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§2 原始仏教(釈尊)の基本的立場(上)

§2  原始仏教(釈尊)の基本的立場:四諦八正道・無我・縁起・最善観的輪廻転生論

 仏陀出現問題を考察する第一のアプローチは、原始仏教として一括される釈尊の教説の基本的性格の確定である。
これについて筆者は既に「釈尊の悟りと道徳的発達(上)(中)(下)」において論考した。

今ここにそれを再掲することにしたい。

       釈尊の悟りと道徳的発達(上) 仏教思想研究の方法論
                  
                  
            目  次
   1.釈尊の悟りは懸崖の頂きに立つ(西田幾多郎による評言)
   2.釈尊の価値を検討証明すべき「システム」とは?
   3.和辻哲郎『原始仏教の実践哲学』について
   4.和辻哲郎『原始仏教の実践哲学』における仏教研究資料批判の画期的透徹の批判的検討
   5.釈尊の悟りの内容へのアクセスを担うシステムの構築の方法の模索
   6.初期仏教経典(E)の確定としての仏教資料批判
   7.和辻哲郎における資料批判貫徹の新機軸
   8.和辻哲郎『原始仏教の実践哲学』における原始仏教の哲学的思想論的研究の方法的開始
   9.文献学的研究対哲学的研究
  10.仏教資料の哲学的研究の出発点
  11.理論的研究のための仏教資料論の底本群の決定
  12.原始仏教の理論的研究の出発点

1.釈尊の悟りは懸崖の頂きに立つ(西田幾多郎による評言)

「我が関新助は恰もニュートンと期を一つに極東の孤島に現はれたのも妙だが、サラセン文化以来驚く可き年代を経て発達して来た数学と、彼の一代の独自な収穫が、近いものであったのは世界的に驚異とされてゐるのは、吾人の意を強ふするに足るが、微積分の領域にはいってゐた彼の数学も、算盤と算木を使用する複雑な理路は、彼独りの理解に止って、其後の発達は見られなかったのは、一つに継承を容易ならしめる組織の欠点に外ならない。
 普遍的に消化され吸収さる組織これが確実な成長持続の根源である。譬へると釈尊の足場は懸崖の頂きでありとすれば、丁度関新助の数学である。その微積分が今日高等数学の範囲で学生などに消化され吸収され、日常の栄養となったのは、組織の賜であり、釈尊の価値を検討証明するのも同様に遂には、この「組織」の力である。」

 これは西田幾多郎が京都大学を定年退官(昭和3年8月)した時期に或る有名総合雑誌に強く請われて寄稿した短文(注1:「言葉に代へて」『文藝春秋』昭和3年9月特別号、『西田幾多郎全集第19巻』第4版,1989年,岩波書店、東京、PP.842-846所収)の一節である。この時西田は、大学を定年退官したとはいえその従来の哲学研究を一層進展しようとする強い決意と燃える情熱のうちにあった。「……今、自分は丁度家で云ふなら建て掛けの道程にあると云ふのが適当であらうか、ある大きな思索の組織を完成するべく常住に心が用ゐられてゐるから、たとへ、ちょっとしたものを書くにも自分の性格上、多少真剣に、この間、軌道を変へなければならないと云ふことは誠に調子のそぐはない、且つにがい負擔である。私をして心ゆくまゝに私の道を歩ませてもらひたい。「白つゆや、無分別なる、をきどころ。」……」

 西田が自己を白露に擬しているのはその歌詠の趣味とともに奥ゆかしいが、事実、この当時における西田の思索は、『働くものから見るものへ』(昭和2年10月刊)における「場所」のアイディアを発展させた『一般者の自覚的体系』(昭和5年1月刊)に収められた諸論文執筆に結果しているものであって、これは『善の研究』(明治44年1月刊)という彼の処女的総括体系に次ぐ第二の彼の哲学体系の出現であった。これだけでも既に一個の巨人的思索の跡を窺わせるのであるが、彼の場合はこのあと更に『無の自覚的限定』(昭和7年12月刊),『哲学の根本問題』(昭和8年12月刊),『哲学の根本問題続編』(昭和9年10月刊)を経過して,「哲学体系への企図」たる『哲学論文集第一』(昭和10年11月刊)から『哲学論文集第七』(昭和21年2月刊)に至るまでの長大雄勁な研究が累加されてゆく。 西田哲学の「組織」つまりシステム(体系)は、「絶対矛盾的自己同一」という論文(これは昭和14年11月に刊行された『哲学論文集第三』の第三論文であり、昭和14年4月『思想』に発表された)において完成・確立されたといえるであろう。

 「「絶対矛盾的自己同一」に於て、私は一応私の根本的思想を明にした。」(西田幾多郎『哲学論文集第四』序、昭和16年8月)

 「私は第三論文集に於て、私の根本的思想を把握し得た。」(西田幾多郎『哲学論文集第五』序、昭和18年9月) 事実、これ以後の諸論文は、「絶対矛盾的自己同一」なる根本論理から、実践、歴史、芸術、国家、物理、数理、空間、生命、宗教等の諸問題を応用的に論じたものとなっている。つまり、「ある大きな思索の組織を完成するべく常住に心が用ゐられてゐる」と昭和3年に言われた西田のその哲学体系化の企図は、その十余年後「絶対矛盾的自己同一」なる昭和14年の論文に於いて実現されたのである。

 ともあれ、西田は日本の思想的営為におけるシステム化の努力の余りないことを指摘しており、また、釈尊の場合にもそのことが言えることを指摘しているわけである。それに対して彼自身の哲学的努力がまさしくシステム化の枢軸としての根源論理の把握に向けられていたということが自他共に認め得るであろう。「絶対矛盾的自己同一」の哲学システムは、言うなれば、《ダイヤモンド製の真珠》の如きものである。この譬喩は『哲学の根本問題続編』の「序」の後に初めて付され、その後『哲学論文集第三』まで続く西田独特の「図式的説明」の価値に特に妥当する。(数学史上ニュートンがライプニッツより先に微積分の原理を発見したようだが、ライプニッツの表記法が至便であったため、これが広く普及したとされる(注2)。

注2*「言葉に代へて」『文藝春秋』昭和3年9月特別号、『西田幾多郎全集第19巻』第4版,1989年,岩波書店、東京、PP.842-846所収*

数学と哲学では事情が同じではないとしても、特に西田哲学の理解のためにその図式的説明をもっと活用することが今後行われるべきである。)

 事実、この西田哲学そのものを十分に解明し得た研究はまだ出ていないのではないか。西田哲学に対する関心と研究は最近内外ともに活発であるが、その真価を明らかにし得ているとは未だいえないのである。その哲学自体既にシステムではあるが、未だなおそれは我々の既知の諸システムとの連絡をつけられないままに、「懸崖の頂き」にあるが如くである(注3)。

注3* 例えば最も代表的なものとして末木剛博の浩瀚な四部作『西田幾多郎 その哲学体系I-IV』1983-1988 ,春秋社、東京、を挙げることができる。これは西田哲学研究としては理論(記号論理学)により理論(体系としての西田哲学)を解明したものとして一つの模範である。これはこれで徹底的に学ぶべきである。しかし哲学論としては、その純粋 内部脈絡の解析迄は著者の意図を成就しているが、進んで比較思想論的検討を介して最終結論に到ると極めて矮小となり、まさに龍頭蛇尾の感を禁じ得ない。これは主として氏の仏教思想理解が従来の枠に止まり、それに準じて西田 哲学の内的理解も進まないからである。特に「空思想」「絶対無」の理解は常識的であり、平板である。西田哲学の根本性格が「無実体論」「現象実在論」であるという氏の結論は、我々が仏教思想の理解を推進するならば、その妥当性を失うであろう。結局氏自身の哲学的立場は、記号論理学の専門家としての優れた力量と比較思想の広範な学識というその身上を別にすれば(といってもこれらがその立場と別にあるわけではない)、西田哲学において根本から斥けられている「対象的意識の立場における個人的意識」(これこそ西田哲学に対して氏が最後に難じている「独我論」の発生源である)を唯一の可能な意識と信じ込んでいる素朴近代常識人の立場でしかない。氏の最終的結論(6)と(7)は特にこのことを如実に示している。我々は仏教思想の理解を進めて、将来西田哲学については氏と同様に、『善の研究』から出発して考察して行かなければならない。なお次注参照*

実は我々のこの研究も、今直ちに西田哲学の研究に入るのではないが、間接的には、システムとしての西田哲学の解明に資するのが計画の一端である。(そしてその通路は、一口で言うと、ライプニッツのモナドロジーである。実際、西田幾多郎自身「自分の哲学はモナドロジーだ、それもクリエイティブ・モナドロジーだ」という意味のことを言っている(注4)。

注4*「永遠の生命としてすべてを包む有は対象的有であることはできない故に私はプロチノスの一者(絶対的有)を絶対 的無と云ったのです。今度の論文で述べた創造的モナドの世界も無限なる生命全体を包む世界と云ってよからうと思 ふのです…」昭和13年9 月25日付三宅剛一宛書簡『西田幾多郎全集第19巻』第4 版,1989,岩波書店、東京、PP.47-48。 「強ひて私の考をモナドロジー的といふならば、ライプニッツのそれの如く表象的でなく創造的といふべきであらう。 辯證法的モナドロジーである。」「歴史的世界に於ての個物の立場」『西田幾多郎全集第9巻』第4版,1988,岩波 書店、東京、P.97*


 従って、「釈尊の足場は懸崖の頂きにあり」という西田の釈尊に対する言葉がそのまま、或る意味では西田哲学自身にあてはまるのである。

2.釈尊の価値を検討証明すべき「システム」とは?

 「釈尊の価値を検討証明するのも同様に遂には、この「組織」の力である。」と西田は釈尊への理解の大道を指示している。仏教思想史上、三蔵のなかで「経」と「律」に対する「論」が事実上このような「組織化」の努力であったといえるであろう。しかし現在の哲学的な方法論による仏教研究としては、直ちに「論」の伝統に乗ることは得策ではない。むしろ、いわゆる西洋哲学の手法から我々は学ばなければならない。しかも既に日本において我々の先輩が試みたところを振り返りながら一層の進展を期することが、学問的研究の継承発展のために望ましい。その場合我々はこの論文のタイトルが示すように、道徳的発達の観点から釈尊の悟りの内容を理解しようと企図する。仏教はその根幹に道徳的修練を据えた宗教であって、その道徳的修練は段階的な発達向上が可能であり、各発達段階はそのまま存在論的性格を持つ、そしてこれは釈尊の悟りの理解から明らかになる、との見通しのもとに論究を開始する。

3.和辻哲郎『原始仏教の実践哲学』について

 仏教思想を西洋的伝統の哲学研究の中にしっかりと組み入れて組織的に研究するという方向における代表的な業績として我々は、和辻哲郎『原始仏教の実践哲学』(1927)を有しているのではないか。即ち、和辻のこの著作には思想史上二通りの意味があると考えられる。つまり、

 一つは、仏教研究資料批判の画期的透徹であり、
 二つは、哲学的思想論としての仏教(原始仏教)の研究の開始である。

前者は、西洋近代仏教学の明治期の導入以降、国内外の代表的諸研究を踏まえて当時における最も先端的で決定的な原始仏教資料批判を展開して、特にその後のわが国の原始仏教の研究に多大の刺激と明示的方向とを与えた(注5:『和辻哲郎全集第5巻』1962, 岩波書店、東京の中村元の解説「原始仏教の実践哲学」(PP.581-585)参照)。後者は、元来哲学的立場に関しては「無記」(肯定的にも否定的にも何も主張しない)の態度を徹頭徹尾維持していたとされる釈尊の教説の根本的立場に関して、西洋哲学の正当な手法として、一定の明瞭な哲学的立場を比定したことを指している(注6:和辻哲郎『原始仏教の実践哲学』第一章「根本的立場」『和辻哲郎全集第5巻』PP.90-97参照)。

 けれども、我々はこれらの和辻の仕事は、有益且つ貴重な導きと示唆をあたえてくれる反面具体的成果としては重大な難点を含んでいたと見ている。それ故今、和辻の思索の根本的批判的検討を行い、真の新たな展望を開かなければならない。

4.和辻哲郎『原始仏教の実践哲学』における仏教研究資料批判の画期的透徹の批判的検討

 では、和辻の仏教研究資料批判の画期的透徹とはいかなることか。そしてその何が批判的検討に付されなければならないのか。
 先ず、そもそも仏教研究資料批判とは、簡単に言って、仏教経典類として伝わるもののうち、歴史的人物としての釈尊がその在世中に直接に説いたと考えられるものを、釈尊以外の者の手になるものと考えられるものから判別・区別する仕事である。そしてこれは近代の研究的知性が、いわゆる南伝仏教のパーリ三蔵と、いわゆる北伝仏教の三蔵(代表的なものは漢訳三蔵)との共通性と相違とに直面して、前者には、大乗仏教と言われる後者の大乗的諸経典が含まれていないことを認識して、大乗諸経典は仏滅後はるかのちに創作された非仏説であり、大乗仏教の伝統の中で小乗仏教経典とされる「阿含部」と言われるものと大部分一致するパーリ三蔵が歴史的釈尊の指導した教団の奉持した経典を歴史的に直接的にか間接的にか継承しているとの判断に到ったことに源を持つ。この意味において、歴史的釈尊の指導した教団の奉持した経典が現在から見て有り得べき理想的な研究資料であるが、現存のものはそれそのままのものではなくて、幾多の変形を経てきたものと考えられている。従って、最も原形に近づけた復元がこの場合、「原始仏教」を我々に伝える資料を構成することになる(注7:例えば、三枝充悳「阿含経とは何か」中村元・三枝充悳『バウッダ 佛教』1987,小学館、東京、第二部第一章,PP.31-77参照)。

 そこで和辻哲郎『原始仏教の実践哲学』における仏教研究資料批判の画期的透徹とは、まさにこの意味の仕事を極めて明確な態度において実行して見せたというその点にあるのであって、それ以後そのような方向において特に我が国での研究成果が顕著である(注8:例えば、中村元『原始仏教の思想 下 原始仏教4』中村元選集第14巻 1971年,春秋社、東京、P.268.および、 同『原始仏教 1 ゴータマ・ブッダ 釈尊の生涯』中村元選集第11巻 1964年,春秋社、東京、P.7 参照)。

 ところで、そのような原典批判という一種の技術は、他方において、取り出されたる原始的資料についての思想的解釈を伴っている。本来ならば、原典の洗いだしを行ったのちに思想的解釈を行うべきであり、また誰もそのように始めは意図するものである。けれどもこれがなかなかそのようにすんなりとは行かないのである。何故かというと、原典の洗いだしを純技術的にのみ遂行することは誰も果たし得ていないのであって、事実上、資料の選別・評価に当たって例外なく一定の解釈的立場を採らざるを得ないでいるからである。そしてその場合に一番多く見られるのは、「非神話化の精神」とでも呼べるような或る種の「唯物論的実証主義」である。すなわち、いかなる宗教にも認められる超常的神秘的神話的事象一般の否認ないしその実証主義的合理化説明である(注9:このことは釈尊の根本思想の解釈と関連する問題であって、本稿下篇で論じたい)。

 このことは、純歴史的認識とでも言うべき事柄に関しても妥当する。すなわち、例えば現存パーリ三蔵は釈尊の直接的指導のもとにあった原始仏教教団の奉持していた原経典からなにほどか変形しているという見積りに当たってそこに必ず評価者の一般歴史観的認識基準が採用されざるを得ない実情にあるのは否定できない事実である。一口で言うと、資料批判を実行する研究者たちは通例極めて「懐疑主義的」である。すなわち、歴史的伝承に対する一般的信頼感を欠いているとの印象を受ける。これはその精神態度ないし研究的知性自体の「唯物論的実証主義の傾向」と密接に関連していると見ることができる。本来、探究(スケプシス)は懐疑(スケプシス)を一つの動因とするものであるが、それだけではなく他方そしてより根本的には驚異の心(アリストテレス参照)をそのエネルギーとするのである。

 そこで今、我々が釈尊の悟りの内容へのアクセスを担うシステムの構築の方法を構想するにあたり、仏教研究資料批判の我々の基本的態度を、懐疑主義的なものではなくて、中道的態度として確立しようと願う(注10: 一般的伝承批判は仏滅年代論と関わる問題であり、その全的な中道的展開は他の機会に譲る。ここでは我々は従来の懐疑的批判的研究の最大限の中道的継続としての「細心な立場」(具体的には中村元の立場)に接続することにする。中村元「原始仏教聖典成立史研究の基準について」『原始仏教の思想 下 原始仏教4』中村元選集第14巻,1971年,春秋社、東京、PP.259-489参照)。けだし、何事にせよ、中道的態度の勧めは釈尊の教えの最基礎的なものであることは誰もが認めるところである。

5.釈尊の悟りの内容へのアクセスを担うシステムの構築の方法の模索

 仏教資料批判の目的はすべて歴史的釈尊の事実的教説の確定であり、これを通して釈尊の内面的悟りそのものを解釈しそこに参入することにあるのは全て共通であろう。この手続きには基本資料の確定と思想解釈という二つの仕事が含まれている。そこでこの問題を次のように形式化することにより整理して考察しよう。

 先ず、我々の探究の究極目的である「釈尊の内面的悟り(菩提 Bodhi)そのもの」を記号Bで表わそう。
 次に、釈尊の成道から入滅に到る間の教化活動から生じた教示(Teachings )の全体を記号Tで表わす。

 次に、いわゆるパーリ語三蔵(the Pali Buddhist Texts )を記号Pで表わす。また大乗仏教の伝統の中で小乗仏教経典とされる「漢訳阿含部」と言われるものを記号Cで表わす。

 次に、いわゆる大乗仏教固有の大乗諸経典(the Mahanaya Buddhist Texts )を記号Mで表わす。

 そして、Z=P+C+MなるZを、我々が現在所有している仏教資料の全体を表わす記号とする(従って、我々がここで我々が現在所有している仏教資料の全体と言うものは、普通の意味での全仏教思想史上の資料の全体ではなくて、厳密に《P+C+M》なるZに限定されたものである。)

 そうすると、近代仏教学がこれまでに既に一致して認めたのは、先に述べたことと同じことであるが、BにアクセスするためのTへの最初の手がかりはZでは決してなくて、P+Cであるという一点である。この主張の要点は、Zの成員の一つであるMが決してTとの事実的連絡を有しない、何故ならMは仏滅後はるか後代の人為的創作の産物であるから、ということに存する。他方、P及びCはその文献としての歴史事実的性質から見て、Tに由来する伝来の事実的に最も直接的な結果であるとみなされているのである。ただし問題は、TからPあるいはCに到る間に多くの変形があったであろう、という一点に集中している(この変形要因をdとすると、T+d=PあるいはT+d=Cとなる)。そこで、PあるいはCの言語学的、歴史学的、考古学的等、あらゆる可能な分析方法により、PあるいはCに生じていると推測されるdの結果を浮き彫りにしてTに最も近似したPあるいはCの原形の復元が目ざされるのである。そこでさしあたりPとCが共通に持つであろう一つの源泉を記号T´で表わせば、T´が復元されるべき原形である。この復元作業は当面PあるいはCの構成諸部分の継時的再構成であり、そのうちの最古層の確定が眼目となる。確定された最古層のPあるいはCの部分が当面、T´に最も近似していると見なされるのであるから、PあるいはCのこの最古層として確定された部分を初期仏教経典(the Early Buddist Texts )として記号Eで表わすならば、TないしT´に最大限近づいたEの確定こそが仏教資料批判の現実的目標である。
 
 想定される資料伝承の流れ:
  B → T → T´ → E → P(or C)
 資料批判による復元作業:
  P(or C)→ E → T´ → T → B
 
6.初期仏教経典(E)の確定としての仏教資料批判

 そこで、現在までの仏教資料批判の成果を概観するならば(注11:例えば三枝充悳「阿含経のテクスト」 中村元・三枝充悳『バウッダ 佛教』1987,小学館、東京、第二部第二章 PP.78-112.及び三枝充悳上掲「阿含経とは何か」参照)、Eはどの程度まで明らかになっているであろうか。

 先ず、全ての仏教資料批判に共通しているのは、さしあたりPにのみ話を限るならば、Pが互いに性格の異なる三部分より成っているという点の確認である。即ちPは、固有の意味での経典(スッタ)(これをいま記号Sで表わす)、そしてそれら経典解釈の論議(アビダンマ)(これをいま記号Aで表わす)、及びいわゆる戒律(ヴィナヤ)(これをいま記号Vで表わす)、という三部構成となっているということである。そしてAはSに対する仏弟子たちの研究的論議なのであるから、その資料としての性格はTからの明白な隔絶である。つまりAはTに接近すべきPからは厳密に排除されるのである。他方、Vはその起源は釈尊の教示にあるものの、仏滅後の仏教教団の自立的展開と諸部派へのその分裂の過程のなかで相当大きく変動して行ったと見なされている。事実、このVに限ってみればその資料批判はかなりの程度まで徹底されている。「徹底されている」という意味は、Vに関してその全体にわたる資料批判がその当否はともかくとして実施されているということである。そこで批判されたVにしてEに含めてよいとされる部分を記号VEで表わすことにしよう。
 
 しかし他方、Sに関しては未だなお、その全体にわたる資料批判は実施されていないのであって、ただ多かれ少なかれその一部分についてしか資料批判が実施されているに過ぎないというのが実情である。そしてこのことは理論的には原理的困難を提起するであろう。何故なら、それはPの構成諸部分の全体がどのようなものであれ、その一部分であるSの全体的資料批判の未遂という事実によって、Pの全体の資料批判の未遂を帰結し、従って、Pは全体としては、資料批判を受けない状態と変わりはないということになるからである。

 なるほど、Pの個々の部分の個々の資料批判はそれはそれなりに一定の確実な知見をその都度Pの文献性質についてもたらしてはくれるであろう。けれどもそれはあくまでも部分に限定された知見でしかない。どんなものについてもそのある部分に関する性質を直ちに全体に関する性質に推及することは原理的に許されない。むしろ、その部分が全体を表示するアナロジー的性質を持つと仮定される場合に限り、その部分から全体へのこの種の推及が許容されるのである。従って、どんなに厳密に行われたとしても資料批判が全体にわたらず部分的にのみとどまるものである限り、その成果に立って、全体に関して何かを立言することは理論的誤謬を免れない。

 もっとも、一定の資料批判の成果を全体判断として活かす可能性は皆無ではない。即ち、事実的には部分的にとどまるその資料批判の事実的限界を以て仮に全体と見立てるならば、その全体判断は理論的整合性を欠かないであろう。だが良識からみてそれは極めて片寄った判断であるに違いないと感じられるであろう。けれども現在までの文献学的資料批判の遂行者たちの大部分は、理論的に見ると、このようなかたちの作業を行っているのは後に見る通りである。

 それでは、資料批判の貫徹は可能ではないのであろうか。おそらく現在のようなあくまで緻密な文献学的作業方法を唯一の技術として頼む限りPの資料批判の貫徹は事実上不可能である。何故ならば、この技術ははじめから到達すべき終局のいかなるものかを知らないからである。けれども、もしあらかじめ、PならPの全体に関する資料批判の実行可能性を見極めることによって、その可能性の範囲内でそれを実行するならば、その限りにおける全体判断が獲得されるであろう。前者は現前する全体をまず懐疑してただ偶然手に触れ得る限りのものを以て全てと断定するのであるが、後者は既に現前している全体の姿形の一段進めた焦点化を目指すのである。哲学的探究の本来の性格が後者に近いものであることは誰も異存あるまいと思われる。そして実は、和辻哲郎『原始仏教の実践哲学』における仏教研究資料批判の画期的透徹の意味は、このような全体的資料批判の可能性を先取したというまさにその一点にあったと言うことができるであろう。それ故にまた、その上に立って思想的解釈可能性をも獲得することが出来たのであった。しかしそれは我々の見るところ、資料批判としても、思想解釈としても、決して満足の行くものではなかったのである。どうしてか?  

7.和辻哲郎における資料批判貫徹の新機軸

 では、具体的にはどのような風にして和辻はその資料批判を貫徹し得たのか。そしてそのどこに難点があったのか。 和辻はその『原始仏教の実践哲学』序論「根本資料の取り扱い方について」において、原典批評の現状が精密周到なものとして著しく進んで来たことを認めつつも、それが近い将来に一応完結し得るような容易なものではないと見ている。従ってもし思想の理解が完結した原典批評を俟つべきものならば、歴史的ブッダの思想の研究は開始され得ない。しかし和辻はここで思い切った提案を行う。それは原典批評の正しい方法を見つけさえすれば、我々に与えられたる資料の内にいかなる思想が存しそれがいかなる開展を示しているかを理解することが出来るという見通しである(注12:上掲『和辻哲郎全集第5巻』PP.11-12参照)。

即ちこれは、「主としてパーリ経律蔵及び漢訳阿含小乗律によって知らるる仏教」としての「原始仏教」を理解するためには、「主としてパーリ経律蔵及び漢訳阿含小乗律」から成る資料の一つ一つに対して「発見された原典批評の正しい方法」を適用して、結局原典批評と思想考察とを表裏一体的に且つ一挙に為し遂げることを意味する。それにしてもこのようなことはいかにして可能なのか? 和辻の実際の仕事振りを見てみよう。

 原典批評の正しい方法を見出すために和辻は近代仏教学開始以来の代表的研究者たちのそれぞれの方法の反省をまず行った。その初めには、パーリ経律研究の権威とされるオルデンベルクとリス・デヴィズが吟味される。最初に、オルデンベルクは二つの方法を混用することによって、現存パーリ三蔵の各部分の成立の継時的順番を決定した。その方法の一つは各部分の類型づけと各類型毎の成立年代の新古の別を明らかにするところの原典内在的分析方法である。もう一つは原典の文献的性質とは別の経律に関する伝説に基づく年代決定方法であり、これは原典超越的方法である。ところで和辻に言わせれば、この二つの方法は噛み合わない。何故なら前者はただ「現存パーリ三蔵の内部的成立順序」を明らかにするだけであり、他方後者が明らかにするのは「或る特定の経律の成立」ではあるが、これら二者がたとい名称を共有しても同一のものであることの保障はないからである。我々が確実に頼り得るのは現存経典とその確実な延長のみであるから、ただその原典内在的分析方法のみが正しい。かくして和辻はこう結論する「我々が氏に学ぶべきはただ現存経律に含まれたる種々の作品の類型を新と古とに判別するの一点のみである。」(P.16)(注13:括弧内のページは上掲『和辻哲郎全集第5巻』の頁を表わす。以下同様)

次にリス・デヴィズの場合であるが、彼の方法もやはり二つの方法の混用であり、先のオルデンベルクと異なるのは原典内在的分析の手法を一層進めて経典の類別ではなしに経典用語の種類、叙述の様式、表現せる思想(特に年代的意味を持つ仏塔崇拝の有無等)を手がかりにした点、及び考古学的及び歴史的証拠を以て年代決定に資せしめた点にある。しかしこれは原理的にはオルデンベルクと同様のものであって、「我々が氏に学ぶべきは」、「現存経律の発達を現存経律自身から見いだそうとする第一の方法……のみである。それが純粋に徹底さるることによって年代観もまた正しくつかまるるであろう。」(P.23)

 「以上のごとく我々はパーリ経律研究の権威たる両氏の説から動かし難い根拠を有する部分と動きやすい仮説に基づける部分とを判別し、現存経律の批評が現存経律自身の中から押し進められるべきであることを見いだすのである。動きやすい仮説の方面では仏滅年代、結集伝説、経律に関する伝説、アショーカ王誥の言語等に関して、原典自身の批評とは独立に精密な研究が行なわれねばならない。我々はその独立の研究が原典自身の内面的批評の結果と合致することを望むことはできるがその一をもって他の研究の根拠とすることは慎むべきである。」(P.24)

 次に、特に漢訳仏教文献を利用し得る厚遇に与かるわが国において顕著な漢パ対照研究を見てみると、これが漢パ一致するところにより古い同一源泉的な経律を見出すという当然ではあるがしかし資料発達の批判を欠く短絡的な方向に走って、直ちに歴史的ブッダの真面目にまみえるという「根本仏教」の叙述に達したのは、かえってオルデンベルクやリス・デヴィズの原典内在的研究の断絶を意味したものとして和辻により批判される。(PP.25-26)

 これに反し、原典批評をただ原典自身に基づいて遂行したものがオットー・フランケである。フランケは、言語学的分析により韻文のパーリが散文のパーリより時代が古いことを認め、韻文から成る部分(ガーター)を確定した。ところで現存経典の最古層を成すこのガーター(詩頌)は、「それに先立つ古経典」(すべて韻文パーリで書かれたる)を前提にしておりその部分的反映であるとされる。他方、歴史的ブッダの教説が直ちに全て韻文形式を持っていたとは考え難いから、「全て韻文パーリの古経典」は歴史的ブッダの教説の記録ではなくて「既に文学的作用を経た作品」である。そのようにしてフランケはパーリ経典の文学的作品としての特徴を解明する。ところが現存パーリ経典の構成順序に即した彼の文学的作品分析はその限りにおいて説得力を持つかに見えて、実はそれに相当する漢訳経典がそれとは全く異なる構成順序を持つという事実により完全に反証される。このことから言えるのは、現存経典を直ちにそのまま文学的創作の作品とみるのではなく、先立つ諸作品の単なる「編纂」と見るにとどまるべきであるということである、と和辻は結論づける。(PP.26-31)

 さてフランケが途中まで推し進めた所を更に徹底して行ったのが宇井伯壽の「原始仏教資料論」(注14:宇井伯壽『印度哲学研究第二』1925, 甲子社書房、東京、PP.113-260)であると和辻は言う。即ちそれは現存諸経典がそれらの編纂として成立した元のそれら古き諸作品の確定を試みたのである。事実、互いに相応する漢パ現存経典が夫々の仕方で編纂した際の元の素材的作品は共通的である。そしてそれらの経は、長部長阿含の対応部類に関しては、一、外道に対して仏教の優れたることを説くもの、二、仏教教理の大綱を説くもの、三、ブッダの超人たることを説くものの三類がある。また中部中阿含の対応に関しては教理の説明解釈を担う経が材料である。更に相応部雑阿含は同一項目ごとに分類された経を集成しており、増支部増一阿含は主題の名数を一から十一まで増上的に分類編集している。従ってここに編集編纂の意図が明らかである。ということは四部四阿含という現存の形に編纂されるべき多数の経典が当時所与としてあったということである。そしてそれら所与の経典が経律に見える「九分教」の意味するものである。そこで現存経典の中からこの「九分教」に比定されるものが選択される。

 これを補強すべく更に宇井伯壽「阿含の成立に関する考察」(注15:宇井伯壽『印度哲学研究第三』1926, 甲子社書房、東京、PP.303-418)は、広く多数の経を観察して、先ず以下の四類に属する多数の経はその形式から言って「ブッダの言葉」の記録ではないとする。即ち、一、仏滅後のものとして経自身が仏説ならざることを明示しているもの、二、ブッダ以外の者特に弟子信者の説教法談を伝えるもの、三、弟子の説法をブッダが承認したという形式のもので、この中にはブッダ在世時代には有り得ぬ事件等を描いたものがあり、ブッダの承認というのは単なる権威付けであって額面通りには受け取れない。四、ブッダの簡単な説法に対して大弟子の詳細な複演の付せられた経で、これは簡単な仏説の梗概要領に対する注釈である。ではこれら以外の経は果たしてブッダの言葉をそのまま伝えているのであろうか。問題なのは阿含中に著しい同一文の繰り返しである。個々の具体的な場合の活きた教誨であるはずのブッダの説法が、他の場合と同一の、言葉の末までも変わらない一定の型によって行なわれる。これは明らかに事実上の説法ではなく、説法の大意が型としてまとめられているのをここに用いたにほかならぬ。それではかかる型がブッダの説法の直接の梗概要領であろうか。否、これらは最初の溌剌とした梗概要領が記憶伝持せられ行く内に自然に沈澱凝固して最後に型となったものであろう。かかる型のでき始めるのはブッダの直接の弟子の時代ではなく、孫弟子の時代である。ここに固定的に維持する傾向が始まり、一定の型となれる偈文散文が生まれたのである。これがこの後代々伝承せられたいわゆる「仏語」であり、この仏語の周囲に説明解釈が起こってさらにこれらの説明解釈が型として伝えらるるのである。(PP.83-84)

以上は和辻による要約であるが、それにほぼ賛同しつつ和辻は型の固定の時期が孫弟子の時代(前320年頃迄)とする宇井説に対して、その時期は型化傾向の始まりに過ぎず、現存資料の示す多くの型が大体その時期に既に出来上がったのではなくて、型の漸次的発達を容認しようとする(P.84)。そこでその線に沿って和辻は具体的に、代表的な作品として内外の学者に最もしばしば論ぜられている長部大般涅槃経【マハーパリニッバーナスッタ】(長阿含遊行経)の分析を行なう。そして次のことが明らかにされる。即ち、「思うに涅槃経の編纂の際には、一方に涅槃に関する種々の説話が順列を定むることなく語られていたとともに、他方には仏の説法を綱目として簡単にまとめたものがいかなる時の説法とも定むることなく暗誦せられていたのであろう。この二種の材料は、一つは想像力に基づく文学的伝承であり、他は理論的興味に基づく教理的伝承として、最初より異なれる方向を示していたに相違ない。これらは最初の編纂において結合されはしたが、しかし二つの潮流が並び存し並び発達するに伴のうて、その後のはなはだしい増広を避けるわけには行かなかったのであろう。」(P.79)

 「我々はかくのごとき態度で現存の経典のうちに文学的及び教理的の発達の段階を見いだし、結局初期教団の内に行なわれた伝説や説法綱目に到達することができる。しかしそれらはすでに強度の神話化や型式化を経たものであって、史実をそのままに伝えるごときものでは決してない。我々に必要なことは、かくのごとき教団の伝承が現存の経典の核であり、この核のまわりに後代の種々なる発達が付着しているということを明らかに見きわめるにある。しからずして現存の経典を一人のブッダの思想の記録として取り扱おうとすれば、我々は到底これらの資料を学問的に取扱い得ずして終わるであろう。」(PP.82-83)

 このようにして和辻は現存経典の核として教団伝承があり、その伝承には文学的なものと教理的なものの二種類がある。そして教理的なものは思想内容の論理的な発達が諸短経の間の段階的な関係に反映しているから、この教理的発達の関連を複線的に明らかにするという明確な視点が得られると言う。「しかしなお一つ注意すべきことは、この際経典がその制作の中核たる動機において文学的傾向に属するか、あるいは教理を説く傾向に属するかを分別して考うべきことである。文学的作品はその本質の要求するところに従って、その想像力の働きの内に意義が見いだされねばならない。これらの作品もまたその当時の教理を物語の材料として用いている。しかし教理の理解に徹することはこれらの作品に必須のことではなく、また実際に徹しているとは言えぬ。具象的に描写するという要求は、時に思想をまでも神話化せしめているが、しかし文学的作品としてはむしろここに効績が認められなくてはならない。……なお理論的な経典自身の内にも種々の系統の相違のある事は見のがすわけに行かない。特に著名なのは、修定を強調するものと理論を強調するものとの差別である。この相違に着目すれば、経典中にはほぼ三つの大きい潮流傾向が並存することになる。我々はこの三者の間に時時矛盾撞着の存することを覚悟しなくてはならない。そうしてもしその間の統一を見いだそうと欲するならば、三つの潮流として発展しきたれる状態をそのまま結合しようと試みずに、その発展の源流においていまだ分化しきたらざる統一を追窮しなくてはならない。我々は多種多様なる経典を右のごとき視点の下に取り扱いつつ考察してみたいと思う。これによって五部四阿含に含まれたる個々の経全体の精密な対照や批評を完結することなくしても、初期仏経の思想に関する理解を望み得るであろう。」(pp.88-89)

 さて以上のように構想された和辻の資料取扱い法は、現存経典の内在的批判方法として徹底したものであるとされるのであるが、しかしその教理的なものと文学的なものの区分という方針は既に一定の文献観を表わしている。特に文学的なものの基準は神話化ということであって、これは全て神話的なものは単に人の想像力の産物であるという重大な決定を含んでいる。ではこの決定自身は、現存経典とは予め何の関係もない和辻の個人的信念以外のどこに根拠を持つのだろうか。この決定自体が既に和辻の拒絶する原典超越的要素を有する以上、その所期の純粋内在的原典批判法は成立しない。

 従って、先に和辻が「以上のごとく我々はパーリ経律研究の権威たる両氏の説から動かし難い根拠を有する部分と動きやすい仮説に基づける部分とを判別し、現存経律の批評が現存経律自身の中から押し進められるべきであることを見いだすのである。動きやすい仮説の方面では仏滅年代、結集伝説、経律に関する伝説、アショーカ王誥の言語等に関して、原典自身の批評とは独立に精密な研究が行なわれねばならない。我々はその独立の研究が原典自身の内面的批評の結果と合致することを望むことはできるがその一をもって他の研究の根拠とすることは慎むべきである。」(P.24)

と述べたことが破綻したものと見なければならない。そしてむしろ我々は言語学的内在的研究と歴史考古学的な外在的研究との積極的な結合を模索しなければならない。つまり、「オルデンベルクは二つの方法を混用することによって、現存パーリ三蔵の各部分の成立の継時的順番を決定した。その方法の一つは各部分の類型づけと各類型毎の成立年代の新古の別を明らかにするところの原典内在的分析方法である。もう一つは原典の文献的性質とは別の経律に関する伝説に基づく年代決定方法であり、これは原典超越的方法である。」ところで和辻に言わせれば、この二つの方法は噛み合わない。何故なら前者はただ「現存パーリ三蔵の内部的成立順序」を明らかにするだけであり、他方後者が明らかにするのは「或る特定の経律の成立」ではあるが、これら二者がたとい名称を共有しても同一のものであることの保障はないからである。我々が確実に頼り得るのは現存経典とその確実な延長のみであるから、ただその原典内在的分析方法のみが正しい。かくして和辻はこう結論する「我々が氏に学ぶべきはただ現存経律に含まれたる種々の作品の類型を新と古とに判別するの一点のみである。」(P.16)

 ところがこの和辻のオルデンベルク批判は当たっていなかったのである。実際ここで「現存パーリ三蔵の内部的成立順序」と「或る特定の経律の成立」とが絶対に折衝不可能であるという和辻の主張は必要以上に懐疑主義的であり、更には不可知論的でさえある。「二者がたとい名称を共有しても同一のものであることの保障はない」という命題が一般的に成り立つのであれば、和辻はあらゆる言語表現の可能性を否定したあのアンティステネスやスティルポンの立場に与したのである。むしろ我々はプラトンの打ち立てた弁証法に載って、二つの異なるものは或る意味では同一だが或る意味では違うという世界構造の中に住んでいるのである(注16:二瓶孝次,Article(arthron) in Aristotle and in the Stoa and its significance for the systematization of  the Greek eight parts of speech PART I.Plato as predecessor, 北海道教育大学釧路校紀要「釧路論集」第23号、1991, 第3 節及び注3[本ブログリンク]参照)。

従って原典内在的批判法と超越的批評法との折衝は研究上常に可能である。そしてこのことは一を他によって根拠づけることではなくて、夫々が持つ特質を持ち寄っての相互的援助と成長である。このようにして我々は近代仏教学の健全な出発点に新たに立ち戻ることになる。そして日本における現代仏教学の発展は実はこの健全な道を既に遥かに歩み来たっているのである。(例えば、中村元「原始仏教聖典成立史研究の基準について」参照。)(注17)

注17* この「基準」において中村氏は聖句の新古の度合いを判定する方法として大別して、
   一、聖典自身における引用言及という手掛かり、
   二、言語面における証拠、 
   三、歴史的文化的な証拠
を挙げている。このうち、一は、厳密に言えば、体系理論的か、又は二か三のいずれかに分類し得るものであり、結局証拠の種類としては、体系理論的、又は歴史言語的文化的の二種類が考えられるのみであって、項目二は、和辻の思惑とは違い、その本質においては原典超越的な歴史的性格の証拠なのである。なお、次注参照*

 
8.和辻哲郎『原始仏教の実践哲学』における原始仏教の哲学的思想論的研究の方法的開始

 しかし資料批判としての和辻の方法論の破綻は、原始仏教の哲学的思想論的研究の方法論としてのその意義と価値の喪失を直ちに意味するものではない。何故か?

 資料取扱いの和辻の方法は先に述べたように予め一定の思想的決定を含んでいたが、このことは厳密な資料批判としては避けなければならないことであるが、哲学的性格を持つ思想論的研究法としてならば反って必須の条件なのである。それがなければ同じ土俵に上ることが出来ないのである。従って和辻の資料論の意義は、文献学的言語学的批評としてではないような資料解釈が可能であるか、との問題提起にある。しかもこの問いは常に肯定で答えられ得る。何故ならそれはおよそ文献形式つまり言語表現を持つ思想の研究が可能か、ということなのだから、それは常に可能なのであるという理由による。事実、文献形式を持つ思想に関しては常に二種類の研究が可能である。一つはその言語的表現形式に即した研究、もう一つはその思想内実に即した研究である。そして原始仏教資料に関して言えば、和辻が追求した現存文献内在的批判とは実は本質的には超越的歴史的性格のものであって決して内在的なものではない。何故ならそれは言語学的研究であるがそれもそれによって時代的新古をあぶり出すのが眼目であるからである。即ちそれは古代インド諸語の一般的歴史チャートに重ねあわせて見えてくる経典諸部分の言語的新古の解析なのであるから、古代言語学史という経典外の基準に依頼していて、決して経典内在的ではない(注18: 和辻の思惑とは違って、経典の言語学的分析が歴史的性格を持つということは、例えば和辻自身が参照しているリス・デヴィズの言語発達段階仮説を見れば一目瞭然である。上掲『和辻哲郎全集第5巻』P.21, 注20参照)。

 それに対して和辻が最後に到達したのは確かに内在的研究の方法論である。というのも教理的発達の系統的研究ということは実は所与の文献の理論的体系的研究の一特殊形態(理論の発達史の研究)であって従って本質的に所与文献の限界内で遂行できる作業であるからである。これに対して文献を言語学的に取扱い、しかもそこに新古の推移を見ようとするのは歴史的言語学の応用であるから基本的に文献超越的な歴史的研究なのである。従ってそれは文献内在的でないとして和辻が退けた伝説や具体的事跡等の歴史的考古学的研究と同列のものである。つまり例えば、オルデンベルクの場合における「経典の言語学的類別とその時系列化」対「伝説的事実の考究」、及びリス・デヴィズの場合における「経典用語の種類、叙述の様式、表現せる思想(特に年代的意味を持つ仏塔崇拝の有無等)を手がかりにした文献研究」対「考古学的及び歴史的証拠による年代決定」を和辻は混用してはならない異質の二手法と見ていたが、実はいずれの二者も着眼すべき標識は異なるけれどもすべて歴史的本質において同一である。そしてこれら全てに対して、和辻の提起した立場こそが実は真に文献内在的研究法なのであり、これすなわち理論的体系的研究法にほかならない。なるほど和辻の企図する「理論発達史」は文字通りに解すれば純歴史的研究であるが、しかしここの和辻の場合はそれは論理的脈絡の発見による教理の発達的体系化を意味するのであって、要するに理論的体系構成の一手法でしかなく、これは歴史的に事実的な発達過程とは本質を異にするものである。それに対して本来の資料批判が目的とするのはまさにこの歴史的に事実的な発達過程の解明なのである。確かに、例えばヘーゲル的弁証法においては理論的展開と事実的発達との合致が理想として狙われているかのようであるが、現実には両者は完全には一致しない。

 ではここに至るために何故に和辻はこうまで文献学的資料批判の検討の迂路を回らなければならなかったのであろうか。それは仏教資料の歴史的研究として強固に自己確立しつつあった文献学的研究に対する哲学的理論的研究の自立の獲得のためである。

9.文献学的研究対哲学的研究

 近代仏教学固有の利点を成す文献学的言語学的研究の手法は、上に述べたようにその本質においては歴史事実的研究性格を持っているものである。しかしそれだけではまだ「仏教学」を形成することは出来ないのであって、それにどうしても理論的体系的研究がなんらかの形で伴なわなければならない。理論的体系的研究とは、研究対象を一なるものとして措定することから始まる。そこでもし「仏教学」が「仏教資料の思想的研究」であるのならば、そして文献学的言語学的資料批判の技術によって「仏教資料」がひとまず「事実的時系列的多様」へと分離・解体されるのであるならば、今度はこれらの多様を一において纏め観るのがまさに理論的研究(THEORY;テオーリア)である。

 和辻が初めから求めていたのは実にこのような理論的研究の立場である。しかし、こと仏教学に関しては当時はまだ少なくとも西洋哲学の伝統を引く日本の哲学界の中枢に位置する哲学者たちの一人であった和辻から見ると、仏教学への彼の早くからの実存的関心(注19:これは和辻の所謂「偶像再興」の動機、日本精神史への傾注と一体のものであろう)をいかにして哲学的学問的関心へと公然化することが出来るか、その展望は未開拓であった。そこで彼はどうしても仏教学専門の手法を無視し得ない感にとらわれ、哲学的動機を以てそこに敢然と跳び込んだのである。かくして『原始仏教の実践哲学』序言において和辻は言う、「この書の著者は仏教専門学者ではない。しかしこの書自身は原始仏教の哲学に関する純学術的な研究である。著者はその微力をもってなし得る限り学術的研究としての厳密な手続きを怠らなかった。」この場合和辻が単に哲学的な研究とは言わないで、「純学術的研究、厳密な手続き」ということを強調するのは、彼がこの時点では確かに仏教専門学者と同等の文献学的研究を哲学的研究の基礎として必須と見なしているからである。そして事実この言に違わず彼は「序論 根本資料の取り扱い方について」の六節と七節においてそれぞれ律蔵、経蔵の個別事例の資料研究を実践している。

しかし先にも見たように彼はその資料論の結語において、この種の資料研究は正しい方法が見つかりさえすれば所与資料全体に現実に適用し終わることなしにも思想研究は可能であるとしている。この結論は一見極めて逆説的である。一方において彼は現実的資料批判は貫徹が極めて困難であるとしながら、最後にはその事実的貫徹なしにも方途はあると言っているのである。この間の飛躍を彼はどうして為し得たのかと言えば、それは我々が指摘したように、資料批判の意味がこの間に全く一から他へと本人も気づかぬうちに転化しているからである。即ち、彼が追求した原典内在的資料批判は初めに近代仏教学者たちの文献学的研究にモデルを見ていたが、その到達した所は文献に密着した思想論的内在研究である。なるほど文献密着の一点において始終は筋道が連絡しているが、各活動方面は裏(文献の言語学的形式の歴史的系列化)と表(言表されたる思想の体系的解釈)に分岐している。そして彼の真の目的は後者にある。

「序言」で続けて和辻は言う、「しかしまたこの書は単に仏教研究家にのみ読まるることを目ざしたものではない。原始仏教の資料の内に見いだされ、そうして小乗大乗の哲学の源流となれる一つの独特な実践哲学を、一般の哲学研究者の関心の内に導き入れようというのが著者の目ざしたところであった。だから著者はこの独特な哲学の意義を哲学者の共有財としてでき得るだけ深く理解することに努力し、これを源流とする一つの哲学潮流への歴史的理解への道をも開こうとした。もしこれによってギリシア哲学の潮流に対立する他の思想潮流の特殊性が明らかにされ、哲学の史的考察において常にこの潮流もまた顧慮せられるに至るならば、著者の望みは足りるのである。不幸にして著者はおのが思索力の不足になやまされ、しばしばこの哲学の意義の深さを測りかねるという遺憾を感じた。この点において著者自身がさらに哲学的修養を重ぬべき必要を痛感するとともに、力量ある士がかかる理解の道をさらに徹底的に追究せられんことを望んでやまない。」(P.3 )

10.仏教資料の哲学的研究の出発点

 もし理論的体系的研究が研究対象を一なるものとして措定することから始まり、且つ、「仏教学」が「仏教資料の思想的研究」であるならば、そして文献学的言語学的資料批判の技術によって「仏教資料」がひとまず「事実的時系列的多様」へと分離・解体されるのであるならば、「仏教学」は今度はその理論的体系的側面の研究の開始を「仏教資料」の多様を一において纏め観るところに置くことになる。つまり、端的に言えば、技術的資料批判が完結していようがいまいが、「仏教学」が思想学研究として一応首尾一貫するにはなんらかの意味において資料の一体性を前提しなければならないのである。そこで事実的な歴史的研究としての仏教資料批判が原理上完全な完結を有し得ないとすれば(確かにこの種の研究の前途には完結することのない無限系列の事実が待ち構えている)、仏教学の思想学的自己展開は或る任意の線でその資料研究を打ち切り、自らの責任において対象資料の一括的提示を断行する所から開始する。ただし実際にはこのような方法論的プランは明確に自覚されていることは少なくて、大抵は文献歴史的批判と文献思想的解釈がごっちゃになっている。

 例えばそれは和辻自身がその資料批判としての徹底性を高く買っている仏教学者宇井伯壽の研究に対して指摘していることである。和辻は言う、

 「我々はオルデンベルクやリス・デヴィズから学ぶべき方法として、現存経律の製作年代や発達段階を、経律自身の含む種々の叙述形式、用語の種類、思想内容などより見分くべきことをあげた。次いで漢パ対照による経律の古き原形の探求が効果多かるべきことに言及し、さらにこの原形の経律をもフランケの試みしごとき作品としての取り扱いによって考察すべきであると論じた。これらの方法の意義を充分に理解し遺憾なきまでの精緻と透徹とをもって経律の取り扱い方を詳論したのが、宇井伯壽氏の「原始仏教資料論」である。

 宇井氏はブッダ及びその直弟子の思想の現われたものを根本仏教と名づけ、その後部派対立に至るまでの変遷発達の著しい過渡期を原始仏教と呼んで、これらの根本仏教、原始仏教の資料を現存漢パ経律の内よりいかにして見分くるべきかを論究した。まず初めに漢パのいずれを問わず経律の現形が部派時代に属することを論証し、五部四阿含の所説を直ちにブッダの言葉とするごとき態度が「言語道断」であるゆえんを明らかにした。次いで漢パ一致により推測せらるる原形も原始仏教以後の発達変遷を含みそのままにはアショーカ王以前の資料たり得ざること、この原形よりもむしろ九分教の方が古く、少なくともアショーカ王時代の資料たり得べきことなどを論じた。かくして我々の達し得る最も古き資料は五部中に含まるる九分教の古き部分及びそれと古さを同じくする律の古き部分であるとさるるのであるが、しかしこれらのものも言語学的な考察からアショーカ王以後に幾多の変遷を受けたことが推測され、従ってそのままには根本仏教の資料たり得ざる事になる。ここにおいて根本仏教は、何らか確実な標準の下に律九分教を批評的に取り扱うことによって、論理的推論の上に構成せられなくてはならない。そうしてその確実な標準とさるるものは、ブッダの重要なる事蹟とブッダ当時の一般思想と経律の古い部分の意味とから見いださるべき「ブッダの根本思想」にほかならぬ。

以上の論究は豊富なる材料と精密なる推論とによって試みらるるのであるが、しかし我々はこの論究の内に二つの動機が平行して働いていることを感ずる。一つは現存経律中より根本仏教の資料となるものを見いだそうとする動機であり、他は比較的古いと考えられる資料の解釈によってブッダの根本思想を確定せんとする動機である。後者は本来資料論の奉仕すべき目的として資料論の外にあるべきものであるが、この論文においてはそれが気短かにも資料論の内に現われ、しかも最後にはこの別途に得られたブッダの根本思想が資料批評の最後の標準とさるるに至っている。従って資料批評においてもブッダ根本思想の解釈においてもきわめて深い洞察が示されているにかかわらず、資料論全体としては不徹底の憾みを免れない。我々はむしろ、「経律のみではブッダの説を十分に知ることは不可能である」との断定をもって資料論を打ち切り、ブッダの根本思想はこの不十分なる資料の解釈に基づき氏のいわゆる「論理的推理の上に構成せられるもの」として資料論と引き離すべきであると思う。ブッダの根本思想についての氏の見解は恐らく現在において最も進歩したものであろうが、しかしそれは氏のいわゆる「真相の記されておらない」資料から、事実として認むべき仏伝の粗い輪郭を選び出し、その具体的内容を氏の追体験によって推測しつつ、その視点の下に資料を取捨して構成されたものである。それが真に歴史的人物としてのブッダの内生を言いあてているかどうかは、真相の記されていない資料から真相を掘り出す解釈理解の力に依属する問題であって、資料自身から権利づけられるはずのものでない。経律のいかに古い部分もブッダの言葉や生活をそのままには伝えず、ただ弟子の考察の跡を示すに過ぎぬとの結果に達したればこそ右の方法が取られるのであり、右の方法によってブッダの根本思想が知られたと考えれるる以上、さらにまたこの根本思想を標準として資料の批評確定を試みる要はない。目的はすでに達せられた。その目的を手段のために使用する人はあるまい。」(pp.31-33)

和辻がここで述べていることはまさに仏教学研究の正しい方法である。ただし和辻自身にも思い違いがあったのは先述の通りである。和辻の正しい方法の彼自身への正しい適用は、まさにここで述べられたように、資料批判は資料批判として一定の線で打ち切り、その限界内で思想解釈に取りかかるという形でなければならなかった。それが彼の場合は曖昧であって、資料批判の限界が隠蔽されている。それに対して宇井の場合は自ら資料批判の限界まで徹底することによりその限界を自覚したまではよかったが、専門家的意識に引きずられてこれを中途半端と感じ、更に思想解釈を以て資料批判の継続を企図したのは本末転倒であることは和辻の指摘が当たっている。(ただし、思想体系の確認の後にそれを基準として新たに資料批判を展開することは原理上可能である。また事実和辻が律の発達変遷を辿る時、偉大な宗教者たるブッダがしかじかの行為禁止の細目を命じたはずがない、という推論を行なっているが、この推論は内容からみれば正しいかも知れないが、歴史資料批判としては失格である。しかしこの推論形式はまさに始めに思想ありき、から出発して資料の歴史性を判断するのだから、和辻が宇井に対してとがめたことを和辻自身が行なっているのである。かくして、歴史資料批判は先述のごとく事実無限的過程であるから、それを別の角度から補う形で、理論的立場からの歴史資料批判が可能である。これについては別の機会に論じてみたい。)

 和辻がここまで思い到りながらも、自らの資料論の性格を読み切っていないのは、一つには当時におけるわが国仏教学の資料研究が彼自身言うように十分発達していなかった事情も影響しているであろう。又それに加えて、資料批判の技術を有する研究者がただそれだけの理由で自己の学問の全幅性(思想論的解釈も優越している、等々)を誇り、他の者を寄せ付けないという狭い学界の風潮に挑戦する必要もあったに違いない。しかし簡単に言って、言語が出来る人が直ちに優れた理論家であるわけではない。英語が出来るだけで思想家に成れるわけでもない。赤ちゃんも大学生もジョン・ロックも皆英語が出来るのである。

 逆にもしこれが必要程度に発達した状況にあれば理論的研究は自ら資料論に手を染めることなしに、与えられている資料論の諸成果から任意に適切と思われるものを「底本ないし底本群」として選び、その範囲内で体系的研究に専念してよいのである。そして現在我々はこのような幸運な状況にあることを認めることが出来る。

11.理論的研究のための仏教資料論の底本群の決定

 そこで我々は今、我々の仏教学研究としての理論的研究のための仏教資料論の底本群として

     中村元『原始仏教 1-5』すなわち、
        『原始仏教 1 ゴータマ・ブッダ 釈尊の生涯』
        『原始仏教 2 原始仏教の成立』
        『原始仏教 3 原始仏教の思想 上』
        『原始仏教 4 原始仏教の思想 下』
        『原始仏教 5 原始仏教の生活倫理』
(注20: 中村元選集第11-15巻,1969-1972 年,春秋社、東京)
を選択する。その主要な理由は次のとおりである。

 一、中村元の仏教資料研究は、我々がこれまで見てきた和辻及び宇井の研究の強い刺激のもとに行われて来たことが認められるので、我々にとって資料論の基本的連続が期待出来ること(注21: 中村元『今なぜ東洋か』1979年、TBSブリタニカ、東京、P.208 参照)。

 二、中村元の仏教資料研究は、世界的レベルで見ても最も進んでいるわが国の仏教資料研究の中で常に指導的であり且つ最も包括的であって、均衡を保っていること。

 三、これらの諸研究に関わる資料批判の基準が明記されていること(第六編参照)。
なおその他の研究者たちの諸研究も我々の理論的課題の論究の過程で適宜参考資料として参照されるのは当然であろう。

12.原始仏教の理論的研究の出発点

 研究資料の決定後直ちにその理論的研究に取りかかることが可能であるが、出発点をどこに置くかの問題は一義的には解けない。それは論究自体の究極目標に依存するであろう。そして我々のこの研究は和辻の開始した仏教哲学的研究の原理的延長たることを企図するものであるから、ここで先ずその先例を考察するのが我々の出発点の決定に役立つであろう。

 和辻は資料の取り扱い方を決定した後、理論的考察の最初にブッダの根本的立場を追求し、それをブッダ時代の社会思想史的展開におけるブッダの画期的回転として見ようとし、具体的にはブッダと同時代の代表的な思想家たちであった仏典に所謂「六師外道」の自由思想及び伝統的且つ支配的なバラモン思想との比較研究からブッダの新しい根本的立場を解明した。そしてそれは、伝統思想の形而上学的実在論と自由思想の感覚的唯物論のいずれとも背反する第三の立場であって、要するに形而上学的乃至反形而上学的性格を欠落した「法」(素朴なる、即ち主観客観未分化の日常生活的経験における現実存在の範疇:五蘊六入縁起等)の認識の立場であるとされる。(第一章)

 この結論はしばらく措くとしても、初めに社会思想史的比較によりブッダの根本的立場を解明するという着想は見事である。いわく「仏教の新しい立場は確かに仏教の根本思想の理解によって明らかにされるであろう。しかしその新しい立場が何に対する革新を意味しているかは、その時代の、あるいはそれ以前の思想を知ることなくしては明らかにならぬ。ただかかる思想を知る方法として、外から、すなわち後代に明らかな形を得た数論[サーンキャ哲学]の源流を推測しつつ考察するよりも、内から、すなわち仏教の経典自身の含む豊富な材料によって考察すべきだ…。前に述べたごとく経典に描かれたブッダは同時代の哲学的思索を真に哲学的思索として価せざるものと認めた。これらの斥けられた哲学的思索を明らかにすることは、やがて仏教の新しい立場を明らかにするゆえんであろう。」(P.99)

ブッダの思想的立場を同時代の思想潮流との比較から明らかにしようとするこの手法は社会思想史的・比較思想論的分析である。もっとも和辻はそれらに関する情報が他ならぬ仏典に記載されているからこれは内在的分析であると信じているが、ありていに言えばそれは違っている。社会思想史的・比較思想論的分析はその本質上超越的性格のものである。そのことにとって必要な情報がどこから得られるかは本質には関わらない偶然事である。ただしその比較的関係が「仏教によって斥けられた」との規定から考察されることは本質的なことである。何故ならこれはカントの所謂「無限的判断」(unendliche Urteile)を構成するのであって、無限的判断は「性質」(Qualität)の「カテゴリー」(Kategorie )において「実在性」(Realität),「否定性」(Negation)と並ぶ第三のカテゴリーである「制限性」(Limitation)を与える。そしてカントにあっては第三のカテゴリーは第一と第二との結合から生じるので、この場合も第三たる「制限性」(Limitation)は第一の「実在性」(Realität)と第二の「否定性」(Negation)との結合を意味する。即ち「制限性は否定性と結合した実在性にほかならない。」(注22: カント、篠田英雄訳『純粋理性批判 上』1961年、岩波文庫版、東京、P.143-157 参照)

 従って無限的判断へと換質可能な否定的判断は「制限性」という極めて理論的・思想的な重要な規定を与えるのである。例えば、「甲は乙でない」という「甲による乙の排除」を意味する否定命題は、換質(obversion )という論理学的手法によって、「甲は非乙である」という肯定命題に変換し得る(注23)。

注23* 換質(obversion )とは、「一つの判断の質を変じて、これと同一なる意味を現はさんと欲する論理的方法をいふ。 ……規則、一つの判断を換質せんと欲せば、先ずその客語を否定し、然る後その質を変ずべし、但し、その量を変ずる事なかれ。……「SはPなり」の換質は、「Sは非Pならず」となる。……「SはPならず」という否定判断の換質は、「Sは非Pなり」となる。」須藤新吉『論理学綱要』1947年、内田老鶴圃新社、東京、P.77-78参照*

 この種の命題をカントは「無限的判断」と言うのであるが、それは「非乙」という規定が「無限定的限定」となっているからである。否定が何故に一種の限定を成すかと言えば、否定は論理学的意味における「周延」(distribution)を有する(周延されている distributed)からである。

 周延を有するということは一種の閉空間を成すということである(注24)。

注24* 「ある命題において一つの名辞が周延している(distributed )とは、その名辞の外延のすべての要素について一定の関係が指定されていることを言う。そうでない時、その名辞は周延していない。」末木剛博・岩野秀明・石垣寿郎・丸山豊樹・石黒満・國嶋一則『知の根拠としての論理学』1987年、公論社、東京、P.72参照*


従って「甲は非乙である」という判断は少なくとも「乙という規定との関係から生じる非乙という規定」を明確に有する点で「制限性」を持つのである。要するにこの場合、甲は積極的にそれが何であるかは明きらかではないが少なくとも「非乙の範囲内」に入っていることは確実である。

 これは思想研究の比較的手法における極めて重要且つ効果的な論理学的要素である。我々も先ずこのやり方を以て出発点としたい。即ち、今、「ブッダによって斥けられたる哲学的立場」を記号Qで表わせば、B(釈尊の悟り自体)に関して、「Bは非Qである」という制限的規定が得られることになる。つまりBは今積極的には何であるとも明らかでないが少なくとも「非Qの範囲内」に所属することが確実である。このように制限されたBを、B(非Q)と表記しよう。他方、本来の資料批判によって到達されるE(初期仏教経典)の解釈によって知られる限りのBを、B(E)と表記しよう。そうすると、B(E)は少なくともB(非Q)の範囲内に属していなければならないことになる。何故なら、B(非Q)は超越的比較から見たBの制限的規定であるから、単にEに即して内在的に見られたB(E)よりも範囲が広いからである。換言すれば、B(E)はB(非Q)という制限の外にはみ出るような哲学的含意を持つ解釈であってはならないのである。(以下中篇)

(初出「北海道教育大学学紀要(第一部A)第45巻1号」1994)
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