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§1 仏陀再誕と仏陀出現

大川隆法主宰「幸福の科学」の仏教論的意義

§1.仏陀再誕と仏陀出現

 大川隆法主宰「幸福の科学」(平成3年宗教法人認可)の教義の中核は、仏教の継承・再興と新展開、に存している。このことは、大川隆法「幸福の科学」主宰(現総裁)自身が、ブッダ・ゴータマ・シッダルタ、即ち古代インドでそもそも仏教を創始した釈尊その人の、現代における生まれ変わりである、との宣言と直結している(大川隆法:『釈迦の本心』『仏陀再誕』(以上、角川文庫)、『永遠の仏陀』『真説・八正道』『悟りの 挑戦 上・下』『沈黙の仏陀』(以上、幸福の科学出版)等、参照。)。

そこで我々は真摯なる哲学道徳宗教思想研究者として、この宣言を重く受け止め、出来るだけ包括的にこの事態の真理の追求に取り組もうと決意した。何故なら、従来、人類の精神的教師の一人として世界史的に尊崇されてきたという実績のある仏教の開祖釈尊の魂が、我々と同時代に、しかもこの日本に、現に転生しており、既に法を説いているということの真偽問題は、切実な人類史上の意義如何という大問題としては言うに及ばず、単に学問的観点からだけでも限り無く巨大であろうからである。

 ところで、仏陀再誕問題は、仏教論的には、二通りの見方から検討され得る。というのは、そもそも、仏陀再誕に関して、小乗仏教(今この呼称は単に原始仏教と部派仏教の総称として用いる)はその可能性を原理的に否定していると共に仏陀出現の一般的可能性を認めていると考えられるし、他方大乗仏教は、原理的に仏陀再誕の可能性を認めていると考えられるからである。つまり小乗仏教では、究極の悟り(涅槃)を得るということは、転生輪廻の流れからの離脱としての解脱と考えられており、むしろもはやこの世に再生再誕はしないということが、仏陀(覚者)の必須条件とされていると解されるのである(M.エリアーデ、P.クリアーノ『エリアーデ世界宗教事典』奥山倫明訳、せりか書房、1994年、P.279参照)。

とは言え、そこでも<過去七仏>の思想というものがあり、仏陀という覚醒的人格は、釈尊の前にも既に六人いて、釈尊はその七人目にあたるとされており、誰でも悟りの結果として仏陀と成り得るのであるから、常に、仏陀出現の可能性が語られ得るのである。他方大乗仏教では、一大事因縁(諸仏世尊は、唯、一大事の因縁を以ての故にのみ世に出現したまへばなり。)として、既に悟った筈の仏陀が、無明の迷路に漂う衆生の救済という大目的のためにこの世に生まれ落ちる、即ち現実的に転生のプロセスの中に入ると認められているのである(『国訳一切経 法華部全一』大東出版社、1985年、「妙法蓮華経」P.41)。

 ここでは、まず、小乗仏教的観点から検討を進めてゆくとしよう。即ち「幸福の科学」で説く仏陀再誕の問題を、仏陀出現の問題として提起し直す。つまり、誰であれ、仏陀釈尊の再誕者であるということは、何はともあれその人は現に仏陀として悟りを得ている者であることになる。そこで問題は、仏陀とはどのような人なのか?、どのような条件が備われば仏陀と認定され得るのか?ということになる。要するに、人はいかにして仏陀に成るのか? 仏陀出現の根本的ファクターは何々か?が先ず解明されなければならない。

 この問題は簡単に答えられそうだが、しかしよくよく突き詰めて見て行くと、従来の諸研究では必ずしも明確な結果が出ていない。確かに、厳密に考えると、「仏陀を知る者は仏陀のみである」ことになる。そして現に仏典にもこれに似た表現が見られる(仏の成就したまへる所は、第一希有難解の法なり。唯仏と仏とのみいまし能く諸法の実相を究尽したまへばなり)(『国訳一切経 法華部全一』大東出版社、1985年、「妙法蓮華経」P.37)。

しかし厳密にそうであるとするならば、「各人は、仏陀であるか、または仏陀でないかのいずれかである。そして自分がそう思うままに仏陀であり、または仏陀でない。」という完全にプロタゴラス的な認識相対論の世界に迷い込むことになる。

 ここで我々は、道徳性の発達段階論を提起したローレンス・コールバーグの考え方に頼ることにしたい。彼の見解によれば、人は使用可能な段階より比較的高い段階を使用出来ないまでもそれを理解することが出来るという。即ち、道徳性の発達段階が仮に最低の1から最高の7まであるとして、或る人が現に使用可能な段階、つまり彼が理解でも行動でも実現している段階を5とすると、それより上の6ないし7の段階について、彼は理解することが出来るのである。ただ彼に欠けているのは、現実的にそれを行動面で行使する能力である。これがもし現に使用可能な段階が2や3とすると、6や7の段階を理解することも出来ない状態であることになる(L.コールバーグ『道徳性の形成』永野重史監訳、新曜社、1987年、PP.56-58参照)。

これは我々の日常的経験に照らしても首肯し得る見解である。従って、現に仏陀でない人も、仏陀の状態に関して一定の理解を形成することが可能である、という前提から我々はスタートすることが出来る。その際我々の現段階がどのあたりにあるかの確認はさしあたり必要ではない。ただ仏陀に関する知的・実践的関心があるということで、この際、充分である。

[初出: 二 瓶 孝 次:  大川隆法主宰「幸福の科学」の仏教論的意義  ~ 成道(悟り)の弁証法的構造 ~  北海道教育大学紀要(第一部A)第46巻2号,1996]
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