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§939 「イイシラセ」 (1981.3.23): III-5.

大団円としての幸福の科学9、9(続)

大団円としての幸福の科学9  「イイシラセ」:III-5.

 次に少し戻って、§937 で考察した預言詩第3章4歌 (III-4) に対して、『預言集』においてその直後に置かれ、且つ、内容的にも、表現上も、近接し、類似する第3章5歌 (III-5) を取り上げることにしたい。次の詩篇であるが、やはり「神託」の開始に関するもののようだ。

第三サンチュリ第5詩 「イイシラセ」: III-5 (§939).

二人の大いなる光輝ある者たちの欠如は近く且つ遠く、
大いに光輝ある者は四月と三月の合間に到来するであろう。
おお何という貴さ! しかし [それよりもっと貴いのは] 二人の偉大な善人が、
海路でも陸路でも到る所に救いの手を延ばすであろう。
 

§939, III-5:  The good news (1981.3.23).
Near and far being the default of two great luminous ones
Who shall come between April and March.
Oh what a precious thing ! but two great debonairs,
Shall succour every place by land and sea.

Pres, loing defaut de deux grand luminaires
Qui surviendra entre l’Avril & Mars.
O quel cherté! mais deux grands debonaires
Par terre & mer secourront toutes pars.
          
第一に、最終行の「救いの手を延ばす」という言葉によって、「幸福の科学」の救世活動が直ちに想起されるが、その主体である「二人の偉大な善人」とは、いうまでもなく、その最高指導者・大川隆法氏及びその顧問で実父の善川三朗氏の二人であろう。その活動が日本の国外・国内の到る所に及ぶであろうという記述には何の疑問もない。実績からも、この事は確認できる。

善川三朗氏の伝道活動(抄録)

「今からもう六、七年前になりますか、定かなことは私も記憶にありませんが、大川隆法主宰も、今は主宰先生をしておりますが、当時はまだ一会社の社員でございまして、東京の商社に勤めておりました。時々電話なり、手紙なりで家のほうへ連絡がありましたが、そのときに「ちょっとたいへんなことがおこっているのだ。」という連絡がありまして、で、「どういうことだ。」と言ったら、「実は、僕のところへ天照様が話しに来られているのだ。」「うーん、それはなあ、しかしちょっと・・・・・。」私だってそうですよ。皆様方もそうでしょうが、天照大神と言えば少なくとも日本の皇祖皇宗、日本を最初創った、日本を創った神様というふうに我々も小学校のときから教えられている。天上界に、そういう偉い方がおられると言うが、それはもうかすみにたなびく、その奥の奥のお話であって、現実にその方が生きておられるということについては、これはまゆつばものだというので、私だってそれはなかなか鵜呑みにはできなかった。で、私は、「そういうこともあるだろうが、まあしかしそういう一例をとってどうこういうことではいけない。もう少しやっぱり研究しなきゃいかん。」ということを言っておりました。そして、私も東京へまいりまして彼にも話したのですが、彼の言うには「そいういうふうな偉大な神霊が天降ってきて、私の口を通じていろいろなことを語られるのだ。」とうことで、それで私が実際にお聞きしてみようということでお聞きしたわけです。」(善川三朗『幸福の光軍』幸福の科学出版,1990,pp.183-184)

「それから天の声を拝することになった訳でございます。そのときにまず第一に大川主宰の口を通し現れました方が、他ならぬ日蓮聖人でございます。それから次に現れた方が私の守護霊をされております日蓮宗六老僧の一人の日持上人でございます。この方々がまずおみえになりまして、私に対して個人的にいろいろアドバイスをされたのであります。特に、日蓮聖人からは、「時は満ちた。いよいよあなた方が神理正法を世に伝える時が来たのだ。だから心してかかれ。」というお言葉をいただいたのでございます。既に霊言集をお読みになられた方はご存じのことと思いますが、私の役目と申しますのは霊言集を作成して、皆様方に読んでいただくということであり、それが大きな使命の一つでございます。」(善川三朗『幸福の光輪』幸福の科学出版,1990,pp.18-21)

「幸福の科学の最初の第一巻としては『日蓮の霊言』というのを発行しました。それから空海、天照大神、イエス様もそうですが、こいうふうにだんだんとやって、潮文社から私の名前で出したのは、約八冊ぐらいでございます。その後、方々の書店から出したものをあわすと、私が編集した霊言集は十一冊ぐらいになります。その程度のものでございますけれども、これらは高級神霊と私との対話編ということで、幸福の科学においては、法の前段です。これらは原典となるであろう、将来、古典となるであろうものでございまして、今、大川主宰が書いているのは、これはもう理論書が主でございますけれども、私が取り扱った分は古典に類するもので、諸聖賢と私とが対話をさせていただいている、そのなかで、この世にある者がいかに生きればいいか、どうすればいいかという問題について、諸聖賢にお尋ねして、お諭(さと)しを得た、またお叱りを得た、というふうなことを綴っているものが霊言集でございます。この霊言集とは、いったい何だろうか。初めて見る人だとわからない。霊言とは何か、ということがわからない。それでいろいろな批評もありますけれども、私としては、この日蓮さんなり、空海さんなり、天照様なり、こういう高級神霊方とお話をさせていただいたという経過につきましては、詳細、その書に書いてありますとおりでございまして、これは霊が実在するということ、それを私が後世の人びとに証明する書籍でございます。あれは私が嘘や、いつわりを言ってつくりあげた作文ではないということ、これを是非とも皆様方から、皆様のお知り合いなり、お友達にお伝え願いたい。嘘、いつわりで書いたものではないのです。そのままを書いてある。書いたというよりは、あれは、まずテープで録音したのです。話しながらね。それをテープ起こしをして書いたものです。それはわかるが、いったい大川隆法という者に本当にそういう霊がかかるのか、そういうことを不思議に思うと言う方もおありであろう。まあ会員の方は、今さらそういうことを不思議に思われる方もおいでにならないと思いますけれども、まだ会員になっておられない方、こういう方は、おかしいという気持ちを持っておられるだろうと思う。もちろん、私も最初から百パーセント、この霊言というものがあるということを知っていたわけではない。実際にぶつかって初めて知ったわけで、それからいろいろ考えました。まず、これを世の人々に伝えるということについては合理性がなければいけない、客観性がなければいけない。こういうことを現代の理性ある人間が読んで、判断して、その言っている内容は間違いのないことであるというふうに理解ができるように、私自身がまず十分理解がいくというものでなければ、これは人々の批判に耐えられない、という考えを私はかたく持っていました。従って、あの本を出すまでの間にはいろいろなテスト、テストというと何だけれども、日蓮さんなり、空海さんなり、その他天照様なり、イエス様なり、こういう方がお話し下さったことについて、何回となく失礼ではあるがテストさせていただいた。そして何ヵ月たっても何年たっても、最初の言葉が前言に変わりない。そのおっしゃっておられる方のお考えなり、そういうものがいささかも変わりない、ということをつきとめました。そして然る後にこれを文字に起こして印刷したものです。その間、いろいろなことを私もテストさせていただいたわけです。そうしなければ、もしこれが違っていたならば、世の人に大きな迷惑をかける、人々を惑わしたことになる、そういうことではあいならん、ということでいろいろ研究させていただいた。」(善川三朗『幸福の光軍』幸福の科学出版,1990,pp.179-182)

「それを全部、録音してございますが、あるとき東京の全国町村会館というのがございまして、私は仕事の関係でそこへいつも宿泊しておりましたので、そこへ赤坂から彼を呼んで、宿舎で、まあ私もテープレコーダーを用意して、実録したのですが、そのときに初めて私のところへ出られたのがイエス様です、イエス・キリスト。その方をお呼びしたのです。それがどういう内容だったかと言えば、『キリストの霊言』という本を私が出してありまして、あのとおりでございますが、しかし文字ではなかなかそのパワーというものがわかりません。その際のパワーたるや、ものすごいものでありました。まるで目の前に大きな火柱が立ったようにドバドバーッ、ズシーッとくるのです。そして「イエス・キリスト!」ものすごいパワーです。もう私はそれを聞いたときに、「ああ、これは本物だな。」と思ったのです。あのようなパワーで、我々に話しかけられるということは、普通の人ではない。ものすごいエネルギーを持っている。偉大な神霊だと思いました。最初のあたりはそういう具合でございまして、ザーッと降りてこられる。そして話をされる。が、私は、「いや、これはキリスト様ですか、実はこうこういうことでわたしたちはまあ、いろいろなお教えを受けているのですが、イエス様からもお教えを承りたい。」ということ言ってお話ししたのですが、そうするとズーッと、私の波長に合うようにレベルを下げてお話し下さったのです。そうしなければとてもではないけれど合わない。ものすごいパワーでしたからね。私の胸が張り裂けそうだったから、トーンを下げてやさしくお話ししてくださったのですが、まあどういう話をしたかということはその本に書いてありますから、お読みくださったらよいと思います。『キリストの霊言』という本に書いてございます。あの方は、本来はアガシャーという大きなエネルギー体から出ている方ですから、ものすごくエネルギーがある。この地上へ来て,私達を相手にしてお話しくださる場合は、ズーッと調子を下げてお話しくださったわけですが、その内容は、あの本に書いてあるとおりでございます。」(善川三朗『幸福の光軍』幸福の科学出版,1990,pp.184-186)

「一九八六年十月「幸福の科学」創立に先立ち、八五年八月『日蓮の霊言』、続いて『空海の霊言』『キリストの霊言』『天照大神の霊言』『ソクラテスの霊言』『坂本龍馬の霊言』『卑弥呼の霊言』『孔子の霊言』の八冊を編集し終わり、続いて私に寄せられた人生相談への助言集としての『新・幸福の創造』を編集し、続いて一九八七年と八八年の両年中に行なわれた日本各地での私の講演録『幸福の光輪』を九〇年三月に、引き続いて八九年二月から十一月までの間に行なわれた講演録『幸福の光軍』を九〇年九月に、それぞれ発行いたしました。今回は、一九八八年十月から九〇年十二月までに述べた私の論考の一部を収録し、発行する運びとなりました。・・・」(善川三朗『幸福の光跡』幸福の科学出版,1991, あとがき)

大川隆法氏の伝道活動(抄録)

A : 主要理論書の英訳本の発行
Ryuho Okawa, The Laws of the Sun, IRH Press, Tokyo, 1990.
Ryuho Okawa, The Laws of Gold, IRH Press, Tokyo, 1990.
Ryuho Okawa, The Laws of Eternity, IRH Press, Tokyo, 1991.
B : 巡錫の記録
大川隆法監修、幸福の科学編『不惜身命 大川隆法 伝道の軌跡』幸福の科学出版、東京, 2009.
大川隆法監修、幸福の科学編『不惜身命 2009 大川隆法 伝道の軌跡』幸福の科学出版、東京, 2011.
大川隆法監修、幸福の科学編『不惜身命 2010 大川隆法 伝道の軌跡』幸福の科学出版、東京, 2011.
大川隆法監修、幸福の科学編『不惜身命 2011 大川隆法 伝道の軌跡』幸福の科学出版、東京, 2012.
大川隆法監修、幸福の科学編『大川隆法 インド・ネパール巡錫の軌跡』幸福の科学出版、東京, 2011.
大川隆法監修、幸福の科学編『大川隆法 ブラジル巡錫の軌跡』幸福の科学出版、東京, 2011.
大川隆法『ハッピー・サイエンス入門 真実への目覚め』(ブラジル講演集)幸福の科学出版、東京, 2011.
大川隆法監修、幸福の科学編『大川隆法 フィリピン・香港巡錫の軌跡』幸福の科学出版、東京, 2011.
大川隆法監修、幸福の科学編『大川隆法 シンガポール・マレーシア巡錫の軌跡』幸福の科学出版、東京, 2012.
大川隆法監修、幸福の科学編『大川隆法 スリランカ巡錫の軌跡』幸福の科学出版、東京, 2012.
大川隆法監修、幸福の科学編『大川隆法 ウガンダ巡錫の軌跡』幸福の科学出版、東京, 2012.
大川隆法監修、幸福の科学編『大川隆法 オーストラリア巡錫の軌跡』幸福の科学出版、東京, 2013.

では、詩の前半はどうか。「二人の大いなる光輝ある者たちの欠如は近く且つ遠く」という一見不思議な表現は、観点を「あの世」の方に向ければ容易に解ける謎である。つまり、この世に今はもうない故人二人が言及されていて、だから「欠如」と言われているが、「欠如は近く且つ遠く」というのは、彼ら故人が、今、霊的存在としてでありながら、同時に大川氏の感覚世界に現前している、という状況が示されていると推測しえるであろう。これは、大川隆法氏への霊的通信が、或る二人の「大いなる光輝ある者たち」から来るという予言である。これは、§937で考察した預言詩第3章4歌 (III-4)における「神託の開始」という稀有の出来事を、もっと具体的に説明している。実際、既に言及されたように、大川氏への最初の「イイシラセ」は昭和56年3月23日に到来した。そしてその通信相手の霊人は「日興にっこう」という名前の人であった。日興という人は鎌倉時代のいわゆる日蓮六老僧の一人である。そしてそれから間もなく、日蓮その人からの通信が始まった。

「この最初の霊人は、実は日蓮聖人の高僧の一人、日興上人(にっこうしょうにん)という方でした。その方からの最初の通信でありました。やがて一週間か、あるいは十日もした頃であったでしょうか。日興上人からの通信は終わり、いよいよ日蓮聖人という方からの通信が始まりました。ただこの最初の時に、日蓮聖人は自分の本名を名のりませんでした。その六老僧と言われるお弟子の一人の名を借りて最初は通信を開始したのですが、私はその通信後間もなく、それが日蓮聖人その方であるということを見抜きました。その内容があまりにも高すぎたのです。やがて日蓮聖人は、私と毎日、話をするようになっていきました。最初は自動書記という形で話をすることがほとんどでした。自分の手でさまざまな文章を紙の上に書いていく、そうした形での自動書記というのが長く続いていきました。それは昭和五十六年の三月の終わり頃から始まって、五十六年の七月の初め頃まで続いていたと思います。この頃、私はもしかしたら書くのみではなく話すこともできるのではないか、そういう可能性を感じました。しかも自らの心の内からは、時折さまざまな思想がひらめいてくる、声なき声が聴こえてくるような、そうした感覚を持っておりましたので、もしかすると話すこともできるのではないか、そうした思いを持ちました。そうしてみると、この自動書記で通信を送っていた霊たちが、今度は私の声、声帯を通しても語ることができることがわかってきました。こうして他人から見れば、まったく腹話術のような形になるのでしょうが、自問自答の霊問答が始まっていったわけです。」(大川隆法『平凡からの出発 独立する精神の軌跡』土屋書店, 1988,pp.168-169)

そうすると、更に、詩中の語句「大いなる光輝ある者」の意味が一層はっきりしてくる。つまり、二人とも、日本歴史に残る偉人(大いなる光輝ある者)であることは疑うべくもなく、特に名前に「日」、つまり「太陽の意味の字」を持つことでも共通し、従って luminaire(luminous, 光輝ある者、天体、星、太陽の意味あり)というそれ自体美しい言葉の使用が的中していることが理解される。

そしてその霊人の出現の時期が「四月と三月の合間」とされている。その場合、「到来するだろう(surviendra, shall come)」という動詞の形が、単数形であるから、一人ということに限定するならば、第一に、日興上人が妥当する。そして、それと入れ違いで、第二の日蓮聖人の到来が、その一週から十日後であるから、これも三月末、ないし、四月初めに当り、やはり、「四月と三月の合間」という規定の中に入っている。

そして、「到来するだろう(surviendra)」という動詞の厳密な意味は、「突然、不意に、やって来る」というニュアンスの到来であるから、後になって常例となったような、大川氏の側からの言わば召喚に応じて来るようになった霊人たちの場合とは違い、初めは何のアポイントメントもなしに、突然、不意に現われたことが正確に預言されている。いずれにしても、霊人の出現というこの事態の尋常ならざる性格を、預言者は、「おお何という貴さ!」と感嘆し、評価しているのである。

また預言者は、このような霊人たちの到来という出来事を高く評価しつつも、なおそれよりも現実の大川隆法・善川三朗氏たちの救世伝道活動の方をより一層重大で使命が高貴であるとの認識を呈示しているが、この観点は非常に大切である。何故なら、これは大川氏たちの活動の至高的重大性を示唆し、これがまた同時にノストラダムスの大預言自体の最終的成就に連なるものでもあると考えられるからである。何故なら、「幸福の科学」に関する預言は、「その大部分が既に歴史と化した過去の諸世紀の諸事件の驚異的に正確なノストラダムスの預言詩九百余篇の連続」の掉尾を飾りつつ、21世紀及びそれ以降の時代の開闢と方向性を先取りしているからである。

ところで、「二人の大いなる光輝ある者たちの欠如は近く且つ遠く」というこの詩文中の表現(特に下線部)の特異性は、多分、自らの預言詩作成作業のなかで指導的霊存在の到来と現前を常に体験していたノストラダムスの熟知的実感を反映していると考えられるのである。『諸世紀』劈頭の二つの四行詩が彼のそのような体験を語っている。取り分け、「自動書記」という通信方法において、大川氏とノストラダムスの事例は一致している。だが、ノストラダムスの場合 (§954-§955) を見る前に、日本における「大川隆法氏の自動書記の先駆的事例と見える出口ナオ女史のケース」を検討してみたい。面白いことに、大川隆法氏の場合は、最初の「自動書記」という霊通信の方法から、後には主として「霊言」という形に転換するのに対して、出口ナオ氏の場合は逆に、「霊言」法から「自動書記」法へと交替している。だが、両ケースにおける霊現象とその経過、その意味と本質の主要点には完全な平行性が認められる。

大団円としての幸福の科学9(続)

出口ナオ女史における宗教的人格の格闘と自動書記(お筆先)について 

およそ、「宗教」及び「宗教的人格」の始源的人性状態にはそれ独自のもの、それプロパーなものがあると認められるのであるが、この事実に関する認識と理解が、特に日本のマスコミ界において遅滞ないし欠如していることが、「幸福の科学」に対する講談社フライデー事件の根底に潜む生起原因の色濃い知的背景であろうと推定され、ウイリアム・ジェームズの宗教心理学的分析を援用してその空白を補填してみたが、更にこの事実についてより一層深く知るために、これより約一世紀前の同種の顕著な事例として、大本教の出口ナオ女史の霊体験の開始期の状況を、安丸良夫氏の研究書『出口なお』(1977)に拠りつつ、参照してみたいと思う。

 「1)  内なる声 なおがはじめて神がかりしたのは、明治二十五年 (1892) 正月のまだ鏡餅のある頃の事だった。明治二十五年の元日の夜に、なおは不思議な夢を見た。その夢の中でなおは、いつの間にか立派な宮殿の建ち並んだ神域を歩いており、やがて白髪を長くたれた大兵肥満の神に会った。そして、なおがその神の案内で艮(うしとら)とおぼしき方角に進むと、とりわけ荘厳な殿宇があり、中央の正殿に、金銀や宝石をちりばめた衣装をつけた、たとえようもなく神々しい神がいた。その神は、なおの姿を見ると、ゆっくりと立ち上って近づき、ほほ笑んで顔をみつめたが、何も言わずにやがてもとの座に帰った。なおが深く畏敬の念に打たれて宮殿を走り出ると、またうるわしい屋舎があって、その中には先年死んだ夫政五郎が欣然として坐っていた。神がかりに先だって、新しい宗教的飛翔へと志向している自分をなおは様々の形で予感していた。しかし、神がかりは、未知の神がなおの中に住みつき、なおという肉体を通して自らを示現するという点で、全く新しい経険であった。その始まりは、なおの腹の中に別の活物(いきもの)がはいりこみ非常な力でいきむという感覚であった。この活物がはいりこむと、なおの身体は非常に重くなったように感じられ、下腹にすばらしく力がはいって、今までのけだるかった疲労感覚が失われ、背筋がのびて身体全体の姿勢がそりかえりぎみに正されるのであった。そして身体全体がはち切れるような緊張のなかでゆっくり震動を始め、坐ったまま、両足は四股を踏むように強い響きを立てて動いた。その際、はいりこんだ活物はなおの咽喉元で「ウーム、ウーム、ウーム……」と激しくいきみ、なおの咽喉からなおのものとは全く異なった声で叫ぼうとした。そして、やがてなおの咽喉は、自分の声とこの活物の声との二つによって使い分けされたかのようになり,なおと活物との二つの声で問答が始まった [これは完全に、大川隆法氏のいわゆる腹話術のような形の自問自答の霊問答と同形である]

 その最初の問答は「開祖の巻』では次のように記されている。

  活物「わしは艮之金神(うしとらのこんじん)であるぞよ」
  なお「そんな事言ふて、アンタは妾(わたし)を瞞(だま)しなはるのやおまへんかい?」
  活物「わしは神ぢゃから嘘は吐かぬワイ。わしの言ふ事、毛筋の幅の半分でも間違ふたら神は此世に居らんのぢゃぞよ」
  なお「そんな偉い神様どすかい。狐や狸が瞞(だまし)てなはるねん御座へんかい」
  活物「狐や狸で御座らぬぞ。この神は三千世界を建替建直しする神ぢゃぞ。三千世界一度に開く梅の花、艮之金神の世になったぞよ。この神でなければ世の建替は出来ぬのぢゃ。天理、金光、黒住、妙霊先走り、艮(とどめ)に艮之金神が現れて三千世界の大洗濯を致すのぢゃ。これからなかなか大謨(たいもう)なれど、三千世界を一つに丸めて万劫末代続く神国の世に致すぞよ」
  なお「そんな事言ふて本真(ほんま)どすかい?」
  活物「嘘の事なら、神はこんな苦労はせぬぞ」 ( 安丸良夫『出口なお』朝日新聞社, 1977, pp.74-84)

 2)  審神 (さにわ) するなお 引用がよく物語るように、なおとなおの腹のなかの活物とは全く別の存在として感覚されている。なおにとってこの活物の実在感は極めて確かなものなのだが、それは外からなおの中へ勝手に入りこんだものである。だから、神がかりは、なおにとっては外からの働きかけによって巻きこまれた一つの偶発的な事件であり、その活物が偉大な神だと自称したからといって、容易に信ずることはできないのであった。とりわけその活物が、三千世界を建替え建直すとか神国の世にするなどという大言を弄していることはとてつもない妄言ではないか、もしそのようなことがありうるとしても、それは貧しく無学な自分には確かに無縁なことではなかろうか、むしろ狐狸のような人を惑わす霊がとりついて、なおをだまそうとしているのではなかろうか、となおは疑った。神がかり状態の中でなされたなおと神との問答は、こうした疑問に答えてなおの神がかりの意味を解き明かすためのものという性質をもっていた。そこにはまだ体系づけられた神学はなかったであろうが、この問答を通じて、なおに憑いた神の偉大さや、この世界のありさまと立替え立直し(初めは単に「立替たてかえ」といわれた可能性が大きい)の必然性や、なおに神がかりした根拠などについて一通りの意味づけがなされていったと思われる。( 同上, pp.84-85)

 3)  水垢離(みずごり) 最初の神がかりは十三日間続き、その間、なおは断食状態の中で神との問答をくりかえし、夜中に七回ずつ水垢離をとった。八回目の水垢離を始めようとすると神はもうよいと言ったのだが、それでもなおが水をかぶろうとすると、水が頭の上で撥ね飛んで一滴も身体にかからなかったという。そして、最後に、「天の様子」はどういうものかと問うと、「天照皇大神宮殿が、つむりは撫でつけてあり……御手を合せなさりて西向きにおなりなさりて」、その前に篝火が燃えあがっている状態を見せられて、最初の神がかりはおさまった。ただ、水垢離だけは七十五日間続けられたという。( 同上, p.86)

 4)  世人一般の宗教観 当時の民衆にとって、憑霊現象そのものは珍しい出来事ではなかった。ただ、その多くは、狐狸や下級の眷属神や悪霊などの憑依であって、正しく偉大な神がそれほど容易に憑くものとは意識されていなかった。日本の社会は、幕藩体制成立の頃からかなりの程度まで現世化=合理化されてきており,武士階級や村落支配者層は、憑霊現象を愚昧で非合理的なものと見なすようになっていた。こうした現世化=合理化は、神仏分離に始まる明治政府の宗教政策や教育政策によって一層強められていた。勿論、一般民衆の宗教意識は支配階級の期待する現世化=合理化からはほど遠かったが、それでも憑霊現象が起これば、それをすぐ神として崇め、その予言や託宜に聞き入るというようなことはなかった。なおの場合は艮の金神が憑いたのだが、始めのうち、当人も周囲のものも疑惑の眼でこの憑霊に対しており、むしろ狂気と考えられた。狂気と神がかりには本質的な区別はなく、もし区別するとすれば、低級な霊や悪霊が憑くことが狂気であり、正しい霊が憑くことが神がかりと考えられたのである。( 同上, pp.86-87)
 
 5)  大神の威厳と権威 なおの狂気を心配した近所組内のものが「法華坊主」を連れて来て憑霊退散の祈祷をさせたのはなおの神がかりが始まってから間もなくのことだったらしい。だが神がかりしたなおはその坊主を突倒し「もちっと修行して来い」といって袈裟を引き千切り、側へも寄れない程の勢いで暴れた。神がかりから二十日を経た頃なおは自分の方から進んで銀十という者の世話で数珠占いで知られた山家村の本経寺へ出掛けて祈祷を受けた。しかし祈祷が始まるとなおはまた神がかりして額を揉み出し猛烈な勢いで暴れた。そしてお前は何者だという問いに金神だと答え、更に「いっちうらい(一張羅)の珠子(数珠)」でなおの身体をなでると数珠は「霞のまきた様」に飛び散ったという。僧侶は「これはド偉いものが憑いて居る」と言ったが、見分ける事は出来なかった(「筆先」明治三四・一・五等)。又、福知山の金光教会や小呂(おろ)(何鹿いかるが郡吉美きみ村)の算盤占いも訪ねて同じように憑依した霊について見分けて貰おうとしたがいずれも成功しなかった。これらの事例では、なおに憑依した神の権威を認めず、それを退散させたり封じ込めたりしようとする者が現れると、なおの日常意識に反して、一時的な神がかり状態が生まれ、そうした策謀がなお自身によって、いわば実力行使とでもいうべき手段で排除されている。しかしなおはいつでもこうした挑戦的な態度をとったのではなかった。長い期間の神がかりは、第一回が二十五年一月、第二回が同八月、第三回が二十六年二月に起っている。更になおはその神がかりを意味づけてくれそうな権威ある神々と出会い、またいくつかの象徴的な行為をした。先に第一回の神がかりの最後に天界の「天照皇大神宮殿」を見た事を述べたが、同じ第一回の神がかりの際になおは氏神に「披露」された。前者が、なおに憑依した神の権威性を示唆するとすれば、後者は、なおの特別な使命を物語ろうとするものであったろう。
 このようにしてなおは、一方で既成の宗教観念の中からみずからの神を権威づけてくれそうなものを動員すると共に、他方で、みずからの神を地域社会の既成観念に対抗させ自立させて行った。なおの神は、天照皇大神宮、出雲大社、宇佐八幡宮などの最高の権威ある神々によって直接に承認され支持されるものであるとともに、地域の民衆に素朴に信じられていた祈祷師などの権威にたいしては、直正面から挑戦するものだった。そして、なおの神が何か根源的で偉大な神であり、この世界の秩序を根本的に転換させようとしている事が様々の宗教的象徴行為によって表現されて行った。なおの神の特色は、その神格の由来や神学的意味づけなどは未だ殆ど明らかでないにもかかわらず、決定的に力強く権威に満ちており、地域社会の人々に既知のものであるような神仏のカテゴリーを超越していることにあった。また、その神は、この世界が決定的に悪の世となっていると述べ、その根本的な変革(立替え)を告知して、人々に厳しく改心を求めていた。そしてなお自身がいくら抑えようと努めてもこれらを告げる神の声はあふれるような言葉、言葉、言葉……となってなおの中からほとばしり出た。もし、なおの神がこうした超越的な権威性と絶対性とを持たず、なおに日常生活にかかわる予見能力や病気直しなどの霊能だけを与えたとしたらなおの神がかりは地域の民衆によって受入れられ、なおは現世利益的祈祷を受け持って既成の民衆宗教の布教師などとなっただろう。だが、なおの神の上のような性格は、神がかりしたなおを地域社会に受容させる道を閉ざし、なおを困難な立場に立たせた。なお自身にとってさえ神がかりした自分の言動は「胸に焼金を当てるやうな」つらい思いのものだったのであって、その神の権威を人々の前に弁証し確立するためには、余りに大きな困難と苦難とが待ち構えていることが予感されざるをえなかった。( 同上, pp.87-93)

 6)  告知者として 明治二十六 (1893) 年二月に三度目の激しい神がかりが始まった頃、なおはその小さな家に一人で住んでいた。一人暮らしのなおは昼は商いに出て宵の口に一寝入りすると起きて水を浴び神と問答した。なおは神の事が分るうれしさに七十五日間寝ずに神の御用を聞いたと述べているがそれはこのようにして朝を迎える状態が引き続いたことを意味するのであろう。神がかりしたなおは深夜に大声で神の言葉を叫び、時には能の三番叟のような舞をした。同じ二月の末に、「直よ、乞食の真似をして居りて下され」という神の言葉に従ってなおは「粗末な風を致して着物ゾロリト着て、懐を膨らかいて」、袂に孫たちへやる菓子をいれ、八木と王子へ向かった。
 八木の福島家へ着いたなおはひさに、母は一寝入りすると起き出して「神様が荒立ちて高高と近所へ聞えるやうに言ふから承知して居りて下され」と言った。驚いたひさはその夜は夫が帰らなかったので本家から夫の叔母を呼んで一緒に寝てもらったが、夜中になおが「申した通り高々と荒立ち」たので二人とも「大きな息もようせずに」夜の明けるのを待った。夜が明けるとひさはいつもは必ず行き先を告げる夫が昨夜は伝言もなく帰らなかったことを心配して人力車夫の夫がどこまで行ったのかとなおに尋ねた。そして夫の虎之助が帰って来てなおの予言の正しかったことが分ると夫婦はなおの神がかりに感銘を受け、近所の人々に伝えた。こうしてその夜「近所、よそ町」の人たちが集まって来てなおの神に様々の「伺い」をした。しかし余り大勢だったので神は「この金神は易者は致さぬ」と叱って「伺い」を打ち切った。なおの神はこの世界の全体性についての根源的な真理を告知する役割を担ったものであったから一身上の「伺い」だけを受ける事はその本意ではなかったのである。しかしそれでもなおの神は周囲の人たちにこうして初めて肯定的に受け止められた。このあわただしい旅は誰からも無視されている神の威力を親しい者たちの前に顕示して見せたという意味のものだったと思われる。( 同上, pp.94-96)

 7)  放火の「犯行声明」 ところで明治二十六年の正月から綾部ではしばしば火事があったが原因がわからず町民たちを不安がらせていた。なおが八木から帰って間もなく千駄町の森という材木屋が焼けたが、なおはその翌日「夕べ焼けたのはおれが焼いたのざ」と大声で叫び、火事は改心のためだ、「今のうちに改心を致さねば何処に飛火が致さうも知れんぞよ」などと述べた。これを聞いた隣家の安藤金助の妻が四方源之助のもとへ走り、隣人たちは大騒ぎをして警察へ知らせた。次の日、国谷という「探偵」がなおの様子を探りに来て大病人があるから「伺う」てくれぬかと探りをいれた。なおがそんな「伺ひ」は出来ぬ、「世界の事なら伺うてやらう」と言うと、口ではうまくいかないとみた国谷が巡査を二人連れて来てなおを担いで警察へ運んだ。そして警部がなおを椅子に掛けさせて放火について尋ねるとなおは「この金神は他の家を焼くと云ふ様な悪戯をする神では御座りませぬ」と言った。警察ではなおが犯人ではないようだと考えたが無実の証拠もなく処置に困ったらしい。それで新築の牢へともかくもなおを留置するとなおは宵の入りに悠々と眠って夜中に眼を覚ましいつものように大声をあげた。
 なおの神がかりは初めのうちは隣人縁者たちの関心を引き、人々はこの貧しい老婆の狂気を祈祷などによって直してやろうとしていた。しかしそれが祈祷などを受け付けない厄介なものではあるが誰かに危害を加えるようなものでもないことが分ると周囲の人たちは、その訳の分らない激しい言葉に辟易してやがてなおを相手にしなくなり、なおが深夜にひとり大声をあげても人々は哀れな老婆の狂気として無関心でいようとしていた。放火について公言した時なおはこうした状況に挑戦したのであって、そのことはなお自身によっても「毎日呼りても、誰も家の中へ這入るもの無き故、口で威(おど)した」と自覚されていた。はたして警察まで巻き込んだ大騒ぎが起こり、その渦中でなおは警察など権力機構への具体的な批判を含んだ激しい終末観的観念を多くの人達に告知することが出来たのである。なおは又、監視している巡査が夜中に酒を飲んでいると「番人が酒を飲んで居っては番人の役がつとまらぬぞよ」(『開祖の巻』)と叫び、辟易した警官が早く放免した方がよいと同僚にささやくと「三年経っても去なんぞ」(同右)と叫んだ。このような場合狂気も老婆であることも大きな強味であり、警察が手を焼いた様子をたしかに思い浮かべることが出来よう。( 同上, pp.96-98)

 8)  座敷牢 翌日放火犯人が逮捕されると警察は大槻鹿造を呼んでなおを引き取るようにと言った。しかし鹿造は警察が勝手に連れて行ったのだから警察の責任だと言いどうしても引き取れということなら「手錠足錠」を貸してくれと言った。警察では科のない者に手錠や足錠はできぬと言い、結局、座敷牢を作って入れることになった。なおは自分はそんなところへ入るものでないと言ったが、鹿造は四、五日入ってくれと言い、なおはその言葉に納得して牢へ入った。座敷牢はなおの家の中に作られた。その頃りょうは四方家に、すみは栗山家に奉公していたから、なおは外に誰もいない家の中で座敷牢に入っていたのである。食事は鹿造・よね夫婦の養子になっている三男伝吉が日に一回だけ運んで来た。その他に牢を訪れるのはこっそり握り飯やいり豆を運んで来るりょうと、時々様子を見に来る四方源之助ぐらいのものだったらしい。鹿造はりょうが牢へ行くと怒り、打ったり、摂州へ奉公にやるとおどかしたりした。りょうは竹皮を拾い集めてそれを売ったわずかの金でなおの食べるものを買ったという。食物も不充分なままになおは牢の中にほとんど遺棄されたのである。空腹のなおに神が掌を舐(ねぶ)れ、力がつく、と言い、自分の掌をなめるようなことさえあった。夜中に、なおを見守っていたりょうが牢の前で眠ってしまい、眼をさまして下駄をはきなおそうとすると、下駄が凍てついているようなこともあり、鹿造に叱責されたりょうが、井戸へ身を投げようとしたこともあった。こうしたすさまじい状況の中で入牢期間はなおの期待に反して長びき、四十日に及んだ。頑健で、苦難にめげないなおにも、最も苦しく孤独な時期であった。牢の中でなおは自殺を思いめぐらしたことがあったが、神がそれをとどめたという。「余り叶はぬで、牢の中で死のうと思ふても、「死んだらこの中に居るのと同じことだ。見たいものも見られず、物言ひたうても言はれせず、なんぼ死のうと思ふたとて、神屹度憑いて居るから死なれせぬぞ」と、艮の金神様言ひなされて止めに致したのだ。(「筆先」明治三四・一・五)( 同上, pp.99-100)

 9)  神業と生活者の狭間 なおは、その神がかりの意義を認めずないがしろにしたり敵対するような者に出会うと、荒だって激しい言葉を投げつけた。しかし神がかりがおさまると神がかりについての様々の疑惑が生活者としてのなおをとらえた。生活者としてのなおから見れば狂って大声で叫ぶような事はひどく恥かしいことであり、周囲の人たちを声を荒だてて罵るような事は顔むけの出来ないほどに申しわけないことだった。例えば、「組頭」で町会議員にもなったことのある四方源之助は面倒見のよい地域社会の指導者で、なお一家のことも色々配慮してくれていた。こうした世間的には恩義のある人物に対しても神がかりしたなおは激しく罵りその屋敷から立退けなどと叫んだから、神がかりから醒めてみるとそれは律義ななおには顔むけ出来ないような事だったのである。座敷牢の中でのなおの苦悩には肉体的な苦痛だけでなく生活者としての自己と神業を担った者としての自己との右のような葛藤もあったものと思われる。( 同上, p.100)

 10)  使命感の焼き入れ しかし肉体の憔悴とこうした苦悩とを神の声(なお自身の深奥の声)に励まされてなおは切り抜けて行った。それはひたすら神の声を信じ生活者としての顧慮を振り払うという方向でなされた。死を思ったことを述べた右の引用にすぐ続いて「何事も神様に御まかせ申せば楽なもの」と述べているのはそうした境地を表すものであろう。火事についての放言は狂気の老婆として打ち捨てられたなおの世間への挑戦であり、警察による拘置と座敷牢はそれに対する世間の手厳しい応答だった。しかしなおは死を思う程の苦悩を通して試練に耐え、神の声に耳を傾け、特有の使命を担った者としての自己へと一層明確に踏み超えて行った。結局四十日ほどを経てなおは座敷牢を出た。四方源之助などが余りにも惨澹としたなおの状態を憐れんで鹿造を説得し、鹿造はなおの家を売ることを交換条件に納得したのであった。鹿造は牛肉屋の商売もうまくゆかなくなり、金が欲しかったのである。なおは牢から出してくれさえすればよいと言って家を売る事を簡単に承認した。鹿造は家を四十八円で売り、ついでに鍋釜、家具なども売ってしまった。この金の一部で、政五郎の生存中からなおの重い負担となっていた銀行からの借金もやっと返済された。出口家のものとして残ったのは石臼と三つがさねの盃だけだったという。なおの神学では、徹底的に零落してあらゆる苦難をなめることが、これまで世に知られていなかった神について告知する者の「因縁」なのであり、こうした苦難こそ偉大な使命の根拠だった。(「筆先」明治三四・一・五)」( 同上, pp.100-102)

 11)  自動書記 (筆先) の開始 座敷牢へ入っている間になおは初めて筆先を書いたと言われている。既に述べたように、神がかりしたなおはあたりをはばからずに大声でわめいたが、それはつつましいなおからすれば恥かしいことでもあり、心ならずも他人に迷惑をかけることでもあった。また、そのことが放火の嫌疑から座敷牢へ閉じこめられたことの原因でもあった。そこで座敷牢のなかのなおは、大声でわめかないようにしてほしいと神にたのんだ。すると神は、筆をとって書けと命じ、自分は無筆だからとためらうなおに、神が書かすのだから書けると言った。こうして座敷牢の中のなおが、釘で牢の柱などに書きつけたのが筆先の始まりだったとされている。出牢後のなおは神がかりしてももはや大声でわめかなくなり、そのかわりに筆先を書くようになった。実際に筆先が書かれるのは明治二十六年の秋以降で、現存の筆先で年月日が確定できる最初のものは二十七 (1894) 年四月八日の筆先だという(『大地の母』)。ここで筆先について一言しておこう。なおは全く無筆で、糸引きに行った時、框(かまち)に記された簡単な符号も読めないほどだったという。こうした伝承には筆先の奇跡性を強調するための誇張もないとは言えないが、なお自身が自分を無筆だと思っていたことは事実である。しかし、なおのような生活史をもつ人が自分でも自覚しないうちに簡単な文字についての知識を身につけていたとしても大して不思議ではない。この問題の詮索は別として、ともあれ、出牢後のなおは自分でも知らないはずの文字で生涯に半紙二十万枚といわれる厖大な筆先を書いた。筆先は、平がなと五、九、十などの数字を表音的に用いて書かれ、例えば、で九ち(出口)はどを(胴)すわりてをるがうえざ(上田)わまよい五ころ(迷い心)がまざ(まだ)あるぞよ、の如くである。書体は独特の稚拙なもので、初めは読みにくい。なおの言語は耳から入ったものなので、上の引用の「どを」=胴、「うえざ」=上田(王仁三郎のこと)のように、標準的な表記法と一致しないものが多く、地方の生活言語の特色をよく伝えている。筆先には、神々の由来と因縁、神と人間との関係、現実社会への批判と立替え立直しの予言、なお自身や教団関係の諸事項など、多様な内容が記されている。( 同上, pp.102-104)[初出: 二瓶孝次「「幸福の科学」の仏教論的意義(11)」北海道教育大学紀要人文科学社会科学編第51巻1号, 1999, pp.23-24; 同「「幸福の科学」の仏教論的意義 (12)」北海道教育大学釧路校紀要『釧路論集』第32号, 2000, pp.42-50。一部改稿]

なお、「復活した出口王仁三郎」によれば、ナオによる「お立て直し」の予言は、まさに今、幸福の科学が実現しつつあるものであるという(大川隆法『出口王仁三郎霊示集』土屋書店, 1987, p.116-117参照)。
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