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日付のある預言詩4:VI-54 

日付のある預言詩4:VI-54

第六サンチュリ54詩(§712):
夜明けに雄鶏の二番鳴きがある時刻に、
チュニス、フェズやビュジーの人々、
かのモロッコ王が、アラブ人たちによる捕囚になるだろう。
教会典礼の、「1607年」。


この詩を"A nice, clear failure"と一蹴した懐疑主義的傾向の強い英語圏の著名な解釈者(Leoni, 1982, p.665)に対して、ノストラダムス予言詩への確固たる信念を有するフランスの20世紀初頭の研究者エリゼ・デュ・ヴィニュワは次のような貴重な考察を残してくれた 。

「大統領七年任期制票決(1873年11月20日) 史実: 国民議会の夜間開催中に提案された大統領七年任期制の票決は、ペトロに対するイエスの次のような言葉を思い起こさせた: 『明け方、雄鶏が二度目に鳴く時、君は私を三度知らないと言ってしまっているだろう。』(マルコ伝、14章30節)ユダの忘恩行為によって武装した軍団に渡された大聖師のように、シャンボール伯(1820-1883)は、自分の先祖たちが為した功績に含まれるアフリカの門戸開放で裨益した人々が自分に反対するのを眼にした。彼は、アラブの人々と関わりがある故に『アフリカ人達』と呼ばれていた人々によって、『白百合の王』(フランス王)たるを否認された。注記: チュニス: チュニジアの首都;フェズ: モロッコの町;ビュジー: ブジー、アルジェリアの町。アラブ人たちによる: オルレアン家の人たちはアフリカで戦ったことがあり、イギリスの血を引くマクマオンは、兵士としてアルジェリアで勤務し、アラブ人達の知事を務めたこともあり、ロシア人達に勝利したこともあり、本詩の地名の全てを以って語られる彼独自の冒険譚の主人公である。」(Vignois, 1910, p.355)

4行目の氏の解釈は混乱を招くだけなので省くが、1行目の新約聖書の故事に拠り、2-3行目の地名との深いゆかりをバックに、マクマオン大統領とシャンボール伯という二人の主要人物を登場させ、大統領任期七年制(Septennat)の導入とブルボン王政復古の最終的挫折という1873年11月のフランス政治史上の一大事件を本詩に比定したヴィニュワの発想は「慧眼」と言うべきだろう。

新約の故事が、「大いなる人が敵に渡される弟子の裏切り行為」を意味するとして、1873年の構図は、「大いなる人= 正統王位要求権を有つブルボン家当主たるシャンボール伯」が「敵に渡される=立憲共和主義派が目論む王政復古挫折へと追い詰められる」「弟子の裏切り行為=元々の正統王政主義者マクマオン元帥・大統領が筆頭大臣ブログリ公初め側近のオルレアン派=反シャンボール派の有効な工作に巻き込まれ、王政復古推進に傾注しないで結果的に自らが任期七年の大統領に成る」という事になるだろう。

つまり、詩文の「かのモロッコ王」とは、ノストラダムスの「王」という用語が常に、「王もしくは王に似た政権担当者、大統領・首相等、もしくはそれに匹敵するような指導者」を指すことに合致して、ここでも「時のフランス政権元首たるマクマオン大統領」を表す。何故「モロッコ王」かと言えば、ヴィニュワの言うように、彼が軍人として、また軍人行政官として、アフリカのフランス植民地に長く勤務した経歴から理解出来る。更に、「モロッコの」という原文フランス語はMaroqであるが、その先頭2文字Maは、マクマオンMac-Mahonの二重のMaを暗示するだろう。

歴史年表によってこの出来事の概略を示そう。
「1871年2月8日 国民議会議員選挙:王党派圧勝。
1871年2月12日 国民議会、ボルドーで開会される(~3月11日)。
1871年2月17日 ルイ・アドルフ・ティエール、国民議会で行政府長官に選出される。
1871年2月19日 国民議会、ボルドー協約を承認し、政体の決定を平和回復後に持ち越すことに同意。
1871年3月10日 国民議会、ヴェルサイユへの移転を決定。
1871年5月10日 ドイツとフランクフルト講和条約を締結:賠償金の支払完了までの独軍の駐留を規定。
1871年8月31日 国民議会、リヴェ法を制定:政体確定の権限を議会に帰属させる。
1871年8月31日 国民議会、ティエールを共和国大統領に指名。
1873年9月16日 ドイツ軍のフランス撤退完了。
1873年      補欠選挙:共和派進出し、反ティエール派議員が多数を占める。
1873年5月24日 ティエール大統領、王党派の攻撃を受けて辞任(1871~)。王党派のモーリス・マクマオン元帥、後任に選出される(~79.1)。
1873年8月    ブルボン正統派のシャンボール伯とオルレアン派のパリ伯、和解して王政復古を企てる。
1873年10月27日 シャンボール伯、三色旗を拒否したためオルレアン派との合同が破れ、王政復古運動失敗。
1873年11月20日 議会、マクマオン大統領の任期を7年に延長する七年制法を可決。」
(石橋秀雄・松浦高嶺他編『世界史大年表』、山川出版社)

この詩で注意すべきは、地名と固有名詞から、テーマはアフリカと見られがちだが、最初の「聖書故事」と最後の「教会典礼Liturgy」という用語は、明らかに「キリスト教圏」を示唆する。それとアフリカ、具体的にはアルジェリア、チュニジア、モロッコの人々との関わりが含意されている。北アフリカのこれらの地は、フランスの植民地政策の対象になった。その点、ヴィニュワの読みは当っており、「かのモロッコ王」=「フランスの北アフリカ植民地で兵士として勤務し、行政経験もあるマクマオン大統領」という意表を突く見事な解読も、その設定者ノストラダムスの巧みな腕前と併せて肯ける。

但し、アルジェリアは1830年代からフランスが浸透して行ったが、チュニジアは1870年代から、そしてモロッコは20世紀初めからであったから (cf. Palmer, 1962, p.10, p.289, p.190)、そこに当該地に対するフランスの浸透度に差異が見られる。そしてマクマオンが関与したのはアルジェリアだけで、従ってヴィニュワの解釈は正確ではない。しかし、これら北アフリカの3地名は、フランス国民議会の諸派の色合いを象徴していると考えられる。即ち、1873年11月19日 - 20日の夜の議会で可決された大統領七年任期制法については、その反対票317に対する賛成票383のうち、政府を全的に支持するオルレアン派を中核にした右派勢力が大部分であり(a)、共和派の一部(b)と最右翼たるシャンボール支持派の一部(c)が加わっていた (Seignobos, 1921b, p.377)。従って、それらのマクマオン政権に対する親疎の度合いは、北アフリカ3地域に対するフランス勢力の浸透度の差異に対応するものであって、その意味において預言者は、これら北アフリカの地名をフランス政治の画期的な基本法制の確立に関する預言詩の中に嵌め込んだのであろう。

では、「アラブ人たち」=「オルレアン家の人たち」という読み方はどうか。確かに、シャンボール伯の祖父シャルル10世が開始したアルジェリア出兵(1830年)を、その王を七月革命で放逐して王位に就いたオルレアン家のルイ・フィリップは引き継ぐ形で1834年にはアルジェリア併合を成し遂げた。彼の治世下(1830-1848)、北アフリカ植民地化と共にその一族のその地への関連が深まったのは疑いない。又、「アフリカ人たち」という語は、「モロッコ王たるマクマオン大統領」に対しては「その臣下たち」というニュアンスを有っているはずだ。事実、偉大な軍人ではあっても政治に疎いマクマオンから政府の実権を委ねられていたブログリ公はオルレアン派リーダーであったから、「アフリカと関わりのある」「臣下」という2条件を満たした人物である。

「オルレアン派リーダー達は、自分たちを敵と見なす習いがあり不可抗力的に自分たちを政権から遠ざけ自分たちよりも自陣正統派の者を優先させる資質の王が即位するのを望むことは出来なかった。彼らは議会制度と三色旗にあくまで固執したのであり、個人政治と白色旗に公然と身を捧げるという君主を恐れていたのである。彼らは、政体と旗に関する公式の保証を担保することなしにアンリ五世(シャンボール伯)を復古させる事が無いよう動いた。それが失敗した場合の策をオルレアン派の者たちは用意していた:将来的留保を伴った暫定政体の下での、元帥(マクマオン)の政権延長。」(Lavisse, CVII, p.366)

「その下でキャリアを開始した正統王政に尊敬の念を持っていたマクマオンは、議会から一個のポストを守るよう任務を負わされ、議会の命令があればそれを正統の王に返却する心積りがある一兵卒として自分を見ていた。しかしながら、オルレアン派の側近達に囲まれ、自らは三色旗に深い愛着を感じていた彼は、王政復古を促進するような策は何も取らなかった。」(id.)

これは正に、「かのモロッコ王(マクマオン)が、アラブ人たち(オルレアン派)による捕囚になる」図に外ならない。

では、そういう状況だとして、本詩の主役と言うべき「シャンボール伯」は詩文中のどこに示されているのだろうか。それは、教会典礼の、「1607年」という最終行以外にはない。幸いにも、我々は既に、「ガリレイの宗教裁判を扱ったVIII-71詩の1607年」が、「1607年という暗号で示された人物」つまりガリレオ・ガリレイを意味することを明らかにした。従ってここでもそれは暗号として機能していることが推測される。つまりVI-54詩は19世紀後半のフランスの政治状況を扱っているが、ここでの「或る人物」(詩文中には表されず、その代りのように「1607年、典礼の」という正に暗号が置かれている)の運命が、あたかもVIII-71詩で「1607年という暗号で示された人物」つまりガリレイにそっくりである、という解釈が通るのではないか。その際、「1607」の「7」という数は、ここでは「大統領任期7年制 Septennat = Septennate」の「7」を示唆している筈だ。
事実、マクマオン大統領とシャンボール伯、及びそこにオルレアン派の人々を介在させた関係は、時の教皇ウルバヌス八世とガリレイ、及びそこにドミニコ会とイエズス会の修道士たちを介在させた関係に重なるのである。

「初めはフィレンツェでもローマでもガリレイは優れた学者として歓迎され支持された。1610年末から翌年にかけてのローマ滞在では、法王以下望遠鏡に興じ、ガリレイはローマの少数の優れた自然研究者の集まりであるアカデミア・デイ・リンチェイの六人目の会員に選ばれた。しかし次第にアリストテレス学者・神学者の間に敵が出来て行く。1613年には『太陽黒点についての手紙』が出版される。黒点の運動は太陽そのものの自転であり、黒点は太陽自身に属すること、従って太陽は地上の物質とは全く異なる物質から成ると考えるべき理由がないことを示した。そしてこの手紙でコペルニクス説の正しい事を初めて明言した。そして既にその前年から一、二のドミニコ会士により、説教壇から、コペルニクス説が聖書の所説に反するという非難が始まっていた。ガリレイは聖書と自然学との関係についての所見をカステルリ宛の手紙で述べた。この手紙は写しによって流布した。二年後ガリレイはこれをもっと詳しく書き直し、これは『大公妃クリスチナへの手紙』として広く読まれる。

しかしコペルニクス説を是とするのみならず聖書解釈にまで立ち至った事がドミニコ会士を刺激した。秘密にローマの審問官への告発が行われる。ローマではブルーノを処刑した枢機官ベラルミーノがまだ生きており、コペルニクス説は教会のドグマにとって有害であると考えていた。秘密に行われた審理(1616年)の結果は大体次の如きものであった。第一、コペルニクス説は哲学的には不合理であり、神学的には誤謬である。第二、しかしガリレイ自身には教会の信仰に反する主張は認められず、咎める事は必要でない。

ガリレイは、古いアリストテレスの自然学を批判しうる機会を逃さなかった。その機会の一つは1618年に出現した三つの彗星についてローマのジェスイット学院教授グラッシが書いた論文によって与えられた。グラッシに対する批評は穏やかであって、グラッシが採っていたティコ・ブラーエの遊星理論の批評という形になっていた。しかしこのジェスイットの教授は激しい反撃の論を書き、結局ガリレイは長い駁論を書く(『試金天秤』1623)。ここにガリレイの自然学の立場が論争の間に明確に表明された。この著が刷り上った時、ガリレイの旧知の枢機官マフェオ・バルベリニが法王に選ばれ、ウルバン八世となった。この人はガリレイの旧い友人であり、いつも彼に好意を寄せ、先の1616年の審議においても、コペルニクス説を「異端」とせず「誤謬」とするに止むべし、と主張した人であった。ガリレイは大いに喜んでこの著に新法王への献辞を添えて出版する。

次いでガリレイはローマに行って法王にまみえ、度々親しい談話を交わした。そして彼は新法王にコペルニクス説の禁止を解いて貰おうと何度も試みた。しかし法王はそれを聴かなかった。ただ最後に、コペルニクス説を仮説として扱うべきこと、及び自然学の真理を超えた神の全能の意志があることを最後に結論として認むべきこと、この二つの条件を満たすならば、対話の出版は許されるであろう、と個人的にガリレイに告げた。ガリレイはこの示唆に力を得て1625年に稿を起し、ほかの仕事や病気に中断されながらも書き続け、30年初めになって一書を完成する。これがいわゆる『天文学対話』詳しくは『プトレマイオスとコペルニクスとの二大世界体系についての対話』である。ガリレイは原稿を携えてローマに行き出版の許可を求めた。検閲官は彼の知人であったが、法王の意向を忖度しながらの検閲は遅々として進まなかった。1631年、ようやく出版許可が与えられ、翌年二月に公刊される。ガリレイのこの書が忽ち多くの読者を魅了したのに不思議はない。

しかし俄然ローマの雲行きは怪しくなった。二月に出たこの本は八月に法王庁から販売停止を命ぜられる。ジェスイット達の告発があり、法王はガリレイを罰して世のみせしめにする決心をする。学芸を愛し豪奢を好んだこの法王は人を許さぬ権力人でもあって、ガリレイに籠絡されたと感じたらしい。ガリレイは宗教裁判所に出頭を命ぜれられ、病中延期を乞うて許されず、1633年初めローマに行く。ガリレイの書の検閲官は免職される。

審問は1632年4月初旬に始められた。数回の審問の後、裁判長は夜ひそかにガリレイに利害を説き、ガリレイが自ら進んで、今度の書物は不謹慎であったと認めるように勧め、ガリレイも致し方ないとして、事実上、自らの非を言明することを約束した。次の審問の席で彼は、自著を再読して、自分の心得違いからコペルニクス説の弁護と読める議論をしている事を見出したことを認めた。こうして五月初旬、ガリレイは拘留を解かれて、宿所であるフィレンツェ大使館へ帰った。人々はこれでもう大事は去ったと喜んだ。

しかるに六月に入って、法王司会の下に秘密会議が開かれ、ガリレイをもう一度「厳格な審理」にかけてその意図を訊し、異端者として罰する事に決まったのである。「厳格な審理」とは、真実を言わぬ時は拷問に掛けると言う意味である。情勢のこの急変は、先の裁判長がガリレイを欺いて罠に掛けたのでなく、また法王が特に命じて厳刑に変えさせたのでなく、ジェスイットの策謀により、ガリレイの申し開きを無視した報告が秘密会議に提出されていた為であった。6月21日ガリレイは呼び出され厳しく追及される。翌日ガリレイは、異端の囚人の服である白衣を着せられ、多くの役人の集まる場所で判決を受け、誓絶文を読まされた。判決は終身禁錮であった。しかし判決文は、ジェスイットの策謀通りに書かれず、また十人の審問官中三人は、明らかにこの判決を権威の誤用と認めて、署名をしていない。法王の意もガリレイを土牢に入れることにはなく、終身禁錮も直ちに監視付きの軟禁に改められる。判決後ガリレイの身柄をしばらく預かったシエナの大司教ピコロミーニはガリレイを賓客として扱い、ローマの裁判は誤りで無効だと公言し、ガリレイを諸国の学者や文人に自由に会わせた。『天文学対話』は、禁書となったが広く読まれ、1637年にはドイツでラテン語に訳される。」((野田又夫『ルネサンスの思想家たち』岩波書店、東京, 1982, p.303-311)

以上のように、ガリレイ裁判を仔細に検討すると、

かのモロッコ王(マクマオン大統領=教皇ウルバヌス八世)

アラブ人たち(ブルボン本家に反対のオルレアン派の人々=宗教裁判創始時の裁判を委任された伝統のあるドミニコ会士達と狭量過激なイエズス会士達)

による捕囚になるだろう
(マクマオンは側近である彼らの策謀に乗せられて尊敬するシャンボール伯をフランスから追放する結果に等しい大統領七年任期制法を議会で通した=教皇ウルバヌス八世は部下である彼らの策謀に乗せられて旧友たるガリレイを宗教裁判で有罪にした)

という予言が時を超越した如く互いに重なるのである。

最後に参考のため、ガランシエールの英訳を掲げておく。彼はここでは年を副詞句にしている。
At the break of day, at the second crowing of the Cock,
Those of Tunis, and Fez, and Bugia,
By means of the Arabians, shall take Prisoner the King of Morocco
In the year 1607. by Liturgie.
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© Koji Nihei Daijyo, 2010. All rights reserved.
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