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§934 半ば神の如き聖職者 (1981-1991): I-25.

大団円としての幸福の科学4  半ば神の如き聖職者 (1981-1991): I-25.

先に§932, IV-29詩では「 ヘルメスは聖職者に変じ (1981-1986)」として、「幸福の科学」総裁・大川隆法氏が、初め身を置いていたビジネスの世界から去り、純粋に宗教家として立って行くようになるという内容の預言を考察した(「こうした霊言集を刊行しながらも私の会社勤務は続いておりました。都内にある国際的な総合商社で 私は国際金融を担当していたのです。ニューヨーク本社勤務も研修で一年赴きニューヨーク大学でも勉強しました。私は善川三朗氏の陰に隠れていつしか世間的な出世を考え始めていたのです。社内ではエリート街道をまっしぐらに走っているように見られている私であったのです。しかし一九八六年六月、ついに 鉄槌がくだりました。日蓮聖人、イエス・キリスト、天之御中主之命(あめのみなかぬしのみこと)、天照大神、モーゼ、高橋信次と、つぎつぎに降下した霊たちは、私に即座に会社をやめよときびしい姿勢で通告をしてきたのです。三日間、眠られぬ夜が続きましたが、結局、私は、会社に辞表を提出しました。 そして、同年、七月七日に三十歳の誕生日を迎えたばかりの私は七月十五日、お世話になった商社を去ったのです。」大川隆法『太陽の法 新時代を照らす釈迦の啓示』土屋書店、1987年、PP.248-249)。その「聖職者 pasture」と同義の語 pasteur を持つ預言詩 I-25 を今回は取り上げたい。

第一サンチュリ第25詩  半ば神の如き聖職者 (1981-1991): I-25 (§934).

失われ、見出され、長い期間隠されていた    
一人の半ば神の如き聖職者が尊崇を受けるだろう。
月がその大循環を完了するより前に。
彼は他の見解の人々から名誉毀損を受けるだろう。


§934  A pastor as demigod (1981-2000): I-25.

Lost, found, hidden for such a long time
Shall be a pastor demigod honoured,
Before the Moon finishes its grand cycle
By other views shall be dishonoured.


Perdu, trouvé, caché de si long siecle  
Sera pasteur demi dieu honore,
Ains que la lune acheve son grand cycle
Par autres veux sera deshonoré.

「この四行詩はこれまでフランスの先駆的微生物学者ルイ・パスツール (Louis Pasteur) に関連づけられることの多かったものであるが、pasteur のイニシアルは大文字でないからパスツールという人名を直接表すものではなく、単なる普通名辞で「聖職者、牧師、司祭、牧人」の義であり、しかも同格語 demi dieu(demigod 半神)と一体化してpasteur demy dieu (半ば神の如き司祭、神人的聖職者)という表現を作っているのである。

このように主語が「半ば神の如き司祭、神人的聖職者」と定まれば全体の解釈は極めて容易になる。何故なら「半ば神の如き司祭、神人的聖職者」ということになると、世界史上希有な存在であり、わずかに『旧約聖書』の永遠の司祭メルキセデク又はメシア、このメルキセデクまたはメシアに準えられた『新約聖書』のイエス・キリスト、東洋のブッダ等が浮かんで来るに過ぎない。従って本論主題の再誕のブッダ大川隆法氏もここに該当する。

そしてこのようなメシア的人物の歴史的出現は啓示によって告知され約束はされても、人知の計算の到達外にあり、現に実存していてもその認知は困難であり、一度去った後は次の出現は見定め難い。このことが一行目「失われ、見出され、長い期間隠されて」の意味である。具体的に言えば「失われ」とは神交者モーセ時代から遠く下って旧約時代末期のメシア待望に当り、「見出され」とはキリスト・イエスの出現認知に当り、「長い期間隠されて」とはイエス帰天と約束されたイエス再臨の間の空白に当る。

そして三行目「月がその大循環を完了する前に」とは、太陽の光で僅かに輝く月のような絶対他力的原理の宗教のイエス・キリストという基軸を巡って来た西暦2000年間の終末期ということ、換言すれば「太陽の時代の開始期」に相当し、キリスト再臨約束の実的履行者・再誕のブッダ大川隆法氏の<太陽の法旗>のはためき始めた年々ということになる。

しかしながら、この偉大な救世主の旗は、世界史上の同様の例に漏れず、直ちに当代の人々の全員が満場一致で認知し尊崇するというわけにはいかない。いち早くその事実に気づき、目覚め、参集し、聞法する純粋で情熱溢れる人々が存在する一方では、全くのほら吹きか何かを見る如く何も感ぜず懐疑に包まれ軽侮し非難する徒輩にもこと欠かないのが世情の常でもある。そのため、「彼は他の見解を持つ人々から名誉毀損を受けるだろう。」という悲しむべき事態さえ生じてしまう。

そして、実際にもそのように大川隆法氏を誤解し中傷し非難して名誉毀損した者たちについて、氏を認知・尊敬し信奉・崇拝する人たちは公判訴訟という近代的な具体的対抗手段に訴えてもいるが、四行目詩句中の autres veux(別の見方の数々)という表現はノストラダムスの表現力の天才的機鋒を見事に証明するものとなっている。

というのも、それは、各人が根源的自由意志を有する限り、大救世主に対しても自分の見識と判断により認知するしないの自由に委ねられているという基本的前提を示し、そしてその上で、それだからといって「半ば神なる聖職者」を認知し得ないで逆に中傷し非難するのは「我意の強い頑迷な思考者」の罪であって、その罪を人は警戒し自戒しなければならない、という深いニュアンスが伺われる予言詩と成っているのである。」(初出:二瓶孝次「『幸福の科学』の仏教論的意義(10)」『北海道教育大学紀要(人文科学・社会科学編)』第50巻第2号、2000年 [下線部改稿])

別稿:「大川隆法主宰『幸福の科学』の仏教論的意義」参照。

既述のようにラテン語 pastor のフランス語化の定型はpasteur であるが (cf. Scheler, p.100)、そこに定着する以前は、pastur が最古の形で12世紀に登場し、13世紀には pastour, pastor という二形が共存し、13-14世紀にpasteur が現れた(cf. Littré, Petit Robert)。従って、§932, IV-29の pastureは、 pasturが一行目末尾のMercure との押韻の必要上 pastureとされたもので、意味はpasteur と全く一緒である。

ノストラダムス『預言集』には pasteur, pasture という語が都合4回登場し、そのうち既に取り上げた2回 (I-25, IV-29)が「聖職者」たる大川隆法氏を指し、1回が la pasture d’animaux ruminant(X-13, §59)として「反芻動物の飼料 pâture」を表し、残り1回が le grand pasteur 偉大な牧者 (VI-28,§448) としてのナポレオン・ボナパルトを指している。

この最後の用例は pasteur の原義に即したもので、「羊飼いが多数の羊の群れを導くように多数の兵士・国民を指導するリーダー」という意味であり、カリスマを伴うナポレオンの強力な政治・軍事的指導力を表そうとしたものである。

実際、VI-28 詩は「その偉大なケルト人がローマの中に入るだろう、多数の亡命者と追放者を引き連れて。その偉大な牧者はアルプスで雄鶏の為に一体化していた人々全てを死なせてしまうだろう。」と詠うが、注釈を入れてみるとナポレオンの史実と合致している事が分る:

「その偉大なケルト人(『預言集』に全18回登場する「 Celte, Celtiqueケルト人、ケルトの」という用語のうち、大半の15回が「フランス、フランス人の」という意味である)がローマの中に入るだろう(ナポレオン自身はローマに入っていないが、教皇と教皇領を思いのままに支配した)、多数の亡命者と追放者を引き連れて(これは過ぐる革命盛期にイタリアの教皇領に亡命したり追放されたりした多数のフランス人聖職者達が身分保障のないままそこで悲惨のどん底にあるのを見たナポレオンが、彼等の滞在を公式に許可し、修道院に生活の本拠を置かせ、現金手当も支給するように取り計らった事実(1797.2.15)を指す- cf. Thiers, IX, p.55-56))。その偉大な牧者はアルプスで雄鶏(『預言集』に全16回登場する雄鶏 coq のうち半数の8回が帝冠=鶏冠のイメージによりナポレオンを表している)の為に一体化していた人々(つまりグラン・タルメの兵士達)全て(これは誇張表現)を(その後の諸戦闘で)死なせてしまうだろう。」

なお、「月がその大循環を完了する」という表現は、後で取り上げる予定の関連詩I-48(§941)との繋がりによって一層明白となる。
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