」の機能語と見るのだが、正しくはフランス語文法に特有の「部分冠詞」と見るべきであろう。何故なら、「インクのような液体はそれ自体が加算的でない」から。普通にディジタルに数えられない物質の場合に「部分冠詞」が付加される訳である。従って、«de l’onde» という語句は「水に依って、水を以て」というような「副詞句」ではなくて、「部分冠詞付き名詞」であるから、主動詞moulle の「直接目的語」であり、「インクを彼が鋳型に入れたように楷書の文字に形作る」という意味を構成しているのである。

これと並行して « & le limbe & le pied.» という句は、先頭に「and (&) という等位接続詞」が来ているから、単に「moulleという動詞の直接目的語」ではなくて(何となれば、その直前には準ずるべき直接目的語なるものが無いからだし、且つ、既にmoulleにはde l’ondeという直接目的語があてがわれているから)、« De l’onde il moulle » とい文を、le limbe le pied を主語にして繰り返した文、即ち、« de l’onde le limbe moulle » « de l’onde le pied moulle » とを追加したものになるという考え方が、文法的に最も合理的な解答である。実際、預言者が持つ羽根ペンは一体的に動くから、ペン先の運動と羽弁の運動とは楷書する預言者の手の運動と方向や角度は異なれ、一定の関係で連動している。

所で、「楷書する」という表現には、預言者の手の動きが「他律的」であるという意味があると察せられる。何故なら、ノストラダムスの自発的な「手蹟」は「極端な悪筆」として有名だからである。他の人々は殆ど「判読困難 illisible」と言われるほど「字が下手」であった(cf. Chevignard, 1999, p.52-53)。従って、この表現は、伝令火炎がノストラダムスに書かせた、ということで、「自動書記」を意味するのである。かくして、「声」も「筆記」も同様に神霊の意志の下にあったということであり、更には、詩の中に語られていないが、「視覚的映像の提供」もあったということが「セザール宛序文」では明らかにされている。

「創造主たる神が、彼の差配する火の伝令を伝令火炎として送り来たりて、外部諸感覚に対して、更には我々の眼に対してさえ、未来事象を指し示す未来予言の諸原因を呈示して下さるのです。」(№1, p.43) ここで「眼」以外の「外部諸感覚」とは、「自動書記」に関わる運動-感覚的機能、及び「声」と「振動」に関する聴覚と触覚であろう。つまり、ノストラダムスは、本来的に「見者 voyant, clairvoyant 千里眼」であった。他に、彼は「凹面鏡 (un miroüer ardant, a concave mirror) を覗き見るが如く」(№10, p.158)という言い方もしている。これは極めて拡大された、従って細部にまで及ぶ未来事象の映像が彼の眼には見えるということだろう。

さて、冒頭詩に関して、「神霊からの口述をペンで筆記した」という解釈を最初に行なったのは、17世紀のノストラダムス研究家ジョベールである:「善き守護霊のこの予見的熱情によって活気付けられて、彼は第一に、羽根ペンを手に取る(la verge en main, prenant la plume, taking a quill) ; そして彼はそれを自分の指の間に置く(il la met au milieu des branches, la mettant entre ses doigts, putting it among his fingers)。第二に、彼はこの棒を液体の中に漬ける、即ちその羽根ペンを容器のインクの中で濡らす。彼は自分を照らす神々しい輝きを観照した。そして彼は、神霊が側に居らっしゃる気がした。つまり、神的聖霊が彼の耳許に居て、或いは彼の直ぐ近くに居て、彼が書き取るべき事柄を彼に対して口述したのだ。」(Jaubert, 1656, pp.108-112)

ジョベールの解釈では、「自動書記」という見解までは到達していないが、当代の研究者ロベール・ブナズラ (Robert Benazra) は、明確に「自動書記説」を提起した:「言ってみれば、我等が神秘家は、催眠状態の中で、自動書記(l’écriture automatique, automatic writing) を実行したのである。」(№1, p.22) 但し、ノストラダムスが、その時、「催眠状態にあった」というのは極めて疑問である。ノストラダムスは一言もそういう事を言っていないし、せいぜい「神霊作用を受容する準備的な精神の弛緩」という事を告知しているに過ぎない。実際、「口述筆記」だけでは、大文字と小文字の区別さえ出来ないから、branchesと書くべきか、それとも、BRANCHESと書くべきか、筆記者は判断出来ない。その上、『預言集』の中に多数出て来る「変則的な綴り」「アナグラム」「謎字」等も、耳から聞いただけでは正確に捉える事は不可能だ。故に、ノストラダムスの筆記自体も「自動書記」法に依った、と考えるのは理にかなっている。

そもそも、ノストラダムスは、自分の行なう預言には三通りの方法があると語っている。
1)
発声的書記法;「図らずも発声によって不意に襲われることを伴う発声的書記(pronouncing writing(№1, p.35)(大団円としての幸福の科学9(続& 2/2)ノストラダムスの「発声的書記」(続)A3. 参照)。
2)
知性による判断占星術l'astrologie judicielle intellectuelle: 「諸天体の最大の高みを、覚醒しつつ観照する活動的知性による方法」(№1, p.35)。即ち、日、月、水星、金星、火星、木星、土星という伝統的な七惑星の黄道12宮上の位置を暦法と照合しつつ定める天文学的計算。
3)
感覚映像による本来的な見者voyant)の方法:「造物主たる神が、判断占星術に許された未来の若干の秘密を、想像的諸印象によっても啓示しようと望まれる人間等が存在する」(№1, p.34)。「創造主たる神が、彼の差配する火の伝令を伝令火炎として送り来たりて、外部諸感覚に対して、更には我々の眼に対してさえ、未来事象を指し示す未来予言の諸原因を呈示して下さるのです。」(№1, p.43)

ブランダムール (№8, pp.45-51) やル・ペルティエ (Le Pelletier, I, pp.66-70) 等が、『預言集』劈頭の二詩を、古代ギリシアの降神術にダイレクトに関係づけようとする時、彼等はその術が「基本的に忘我状態の中で為される」点と、ノストラダムスの場合は「完全に自我意識を保持している」点とで、決定的な相違があるという重大事を見落としているのである。「高級諸神霊との交信・交流を全的に可能とする精神特性を身に付けた大川隆法氏」によれば、「霊媒には神はかからない。神がかかるのは預言者である。」(大川隆法『幸福の原理 救世主立つ』幸福の科学出版, 1990,p.38

つまり、ブランダムールやル・ペルティエ等が援用しているのは「古代の霊媒現象」であるのに対して、ノストラダムスの場合は完全に「預言活動」となっており、生前に彼自身が、通常の教祖的預言者のように、「神の理説を述べる伝道活動をしなかった」のは、彼の「預言書」が400年以上にわたる未来事象の正確な予示を行いながらも、その真意は基本的に「出来事が生起した後にしか判明しない」という厚いヴェールに隠蔽されたものだったからである。もし彼が広く一般民衆にも分るように「預言書の平易な解説」を行なったならば(実際それは彼にとっては容易に出来ることであって、全ての預言詩に時、所、該当者等を付与した《彼の私的使用に限られる散文体の預言集別冊》が作成済みであったと云う[№1, p.44])、彼自身が危惧したように、世の権力者や教会当局から直ちに非難と弾圧が預言者の上に降りかかって来たであろう。実際、ノストラダムスの「預言書」は、従来の預言者達の預言とは性格を異にする。例えば、取り分け旧約の預言者達において顕著なのは、眼前の奇跡的事象の将来という特異性を除けば、未来事象の予言は「極めて不正確ないし抽象的」であって、専ら事を大きく述べて「倫理的警世」の為にしか役立たなかった、という印象を受ける。それに対して、その対極に立つのがノストラダムスの「預言=予言」で、これまで見て来た限りでも言えると思うが、これほどの正確性を以て未来を予知・予告したのは異例というほかはない。それは、「神が実在し、常に歴史を観ている。」というただその一点を人智に対して知らしめようとするかのようである。

なお、宗教心理学者ウイリアム・ジェームズは、その名著『宗教経験の諸相』の中で、「自動書記」を含む「他律的運動感覚」に関する印象的な心理・哲学的分析を呈示している (James, 1994, p.520-527)
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