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§935 -§936 (続&完) 宗教的経験の本質

大団円としての幸福の科学5、同6(続&完)  宗教的経験の本質

 「宗教」及び「宗教的人格」の理解が、特に日本のマスコミ界において遅滞ないし欠如していることが、「幸福の科学」に対する講談社フライデー事件の根底に潜む生起原因だと推定されるが、その方面の一般的理解を深めるために、今我々は、ウィリアム・ジェームズ『宗教的経験の諸相 W. James: The Varieties of Religious Experience - A Study in Human Nature, being the Gifford lectures on natural religion delivered at Edinburgh in 1901-1902. Modern Library Edition, NY., 1994』を学習することにしたい。伝統的に確立された諸宗教の通念・習慣・制度・儀式・行動の一般的受容性のベールを透過した一番基底にあるものと、誰にもいつでも経験ないし見聞可能な現実の個人の生身の宗教的体験の非日常性ないし異常性とを、共通の視界の中に位置づけて、「宗教」及び「宗教的人格」の本質点の理解に対して、宗教科学的理論の枠組みを提供しているのが、既に古典的となっているこのジェームズの『宗教的経験の諸相』(桝田啓三郎訳『宗教的経験の諸相 上』1969年、岩波文庫;同『宗教的経験の諸相 下』1970年、岩波文庫)である。

(方法論)
1) 事実の問題と価値の問題
 
 「最近の論理学書では、いかなる事柄についても、質問に二つの種類が区別されている。第一は、その本性は何か?いかにしてそれは生起したのか?その構造、起源、歴史は何か?という質問である。第二は、ひとたびそれが存在するにいたったからには、その価値、意味あるいは意義は何であるか?という質問である。前者に対する解答は、存在判断あるいは存在命題 (existential judgment or proposition) の形で与えられる。後者に対する解答は、価値命題 (proposition of value)、ドイツ人のいわゆる価値判断 Werturteil である。あるいは、なんなら精神的判断 (spiritual judgment)と呼んでもよいものである。どちらの判断も、一方から他方を直接に演繹してくることはできない。両者はそれぞれ異なる知的活動に由来するものであり、精神は、はじめ両者を分離しておいて、その後で両者を加え合わせるという方法によってはじめて、両者を結合するのである。
 
宗教的生活というものはそれだけに熱中してしまうと、人間を奇人や変人にしてしまいがちなものであることは疑う余地がない。といって、私はなにも、世の普通の宗教信者のことを、そうだと言っているのではない。普通の信者というものは、仏教徒であれ、キリスト教徒であれ、マホメット教徒であれ、それぞれの国の因襲的儀式に従っている。彼らの宗教は、他人に作ってもらったものであり、伝統によって伝承され、模倣によって固定した型にはめこまれ、習慣によって維持されているものである。こういう二番煎じの宗教的生活を研究したところで、ほとんど益するところはないであろう。

 私たちはむしろ、すべてこのような他人の示唆によって生じた感情や模倣的行為の模範となった根源的な経験 (the original experiences whih were the pattern-setters to all this mass of suggested feeling and imitated conduct) を研究しなければならない。このような経験は、宗教というものが退屈な習慣ではなくて、むしろ、激しい情熱であるような人物のうちにしか見いだされえない。このような人物こそ宗教界の「天才」なのである。他の多くの天才たちが、その伝記の数々のページに永く記念されるに足る感銘ぶかいくさぐさの果実を結んでいるように、彼ら宗教的天才たちもしばしば神経過敏症の徴候を示している。おそらく、他のいかなる領域の天才たちより以上にさえ、宗教の指導的人物たちは異常な心理の発作に襲われやすい素質をもっていたようである。きまって彼らは感受性が強く、たかぶりやすい感情をもつ人間であった。しばしば彼らは調和を欠いた内的生活をおくり、また、生涯のある時期には憂欝に陥っている。適度というものを知らず、強迫観念や固定観念にとりつかれがちであった。またしばしば恍惚状態に陥って、声なき声を聴いたり、影なき影を見たりなどして、ふつうの病理的なものの部類に入れられるあらゆる異常な特徴を示している。しかも、その生涯にあらわれるそのような病理学的な特徴こそ、しばしば、彼らに宗教的権威と宗教的感化力とを与えているものなのである。」(注1. James, op.cit., pp. 6-9; 桝田訳, 1969年, pp.16-20)

2) 医学的唯物論への批判

 「起源が卑しいと主張されると、霊的価値までが台なしにされてしまう、というこの仮説[医学的唯物論](medical materialism) をごく一般的にあらわしているのは、鈍感な人々が自分よりも敏感な知人に対してしばしばくだす批評の言葉である。アルフレッドがあんなに固く霊魂の不滅を信じるのは、彼の気質がそのように感動しやすいからだ。ファンニーが並みはずれて良心的なのは、神経が過敏だからにすぎない。ウィリアムの憂欝な宇宙観は消化不良のせいだ - おそらく肝臓の働きが悪いのだろう。エリザが教会へ行くのを楽しむのは、彼女がヒステリー性の体質であることの徴候なのだ。もっと戸外に出て運動でもしたら、ピーターは魂の問題などにあんなに思い悩むこともなくなるだろうに、などという批評である。

 自然科学とか工業枝術とかの場合なら、そういう学問や技術にたずさわる人の神経病的体質をあばき出して、彼らの意見を反駁しようなどと思いつく人はありはしない。この場合には、意見はいつでも論理と実験とによって吟味されるのであって、彼らが神経学上いかなる類型に属しようと問題ではない。宗教的意見の場合も、そうなくてはならぬはずである。宗教的意見の価値は、直接にその意見そのものにくだされる精神的判断によって確定されうるばかりである。つまり、第一には、私たち自身の直接的な感情にもとづき、第二には、その宗教的意見と、私たちの道徳的要求、および、私たちが真理とみなす他の知識との間に認められる経験的関係にもとづく判断によって確定されうるばかりである。要するに、直接の明白性 ( immediate luminousness), 哲学的合理性 (philosophical reasonableness)、および道徳的有用性 (moral helpfulness)、 これらだけが有効な規準である。聖テレサはきわめて柔和な牝牛のような神経組織をもっていたかもしれない。しかし、そんなことは、それとは別のかのテストによる吟味にかけてみて、彼女の神学が卑しむべきものだとわかれば、彼女の神学を救いはしないだろう。反対に彼女の神学がそれとは別のかのテストに耐えうるものであれば、聖テレサが私たちとともにこの下界に生存している間、いかにヒステリーや神経過敏で平衡を失っていようとも、すこしも問題にならないであろう。」(注2. James, op.cit., pp. 13-22; 桝田訳, 1969, pp.24-36)

3) 精神病的気質は優秀な知力が伴なう場合には色々の長所を持っている

 「病的状態にも長所がある。すなわち、病的状態は精神生活の特殊な要因を孤立させて、普通それをとり巻いているいろいろなものの影響を受けないそれら要因の正体を見きわめることを可能にしてくれる、という長所である。解剖刀と顕微鏡とが身体の解剖において果たす役割を、病的状態は、精神の解剖にあたって果たすのである。天才の本性も、天才をさまざまな精神病的現象と並べて比較して見ようとする上述のような試みによって、明らかにされるにいたった。狂気すれすれのもの (borderland insanity) 、たとえば、変奇性 (krankiness)、病的気質 (insane temperament)、精神の平衡喪失 (loss of mental balance)、精神病的変質 (psychopathic degeneration) (精神病すれすれのものに名づけられた多くの同義語のうち、数語を挙げたにすぎないが)には、ある種の特異性と傾向性があり、これが個人の優秀な性質の知力と結合する時、その人間は、神経症的気質が弱かった時よりも、いっそうその人間が抜きんでて名を成し、時代に影響を与えることを可能にするのである。精神病的気質のうちには道徳的知覚の必要条件である感激性がある。そこには、道徳的実行力の本質たる、あることをとくに強調する熱情と傾向がある。また、形而上学と神秘主義を愛する心があり、それが、感覚的世界の表面を超えたかなたへと、人の関心を運んでゆくのである。それなら、この精神病的気質が、宗教的真理の領域や、宇宙の秘境へと私たちを導いてくれるというのも、しごく当然なことではないか。この世界は、いつも二頭筋をこれ見よがしに隆々とふくらませ、胸をたたき、自分の体内には病気の繊維など一本もないと神に感謝するような、頑健な俗人型の神経組織をもったひとりよがりの人間には、永久に閉ざされざるをえないことは確かであろう。天来の霊感というようなものがもしあるとすれば、おそらく神経病的気質こそそれを感受するのに必要な主要条件であろう。これだけの説明をしておけば、もう宗教と神経病との問題を打ち切ってもよかろうと思う。」(注3. James, op.cit., pp. 26-30; 桝田訳, 1969, PP.41-45)

(結論)  
4) 宗教的生活の五つの特徴
 
「私たちの見いだした宗教的生活の特徴をできるだけ大ざっばに総括してみると、それは次のような信念を含んでいる。

 、目に見える世界は、より霊的な宇宙の部分であって、この宇宙から世界はその主要な意義を得る。
(Visible world is part of a more spiritual universe from which it draws its chief significance.)

 、このより高い宇宙との合一あるいは調和的関係が、私たちの真の目的である。
(Union or harmonious relation with that higher universe is our true end.)

 、祈り、あるいは、より高い宇宙の霊-それが「神」であろうと「法則」であろうと-との内的な交わりは、現実的に業(わざ)の行なわれる方法であり、それによって霊的エネルギーが現象の世界のなかへ流れ込み、現象世界に心理的あるいは物質的な効果が生み出される。(Prayer or inner communion with the spirit - be that spirit “God" or “law" - is a process wherein work is really done, and spiritual energy flows in and produces effects, psychological or material, within the phenomenal world.)

 宗教はまた次のような心理学的な特徴をも含んでいる。

 、或る新しい剌激が、何か贈り物のように、生活に付加され、それが叙情的な感激か、それとも、真剣さ、および英雄主義への訴えかのいずれかの形をとる。
(A new zest which adds itself like a gift to life, and takes the form either of lyrical enchantment or of appeal to earnestness and heroism.)

 、安全だという確信、平安の気持、が生じ、他者との関係において、愛情が優れて力強くなってくる。
(An assurance of safety and a temper of peace, and, in relation to others, a preponderance of loving affections.)

 これらの特徴を文献をあげて説明していた間、私は文字どおり感情に酔っていた。私のあげた文献の多くに見られる感傷性は、私がそれを故意に常軌を逸した実例のうちに求めたという事実の結果なのである。私がそのような極端な例を挙げたのは、そのほうがいっそう深い知識を与えてくれると信じたからである、と答えたい。どんな科学でも、その奥義を学ぼうとすれば、私たちはたとえ少し変人ではあっても、その科学の特殊専門家のところへ行って、平凡な若僧のところへは行かない。私たちはそういう専門家たちが語ってくれることを、私たちの知恵と結び合わせて、私たちの最後的な判断を独立に下すのである。」(注4. James, op.cit., pp. 528-529; 桝田訳, 1970, pp.338-340)

5) 宗教的生活の枢軸としての個人

 「私たちが見てきた宗教的生活の旋回している枢軸は、個人が自分の個人的運命に関心をもつということである。宗教とは、簡単に言えば、人間の自己中心主義の歴史における記念すべき一章なのである。( The pivot round which the religious life revolves, is the interest of the individual in his private personal destiny. Religion, in short, is a monumental chapter in the history of human egotism.) 宗教的思考は、人格的関係によっていとなまれる。これが宗教の世界では根本的な事実だからである。今日でも昔のあらゆる時代におけると同じように、宗教的な個人は、神さまが私の個人的な関心事をかなえてくださる、と告げるのである。(Religious thought is carried on in terms of personality, this being, in the world of religion, the one fundamental fact. Today, quite as much as at any previous age, the religious individual tells you that the devine meets him on the basis of his personal concerns.)

 科学者も個人的には宗教を心にいだいているかもしれないし、科学者としての責任のない時間には有神論者であるかもしれないが、科学自身に対して、もろもろの天は神の栄光をあらわし蒼穹はその御手のわざを示す、と言われえた時代は過ぎ去ってしまったのである。今日では、調和ある運行をなしている私たちの太陽系は、天体の或る種の平衡のとれた運動の過程中に、生命の存在しえない驚くばかり広漠とした宇宙のどこか一つの局部に偶発的に生じた過渡的な現象にすぎないと見られている。科学の認める神はもっぱら宇宙の法則を司る神でなければならない、小売りする神ではなくて卸売りする神でなければならない。科学の神は自己の過程を個人の都合に用だてることはできない。荒れ狂う海をおおう泡沫は、風と水の力によってかつ消えかつ結ぶはかない挿話である。私たちの個人的な自己はそういう泡のようなものである、-- 確かクリフォードがいみじくも名づけたように、付帯現象なのである。私たちの自己の運命などは、世界の永劫不易な事象の流れのなかでは、何の意味も、何の影響ももちはしない。」(注5. James, op.cit., pp. 534-538; 桝田訳, 1970, pp.346-348)

6) 宗教=遺物説 (the survival-theory of religion) への批判
 
「諸君もおわかりのとおり、この観点からすれば、宗教を単なる遺物として取り扱うのはいかにも自然である。なぜなら、宗教は、事実、もっとも原始的な思想の伝統を永続させようとするものだからである。霊的な力を抑圧すること、あるいは、その力を抱き込んで味方にしてしまうこと、これが永い永い間にわたって自然界に対する私たちの行動の一大目標であった。ほとんどすべての事物は、それが人間に与える暗示という観点から考慮に入れられたのであった。そして注意はもっぱら事象の美的な面と劇的な面にのみ払われたのであった。まことに、宗教が今日なお好んで意をとどめるのはそのようなより豊かな物活論的な、そして劇的な見方なのである。宗教的な心が今日でもなお変わりなくもっとも深い感銘を受けるのは、自然現象の恐ろしさや美しさ、すなわち、曙光や虹の「約束」であり、雷の「声」であり、夏の雨の「おだやかさ」であり、群星の「崇高さ」であって、これらの現象を支配している自然の法則ではない。そして昔とまったく同じように今日でも、信心ぶかい人は諸君に告げて、自分の部屋か野原かの孤独においてこそ神の現前を感ずる、自分の祈りに対する応答として援助が流れ込んでくる、そしてこの目に見えない実在に対する犠牲が心を安らぎと平安で満たしてくれる、と言うであろう。そんなものは全くの時代錯誤だ!と遺物説は言う。この時代錯誤はそういう擬人観的想像を脱却するほかに救われようがない。私的なものを宇宙的なものに混入するのをやめればやめるほど、それだけ私たちは普遍的、非人格的な概念のなかに住むのであり、それだけ真に私たちは科学の相続人になるというわけである。科学的態度のこの非人格性は、なるほど或る種の公平無私な気性に訴えて共鳴を呼ぶ力をもっているが、それにもかかわらず、それは浅薄だと私は思う。私たちの経験の世界は、いつの世においても、客観的な部分と主観的な部分との二つの部分から成り立っていて、そのうち客観的な部分のほうが主観的な部分よりも量りきれないほど広大ではあるけれども、しかし主観的な部分も見のがされることも無視されることも決してできない。意識の場、プラス、感じられた、あるいは考えられた意識の対象、プラス、その対象に対する態度、プラス、その態度が属している自己の感覚-このような具体的な個人的経験は小さなものであるかもしれないが、しかし、それは存続しているかぎりは実質のあるものである。それは「対象」がただそれだけで考えられる場合のように、うつろなものではない、経験の単に抽象的な要素ではない。それは、微々たる事実であろうとも、充実した事実である。それはすべての実在が属さざるをえないような種類のものである。世界を動かす潮流はこのようなものを通過して流れているのである。それは現実の事件と現実の事件とを結ぶ線上にある。私たちめいめいが、運命の女神の車輪の上で展開してゆくのをひそかに感じている自己の個人的運命の危機についていだく、他人と分つことのできない感じは、自己中心主義だといって軽侮されるかもしれないし、非科学的であるとして冷笑されるかもしれない、しかし、この感じこそ私たちの具体的現実を満たす唯一のものであって、このような感じを欠いているような自称存在者あるいはその類似者などは、半分しか出来あがっていない実在の一断片であろう。
 
 もしそれが真であるなら、経験の自己中心的な要素は削除さるべきであると科学が言うのは、不条理である。実在の軸は自己中心的な場所しか通過しない。このような自己中心的な場所は、まるでじゅず玉のように、実在の軸にじゅずつなぎにされているのである。世界を叙述するのに、個人的な運命の危機のさまざまな感情、さまざまな精神的態度、-- これはほかのあらゆるものと同じように叙述できるのに -- これをことごとくその叙述から除外するのは、食べでのある食事の代わりに印刷した献立表を出すようなものであろう。宗教はそのような馬鹿げた誤りはしない。個人の宗教は自己中心的であるかもしれないし、そのような宗教のかかわる私的な実在はいかにも狭いものであるかもしれない。しかし、いずれにしてもそういう宗教のほうが、私的なものは一切考慮しないことを誇りにする科学などよりも、つねに無限に内容が充実しており、具体的なのである。

それゆえに、私たち個人の運命につながる特殊な問題がどう答えられようとも、そのような問題こそほんとうの問題であると認めて、問題が開発する思想領域のなかで生きることによってのみ、私たちは深い人間になるのだと私は考える。ところが、このような生き方をすることが、宗教的であることなのである。だから私は宗教の遺物説をとんでもない誤謬の上に立っているものとして、躊躇なく排斥する。(I think, therefore, that however particular questions connected with our individual destinies may be answered, it is only by acknowledging them as genuine questions, and living in the sphere of thought which they open up, that we become profound. But to live thus is to be religious; so I unhesitatingly repudiate the survival-theory of religion, as being founded on an egregious mistake.).

私たちの先祖が多くの事実誤認をして、その事実誤認を彼らの宗教と混合したからといって、だから私たちは宗教的であることを全然やめるべきである、という結論は出てこない。宗教的であることによって私たちは究極的実在を、私たち自身のものとすべく私たちに与えられているまさにその点において、確実に所有するのである。つまりは、私たちが責任をもって関心をかたむけるべきものは私たち個人の運命しかないのである。それゆえに、私たちは、個人の運命を問題とし、したがって私たちの知る唯一の絶対的実在とつねに接触している宗教が、必然的に人間の歴史のなかで永久的な役割を演ぜざるをえないということに、同意しなくてはならない。」(注6. James, op.cit., pp. 538-546; 桝田訳, 1970, pp.353-364)

7) 宗教成立の二段要因

 「次に私たちは単なる主観的効用の見地から一歩を進め、知的内容そのものを調べてみなければならない。

 まず第一に、すべての信条は、互いにどれほど違っていようとも、すべてが一致して立証するような共通な核心をもっているのか?。(First, is there, under all the discrepancies of the creeds, a common nucleus to which they bear their testimony unanimously? ) (注7. James, op.cit., pp. 551-552; 桝田訳, 1970, pp.371-372。 なお、原文が疑問文で、First, is there, under all the discrepancies of the creeds, a common nucleus to which they bear their testimony unanimously? となっているところを、訳書は、「先ず第一に、すべての信条は、互いにどれほど違っていようとも、すべてが一致して立証するような共通の核心をもっている。」と、平叙文にしているので、訳文引用に際して、「......... 共通の核心をもっているのか?」と、疑問文に改めた。)

 第二に、私たちはその立証を真であると考えるべきであるか?(And second, ought we to consider the testimony true? )

 私はまず第一の問題をとり上げ、これに対してただちに肯定的に答えようと思う。事実、さまざまな宗教における互いに敵対している神々と信条とは、互いに他を抹殺し合ってはいるが、しかしそこにはすべての宗教が合流するように見える或る一様な意見がある。それは次の二つの部分から成る。
 一、不安感 (An uneasiness) 、および
 二、その解決 (Its solution)。

 一、不安感は、もっとも簡単な言葉であらわすと、自然の状態にありながら、私たちにどこか狂ったところがあるという感じである。(The uneasiness, reduced to its simplest terms, is a sense that there is something wrong about us as we naturally stand.)
 二、解決というのは、より高い力と正しく結びつくことによって、この狂いから私たちが救い出されているという感じである。(The solution is a sense that we are saved from the wrongness by making proper connection with the higher powers.)

 私たちがいま研究しつつある比較的発達している人々の場合には、この狂いは道徳的な性格を帯び、そして救いは神秘的な色調を帯びる。私たちがそういう人々の宗教的経験の本質を次のような言葉で方式化する場合、私たちは彼らすべてに共通なものの限界内にとどまっているのだと私は思う。----

 個人は、自分の狂いに悩み、その狂いを正常でないと感じているかぎり、それだけその狂いを意識的に越えているのであり、少なくとも、何かより高いものが存在するなら、そのより高いものに触れているのである。だから、狂った部分と並行して、そこには、まだごく無力な萌芽でしかなくとも、彼のより善い部分がある。これらのどちらの部分を彼の真の存在と見るべきなのかは、この段階ではけっして明らかではない。しかし段階二(解決あるいは救いの段階)に達すると、その人は自分の真の存在は自分自身のより高い萌芽の部分であることを知る、それも次のような仕方で知るのである;彼はこのより高い部分がこれと同一性質の或るより以上のものと境を接し連続していることを意識するようになる。このより以上のものは、彼の外部の宇宙で働いており、彼はそれと現実に接触することができ、そして、彼のより低い存在が難破して砕け散ってしまったときに、辛うじてそれにしがみついて、救われることができるようなものである。(He becomes conscious that this higher part is coterminous and continuous with a MORE of the same quality, which is operative in the universe outside of him, and which he can keep in working touch with, and in a fashion get on board of and save himself when all his lower being has gone to pieces in the wreck.)」(注8. James, op.cit., pp. 553-559; 桝田訳, 1970, pp.374-381)

8) 潜在意識的自己は自己を越える自己、意識的自己の潜在意識的連続である

 「宗教的経験の内容のうちで、その真理性の問題がもっとも切実に提起される部分は、私たち自身のより高い自己が宗教的経験のなかで調和ある現実的な関係を結ぶにいたるように見える、あの「同一性質のより以上のもの」である。宗教的天才たちがあれほど確信している、より以上のものとの「合一」を、私たちはどんな形式で考えるべきなのか?これらの言葉はどんな明確な叙述に翻訳されることができるであろうか?そしてこれらの言葉はいかなる明確な事実を表わしているのか?少なくとも現在の私たちの立場からすれば、私たちはまず、あまり特殊化されていない言葉を使って始めなければならない。そして、宗教科学の義務の一つは、宗教を他の諸科学との連絡を失わせないでおくことであるから、私たちは何よりも第一に、心理学者たちも事実と認めるような仕方で「より以上のもの」を叙述しようと努めるのが良いであろう。

 潜在意識的自己 (the subconscious self) は今日では公認された心理学的実在物である。そして私はこれこそ正に、要求されている媒介的な概念であると信ずる。宗教的な考慮などまったく別にしても、私たちの魂全体のなかには事実ほんとうに、私たちがいついかなる時に気づいているよりもより以上の生命がある。意識を超えた領域の探究はまだほとんど真剣に企てられてはいないが、私たちの意識的存在を浮彫りのようにくっきりと際だたせているこの大きな背景の内容の大部分は、無意味なものである。不完全な記憶、愚かしい連想、制止の働きをする臆病さ、いわゆるさまざまな種類の「分離性の」現象、これらがその大部分をなしている。しかしまた、天才の仕事の多くも、ここに起源をもっているように思われる。そして、宗教的生活においてこの領域からの侵入がどれほど著しい役割を演じているかは、回心、神秘的経験、および祈りに関する私たちの研究において、私たちの知ったところである。

 そこで私は一つの仮説としてこう提唱したい。すなわち、
私たちが宗教的経験において結ばれていると感ずる「より以上のもの」は、向こう側では何であろうとも、そのこちら側では、私たちの意識的生活の潜在意識的な連続である、という仮説である。(Let me then propose, as an hypothesis, that whatever it may be on its farther side, the “ more ” with which in religious experience we feel ourselves connected is on its hither side the subconscious continuation of our conscious life.)

 このように承認されている心理学的事実を私たちの基礎として出発するならば、私たちは普通の神学の欠いている「科学」との繋がりを保つことができるように思われる。同時に、宗教的人間は外的な力によって動かされているという神学者の主張も支持されることになる。なぜなら、客観的な外観をとって、当人に外部から支配されているような暗示を与えるのが、潜在意識圏からの侵略の特徴の一つだからである。宗教的生活においては、この支配は「より高い」ものと感ぜられるが、しかし、私たちの仮説によれば、支配しつつあるのは、もともと、私たち自身の精神のなかに隠れているより高い能力なのであるから、私たちを超越する力との合一の感じは、けっして単に見かけだけでなく文字どおり真実な或るものの感じなのである。宗教的な問題は第一義的には生活の問題、私たちに賜物として啓示されるより高い合一の中で生きるか生きないかの問題であるけれども、その賜物を実在的なものと思わせる霊的興奮は、しばしば、個人の胸に強く訴えてくる或る特殊な知的な信仰ないし観念が動かされるまでは、個人の心に起こってこないであろう。したがってこのような観念はその個人の宗教にとっては本質的なものであろう。ということは、過剰信仰がいろいろの方向をとるということは絶対に避けられないことで、だからそれらの過剰信仰自体が不寛容でないかぎり、私たちもそれらの過剰信仰をやさしい寛容な態度で遇すべきである、ということなのである。」(注9. James, op.cit., pp. 559-561; 桝田訳, 1970, pp.374-381)

9) 理想的なものの実在性

 「過剰信仰はしばらく措いて、一般的、共通的なものだけに限ってみると、意識的人格は、救いの経験をもたらしてくれる、より広大な自己と、連続している、という事実こそ、宗教的経験に関するかぎり、文字どおり客観的に真であると私に思われる宗教的経験の積極的内容をなすものである。( we have in the fact that the conscious person is continuous with a wider self through which saving experiences come, a positive content of religious experience which, it seems to me, is literally and objectively true as far as it goes.) 

 私たちの存在のはるか向こう側の限界は、感覚的に知覚される、そして単に「悟性で知られる」世界とは、全くちがった存在の次元に、食い込んでいるように私には思われる。それは神秘的領域 (the mystical region) と名づけてもいいし、超自然的な領域 (the supernatural region) と名づけてもかまわない。

 私たちの理想的な衝動(our ideal impulses)が、この領域に起源するかぎり、(そして、私たちの理想的な衝動はほとんど全部この領域に起源するのである。なぜなら私たちはそういう衝動が私たちにはっきり説明できないような仕方で私たちを支配していることを知っているからである)、私たちは、私たちが目に見える世界に属しているのよりも、はるかに本質的な意味で、この領域に属している。なぜなら私たちは、私たちの理想の属しているところにこそ、もっとも本質的な意味で属しているのだからである。

 けれども、問題の、この目に見えない領域は、決して単に理想的なものではない。なぜなら、それは、この世界のなかに、現実的効果を生み出すからである。私たちがこの領域と交わるとき、現実的に、業(わざ)(work) が私たちの有限な人格の上におこなわれるのである。

 なぜなら、私たちは新しい人間に変わる、からであり、そして、私たちの再生的変化に続いて、その結果が、自然的世界における行為の上にもあらわれるからである。ところが、他の実在のなかに効果を生み出すものは、それ自身一つの実在 (a reality itself) と呼ばれなければならない。だから、目に見えない、あるいは、神秘的な世界を、非実在的 (unreal)と呼ぶべき哲学的な理由を、私たちはなんらもたないように私は思う。」(注10. James, op.cit., pp. 559-561; 桝田訳, 1970, pp.382-383)

N.B. 安丸良夫氏の「出口なお」研究においても、その宗教心理学的総括は、フロイトやユングの名を挙げて精神分析的様相を帯びつつも、骨子はW.ジェームズがここに提出した宗教科学的見解「潜在意識的自己は、自己を越える自己、意識的自己の潜在意識的連続である」に完全に沿っている。
 「生活者としてのなおは、無口でつつましく、目だたない女だったのに、神がかりしたなおは、はげしく荒だち、大声で叫び、激越な言葉を発した。このように、同じなおが、また、二人のなおであり、両者に根本的な転換と対照性があるということに、神がかりという現象の特質がある。いま、フロイトやユングにならって、人間の心を、意識と無意識にわけるなら、生活者としての自己統御が意識であり(その中心が「自我」)、神がかりは、こうした自己統御によって抑制されてきた無意識の世界が、意識の世界まで噴出してきて、あたらしい統合をもとめるものといえる。両者に、はなはだしい転換と対照性があることは、前者による後者の抑圧と、そこに醸成されていた葛藤の大きさとはげしさの表現であり、神がかりは、表面的な自己統御のかげにかくれていた本心をあかすことを意味する。
  本心といっても、それはなお自身によっても知られていないものなのだから、生活者としてのなおは、神がかりした自分を恥じたりあやしんだりした。しかし、神がかりしたなおは、神という至高の権威の名をかりてあらわれてきた無意識の世界からの合図にふかく耳をかたむけ、さまざまな苦難とひきかえに、そこに機軸をすえて自己を再統合し、世界と自己の全体性をあらたに意味づけることができた。そこには、神がかりという転換のなかでの自己解放や自己形成があるが、しかしまた、日常的な自己との間のあやうい分裂と二元性もふくまれていた。」安丸良夫『出口なお』1977年、朝日新聞社、p.6 。

N.B.2. ジェームズは諸宗教の基底にある宗教的経験の諸相の帰納的一元性を心理学的分析により取り出して、「意識的自己の潜在意識的連続」として提示したが、『宗教の挑戦』(幸福の科学出版、1992年)において、大川隆法氏は、徹底的に上方へ、形而上的世界へ、高遠に突き抜ける霊的体験によって、諸々の宗教を、言わば「演繹的に」位置付ける意味を事実上持つような、俯瞰的総合を提示している。その「あとがき」では次のように語られている。「本書を書きおろすにあたって、アメリカの哲学者ウィリアム・ジェイムズの『宗教的経験の諸相』という書物が私の念頭から離れなかった。私は、同書のように学者の眼を通してではなく、宗教の現場に携わる者として直接に、「宗教的経験」を語ってみたかったのである。「霊的現象の真相」と、その真偽の見わけ方を書きたかったのである。日本の宗教学会は、多様な価値観を内包する新宗教の乱立に対して、一定の見取図をつくり出すことができないようである。その高下も善悪も峻別する基準を見つけ出すことができないかのようである。それにマスコミが輪をかける……。しかし学問的中立の美名のもとに、価値判断からエスケープばかりしていてよいのだろうか。それは学問的良心ではなく、「怠惰」そのものではないのか。」同書、p.238.

[初出:二瓶孝次「「幸福の科学」の仏教論的意義(13)」『北海道教育大学紀要 IA(人文科学・社会科学編)』第51巻第2号、2001年 )]
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