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§861 イギリスの植民地支配の350年(1600-1947): X-100

世界史の中の日本2

§861
イギリスの植民地支配の350年(1600-1947): X-100

日本に関するノストラダムスの預言詩は、21世紀及びその遙か先へと展望する20世紀の締め括りとして登場する幸福の科学関連の16編 (§931-§946:大団円としての幸福の科学参照) を除くと、第二次世界大戦とその直後の期間に限られる。そしてノストラダムスの視野は、原爆被災等の戦禍をそれとして取り上げるのではなく、世界史の動向の中での日本の客観的位置づけを見落としていない。その場合、植民地帝国・イギリスを中心とした西洋列強の世界編成の中で、その植民地体制を破る働きが日本の動向の特徴として預言されている。そして初篇は「対
米英戦争」開始の預言詩であり、それは従来の見方のように、「パールハーバー奇襲戦」にのみ特化したものではなく、もっと広い客観的視野から見たものである。

先ず、大前提となる「イギリス植民地帝国」の長期の支配を扱う預言詩 X-100を検討してみよう。

X-100
(§861): イギリスの植民地支配の350年 (1600 - 1947)

イギリスによる大帝国は、
300年以上の総河支配であるだろう。
大軍隊が海上にも陸上にも進撃するであろう。
ルシタニア人達はそれに満足しないであろう。

350 years of the British Empire by colonization (1600 - 1947): X-100.

The grand empire by England shall be,
The All-River of more than 300 years.
She shall dispatch grand troops by sea and land,
The Lusitans shall not be content with it.


( Le grand empire sera par Angleterre,
Le pempotam des ans plus de trois cens.
Grandes coppies passer par mer & terre,
Les Lusitains n’en seront pas contens.)


イギリスによる大帝国」:=大英帝国 the British Empire. 16世紀以来、海外に領土を獲得したイギリスの別称。最盛期には全世界の4分の1に達した。帝国の歴史はおおまかに、1763年のパリ条約で完成する<旧帝国>、つまり重商主義政策を前提とし、西インド諸島や北アメリカ植民地を核とする段階、②政治的な支配地域の拡大よりも、自由貿易主義をふりかざしつつ、圧倒的な生産力にものをいわせて実質的な経済支配を拡大した<自由貿易帝国主義>の段階、③工業化の波が若干の欧米諸国に広がり、競争が起こった結果、ふたたび政治的支配を含む古典的な植民地政策が展開される<帝国主義>の段階、④<コモンウェルス>の概念が導入された1931年のウェストミンスター憲章以後の、いわば帝国衰退期、の4期に区分することができる。1516世紀のカボット父子による探検をはじめとして、とくに16世紀後半にはR.ハクルートのキャンペーンを背景に、新世界を中心として探検航海がしきりに行われた。その結果、1607年には、北アメリカのジェームズタウン(現、バージニア州)に永続的な定住地がつくられ、やがてニューイングランド、バージニア、カロライナ、ニューファンドランドなどの北アメリカ植民地が成立した。カリブ海の西インド諸島でも、バルバドスなどに早くから拠点が築かれた。しかし<旧帝国>の枠組みが確立したのは、ピューリタン革命期で、クロムウェルによるアイルランド征服、ジャマイカ占領、東インド会社改組などがなされたうえ、重商主義的植民地政策の基礎をなす航海法の体系も整備された。王政復古(1660)後、3度にわたる対オランダ戦争に勝利したイギリスは、名誉革命以後、ファルツ(アウクスブルク同盟)戦争、スペイン継承戦争、オーストリア継承戦争、七年戦争という四つの対フランス戦争を通じて北アメリカの東半部、アイルランド全域等、からなる<旧帝国>を完成する。さらに、七年戦争でフランス勢力を駆逐したインドでは、ベンガル地方の徴税権を握るなど、領土的支配の確立をめざす動きを示した。しかし、まもなく北アメリカ13植民地が独立(1776)、<旧帝国>の構造が崩れたため、しだいに帝国の重心はインドに移る。重商主義時代に重要であったカリブ海の砂糖、バージニアのたばこ、それらの生産の前提となった奴隷などに代わって、産業革命の原料となる綿花の供給、綿布市場、生活様式の変化に伴う茶の供給などが重要になったことも、こうした変化の背景をなしていた。奴隷貿易の廃止(1807)、航海法の廃止(1849)などにみられる自由貿易政策がとられた19世紀前半には、チリ、アルゼンチンなどラテン・アメリカ諸国の経済を事実上支配下に置いた。しかし、1857年のインド大反乱(セポイの反乱)を契機として、再度政治的支配領域の拡大にのり出し、まずインド全域を直轄化、これと前後して中近東や中国にも進出、セシル・ローズの策動などによってアフリカでもケープとカイロを結ぶ縦断政策を展開、他の列強と激しく対立した。第1次大戦後は前記ウェストミンスター憲章で各自治領の事実上の独立が認められ、第2次大戦後はインドも独立し、帝国は急速に解体されつつある。」(川北稔「だいえいていこく」『平凡社大百科事典』1985年、第8巻、P.1163)。

イギリス植民地の例示(全領同時的に非ず):西インド諸島、北アメリカ、ギアナ、アイルランド、インド及びその周辺地、南アフリカ、北東アフリカ、南西アフリカ、イエメン、オーストラリア、ニュージーランド、マラヤ、ボルネオ、ニューギニア、フォークランド諸島、セントヘレナ(『平凡社大百科事典』
同上、1775年と1914年の大英帝国の主要領土地図)。

総河支配」:原語 「pempotamパンポタム(パンポタン)」 は、ギリシア語「パーンπ
ν (pān, 全て, all)」 と「ポタモスποταμός (potamos, , river) の合成で、n p の前でm に変化しており、且つpotamos が語末脱落 (apocope) によって単にpotam となったもので、「総河all-river」の意味。これは、川が必ず、そこを流れる土地・領土を伴うので、「大英帝国の地球的規模の領地支配」を表す。レオニは「potamosは稀に海seaの義あり」(Leoni, 1982, p.442-443)と注しているが、実際辞書にも「potamos は海洋 (Ocean) にさえも適用される」(Bailly) と説明されている。そこでレオニは pempotamを「総海 the all-seas」と訳している。そこで副次的にはpempotamという語は大英帝国の「海上支配権」をも意味していると解される。フォンブリュンヌ(父)はこれを la suprématie des mers (海上支配権、the supremacy of the seas) と解釈している (Fontbrune, 1939, p.257)

なお従来、大多数の研究者は、「pempotampanpotent という綴りに還元して、ギリシア語 pan とラテン語 potens の合成として全能 tout-puissant (omnipotent) の義」と解釈したル・ペルティエ (Le Pelletier, I, p.162) の説に追随して来た。しかし、VIII-97 (§699) 詩には「pempotans」という似た綴りながら異なる語が見られるし、「アンリ2世宛書簡」には本詩と全く同じ「Pempotam」という語が登場しているから*、この語尾の-am は安易に-ans, -ens, -ent等に還元できない固有のものを持っていると考えなければならず、その線からは、懐疑家 (a Skeptic) レオニがその懐疑の取り柄たる「追究思考 skepsis」を活かして、代替案として示しているに過ぎないながら、「potamos」に繋げる解釈は蓋然性が極めて高く、且つ貴重である。そして更にこの線でレオニに追随したのは、Hogue (1997, p.822), Ovason (1997, p.323) のみで、イオネスクも同趣旨を述べているが、彼の「pantamos」という語構成の説明(Ionescu, 1987, p.73)は文法的に不可解である。

他方、VIII-97 (§699) 詩の「pempotans」は、ル・ペルティエ式に、「pan + potent」として不可ではないながら、しかし、その真実は「potent」ではなくて、「フランス語のpotencegibet、処刑台」と解くべきなのである。実際、「フランス語potence」は、「英語potence = potency」と語源(ラテン語のpotentia)を同じくしつつ、中世ラテン語を介して、フランス語では「松葉杖
béquille」(支持力がある物)へ、更にそこから「処刑台 gibet」へと意味を展開した結果である (Bloch & Wartburg, s.v. POTENCE)。そこで、VIII-97 (§699) 詩は「1871年のパリ・コミューン」を主題としており (cf. Vignois, 1910, p.329)、到底「フランスの全能権力」を獲得するに程遠かったパリ・コミューンは、その忽ちの敗北の結果、「コミューン参加者の大部分が即刻処刑(銃殺)された(パリ市内だけで17、000人)」という事実 (cf. Seignobos, 1921b, p. 313) を、「全員が処刑台 tous au gibet (all to the scaffold)」という意味を秘めた「pempotans」という新造語によって預言しようとしたのである。

大軍隊が海上にも陸上にも進撃するであろう」:イオネスクはこの大軍隊は第一次、第二次両大戦時の米軍で、これが新たな覇権者となって、英国覇権を終わらせた (Ionescu, 1987, p.73; Takemoto, 2011, p.515) と解釈するが、それは不自然だろう。何故なら「大帝国イギリス」が主題の預言詩なのだから、それは当然イギリスの精強な陸上部隊が海上優位を梃子にして海外に進出して行き、多くの植民地を獲得していった事実の預言なのであり、且つ、米軍が英軍を直接戦って倒したわけでもない。そして「3行目が300年以上の終点、4行目がその始点を示す」とイオネスクが云うような
預言者の必要以上の老婆心を想定する解釈は無用である。何故なら既に初めから「300年以上」という大きな明示的期間が、しかも「イギリス大帝国」という固有名辞と共に提示されているのだから、その両端時を探し当てるのは解釈者の責務であろう。3,4行目はあくまでも「世界的植民国イギリスの実態描写預言」であって、それはイオネスクが説くような単なる「海洋覇権」と云った一面的なものではなく、「陸にも海にも」強大な軍事力を誇示するのであり、その結果ないし目的は、後で取り上げる予定の他の関連詩からも覗えるように、何かと云えば「植民地獲得・支配」である。

*
「アンリ2世宛書簡」に登場する本詩と同語の「le Pempotam」の意味も「大英帝国」である。「パンポタム(大英帝国)やヨーロッパのメソポタミア**(フランス・パリの中核・シテ島がセーヌ川の中島としてその二分流に挟まれていることから、ここではフランスを表す)を包含する巨大都市であったもの、且つ今もあるものが(一軒の)家にまで(縮小して)近付くであろう45
、余所では41に、42に、及び37に***、そしてこの時代に且つこれらの地域で地獄の勢力がイエス・キリストの教会に対して、その法の敵対者たちの力を対置するであろう。それは第二の反キリスト****であるだろう。その者は世俗的権力者たちの力を用いてその教会とその真の代理者を迫害するであろう。」(№3, Adresse à Henri II, p.18).

** Cf. §273, VIII-70; §474, VII-22; §820, III-99;
更に、就中、「本来の中東のメソポタミアとは別の極めて小さなメソポタミアの中に形成され定着した自由都市« la cité libre, constituee & assize dans une autre exigue mezopotamie (the free city, constituted and situated in another tiny Mesopotamia) » (№3, Adresse à Henri II, p.12) という表現は、明らかにパリのシテ島を指していると考えてよい。

***「45、41に、42に、及び37に」という表現は、その直後に「この時代に」という繋がりが来るので、「年代」を表していることが分かる。その上、後に続く文脈から、第二次大戦時におけるナチスドイツの電撃戦による英仏の苦戦が読み取れるので、「1945年、1941年、1942年、1937年」と解釈できる。

****
「第二の反キリスト」: = Un si faulx antechrist「或る非常に悪辣な反キリスト」(§796, X-66): = « An Antechrist so deceitful and so unfaithful – Hitler「或る非常に
詐欺的で信用出来ない反キリスト -ヒトラー」» (Ionescu, 1976, p.545);「我々の時代に関して、預言者(ノストラダムス)は三人の反キリストを考えている:スターリン(VI-49[§882], X-1[§884]及びX-65[§883]), ヒトラー (X-66[§796]) 及び毛沢東(VIII-77[§900])。これらの独裁者たちは幾つかの特徴を共有している:1.非常に残酷に全体主義的体制を押し付けた。2.彼らの犠牲となった人々の数は数千万人に達する(戦争や処刑や投獄により)。3.自国の宗教と伝統に反対して「文化革命」を行った。4.人種間、社会階層間に憎悪と抗争を引き起こした。5.自分自身を超人的存在として設定し、その個人崇拝を推し進めた。(Ionescu, 1987, p.451-452)。また、『アンリ2世への書簡』(№3, pp.3-23; №10, pp.153-173)の記述の中には、「反キリスト」という語が5回出て来るが、そのうちの2例(Le Pelletierの節分けによる44-46節)は、「アッチラ」という語を含み、そして更には「十月革命」という出来事に言及している節なので、スターリンを指していると見られる。93-95節はヨーロッパという地域と1937-1945年という年代を含むので、そこでの2例はヒトラーを意味する。最後に、107-109節はキリスト教諸国における激烈な戦闘での「地獄の帝王、反キリスト」によるムッソリーニ失脚後のローマ占領が説明されているので、そこの1例は矢張りヒトラーに該当する。

300年以上の年月」の始点:「その開始年次はスペイン王フェリペ2世の無敵艦隊が英国海軍に敗れた
1588年」(Le Pelletier, I, p.161-162)。この説は多くの論者に支持されているが、それは、pempotam という用語の意味を「海上優位」と捉えた「誤解」に基づくから、妥当ではない。肝心なのは、イギリス植民地帝国の開始と終焉の時期決定である。これについては、以下の簡明な歴史記述が参考になる:
イギリスの植民活動 
海外進出の開始 イギリスの海外進出の動機も、他国と同じく、アジア(インド)への道の発見にあった。英王ヘンリー7[1485-1509]は、コロンブスの計画の援助を拒否したが、コロンブスの発見に刺激されて、イタリア人カボットCabot父子に特許状を与えて北西航路を探検させた。北米のノヴァ=スコティアNova ScotiaラブラドルLabradorが発見された。その後16世紀前半にも北東航路による探検が行われ、ロシアとの通商に成功したが、アジアへの道は発見できなかった。エリザベス1の時代には、スペインやポルトガルの商船隊を襲撃して、その積み荷を略奪する海賊的方法(私掠船)をとった。ホーキンズHawkins [1532-95]ドレークDrake [1545-96]などはこの冒険的海賊商人の代表者で、かれらの手によってイギリス海上支配の基礎が築かれた。しかし、エリザベス1世の治世の晩年には、イギリス人はすでに世界の各地に進出していた。ドレークは太平洋へ、ジルバート[1539-83]は北洋へ至り、アフリカでは黒人を狩り、ロシアの草原から中央アジアに旅行し、トルコ人やギリシア人と交易し、東インド会社や北米植民地の基礎を作りつつあった。
東インド進出 アジア方面へは、1600年に設立された東インド会社を中心に進出を始めた。会社は1601年最初の商船隊をアジアに送った。しかし東インド貿易はすでにポルトガル人・オランダ人によってほとんど独占されていたので、これらの勢力と争ったが、結局、イギリスはインド本土との貿易に主力を置くことになり、しだいにインド西部・ペルシア・紅海方面に基地を獲得した。すなわち、スラットを中心に、マスリパタム・ホルムズを根拠地とし、更にのちにはマドラス1640)・ボンベイ1661)・カルカッタ1686)に拠点を築いた。
北アメリカ進出 北アメリカにおける植民活動は国王の特許状を得た会社企業の形式で行われ、17世紀初めにはニューファンドランドヴァージニアVirginia1607)・バミューダ島1612)に植民地が設立された。特にスチュアート朝下の国教強制を逃れ、信仰の自由を求めて清教徒やカトリック教徒が多く北米に移住したが、なかでも1620ピルグリム=ファーザーズと呼ばれる清教徒の一部が、メイ=フラワー Mayflowerでプリマスに上陸し、ニューイングランドNew England植民地を開き、1630年には多数の清教徒が移住してマサチュセッツ植民地を築いた。」(前川貞次郎・堀越孝一共編著『新世界史』数研出版、昭和59年、p.274)。


このうち、広大な北アメリカ植民地は早くも18世紀後半には独立して行ったのに対して、東インド会社はインド騒乱(1857-8)後、1858年のインド法を通して英国王冠自体に継承され、また「20世紀初めには大英帝国の «王冠の中の宝石»として知られた(Palmowski, p.313)インドの独立(1947)が大英帝国の現実的終焉を画期すると見做され得るので、1600年のイギリス東インド会社設立が、英国の世界規模の植民地化の開始を画期すると見ていいだろう。このタイム・スパン1600-1947 347は、「パンポタム300年以上」というノストラダムスの預言と上手く適合する。何故なら、「パンポタム」とは、「大英帝国の世界的植民地化」を意味するからであり、必ずしも「世界覇権」自体を含意しないからである。大英帝国の世界覇権はそれほど長期とは見られ得ない。その世界覇権のテーマについては、四行詩X-98(§862)II-78(§877)が扱っている。

因みに、アンリ2世宛て献辞の中で、「パンポタム(大英帝国)やヨーロッパのメソポタミア(即ちフランス)を包含する巨大都市であったもの、且つ今もあるものが(一軒の)家にまで(縮小して)近付くであろう」(3, Adresse à Henri II, p.18)という表現には、「第二次大戦を閲して英仏が広大な植民地を失い元々のホ-ムランドにまで縮小される」という意味が明らかに含まれている。この「非植民地化・植民地解放(
decolonization)」のテーマは、預言詩II-60, V-11, X-99 [§874, §875, §876]で扱われている。他方、フランスの植民地主義については、預言詩X-98(§862)が扱っている。

ここで更に、大英帝国のいわば「
終りの始まり」をマークする第二次大戦中の具体的出来事を尋ねるならば、「プリンス・オブ・ウェールズとリパルスを含む英フィリップ提督のZ艦隊を撃沈した後、英大要塞シンガポールを陥落させた日本軍の働き(19422月)」を挙げることが出来るであろう*****。「シンガポール陥落194228-15日)1941年にA.E.パーシヴァル指揮下凡そ8万人の英豪印兵員を擁したアジアとオーストラリアで英国最大の陸海軍基地たるシンガポールは、強靭な海岸防御を備えていた。しかしながら、矢張り英国支配下にあったそのマレー半島後背地からの攻撃に対しては要塞が全く建造されていなかった。山下将軍指揮下の日本軍は素早くマラヤを席巻した後、19422月初めにシンガポール島対岸に集結した。27/8日夜間、装甲上陸艇がジョホール海峡を渡り、続いて多数の日本兵が泳ぎ渡り、対抗するオーストラリア軍の守備隊に奇襲をかけた。守備兵達はシンガポールと後背地を結ぶ唯一のハイウェイを爆破して退却した。ハイウェイは日本兵達によって直ぐ修繕され、彼等は自軍の航空優位に支援されて島へ進攻した。215日、パーシヴァルは降伏した。長い間大英帝国の不落の要塞と見做されて来たシンガポールの陥落は、その広大な帝国を守り支配するというイギリスの矜持の現実的弱点をほかの何にも勝って象徴していた。これは第二次世界大戦後の植民地独立運動に対する重要な動因を提供し、1945年以後の植民地解放(decolonization)のプロセスの前兆になった。」(Palmowski, p.619)

***** Cf.
§805, V-62: Nefz parfondrées & prins le Tridental (Vessels sunk and the Tridental taken); 世界史の中の日本4(§863, V-85):「陣営は海の殿様バッタと家蚊ども」Camp marine locustes & cousins (A camp marine locusts and gnats).

ルシタニア人達」:= 植民地主義者達。原語Les Lusitains は確かに、字義通りには「ポルトガルの人々 Les Portugais, the Portuguese(Le Pelletier, id.) であるが、ここでは近代の植民地主義運動の先駆者たるポルトガル人達を歴史的比喩に設えて、その後続々と現れ出た「植民地主義者達」一般を意味させている。「クリストファー・コロンブスの1492年の大西洋横断旅行は世界の前例なき開鑿に火を付けた - 最初はポルトガル人達とスペイン人達による – 次にはオランダ人達、イギリス人達、及びフランス人達による。1700年迄には、ヨーロッパの探検家達と植民主義者達(colonizers)は地球規模で定着してしまっていた。」(DKHistory, p.172)。「… そして間もなく、探検旅行は植民地化(
colonization)の潮流となり、地球の大部分へ到達していった。」(Parker, 2010, p.216)

ルシタニア人達はそれに満足しないであろう」:= 植民地主義者達は一般に極めて貪欲である。「ヨーロッパの探検家達は栄光、キリスト教の熱意、そして – 何よりも黄金、スパイス、及び奴隷によって動機付けられていた。目的地は伝説的富の源泉たる東洋であった。“私及び私の仲間達は、黄金によってしか癒されない心の病に罹っているのです。”(アステカ人征服遠征に際してのスペイン探検家エルナン・コルテスの言葉)。」(DKHistory, id.)

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