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フランス革命1 序章1 革命前の長期の平和な時代

フランス革命1  序章1  革命前の長期の平和な時代

ノストラダムスはアンリ二世宛献辞の中で「人々が時代の革新と思うであろう 1792年 」という表現で、明らかにフランス革命のど真ん中の年を予言している (cf.§391, I-42)

この点は全ての解釈者が一致しており、問題はないが、実はそれに先立つ説明部分には通常の解釈では十分に納得出来ないものがある。

つまり、「1606年から1792年迄は、アフリカで起こったよりも激しい教会への迫害が連綿と続くだろう」という趣旨の事が述べられている、という解釈を以って読まれる部分である。(ここで「1606年」という年は、極めて複雑な「惑星布置」、つまりノストラダムス得意の「天文学的計算」を用いて規定されたものだが、この問題は序章後半で検討したい。)

これだと、フランス革命での激しい宗教攻撃が既に17世紀初めから続いてきているとしか読めないが、そういう史実は無い。

むしろ、史実的には、フランス革命前の17、18世紀は、フランスの宗教事情に関 して見た場合、アンリ4世の「ナントの勅令」(1598)以降のカトリシズムの一本線で貫徹されている。

幾度かの「小波乱」、例えばユグノーの本拠地ラロシェル落城、カルヴァン的予定説とさえ見紛うジャンセニスムの排除、ナント勅令の撤回、イエズス会追放などの出来事は、王権とカトリック宗教のフランス的一体性の強化であり、そのため相対的に安定した社会が長期に継続した、と言うのが正しいだろう。

私の見るところ、実はノストラダムスの表現の真意は、「教会への迫害」ではなく、全く逆に「教会への神慮・思いやり」がそれだけ長く続くだろう、と読むべきなのである。

問題は、persécuter (persecute)という語の意味に関わる。これを「迫害する」としか読まないのは余りにも言語感覚が硬化し過ぎている。

persecute
の語源的意味は、follow thoroughly である(高橋源次ほか監修『旺文社英和中辞典』旺文社、東京、1975)。

persecute  =  follow thoroughly  =
「最後まで後をつける」というこの語源的意味を根底にして、文脈的状況を勘案した場合、persecute には「ずーと後を追う、気遣い続ける、面倒を見続ける」といった意味が可能だと推測されるのである。

この語が「傷みを与える事において執拗に追い続ける」といった「迫害」の意味に殆ど限定され懸っているとは言え、日常言語の柔軟性に即しての本来の語源的活用が完全に遮断されている訳ではない。

というより、むしろ逆に、この語の「迫害 persecution」という意味は、特に新興のキリスト教徒に対する既成体制勢力による実際の迫害的諸行為の経験から、当該キリスト教徒たちが使用するに至った語用の中で後発的に特殊的意味として形成されたもので、言語的な一般的意味としては follow thoroughly という意味が普通であったのである。

それ故、歴史言語学者も次のようにラテン語語源辞典に記載している:「教会用語におけるpersecutio, -tor という語の特殊な意味に注意せよ。」(Ernout et Meillet)

従って、キリスト教が起こる前の古典ラテン語の中では、persecute (persequor)の語義解説は次のようになる。

1 (あくまで)後から行く、随う.  2 (敵意を以て)追う...  7 達せんと努める.  8 或人に倣う、愛着する.  9 或物を探し廻る.  10 或事を続ける,或事を実行する、完成する.  11 或人に追つく...(田中秀央編『羅和辞典』研究社、1964)

そして、個別的には、「 persecutio 追求、迫害」「 persecutor 追求者、迫害者」(同上)

ラテン語の中では、最初、動詞 persecute の一般的意味の中には「迫害する」という特殊意味は未形成であり、そのうち名詞形としてのみ「迫害」「迫害者」が特殊的に用いられるようになった、という言語的事情が見られる。そして、フランス語としての動詞 persécuter (persecute) が「迫害する」という意味で使用されるようになったのは10世紀末である(cf. Petit Robert)

実は、この新しい「愛顧する」という読み方は、一つの関連する予言詩との照応によってより一層高い蓋然性を獲得する。

persecute, persecution
という語はアンリ2世宛献辞の中に都合7回使用されていて、上記1例を除く6回は「迫害」の意味であるが、予言詩の中では、V-73詩に唯一の用例が見られる。そしてそれは、自ら改革派宗教からカトリックに復帰し、ナント勅令を発して、フランスの宗教内戦を終息させたアンリ4世の事績を述べている。1606年という年は正にその治世の最盛期であるが、そこでその語を「迫害」と解すると矛盾に陥るが、「神の愛顧」と解すると納得が得られるのである。何故なら、「教会が神から迫害される」という解釈は、「教会が神から愛顧される」という解釈に対して何の正当性も主張出来ないだろうからである。しかも、「裸の子供に母親が着物を着せるだろう。」という3行目の表現はこの後者の解釈を完璧に支持している。

第五サンチュリ73詩(§201)
Persecuted shall be by God the church,
And the saint temples shall be thoroughly polished:
The naked child the mother shall make put on a shirt,
Shall the Arabs be allied with the Polish.

教会は神から愛顧されるだろう。
そして諸々の聖堂はすっかり磨かれるだろう。
裸の子供に母親が着物を着せるだろう。
「アラブの人達」が「ポーランドの人達」と同盟するだろう。


注:「迫害」説の場合は、フランス語原文ではbyde (of)となっているので、1行目を「神の教会が迫害される」と読み、「神から迫害される」というアポリアを緩和しようとするが、「教会」をわざわざ「神の教会」と言う必然性があるとは思えない。又2行目の polishplunder と読んで、「教会が略奪される」という風に全く逆転した解釈になる。これは、フランス語原文の expoliez がラテン語の ex-polio (磨き上げる)ex-spolio (掠奪する)のいずれにも関連付けられるからである。従っていずれを採るかは他の要素に依存することになる。又3行目は、「迫害」説では、「子供が母親を下着を着けただけの裸にする」(Hogue,1997)と読むが、これは「裸の naked」という形容詞がフランス語原文では「男性形 nud」であるから、女性名詞「母親」ではなく、男性名詞「子供」に懸けるべき形容詞である。他方、4行目の詩句は相当の困難を蔵しているように見える。けれども、「アンリ4世」というテーマが決定された以上、その持つ視界の中で検討すれば、整合性はおのずとやって来る。(以下次回)
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© Koji Nihei Daijyo, 2011. All rights reserved.


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フランス革命2 序章2  ベアルネとポーランド王の同盟

第五サンチュリ73詩(§201)
Persecuted shall be by God the church,
And the saint temples shall be thoroughly polished:
The naked child the mother shall make put on a shirt,
Shall the Arabs be allied with the Polish.

教会は神から愛顧されるだろう。
そして諸々の聖堂はすっかり磨かれるだろう。
裸の子供に母親が着物を着せるだろう。
「アラブの人達」が「ポーランドの人達」と同盟するだろう。

本詩がアンリ4世によるフランス宗教戦争の終結に続くカトリシズムを柱とした国家再建を述べたもの、という趣旨で理解出来るとすれば、4行目の語句も難なく解釈出来るようになる。何故なら、それは、アンリ4世をそのような成果へと導く一大転機となった「ベアルネと呼ばれたナヴァール王アンリと、一時(1573.5-1574.5)ポーランド王を経験したアンリ3世(1574.5-1589.8)との同盟関係」を表していると解釈されるからである。

即ち、「ポーランド人達」の方は「ポーランド王を経験したアンリ3世の勢力」としてそのまま理解すればよく、又「アラブ人達」については、フランス語原文Arabesが文字通りの「アラビアの人々」を指すのではなくて、「後のアンリ4世たるアンリ・ド・ナヴァール」がその故郷ベアルンBéarnでの「田舎育ち」「頑健体躯」を暗示する「ベアルン野郎Béarnais」という綽名で呼ばれていた事に鑑み、そのアナグラムないし字謎として理解するのが適切であろうからである:Arabes = Bearas Bearnais

実際、この用法は予言集で他にも3回見られるし、もう一つ別のアナグラムも補強材料となる。

1. Français d'Arabe (a French of Arabia)
「(1590年パリ包囲に来たパルマ公に対し敵愾心を燃やす)アラブのフランス人=ベアルンのフランス人=アンリ4世」(III-27, §218).

2. la langue Arabe (the language of Arabia)
「(1595年教皇の破門解除の書簡に好感した人々が)アラブの言語=ベアルンの言葉(=アンリ4世の宗教的見解)をフランス語に翻訳する(フランス人の心情において理解する)」(III-27, §218).

3. gent estrange Arabique (the strange Arabian people)
「(フランス人の祖とされる)トロイの血筋を持った(直近のケルト族に連なる)ゲルマン魂が生れるだろう。彼はいとも高き権力に達するだろう。教会を元来の尊厳に戻すことによって、異国のアラビアの人々=まつろわないベアルンの人々(アンリ4世の改宗に反対する旧自派ユグノー)を排除するだろう。」(V-74,§202)

4. Pres de Braban (Near Braban) (VI-30,§128)
は、このままでは意味不明だが、Braban = Bbaarn Béarnと解すると、この地名ベアルンを、その出身者アンリ・ド・ナヴァールに置き換えれば、サン・バルテルミィの夜、彼のそばを何者かが足音を忍ばせて通るという詩の情景が浮かんで来る。

「教会を元来の尊厳に戻す」というV-74詩の言葉は、「諸々の聖堂はすっかり磨かれる」というV-73詩と呼応しているが、これら2つの四行詩は第5サンチュリ73詩、74詩として連接している点でも注目される。

又、「裸の子供に母親が着物を着せる」というV-73詩3行目の表現は、フランス国内のたび重なり、益々悪化する宗教戦争で遂には「樹木から根が抜き去られ、そして子供は乳房から引き離されるようになる」という I-67 (§190) 詩の表現が布石となっている。

なお、アンリ3世とアンリ・ド・ナヴァールの同盟については、「はじめに5」参照。

以上のように、アンリ4世に関連付けた場合、多くの論点から、「persecute = 神が愛顧する」と言う意味が適切に理解される。
但し、それには「その時」、即ち「天文学的計算から規定される年」が「1606年」であり、明らかにアンリ4世の治世に含まれる年である、という事が確証されなければならないが、ノストラダムスが掲げるその天象の姿は極めて複雑なものである。

「その時、即ち、土星が4月7日から8月25日まで逆行し、木星が6月14日から10月7日まで逆行し、火星が4月17日から6月22日まで逆行し、金星が4月9日から5月22日まで逆行し、水星が2月3日から同月27日まで、次いで6月1日から同月24日まで、そして9月25日から10月16日まで逆行し、土星がやぎ座にあり、木星が水がめ座にあり、火星がさそり座にあり、金星がうお座にあり、水星が1カ月の内にやぎ座、水がめ座、そしてうお座にあり、月が水がめ座にあり、ドラゴンヘッド(月の昇交点)がてんびん座にあり、ドラゴンテール(月の降交点)が、木星と水星の合に引き続いててんびん座の反対のサインにあり、火星が水星と90度のアスペクトをなし、そして[以下、la teste du dragon seraは誤挿入と見て削除]木星が太陽と合になる。この年は平和で食が全然なく、そして、長く続くであろう事の自己内含的始まりと成るだろう。そして当該年に開始しつつ、アフリカであった以上にキリスト教会に対する大きな[神の]愛顧が行われるであろうし、そしてこの愛顧は人々が時代の革新であると思うであろう1792年まで持続するであろう。」

ヴェルナーによれば、この天象は「1606年1月1日」を表す(Wöllner, 1926, p.28-29)
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フランス革命3 序章3 1606年の天象(アンリ2世宛献辞)

ノストラダムスがアンリ2世宛献辞の中で述べた天象の姿の要点をまとめてみよう。

「その時、即ち、土星が4月7日から8月25日まで逆行し、木星が6月14日から10月7日まで逆行し、火星が4月17日から6月22 {23} 日まで逆行し、金星が4月9日から5月22日まで逆行し、水星が2月3日から同月27日 {24} まで、次いで6月1日から同月24日まで、そして9月25日から10月16日まで逆行し、土星がやぎ座にあり、木星が水がめ座にあり、火星がさそり座にあり、金星がうお座にあり、水星が1カ月の内にやぎ座、水がめ座、そしてうお座にあり、月が水がめ座にあり、ドラゴンヘッド(月の昇交点)がてんびん座にあり、ドラゴンテール(月の降交点)が、木星と水星の合に引き続いててんびん座の反対のサインにあり、火星が水星と90度のアスペクトをなし、そして[以下、la teste du dragon seraは誤挿入と見て削除]木星が太陽と合になる。この年は平和で食が全然なく、そして、長く続くであろう事の自己内含的始まりと成るだろう。そして当該年に開始しつつ、アフリカであった以上にキリスト教会に対する大きな[神の]愛顧が行われるであろうし、そしてこの愛顧は人々が時代の革新であると思うであろう1792年まで持続するであろう。」

a)
ヴェルナーによれば、上記5惑星の「逆行」の月日は、ノストラダムスが参照したと思われる当時の代表的な占星学者レーヴィツの『天文暦』1606年のデータにほぼ合致する(上記の { } 内の値がレーヴィツのもの。Wöllner, 1926, p.29)

なお、私の試算(StellaNavigatorによる)によれば、各惑星の逆行期間は次のようになる:
土星 1606年4月17日から9月2日。
木星 1606年6月24日から10月20日。
火星 1606年4月22日から7月2日。
金星 1606年4月19日から6月1日。
水星 1606年2月7日から3月1日、6月9日から7月3日、10月5日から10月26日。

若干、日数のズレがあるが、総じて、逆行現象の観点からは
1606年 という年をヴェルナーに従って適切に想定出来る。

b)
次に、1606年における各惑星の 指定されたサインにある期間 は次の通りである。

土星:いて座(1.1 00:00-14:00)やぎ座(1.1 14:00-12.31 24.00).

木星:水がめ座(1.1 00:00-5.11 16:00)うお座(5.11 16:00-8.2 1:00)水がめ座(8.2 1:00-12.27 18:00)うお座(12.27 18:00-12.31 24:00).

火星:てんびん座(1.1 00:00-1.3 17:10)さそり座(1.3 17:10-3.5 13:10)いて座(3.5 13:10-6.6 13:10)さそり座(6.6 13:10-7.27 23:50)いて座(7.27 23:50-9.24 15:52)、やぎ座(9.24 15:52-11.6 24:00)、水がめ座(11.6 24:00-12.17 14:00)、うお座(12.17 14:00-12.31 24:00).

金星:水がめ座(1.1 00:00-1.9 4:29)うお座(1.9 4:22-2.4 1:29)おひつじ座(2.4 1:22-3.4 11:32)、おうし座(3.4 11:32-7.7 14:38)、ふたご座(7.7 14:38-8.7 14:39)、かに座(8.7 14:39-9.3 18:03)、しし座(9.3 18:03-9.29 8:02 )、おとめ座(9.29 8:02-10.24 1:11)、てんびん座(10.24 1:11-11.17 6:33)、さそり座(11.17 6:33-12.11 6:07)、いて座(12.11 6:07-12.31 24:00).

水星:やぎ座(1.1 00:00-1.12 7.41)、水がめ座(1.12 7:41-1.31 16:45)、うお座(1.31 16:45-2.13 13:45)水がめ座(2.13 13:45-3.18 5:50)、うお座(3.18 5:50-4.7 22:49)、おひつじ座(4.7 22:49-4.23 12:13)、おうし座(4.23 12:13-5.7 16:29)、ふたご座(5.7 16:29-5.28 17:18)、かに座(5.28 17:18-6.20 23:45)、ふたご座(6.20 23:45-7.13 1:29)、かに座(7.13 1:29-8.1 1:55)、しし座(8.1 1:55-8.16 00:52)、おとめ座(8.16 00:52-9.2 19:51)、てんびん座(9.2 19:51-9.28 13:30)、さそり座(9.28 13:30-10.10 19:14)、てんびん座(10.10 19:14-11.9 8:39)、さそり座(11.9 8:39-11.28 18:07)、いて座(11.28 18:07-12.17 18:53)、 やぎ座(12.17 18:53-12.31 24:00).

以上5惑星が共に指定サイン内にある期間は、金星がうお座にある期間(1.9 4:22-2.4 1:29)に妥当する。従って1606年を該当年と想定出来る。

c)
次に、月が水がめ座にあるのは、上記5惑星の共通期間内においては、1606.1.9 14:58-1.11 17:00であるから、これも妥当する。

d)
次に、ドラゴンヘッド(月の昇交点)がてんびん座にある、という項目は、私の試算 (**備考1) によれば、1604年9月22日から1606年4月11日までの連続期間に該当する。従ってこれもb)の共通期間と重合し得る。

e)
次に、ドラゴンテール(月の降交点)が木星と水星の合に引き続いて、てんびん座の反対のサインにあるという項目であるが、先ず木星と水星の合は、1606年1月16日8:33(パリ、LMT)に起った。そこで、ドラゴンテール(月の降交点)というのはドラゴンヘッド(月の昇交点)と正に180度の黄経差がある訳だから、それがてんびん座の反対のサインにあるという事は、ドラゴンヘッド(月の昇交点)がてんびん座にあるという事と同じ事態である。とすれば、確かに、1606年1月16日8時33分の木星と水星の合以降の期間は、ドラゴンヘッド(月の昇交点)がてんびん座にある1604年9月22日から1606年4月11日までの連続期間と一部重合し得る。

f)
次に、火星が水星と90度のアスペクトをなすという機会は、1606年に4回あり(1.16 9:23 ; 8.21 15:51, 10.21 13:57, 11.11 15:57)、 このうち、1月16日(火星:さそり座6度57分、水星:水がめ座6度57分)が b) 5惑星共通期間 (1.9 4:22-2.4 1:29) に該当する。

g)
次に、木星が太陽と合になるのは、1606年1月29日12:19で、水がめ座9度33分においてである。これもb) 5惑星共通期間(1.9 4:22-2.4 1:29) に該当する。

h)
次に、食が全然ないという項目は、ヴェルナーが正当にも指摘しているように、「1606年には日食2回、月食2回が起ったが、それら全ては旧世界 [ヨーロッパ] では観測圏外であった」(Wöllner, 1926, p.28)

即ち、日食1 は、Oppolzer Nr. 6675であり、赤経の合は3月8日22時07分(UT)で、食甚地点は71.9° N, 156.4° Eだから、影帯は日本全体を含む極東アジア寄りの北太平洋地域で、北極点は影中外。ヨーロッパは夜間であり、北極点越えの影帯も延びないからヨーロッパで食は起らない。日食2 は、Oppolzer Nr. 6676であり、赤経の合は9月2日13時02分 (UT) で、食甚地点は71.7° S, 66.5° Wだから、影帯は南アメリカと南太平洋一帯に出来る。しかし赤道より北に及ばないから、ヨーロッパにも当然及ばない。

他方、月食1 は、Oppolzer Nr. 4344であり、食開始は3月24日10時21分 (UT)で、食甚天頂地点は -154°, -1° (太平洋赤道地帯)、食持続時間は218分 だから、昼間のヨーロッパでは見られない。月食2 は、Oppolzer Nr. 4345であり、食開始は9月16日11時54分 (UT)で、食甚天頂地点は180°, -3° (太平洋赤道地帯)、食持続時間は222分 だから、昼間のヨーロッパでは見られない。(Cf. Oppolzer, Canon of Eclipses, tr. by Gingerich, Dover Publications, New York, 1962)

**
備考1: 月の昇交点 (ascending node) 黄経OMGは、次式によって求める。

OMG = 33°.272936 - 1934°.144694 x J + 2°.08028 x (1/1000) x J x J + 2°.08333 x (1/1000000) x J x J x J
元期:1800 I 0.5 UT = 17991231日正午12時UT = 2378496.0 JD (ユリウス日)
元期からの経過日数 (間隔) (100年を単位として表した引数): J = (JD - 2378496)/36525Cf. 斉藤国治『古天文学』恒星社厚生閣、東京、1989, p.76

以上の諸考察によって、問題の「その時」が「この年は平和で云々」という語句から示唆されるように「年のスケールに従った時」であるから、1606年 である、という事が確証されたと言えよう。従って、アンリ2世宛献辞の中の記述が1606年に関わり、第五サンチュリ73詩が1606年を在位期間内に含むアンリ4世(在位1589-1610)に関わるという共通の地盤の上で、両者に共通の「persecute」という語を「神が愛顧する」という意味で理解するのは無理を生じない。

そして、「アフリカであった以上にキリスト教会に対する大きな[神の]愛顧が行われる」という記述は、アフリカ、この場合は地中海沿岸の北アフリカと見ていいが、そこでのローマカトリックの消長の経緯に照らせば全く妥当である。

「迫害」説を採る研究者は、決まってvandalism(蛮風)という語を生んだ「ヴァンダル族によるキリスト教徒の迫害」を持ち出すが、しかし彼らは「先行的キリスト教徒」であって、「後発のローマカトリック」と宗派を異にする為に両派が激しく抗争した点で、一種の内輪もめであり、フランスにおけるカトリック対プロテスタントの抗争に類比的である。

ノストラダムスが北アフリカの例を引き合いに出したのは、北アフリカに於いては、元来、ギリシアのアリウス (c. 250-336) の説を奉じたアリウス派キリスト教の信仰を有っていたヴァンダル人の外来王国 (429-534) がカルタゴを首都にして成立し、ローマ帝国の支配に楔を打ち込んでいた所に、唯一公認の正統教義しか認めない国教化されたローマカトリックキリスト教が勢力を伸張しようとして、却ってヴァンダル政権から激しい迫害を被ることになる事情が、プロテスタントの伸張によりカトリック的王権との間に宗教戦争を招いたフランスの事情と重なり、更にヴァンダル王国が遂にビザンツ帝国により打倒されて (534) カトリック支配が決定的となった事情が、アンリ4世のカトリックへの改宗により伝統的なカトリック・フランス王権が確保された事情にも重なるからである。

他方、北アフリカでは 643年 に教皇を奉じるローマカトリック勢力がビザンツ皇帝ヘラクレイオス1世の異端(キリスト単意論)と抗争を起こし、その中でイスラム勢力が浸透し、キリスト教支配が断絶したのに対し、フランスではカトリック的ブルボン朝は大革命まで続き、ナポレオン体制下で復活した。この点で、神による「見守りの愛顧」は、北アフリカよりもフランスの方が「もっと大きな愛顧」であったということになる。何故なら、単純に見て、北アフリカでの「ローマカトリックの安泰期間=534-643110年間」に対して、フランスブルボン朝のそれは、開始をアンリ4世のナント勅令に置いてもいいようだが、しかし「長く続くであろう事の自己内含的始まり」、「当該年に開始」というノストラダムスの説明に忠実に1606年とすれば、「1606-1792187年間」であり、1.7倍の長期間となっているからである。
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フランス革命4 §342 英国7度; フランス数度の政変 (1555-1845): III-57.

序章では、アンリ4世から 1792 年迄は、フランスブルボン朝の安泰期間が続いたことをノストラダムスが特記していることを見た。次に、フランス革命とナポレオンの各論に入るに当たり、もう一つの導入として、III-57 詩を取り上げよう。これはフランスの安泰に対比して、英国が頻繁に流血を伴う政変を経験するというテーマを扱う予言である。

第三サンチュリ57詩:

あなた方は英国の人々が7度変化するのを眼にすることだろう。                  
290年の間に、血まみれになりながら。
フランク族(フランス)はゲルマンの支えの故に7度もという事は無い。                  
白羊宮はその配下のバスターニャの極を疑う。


You shall see the British people change seven times,
Stained with blood in 290 years:
The Franks not at all in virtue of the German support.
Aries doubts his Bastarnan pole.

先ず、全ての研究者が迷う 290 年の期間の定位については後回しにして、我々が最初から設定しているノストラダムスの予言対象期間 1555 - 2000 の中で、英国とフランスについて大きな政変と思われる出来事を列挙してみたい。その選択基準は、

1. 革命(東洋の所謂易姓革命、つまり王朝dynasty交替を含む)。
2. 複数の政体の統廃合。
3. 国家的宗教の交替。
そして、「流血」は個々の場合は必須とは思われず、全体の中に認められれば十分としたい。

英国の政変 (1555-2000):
1. エリザベス1世の即位によるカトリックから英国国教会への復帰 (1558)。
2. エリベス1世の死とジェームズ1世即位によるステュアート朝開始 (1603)。
3. クロムウェルのピューリタン革命 (1649)。
4. 王政復古 (1660)。
5. 名誉革命 (1688)。
6. スコットランドと合同し大ブリテン王国成立 (1707)。
7. ハノーヴァー朝開始 (1714)。
8. アイルランドと合同し連合王国成立 (1801)。現在に至る。                                                                           

フランスの政変 (1555-2000):
1. アンリ4世が初めてプロテスタントとして即位 (1589)。
2. アンリ4世がカトリックへ改宗 (1593)。
3. フランス革命で王政廃止、共和国創生 (1792)。
4. ナポレオンのフランス帝国 (1804)。
5. 王政復古 (1815)。
6. 七月革命 (1830)。
7. 二月革命 (1848)。
8. ルイ・ナポレオンの第二帝政 (1852)。
9. 帝制廃止・共和制移行 (1870)。現在に至る。                                                                                 

これを見ると相拮抗しつつも、2000 年迄取ればむしろフランスの方が政変が多い。従って、ノストラダムスが 290 年という期間を設けたのは大きな意味がある。つまり、フランスよりも英国の方が政変が多い、というそういう特定の期間を求める必要がある。

そこで、開始点を最も早い1555年から1557年の間に採ると、実はこれは、リストアップした英国の全ての事例を網羅する期間であり、この期間内のフランスは6の政変であり、確かに7には届かない。

次に開始点を1558年に採ると、政変数は英国が8、フランスが7で、予言詩の趣旨に合わない。

次に開始点を1559年から1589年の間に採ると、政変数は英国が7、フランスが7乃至9で、結論が引っくり返る。

又、開始点を1590年から1593年の間に採ると、政変数は英国が7、フランスが8で、結論が引っくり返る。

又、開始点を1594年から1649年の間に採ると、政変数は英国が7、フランスが7で、予言詩の趣旨に合わない。

1650年以降の期間は英国の政変数が7に届かないから範囲外である。

以上のように、開始点が1555年から1557年の間という極めて限定された期間、即ち「1555年乃至1847年」という期間内で本予言詩の趣旨が実現される。

さて、説明を必要とする詩句のうち、先ず、原文 Franche を 「the Franks フランク族(フランス)」と読んだが、これは予言集における Franche, franche, franc, franque の用例全8回のうち、「フランク族に起源するフランス人(の)・フランス(の)」を意味するものが6回、「自由な」を意味するものが2回であるから、全く無理のない解釈である。

次に、「ゲルマンの支えの故に (in virtue of the German support) 」であるが、この場合の「ゲルマンの (Germanique; German)」という用語は、やはり予言集での統計的分類では、全11回のうち、「ドイツの・ドイツ人の」が6回、「ゲルマン民族を起源としその主流を成すフランク族の・フランク王国の=フランスの・フランス人の」の意味で3回 (II-87: Prince Germain = ルイ18世;V-74: cœur Germanique= アンリ4世&本詩)、「祖父母を同じくするいとこ(従兄弟姉妹)関係の」の意味が2回であり、第二の意味は「カペー朝以来のフランス王国の」とも解され得て、「ヴァロワ・ブルボン朝の」という解釈に帰着する。勿論、この解釈は主語の 「the Franks フランク族(フランス)」と符合する。故に、「ゲルマンの支えの故に(in virtue of the German support) 」 とは、序章で扱った「フランスブルボン朝の安泰期間=1606 -1792=187年間」という長期のフランス政体の特色を指している。事実、この期間は、フランスの政変が0回であるのに対して、英国は6回であることからもノストラダムスの指摘の正しさが分る。

最後に、4行目は、「日付のある預言詩7 (§327,III-77)」で言及した「白羊宮の支配を受ける地」に関するもので、それはヨーロッパの中では「イギリス、フランス、ドイツ、バスターニャ(ポーランド南部とロシア南西部)」であった。故に、本詩 「his Bastarnan pole (その配下のバスターニャの極、圏)」は、pole が既に Pole, Poland (Pologne)を示唆しているように、明らかに「ポーランド」を表す。そして、「白羊宮はその配下のバスターニャの極・圏を疑う。」という事は、「ポーランドに於ける全体的な地政学的変容」の生起を意味しているだろう (cf. Ionescu, 1987, p.70-71)。

事実、ポーランドは「1832年2月26日:憲法廃止され、部分的自治を認める新法令がニコライ1世によって発布される。ポーランド王国は廃止され、事実上ロシア帝国に併合。」(石橋・松浦他編『世界史大年表』山川出版社)という事になっている。

この「1832年」という年は、開始点が1555年から1557年の間という極めて限定された期間、即ち「1555年乃至1847年」という期間内に位置している(イオネスク氏解はポーランド内乱の1830年を終局として開始点を 1830-290 = 1540年に置くが、それだと予言集初版刊行の1555年以前まで本格的予言を遡及させてしまうから妥当とは言えない)。

又、イギリス政変の初回を「メアリー・テューダーの即位ないし旧教復帰」に求める多くの論者 (Jaubert, 1656, p.177; Bellaud, 1806, p.158; Ionescu, id., p.71) が採用する観点は、イオネスク氏と同じ欠陥を共有することになる。何故なら、ノストラダムス予言開始が1555年とすると、この時点でメアリー1世の英国カトリック宗教体制は基本法制が成立済みで、従ってそれはそれ以降に来る初回政変を認定するための基本比較項であって、初回政変自体ではあり得ない。世界史年表を見てみよう。

1553.7.19 メアリー1世即位。
1553.秋 第1次廃止法:エドワード6世治世の[新教的内容の]宗教改革立法廃止。新教徒の亡命始まる。
1554.7.25 メアリー1世、スペインのフェリぺと結婚。
1554.11 第2次廃止法:国王至上法をはじめ、ヘンリ8世治世の宗教改革立法、廃止される。
1555.  新教徒の迫害・処刑、始まる。(石橋・松浦他編『世界史大年表』山川出版社)

以上のように、英国王は宗教首長の座を離れ(第2次廃止法)、カルヴァン主義を混入した一般祈祷書(1549)を放擲して(第1次廃止法)、英国カトリック復帰の基本条件を整え、同時に1554年11月に教皇特使を迎えてローマ教会への再統合を実現、議会の承認も得られた (cf. HH, XIX, p.639)。

そして、1555年1月、ようやく議会が具体的な立法によって新教徒迫害を実施に移したのである (cf. HH, id.)。
 
この経過を忠実に追えば、1554年末には、即ちノストラダムス予言集が初めて世に出た1555年の前夜には、既に英国は再カトリック化を果たしていたのである。際どい迫害事象が1555年に始まったとしても、それは1555年が再カトリック化の端緒である事を意味しないで、むしろ逆に英国再カトリック化の体制的確立がそれ以前に実現済みという事を示すのである。

故に、ステュアート・ロブ (Robb, 1961a, p.77-78) の次の指摘、「この予言詩はカトリックのメアリーの後をプロテスタントのエリザベスが継いだ少し前に書かれ公刊されたものだから、我々は開始点を処女王の即位年である1558年に置こう。」という説明は全く理に叶っている。

但し、ロブはこの年を、初回政変の年のみならず、290年の初年としても算えている。そのため彼の算法では1558+290=1848年が最終年で、且つ最終の第7回目の政変(チャーティスト運動の盛り上がり)とされる。しかしチャーティスト運動は政治体制の変革には至らなかったから、この認定は無理である。上記の我々の考察でも、「開始点を1558年に採ると、政変数は英国が8、フランスが7で、予言詩の趣旨に合わない」のである。つまり、290年の開始年は必ずしも初回政変年と一致する必要は無いと思われる。ましてや、290年の最終年が7度目政変と合致する必要もない。290年という幅の中に7度又はそれ以上の政変が観察されれば十分なのだ。そうすると、開始点が1555年から1557年の間という極めて限定された期間、即ち「1555年乃至1847年」という期間内で本予言詩の趣旨が実現されるという 極めて微妙な観測が出て来るのである。

なお、チャールズ・ウォードの見解 (Ward, 1940[1891], p.147-149) は非常に参考になるが、しかし最後の事例(1832年の選挙法改正)は政体変革という所迄は行っていないのである。

このように、ノストラダムスは、大局的に言って、フランス革命前のフランスの長期の安定を、同時期の英国の波乱多き歴史と対比しつつ、他方、今度はフランス革命後の「頻発するフランスの政変」について、I-54詩 (§343) 、I-31詩 (§344)及びVIII-46詩 (§345) で予言している。
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フランス革命5 §343 反復するフランスの政変 (1804-1862): I-54.

III -57 (§342) が大革命前のフランスの長期の安定を同時期の英国の波乱多き歴史と対比しつつ予言していたのに対して、I-54 (§343) I-31 (§344) 及び VIII-4 6 (§345) は、今度は革命後の「頻発するフランスの政変」について予言している。

第一サンチュリ54詩:                                        

禍々しき大鎌持ち(土星)の二廻りして、

政体と時代の交替が成され:
二つの等しい可傾物を持つ活動宮(天秤宮)が、
その懐の内へかくの如くに(土星を)摂取する。

Two revolutions of the malign scythe-holder made,
The permutation of the reigns and generations done:
The mobile sign with two equals and inclinables
In such a manner ingests it into its place.

大鎌持ち (falcigere, scythe-holder) は土星(サチュルヌス)の伝統的形姿であり、又土星は「凶星」とされているから、土星が本詩のテーマの主体であることは明白である。そして、その公転周期は約30年であり、従って「二廻り」は約60年と考えられる。

次に、活動宮 (mobile signs ) というのは、「白羊宮」「巨蟹宮」「天秤宮」「磨羯宮」を指す伝統的占星学の概念で、そのうち、「二つの等しい可傾物を持つ活動宮」とは、左右に可傾的な等しい皿を附けた天秤の描写であろう。雄羊と山羊は「二つの等しい物(角)」を持つ。しかし角は頭と一緒に動きはしても、それ自体で「可傾的」とは言えまい。又、蟹の鋏は相当自由な動きが出来るとしても、左右の大きさが不等である。

従って問題は、土星が天秤宮に入座する3つの目安を以って測られた土星の2公転が刻む期間を、度重なる政変の歴史との関係で具体的に決定することにある。この場合、本詩には特に地名的要素がないが、そういう場合は第一にフランスの歴史を想定するのがノストラダムス研究の定石である。

そこで、1555-2000 の期間で「土星が天秤宮に入座する機会」は全部で15回ある:1568, 1597, 1627, 1656, 1686, 1715, 1744, 1774, 1804, 1833, 1862, 1892, 1921, 1950, 1980. 

これを、前回使用したフランスの政変リストに照し合せることにしよう。

フランスの政変(1555-2000)                                      
1.
アンリ4世が初めてプロテスタントとして即位(1589)。                         
2.
アンリ4世がカトリックへ改宗(1593)
3.
フランス革命で王政廃止、共和国創生(1792)。                             
4.
ナポレオンのフランス帝国(1804)
5.
王政復古(1815)                           
6.
七月革命(1830)                                       
7.
二月革命(1848)。                                          
8.
ルイ・ナポレオンの第二帝政(1852)。                                 
9.
帝制廃止・共和制移行(1870)。現在に至る。                                                                   

オプション1:1568, 1597, 1627の期間の政変数=2
オプション2:1597, 1627, 1656の期間の政変数=0
オプション3:1627, 1656, 1686の期間の政変数=0
オプション4:1656, 1686, 1715の期間の政変数=0
オプション5:1686, 1715, 1744の期間の政変数=0
オプション6:1715, 1744, 1774の期間の政変数=0
オプション7:1744, 1774, 1804の期間の政変数=2
オプション8:1774, 1804, 1833の期間の政変数=4
オプション9:1804, 1833, 1862の期間の政変数=4
オプション10:1833, 1862, 1892の期間の政変数=3
オプション11:1862, 1892, 1921の期間の政変数=1
オプション12:1892, 1921, 1950の期間の政変数=0
オプション13:1921, 1950, 1980の期間の政変数=0

これだと、オプション8と9が拮抗するので、試みに次のように政変の細分化を施してみる。

フランスの政変(1555-2000)                                      
1.
アンリ4世が初めてプロテスタントとして即位 (1589)。                         
2.
アンリ4世がカトリックへ改宗 (1593)
3.
フランス革命で王政廃止、共和国創生 (1792)。                             
4.
ナポレオンのフランス帝国 (1804)
5.
第一次王政復古 (1814)
6.
ナポレオンの百日天下 (1815)
7.
第二次王政復古 (1815)                       
8.
七月革命 (1830)                      
9.
二月革命 (1848)。                                          
10.
ルイ・ナポレオンの第二帝政 (1852)。                                
11.
帝制廃止・共和制移行 (1870)。現在に至る。

こうすると、オプション8は6回、オプション9は7回で、差別化が出る。
そして、実感としても、1774-1833 の期間よりも 1804-1862の期間 の方が「動乱の60年」として性格付けるのに相応しいであろう。
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フランス革命6 §344 不安定政権の交替継起 (1792-1830): I-31.

第一サンチュリ31詩:

こんなに多くの年々に渡り
(1789-1830)フランスでは戦争が続くことだろう。

貫頭衣(トゥニカ)を着た君主の足早の進行の先にあるのは、
不確かな勝利。偉大な三人が戴冠するだろう。
勝利の徴表は鷲、雄鶏、月、獅子、太陽。

For many years the wars shall endure in France,
After the rapid course of the Castulon monarch,
The uncertain victory : the three greats shall be crowned,
Eagle, cock, the Moon, lion, the Sun being the marks of the victory.


本詩と密接に関連するVIII-46(§345) には「雄鶏、鷲、そしてフランス三兄弟の玉座」という表現が見られ、又革命期に関するVIII-17(§384) には「三兄弟」という表現があり、従って本詩の「戴冠する三偉人」は「ブルボン3兄弟(ルイ16世、ルイ18世、シャルル10世)」と解し得るが、フランス王政史上、3兄弟の戴冠という事実は、1555-2000 の期間では、他に16世紀のヴァロワ朝末期のアンリ二世の遺児達、フランソワ2世・シャルル9世・アンリ3世の例がある。従って選択肢はこれら2例に絞られる。そこで次の規定要因として、2行目の「貫頭衣を着た君主( the Castulon monarch)」という表現に注目する。

原文 Castulon の語源は、ラテン語 castula:衣服・着物 (Walde-Hofmann, s.v.)である。それは古代ローマの一般的な婦人服として「貫頭衣(トゥニカ)」と呼ばれたものと同類で、これは有名なニューヨ-クの「自由の女神」像の装いであり、その原型は「フランス共和国像」にある (cf. Ovason, 1997, p.228-229 ; p.256)。そしてフランス共和国を「トゥニカを着た若い女性の姿」として象徴的に表現することに決めたのは総裁政府 (Directoire, 1795-1799) である(cf.Torné-Chavigny, 1861, p.75)

従って、貫頭衣を着た君主は、総裁政府を指す。Castulon という語はナポレオン・ボナパルトの第一次イタリア遠征を扱った I-93(§411) にも使用されていて、Seul Castulon (= Unique Castulon = 貫頭衣の単独者)という表現で、矢張り、彼を派遣した責任者たる「総裁政府」を指している。この場合、uniqueとは唯一単独の国家元首的存在を意味し、従って本詩のCastulon monarch と完全に合致する。何故なら、monarchの語源は「monos (alone) + archein ( to rule) one who rules alone (支配する単独者)」だからである (cf.小稲義男ほか編『研究社 新英和大辞典』第5版)。それに対してボナパルト軍は「温和なフランス人達」と称されて、未だ辛うじて政府のコントロールの下にあることが示されている。Castulonの用例は以上2回に限られる。

それ故、先の二者択一の問題、即ち「戴冠した三偉人」は、時代的にブルボン3兄弟ということになる。つまり、ルイ16世はそれ以前に戴冠しており、第一共和政後、帝政を経て、ルイ18世とシャルル10世が王政復古により戴冠する事で、「三兄弟の戴冠」という一体的予言が成就される。

では、4行目の各徴表は誰を表しているだろうか。五つの徴はブルボン3兄弟に加えて、ナポレオン・ボナパルト、及びルイ・フィリップを表そうとしている事は明白である。何故なら、ルイ16世第一共和政ナポレオン帝政ルイ18世シャルル10世ルイ・フィリップという6つの政権の継起する交代が想定されているからである。3行目の「不確かな勝利」という表現に照らせば、最後のルイ・フィリップの政権も短命に終わるという予言になっているが、それに代わる者への言及は無い。

そこで、各徴表と5人の人物との照応は具体的にどのように行うか。先ず、上記VIII-46(§345)の「雄鶏、鷲、そしてフランス三兄弟の玉座」という表現から、雄鶏と鷲は3兄弟を除く二人(ナポレオン1世とルイ・フィリップ)に関連すると言える。そこでノストラダムスが他の予言詩でこれらの徴をどう使用しているかが重要な鍵となる。本詩とVIII-46詩を除いた場合の統計は次の通りである。

ア)鷲:全15回のうち、ナポレオン1世(7回)、オーストリア帝国・皇帝・軍(3回)、ナポレオン3世(1回)、その他(オスマントルコ艦隊、パウルス4世、サヴォア公紋章、ドイツ軍機各1回)。

イ)雄鶏:全14回のうち、ナポレオン1世(8回)、フランス君主(アンリ2世、ルイ・フィリップ、ナポレオン3世各1回)、西洋の君主達(1回)、レパント海戦(1571)でのキリスト教連合艦隊(1回)、本義としての雄鶏(1回)。

「鷲」の徴は「ナポレオン1世」を指す用例が圧倒的に多く、逆にルイ・フィリップへの適用は皆無であり、本詩の場合も「ナポレオン1世」を徴付けていると解するのが最も適当であろう。そうすれば同時的に、本詩の「雄鶏」は、同表現が統計上は「ナポレオン1世」を指すことが極めて多いとはいえ、上記二者択一課題の下では「ルイ・フィリップ」を指すものとして決定される。且つ、他の詩でも同じ用例が1回あり、それにVIII-46詩の例も本詩に準じて「ルイ・フィリップ」用例に加えると全16回中、都合3回となり、解釈の適切性を形成する。同じ論法で、「鷲」(全17回)の「ナポレオン1世用例」は都合9回となる。

では、3兄弟の各徴との対応はどうか。同様の用例統計を実施してみよう。

ウ)月:lune, Luna, lunaireを含む全15回のうち、本義としての天体(10回)、銀・銀貨(4回)、地名(1回)。

エ)獅子:Lyon, lyon 全28回のうち、地名リヨン市・リヨン湾(12回)、勇猛なる人物・王者・国家(ドン・ジュアン・ドートリシュ、国民公会、アンリ2世、モンゴメリー、第3代ギーズ公、ナポレオン1世、植民国家等計11回)、紋章(4回)、12宮のサイン(1回)。

オ)太陽:Sol, Soleil全38回のうち、天体(13回)、君主的人物(ルイ16世3回、その他フランス王3回、その他11回計17回)、フランス国(1回)、日本国2回、ゴールド・マネー(4回)、土 ( =  terre, ground) 1回。

「太陽」=「ルイ16世」の例が本詩以外の所で2回 (§372,III-34; §387,IX-19) 見られる以上、本詩をそれに含めて何の差支えもない。

そして、ルイ18世については、X-86 詩の「グリュプス(griffin)」(胴体は獅子、頭と翼は鷲の怪物)という徴表で一度語られているので、本詩の「獅子」に比定してよいであろう。

すると、シャルル10世に残される徴は「月」ということになる。

この点に関する19世紀の研究者トルネ・シャヴィニの注解は説得力をもつ:「三兄弟王を月、獅子、太陽という標識で指定するようにノストラダムスをして導いた要因は、多分、三人のうちの二人、つまりルイ16世とシャルル10世が太陽と月の如く、食を被るという事、及び両天体が兄弟の間柄にあるという事であろう。」(Torné-Chavigny, 1861, p.76)

事実、この二人は任期(本来終身の)途中で解任・辞任により王位を去った。他方、ルイ18世は終身任期を全うしたから、「王位が食される」ことはなかった。そして、彼の革命勃発期での素早い亡命、長期の忍耐強い流浪王としての生活、ナポレオン・ボナパルトによる暗殺企図の回避、対仏大同盟軍の支援を受けての反復する王政復古の執拗な追求という政治生命の履歴は獅子ないしグリュプスという強靭なイメージを裏切るものではない。

従って、「貫頭衣を着た君主の足早の進行の先にある不確かな勝利」とは、「総裁政府後の不安定政権たるナポレオン、ルイ18世、シャルル10世及びルイ・フィリップの各政権」である。

所で、ブランダムールは Castulon を「カスティリャの of Castile 」という形容詞句と同値と見なして、Castulon monarch をスペイン君主シャルルカンとしている (Brind'Amour, 1996, p.94)

しかしこの解釈は成り立たない。何故なら、Castulon の語源は上で述べたようにラテン語castula(衣服)であるのに対して、カスティリャ Castile の語源は「城」を意味するスペイン語 castillo で、これはラテン語 castellum ('castle') に由来する (cf.小稲義男ほか編『研究社 新英和大辞典』第5版)

如何に類似した綴りとはいえ、意味は大違いであり、「衣服」と「城」を混同したら大間違いは避けられない。Castulon とは異なるこの「城」系統の語としては、Castel, Castillon, Castallon  がノストラダムスの予言詩にある。

Castel (IX-16,§780)
はスペイン内戦時のフランコ将軍の先ず拠ったカスティリャの地及び先ず確保したトレドのアルカザル城を表す(cf. Ionescu, 1976, p.451-454)

Castillon (X-9,§405)
は指小辞又は逆に拡大辞の -on  (Suzuki) を「城」に付加した語で、この場合はフランス革命初期の「ヴェルサイユ宮殿」という「大城」を表す。

そして Castallon (VIII-48,§747) は、castellani ( = garrison of a fort  城塞の守備隊) castell- に拡大辞 -on を付加し ( = castellon 大守備隊), 更に中の e a に換え、且つキャピタル・イニシャルを用いて固有名詞化して Castallon としたもので、A は「オーストリアAutriche」のイニシャルとして、「サラエヴォ事件に反応して急激に攻勢に出たオーストリア軍」を表す。

以上のように、ノストラダムスは「castula 衣服」と「castellum 城」を明確に弁別し、区別して使っているのである。
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フランス革命7 §345 恐ろしい玉座の交替継起 (1789-1848): VIII-46.

第八サンチュリ46詩:

ローヌ川から3里の所で多数の死者が死ぬだろう、                        

二人の近縁者は急迫する動乱から逃亡する:                               
軍神(火星)が鷲、雄鶏、そしてフランス三兄弟の、                           
それぞれの玉座をいとも恐ろしいものにするだろうから。

Plenty of the dead shall die three leagues from the Rhone,
   
Flee the two close relatives from the urgent upset,
For Mars shall make most horrible the throne,
Of cock, of eagle, and of the three French brothers.

フランス3兄弟」とは前節(§344)で見たように、I-31詩の「三偉人」に同じ「ブルボン3兄弟(ルイ16世、ルイ18世=プロヴァンス伯、シャルル10世=アルトワ伯」であり、又、「」はナポレオン・ボナパルト、「雄鶏」はルイ・フィリップを表す。そして、「軍神(火星)が鷲、雄鶏、そしてフランス三兄弟の、それぞれの玉座をいとも恐ろしいものにする」ということは、これら五つの政権が全て「武力闘争」の中で滅び(ルイ16世 (1792)、ナポレオン・ボナパルト (1815)、シャルル10世 (1830)、ルイ・フィリップ (1848))、又は武力闘争の中で生れた(ナポレオン・ボナパルト (1799)、ルイ18世 (1815)、ルイ・フィリップ (1830))という事実を表現している。

そして、二行目「二人の近縁者は急迫する動乱から逃亡する」とは、ルイ16世に対する第三身分中心の政権転覆運動(フランス革命)初期に、王弟達(プロヴァンス伯とアルトワ伯)= ルイ16世の二人の近縁者が国外亡命した事実を指す。事実、アルトワ伯は1789年7月16日、プロヴァンス伯は1791年6月20日に亡命した。「急迫する動乱 the urgent upset」の原文はtarasc destroisであるが、tarascはギリシア語taraxis(騒乱)に由来し、destrois は名詞としては「海峡détroit (strait)」、形容詞としては「狭い、切迫した」の意味で、この場合は「切迫した動乱」と読める (Torné-Chavigny, 1861, p.73; Godefroy)

さて、一番の難題は一行目である。「死者が死ぬ」という表現は「酷い死を死ぬ」というような表現と共に、ノストラダムスによく見られる同族語による強調語法として容易に理解出来る。と同時にこれは、「換喩法(b): 結果を以って原因に換えるもので、Death fell in showers (死が雨と降った)というのは実は弾丸 (bullets) が雨と降って多数の死者を生じたことで、弾丸に換えるにその結果たる死を以ってしたのである。」(井上義昌編『詳解英文法辞典』開拓社、東京、1972, p.1091)という換喩法、または、「前件を以って帰結を表す換喩法」(Littré) と類比的で、「帰結(結果)を以って前件(原因)を表している換喩」と言うことも出来るだろう。だが、plenty of the dead (多数の死者)の原文:Pol mensolee(ポル・マンソレ)が何故そう訳されるのか。この趣旨での解釈を与えているのはトルネ・シャヴィニ (Torné-Chavigny, 1861, p.72-73) である。

先ず、この表現に類似し、且つ最初のヒントをもたらしてくれる例: saint Pol de Manseole (IX-85) を参照しなければならない。実はこれは、ノストラダムスの生れ故郷サン・レミ・ド・プロヴァンスのすぐ南1.5kmほどの所に残っている古代ローマ遺跡に関連した名前の若干の変形と考えられる。そこはGlanum というローマ人の町があった場所で、今も凱旋門風のアーチ形の市門が建ち、その直ぐ傍らにはSaint-Paul-de-Mausoleと呼ばれる死者記念塔 (cénotaphe)が今も建っている (cf. Lemesurier, 1997, p.27)。その銘文によれば、Sextus Lucius という人が親族のために建立した模様だ。PolPaulManseoleMausoleの若干の変形と考えると、saint Pol de Manseole (IX-85) は、ノストラダムスが少年時から親しんだローマ遺跡、この実在の死者記念塔Saint-Paul-de-Mausoleを指し示すと解される。なお近隣には、同じサン・ポール・ド・モゾールSaint-Paul-de-Mausoleという名を冠する「修道院」と「病院」(画家ゴッホが療養した)がある。そして、この死者記念塔はまさにローヌ川から東に約14kmの距離にある。「里」の原文lieue (league) は凡そ4kmだから、「3里」は約12kmである。

但し、本詩はそれがそういう位置にあることが主題ではない。原詩は文字通りには正に「ポル・マンソレがローヌ川から3里の所で死ぬだろう」と読める。従って、ポール・ド・モゾールの縮約形ポル・マンソレは、「可死者: mortal =人間」を表すことになる。元来、Mausoleの語源は、古代七不思議の一つに数えられた Mausolée (Mausoleum): マウソレウム(紀元前4世紀の小アジアのカリア王マウソロスMausolus の后アルテミシアが亡夫のために建立した大陵墓)という固有名詞である。そしてこれが普通名詞化されると、「霊廟、陵墓、墓」となる。

そして、トルネ・シャヴィニによれば、Polは、「多数(の)」を意味するギリシア語poly (e.g. polymer重合体)に由来する。従って、ポル・マンソレ(Pol mensolee)は「多くの墓 多くの死すべき人々」という意味になる。

そこで、「多くの死すべき人々が死する」とは、言及されることなく黙過される通常の自然死とは異なる死、取り分け顕著に取り沙汰されるものとしての「非業の死」を遂げるということであろう。 時代的には正にフランス革命期、「非業の死」とは「テロル(恐怖政治)による犠牲死」である。

そして、「ローヌ川から3里の所」という規定は、既に何度も見たように、「部分地名」で以って包括者全体を表す 提喩 synecdoche の手法として、「フランス国全体」を表すのである (Cf. はじめに1; 日付のある預言詩7 (§327,III-77): エジプト(1727年当時) オスマントルコ; 日付のある預言詩8 (§329,VIII-49): ポントロッソ イタリア;仏革命とナポレオン14:女王の森 ミューズ県 )。
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§346 フランス革命8 君主主権から国民主権への革命 (1789): VI-23.

第六サンチュリ23詩:                                        

政権に関する精神的防塁が悪口を言われ、
そして国民が自分たちの王に歯向って騒擾を起すだろう。
「重荷」;新たな出来事、神聖な法が非難される。
パリは未だ嘗てかくも甚だしく困難な状況に直面した例はない。


The spiritual guards of the government shall be decried,
And the people shall be raised against their king:
A burden; unexampled happenings, sacred laws blamed,
Rapis shall never have been in such a hardest circumstance.

先ず、一行目の「政権に関する精神的防塁」(複数)とは、次行の「」という語との関連で明白なように、フランスの伝統的王政理論たる王権神授説及びそれと表裏を成す国教カトリシズムと解して大過あるまい。

「ルイ十五世・ルイ十六世の治世は、大枠としてなお絶対王政を維持してはいくものの、不断にそのほころびをつくろい、さまざまに改革の手を打たざるをえないのである。絶対王権を理念的に支えてきた王権神授説も、王の統治を正当化する政治イデオロギーとしての有効性をうしない、世俗化したあらたな政治文化にとって代わられることになるだろう。」(柴田三千雄編著『世界歴史大系 フランス史2』山川出版社、東京、2005, p.246)。

旧来の体制に対する思想的批判の代表者はルソー(社会契約に基づく国民主権論の提唱)とヴォルテール(狂信的儀式的カトリシズムの糾弾)であった。それはI-47詩(§392)で、「レマン湖の諸々の教説が憤慨の種となるだろう。」と言われていることに通じている。事実、ルソーはレマン湖畔ジュネーヴ生まれであり、ヴォルテールは後半生をジュネーヴに隣接するフェルネーに居住した。

三行目の「重荷 burden」(原文はfaix)とは、原文で二行目の末尾の「王」に踵を接していることからも見えるのだが、「君主制は人民の負担でしかない」という見解を表す。第三身分の背中の上に載る特権身分の図がこれを戯画化している(芝生瑞和『図説フランス革命』河出書房新社、東京、2007, p.7「ひどい悪習」参照)。

他の版でこれ(faix)は「平和paix」となっていてそう読む解釈もあるが、それだと文脈に合わない。事実、人民の重荷とは具体的には「課税」であり、フランス革命のアプローチとなった1789年5月5日の全国三部会は、国王の「新税提案」(1787年2月)を巡る政治的紛糾の解決の場として設けられたのであった。

«The burden of taxation fell most heavily on the peasants, who formed by far the most numerous class in France. But the middle class, or bourgeoisie, were also overburdened by the income tax. The clergy were exempt from taxation, while many nobles evaded payment of taxes which by law they should have paid.» (Strong, 1963, p.36)

新たな出来事」とは、その三部会のうち、第三身分が前例なき「国民議会」(6月17日)を名乗り、他の特権二身分も合流して前例なき「憲法制定国民議会」(7月9日)となって行く前例なき政治プロセスを指す。

そして、「神聖な法が非難される」とは、一行目の趣旨と同じで、具体的には当の「制憲議会」が行った「封建制廃止」決議(8月11日法令)と、「人権宣言」採択(8月26日)であろう。前者は正に従来神聖視されていた封建制度が非難され、領主権・賦役・教会十分の一税が廃止されたのであり、後者は「君主の大権として考えられていた主権」が否定されて、全く逆に「国民があらゆる主権の源泉である」とされたのである。なお、大抵の解釈で「悪化する」と訳される原文empirerの元来の意味は「非難する」blâmer (to blame) (Godefroy)である。

四行目は、原文RapisがParisのアナグラムであることは言うを俟たず、そのパリが直面した困難な事態とは、この間のパリ市民達による「バスティーユ占領」(7月14日)と、「ヴェルサイユ行進」(10月5-6日)である。二行目が表すのはこれらの事態に違いない。

なお、原文「arroy 状況 (circumstance)」に関して、ルペルチエは、「 « désarroi 混乱・動揺 (disorder, confusion)» の同義語」と注釈している(Le Pelletier, I, p.187)が、それは「si tresdur arroy (such a hardest circumstance)」という句全体の意味ではあっても、arroi 自体の基本意味は単に「arrangement, disposition 配置・状況」(Godefroy, s.v. aroi) である。イオネスクも、ルペルチエの間違った轍を踏んでいる(Ionescu, 1976, p.270; p.392)。
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§347 フランス革命9 三部会の変質と第三身分の覇道 (1789): VIII-21.

第八サンチュリ21詩:

アグドの港に三隻の船が入るだろう。
各船が運び持っているのは中毒、不信仰、そして疫病。                          
彼等は橋を渡りながら巨富を奪い取るだろう。                              
而して第三の抵抗によってその橋を断ち切るだろう。

                             
Into the port of Agde shall enter the three vessels,
Carrying the poisoned, the infidel and the pestilence.
They shall rob the government of many a thing in crossing the bridge,
And finish by breaking it with the third resistance.

アグド(Agde)は、フランス・エロー県の実在地名で、リヨン湾(地中海)に面した海港であり、トルネ・シャヴィニの解釈によれば、真意はその地名のギリシア語的ニュアンス「善良(agde = agathos = good)」にある。これは「善良王」とも言うべきルイ16世を暗示しており(cf. §362, VII-44: 第七サンチュリ44詩:一人のブルボン家の者が大層善良な方であるだろう時に When one of the Bourbons shall be good)、従ってその港はヴェルサイユで、三隻の船はそこに召集された全国三部会である(cf. Torné-Chavigny, 1861, p.39)。

不信仰」とは第一身分の中の「反宗教的心性=反王権的自由主義=共和主義」、「疫病」とは第三身分の「反王権的自由主義=共和主義」であり、従って「中毒」とは第二身分の中の「反王権的自由主義=共和主義」を指す。

疫病 pestilence」:ノストラダムス『予言集』における「peste, pestilence, pestilent, pestifere」の用法全38回のうち、本義の「病疫」は唯5回 (II-19, II-37, II-46, II-53 and II-65) のみで、「戦禍」が32回で圧倒的に多く、この場合は大抵純粋な戦争被害に加えて「思想的・宗教的・イデオロギー的相克と相互破壊」を伴う。最後に「震災」が1回 (VIII-84) ある。本詩の例は第三身分の反王権的自由主義=共和主義であろう。

」とは、神と信仰者の仲介者・教皇がPontiff(橋守り)と言われるのと全く同様の概念で、王権を神授された王は、神と人民の媒介者であるという表現である。

「彼等」とは、国民議会(1789年6月17日)を中核にして、反王権的自由主義=共和主義の線でまとまった三部会員達であり、「橋を渡りながら」とは、「ルイ16世の権威をうまく利用しつつ」ということで、事実、国王は譲歩の果てに、第一身分と第二身分に対して国民議会への合流を勧告するに至った(6月27日)。その結果が「憲法制定国民議会」(7月9日)の成立となって行く。

そして、彼らが奪い取った「巨富」(原文は「百万」)とは具体的には「教会財産国有化」の議決(11月2日)による教会財産のことであろう。

最後に、「その橋を断ち切る」とは、「その橋」=「ルイ16世」であるから、ルイ16世の王権廃止(1792年9月21日)と処断(1793年1月21日)であり、「第三の抵抗によって」とは、「第三者」、つまり「民衆」のチュイルリ王宮襲撃(1792年8月10日の蜂起)という反王権的抵抗活動を大きな推進力とした「国民公会」(1792年9月20日)という第三番目の議会(第一番目は「憲法制定国民議会」(1789年7月9日)、第二番目は「立法議会」(1791年9月31日))の議決に基づいて、ということであろう。勿論「第三身分」という意味もそこに込められているのは疑いない。
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§348 フランス革命10 球戯場の誓いが王政廃止へ至る (1789): VIII-100.

第八サンチュリ100詩:


流された涙の多さの故に
低き者が最も高きに昇りて、高き者の低落が起る。
余りの信じ易さよ、「遊戯」の為に生命は失われ、
対処に事欠くこと多くして、「渇き」にて死せむ。
                                                                 

Because of the abundance of the tears shed,
The upper class down, the lower in the highest position.
Too much confidence; the life shall be lost by the game.
He shall die of thirst because of many deficiencies of his.

流された涙の多さの故に」とは、過酷な課税の重荷(§346, VI-23:重荷burden)故の労苦が主原因で下剋上の民衆の謀反が起った(低き者が最も高きに昇りて、高き者の低落が起る)ということであろう。                                                            

余りの信じ易さよ」とは、前節§347, VIII-21で「アグド(善良)の港」と称されたルイ16世の性格を再述したものである。

遊戯」とは、国民議会による「球戯場の誓い」である(Ionescu, 1976, p.274)。

「6月17日、490票対90票で『国民議会(アサンブレ・ナシオナール)』という名称が採択された。... 6月20日、ムニュ公会堂の門は国王によって閉鎖された。修理の名目である。議場の門前で小ぜりあいが起こる。グルノーブルのムーニエが近くの屋内球戯場(ジュ・ド・ポーム)に議場を移すことを提案した。小雨の中、屋内球戯場に代表たちが集まって来る。所で、球戯(ジュ・ド・ポーム)とは手やラケットで球を打ち合う現在のテニスの原型のようなものである。有名な球戯場の誓い(テニスコートの誓い)が国王によって議場から閉め出された”議員”たちによってなされるのだ。それは家具も何もない殺風景な球戯場での第三身分の側の”決意表明”だった。『憲法が制定され、強固な基礎の上に確立するまで国民議会は解散しない。事情に応じてどこにでも集合する。夫々が署名によってこの不動の決意を確認する。』署名者は577人。いわば血判状のような”誓い”であった。」(芝生瑞和『図説フランス革命』河出書房新社、東京、2007, p.32-33)

生命」は「信じ易い王の生命」であろう。

そして、4行目はその点を更に補足する。
対処に事欠くこと多くして」という表現は、「信じ易い善良な王」の実務的力量の不足を述べている。ルイ16世自身の意識は、自分ほど国民の幸福安寧を思い、善政を敷くことに努力している君主は稀である、という高い自己評価に止まるが、しかし、そこには国家経営に要求される厳しさの側面が欠けていると言わざるを得ない。特に財政政策が大臣の頻繁な交替で一貫性を欠き、又、多くの論者が指摘するように、「厳しさの中核たる防衛力」の適宜適時の行使に関して迷いを露呈した。

では、「渇き」とは何か。ノストラダムスは、自然現象や生理現象自体には予言者として二、三の例外を別にして特に留意する意思がないのはシッカリと解釈者は銘記しておきたい。それらについては、極めて象徴的、転義的用法が多いのである。予言集全体で彼は「渇き(soif = thirst)」の語を11回使用している。本詩を除く10例に関しては、本義・広義(渇き・物資不足・財政逼迫)が4回(II-62, II-64, III-6, VI-69)、権力欲が4回(II-9, IV-59, VI-40, X-15)、戦乱が2回(III-19, IV-90)となっている。

本詩の例もこれら3種の用法の一つに分類されるだろうが、最も適当なのは 「戦乱」 というニュアンスではなかろうか。つまり、「ルイ16世が刑死した」のは、渇きによるのでは勿論無いし(財政逼迫という契機はあったが)、権力欲によるとも言えない。「共和革命という形式を帯びた蜂起した民衆との戦いの敗北」、「革命を制御出来なかった無力」が直接の原因である。それは前節(§347,VIII-21)でまさに、「第三の抵抗によって」と言われていた通りである。「第三者」、つまり「民衆」のチュイルリ王宮襲撃(1792年8月10日の蜂起)という反王権的抵抗活動を大きな推進力とした「国民公会」(1792年9月20日)という第三番目の議会(第一番目は「憲法制定国民議会」(1789年7月9日)、第二番目は「立法議会」(1791年9月31日))の議決に基づいて刑死に至ったということである。
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フランス革命11 フランス革命の呼び水:選挙演説と請願行動

§349. フランス革命の呼び水:選挙演説と請願行動(1789 -1792): I-14.

第一サンチュリ14詩:
王侯や領主がその身分の故に獄に囚われる時、
奴隷的身分の人民の小唄、歌唱そして請願が、
将来、判断力を欠く愚者達によって、
神々しい演説として迎えられるであろう。


Princes and lords being captive in the prison because of their blood,
Chansons, songs and requests,
In the future by the foolish without intelligence,
Shall be received as divine speeches.

王侯や領主がその身分の故に獄に囚われる時」とは、フランス革命時に現出した状況である。即ち「王侯」(複数)とは、具体的にはルイ16世と王太子ルイ・シャルルを指す。1792年8月10日のチュイルリー宮殿に対する民衆蜂起の後、議会は王の職務を停止し、コミューンの提案に沿ってルイ16世と王太子を含む家族をタンプル塔に幽閉した。又、1789年夏のバスチーユ襲撃に続く時期に起った各地の農民暴動(大恐怖)の中で領主館が襲撃されて領主が監禁されるという事も起った(cf. 芝生瑞和『図説フランス革命』河出書房新社、東京、2007, p.97; p.58)。

奴隷的身分の人民の小唄、歌唱そして請願」とは、3-4行目で「将来、神々しい演説として迎えられる」とあるように、普通の意味の歌謡ではなく、第三身分の権利獲得を目指す弁論的主張の意味である。これは1789年全国三部会の代議員選挙の期間、及びその後の議会開催中での演説、パンフレット及び請願である。「小唄」「歌唱」という言い方はそういう意味では主張者各々の個性的な生の主張というものを上手に表現している。

「1789年1月24日、選挙の公布が行われた。『王国の隅々から名も無き民が、願いと要求を陛下の元まで寄せるよう』と布告は告げる。そして選挙戦が始まった。百花繚乱の選挙だった。ミラボーの『プロヴァンス人に訴う』、ロベスピエールの『アルトア人に訴う』、タルジェの『三部会への手紙』、デムーランの『フランス人民への哲学』、ヴォルネの『人民の尖兵』、トゥレの『善良なノルマンディー人へ訴える』などなど。パンフレットやアピールが洪水のように現れ、盛んに読まれた。文字の読めない者に読んでやっている人々の光景も町や村で見られたという。中で最も影響力の強かったのはシェイエスの『第三身分とは何か』である。その書き出しの部分----『本書は....ただ三つの問題を取り扱うつもりである。それは、1、第三身分とは何か....全て。2、今までその政治的位置はいかなるものであったか....零。3、それは何を求めるか....そこで相当なものになること。』シェイエスは全国三部会では第三身分は特権身分と妥協せずに多数決の国民議会を作ることを主張するのである。そしてそれは抵抗に遭いながらも実現する。この時シェイエスは革命の粗筋の書き手だったとも言える。」( 芝生瑞和、上掲書、p.24-25)

請願:「三部会では選挙区の身分ごとの陳情書(カイエ)が出されることになっていた。(1789年)その総数は六万に及んだ。これらは当時のフランス人の生活や不満、またその政治意識を知る好都合な材料を後世の研究家たちに残すことになった。そこには当時のフランス庶民の生活の苦しさが垣間見られるだろう。」( 芝生瑞和、上掲書、p.26)

又、革命の進行の転換点毎に急進的な請願が国王や議会に提出された。

「(1791年)7月17日、第二回連盟祭直後、コルドリエ派が中心になってシャン・ド・マルスに国民の祭壇を造り、共和政を要求する請願書に署名をする集会が行われた。王を廃位させるための謂わば直接行動である。この集会の中に暴徒がいるという報告が議会に届くと市長バイイとラファイエットが国民衛兵を引き連れて現場に直行した。祭壇の上にいる民衆に発砲し、約50人の死者、数百人の逮捕者が出た。いわゆるシャン・ド・マルスの虐殺である。」(芝生瑞和、上掲書、 p.88-89)

「(1792年)議会で、ジロンド派の提案により議決された宣誓忌避僧追放令(5月27日)に国王が拒否権を行使する。同じく議会で議決された連盟祭を期して2万の連盟兵を募集し、パリ防衛に当らせようという法案(6月8日)も国王によって拒否される。6月20日、パリ民衆はジロンド派大臣罷免及び国王の拒否権行使への抗議、更に軍のサボタージュへの不満の請願書を持ってチュイルリー宮殿の庭に結集。国王は妥協的態度だったので、デモ側は気勢をそがれる。」(芝生瑞和、上掲書、 p.95)

「(1792年)パリのセクションは王権停止を求める請求書を議会に提出するが、回答は期限を過ぎた8月9日になっても無い。この夜パリでは警鐘が鳴った。各地区から委員が市庁舎に集り「蜂起のコミューン」が作られた。やがてこれが正規のコミューンにとって代わる。翌8月10日、連盟兵、サン・タントワーヌや周辺のサン・キュロットたちが早朝チュイルリー宮殿に押し寄せた。激しい戦闘。宮殿になだれ込む連盟兵。国王は近くの議会に避難した。」(芝生瑞和、上掲書、 p.96-97)

将来」とは、特に「ロシア革命を筆頭とする共産主義革命が頻発する時代」、即ち20世紀と見てよい。何故なら、「この予言詩はロシア革命にも又当てはめられる。というのも、本詩は無産階級革命一般を描き出しているからである。」(Ionescu, 1976, p.267)

ノストラダムスは、形而上的、神的な存在を一般的に否定する唯物論的思考者を「判断力を欠く愚者達」と評している。
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フランス革命12 テロルの先駆者・「人民の友」マラー

§350. テロルの先駆者・「人民の友」マラー(1789-1793): II-30.

第二サンチュリ30詩:
ハンニバルの地獄の神々を生き返らせるであろう
一人の男、人々の恐怖の的。                                      
未だかつて無かった程の多くの戦慄と最悪の新聞の群れ、                         
結果、出来事がバベルの塔を介してローマの人々に到来するだろう。

                
The one who shall make revive the infernal gods
Of Hannibal, a fright of the humans.
There shall be no graver horrors nor worse journals,
So that the advent shall occur to the Romans by way of Babel.

ハンニバルの地獄の神々」とは、ローマに根底から激しく敵対した勢力の比喩であり、取り分けその指導的分子であり、そして「新聞の群れ」「バベルの塔」という表現から説明が付くように、フランス革命の中、新聞出版言論活動によって勢力を揮った最も代表的な一人物が本詩の主役で、それは外でも無く、『人民の友』という極左新聞に拠って大衆を惹き付け、「人民の友」と綽名されたマラーである。

「1789年5月以降、定期出版物が事実上享受していた自由は、各種新聞の増加を可能にしていた。それらも又、極右の『王の友』から、極左のマラーの『人民の友』まで、あらゆる意見を反映していた。しかし、最も熱心に読まれたのは、最も革命的で最も激越な新聞であった。出版が市民を覚醒状態に保ち、市民が議会の立法行動を引きずった。」(Grousset et Léonard, p, 378)

つまり、最終行「出来事」は、フランス革命を意味し、「ローマの人々」とはカトリックを中核としたアンシャンレジーム的心性のフランス国民を象徴する。

人々の恐怖の的」「多くの戦慄」「最悪の新聞」等々の表現は、マラーがロベスピエール等の「テロル(恐怖政治)」に先んじて革命をテロル政治的方向へと牽引した事実に符合している。

「”九月の虐殺”の責任をどこに帰すべきか?ヴェルダン包囲の日(1792.8.30)にマラーが壁に貼った檄文、「監獄に赴き、そこで民衆の敵に制裁を加えてからでなければ、出発してはならぬ」に帰するものもあれば、又指令を出したのは蜂起コミューンの監視委員会だったとする説もある。」(芝生瑞和『図説フランス革命』河出書房新社、東京、2007, p.103-106)。

「(1792年9月2日)かくしてマラーが、最も熱狂的な分子として、監視委員会に加わる。彼は当該委員会の魂である。監視委員会は虐殺を準備していた。監視委員会は8月31日と9月1日に、相当数の借金犯罪者と軽犯罪者を釈放して、重大犯と反革命犯を隔絶し、爾後は拘禁者達に何をしてもいいというお墨付きを看守達に与えていた。2日以降、監視委員会は血の革命裁判所を組織した。9月2日から5日までの4日間で、監視委員会の報告によれば、拘禁者2637名のうち、およそ1100名が死亡した。«革命»が宣言していたところの自由と正義の原則は、酷く侵されたのである。一時は、«テロル»の予感があった。しかし、一般的には、各地方県はパリ事変を恐怖し、マラー、パリ及びその同僚達の呼び掛けに耳を閉じていた。九月事変後、«革命»はもはや後戻り出来なかった。「臆病者達」も前進せざるを得なかった。マラーは勝利した。そして彼と共に監視委員会も又勝利したのである。」(Sagnac, 1920, p.401-407)
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フランス革命13 非キリスト教化運動(1789-1794):

§351. 非キリスト教化運動(1789-1794): I-53.

第一サンチュリ53詩:
嗚呼、偉大な国民が責め苛れるのを眼にすることになるとは!
そして神聖な法が完全に破滅し、
別の諸法律によってキリスト教徒全員が破滅する、                            
それは、金銀の新鉱脈が発見される時である。
                              
Alas ! A great people shall be seen tormented,
And the sacred law in total ruin.                                   
By other laws all the Christians ruined,
When a new mine of gold and silver shall be discovered.

偉大な国民 great people」という表現は、『予言集』で全6回の使用があり(I-37, I-53, I-76, II-9, II-28, II-45)、すべて「フランス国民」を意味するが、それはナポレオン1世が自国民を表敬してそのように呼んだことから来ている(Torné-Chavigny, 1861, p.154)。

「1805年9月23-24日:ナポレオンは公式に元老院に赴き、オーストリアの敵対的行動を説明し、軍を率いて同盟諸国を救援しに行くと宣言する。『我が国民はあらゆる場合にその信頼とその愛の証しを私に示して来た。我が国民の栄光と私の栄光が関わるこの重大な時に、我が国民は、私が多くの戦場の只中で敬意を以ってそう呼び続けてきた”偉大な国民 great people”という名に値し続けるに違いない。』」(Montgaillard, 1827, VI, p.159)(Cf. 「その時皇帝は、偉大な国民(the great nation)という名称でフランスに敬意を表したのは自分が最初であったのだと語った」(Las Cases, 1956, II, p.232))。

因みに、単なる「国民people」という表現の使用は全30回で、内容的にはフランス国民が16回、スペインとイタリア国民が各3回、その他9カ国(ドイツ、イギリス、ポルトガル、中国、ロシア、日本、トルコ、ルーマニア、ポーランド)の各国民が各1回となっている(延べ31回となっているのは重複が1例あるため)。

偉大な国民が責め苛れる」とは、「革命家達の暴政によって」ということである(Torné-Chavigny, id.)。

神聖な法」とは、「カトリック宗教」のことである(Le Pelletier, 1867, I, p.183)。

キリスト教徒全員」(これはフランス国内の意味)を破滅させる「別の諸法律」とは、以下の議会の革命的諸法律を指す。

1. 1789.11.2 教会財産国有化

2. 1789.12.5 教会没収財産を担保にした5%利付の国債「アシニャ」発行
                     
3. 1790.7.12 聖職者市民基本法(聖職者は特権を廃され、公選され、国家から俸給を受ける)

4. 1790.8.27 アシニャ債券の利子を廃して紙幣化(その増刷が激しいインフレを起こす)

5. 1790.11.27 聖職者に聖職者市民基本法への宣誓を要求(宣誓派と忌避派に分裂し、やがてフランス国民全体が二分裂)

6. 1791.11.29 聖職者に1791年憲法への宣誓を要求(宣誓拒否者は反革命容疑者とみなされる)

7. 1793.10.5 共和暦を導入し、キリスト教行事と密接に結び付いていたグレゴリウス暦を廃止(これを契機に、翌春にかけて、既成宗教根絶を謳う非キリスト教化運動が激化し、多くの地方で活発な抵抗運動が起った)

金銀の新鉱脈」とは、「聖職者の財産を担保にした4億[リーヴル]のアシニャ債券発行」のことである(Le Pelletier, id.)。
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フランス革命14 ヴァレンヌ事件とその帰結

§352. ヴァレンヌ事件とその帰結((1791-1793): IX-20.

第九サンチュリ20詩:
夜間、やって来るだろう、女王の森を通って、                              
双方とも同じように、遠廻りの道を、女王が、白石の地を経由して、
灰色の衣を纏った王者がヴァレンヌの中へと。
カペー朝立憲君主が暴動、戦火、流血、断頭の因となろう。


By night shall come through the forest of Queens,
So with the one as with another, the detour, Queen, White Stone,
The Monarch in gray into Varennes.                            
The Capetian elite causing tempest, firing, bloodshed and decapitation.

本詩はフランス革命の最も有名なエピソードの一つ、ヴァレンヌ事件(1791.6.20-21)を予言したものであることは、以下の収斂する諸観点から論証出来る。

第一に、「女王の森」は実在する地名である。従来の研究者の中で、シュロッサー以外には誰もこの事実を認識できていない。「預言者は、当時Sylva Reginae 女王の森と呼ばれていたこの森を矢張り知っていた。事実、周知のように[ロレーヌ地方を旅した]ノストラダムスは、コメルシー Commercy 周辺の旅籠屋に投宿していた。その森はゴンドルクール Gondrecourからポンタムソン Pont-à-Mousson までの全地域を覆っていた。それはトゥール大聖堂の領地であった。その名前は、ネウストリア王クロテール2世の犠牲となった6-7世紀のメロヴィング朝女王たるブリュヌオー Brunehautの思い出を長く止めたものである。」(Schlosser, 1985, p.128)「ムルト川の両岸を縁取っている森林、及びいわゆるブリュヌオーを記念して『女王の森 Forêts de la Reine』という名前を保持している森林はヴォージュ森林とアルデンヌ森林とを結合する役目をしている。注:『女王の森林または森』(les forêts ou bois de la Reine)は『エルマンディア女王林』(forestaregia Ermandia)という名前であった。とすると、それはブリュヌオーではなく、多分ルイ善良王の夫人エルマンギャルド王妃une reine Ermangarde を記念したものだろう。」(Maury, 1850, p.248)

現在、「女王の森 Forêt de la Reine」は広大な「ロレーヌ地域自然公園Parc naturel régional de Lorraine 」の南半分を占めている(cf. Michelin, 2002, p.46 B2; GeoCenter, 2000, p.37 Fe56)。

なお、「女王の森を通って」という表現について補足しておきたい。ルイ16世一行は、厳密に言うと、実在のこの森を通過しているとは思えない。しかし、ノストラダムスの地名表現は狭く解釈すると行き詰まってしまう事が多い。多くの場合、彼の行き方は、部分地名を以って包括者全体を意味させる 提喩法synecdoche に則ったものと考えられる。逆に、包括的な「大陸」で個別の国「フランス」を表すのも同様に提喩である。実例: はじめに1;日付のある預言詩7(§327,III-77): エジプト(1727年当時)オスマントルコ; 日付のある預言詩8(§329,VIII-49): ポントロッソイタリア; フランス革命7: ローヌ川フランス)。なお、提喩法synecdocheを論理的・認識論的観点から、「類・種の包含関係」にのみ基づける考え方もあるが(瀬戸賢一『メタファーの思考 意味と認識のしくみ』講談社現代新書1247, p.203-206参照)、修辞術の伝統的概念としては、提喩法は「全体・部分の包含関係」が根本的機構であって、「類・種の包含関係」も実はそういう「全体・部分の包含関係」の一種とみなされるのである。従って、「赤ずきん」(赤い頭巾を被った少女)は、瀬戸氏によれば、空間的隣接に基づく換喩 metonymy とされるが、伝統的立場では、「赤ずきん」は「赤い頭巾を被った少女」という全体の一部分だから、提喩と見るのが妥当である。


そういう見方からすると、「女王の森」は最も大きな概念としての「ロレーヌの国」の一部であり、且つ、「ヴァレンヌ・アナルゴンヌ」村を擁する「アルゴンヌの森」も同じく「ロレーヌの国」に属し、「ロレーヌの国に抱かれている」という意味での同一性が成立している。

しかもこの同一性は地理的な連続性の基盤さえ持っている。もっと詳しく述べれば、深い森の国ロレーヌにあって、ゴンドルクールの東北方に拡がる「女王の森」に対して、ゴンドルクールの西にはヴォーヴァの森(Bois de Vauva)、モンティエフの森(forêt de Montiefs)、モルレの森(forêt de Morley)があり,その北にはリニーの森(forêt de Ligny),モンフロモンの森(Bois de Montfromont),ジュヌヴィエーヴの森(forêt de Geneviève),マソンジュの森(forêt de Massonge),アロモンの森(Bois du Haraumont),ラ・パンティエールの森(Bois de la Penthière),リールの森(forêt de Lisle),ベルヴァの森(forêt de Belva),ボーリュ・サン・ルエンの森(forêt de Beaulieu St.-Rouin)と連らなって,この最後の森は既に「アルゴンヌの森(forêt d'Argonne)」の南端を形成しており、もう直ぐ北がクレルモン(Clermont-en-Argonne)の町である(cf. Michelin, 2002, p.36-37; GeoCenter, 2000, p.45-46)。王一行はこの街を通過している。西のサント・ムヌーから入って来て、クレルモンで90度左折し、北のヴァレンヌに向かったのである。現代地図の上でもこのような連接性が見て取れるのだから、18世紀末の頃はもっと森林が実際に連続した状態だったと推測できよう。森林史家モーリ(Maury)が言うように、巨視的にみると、且つ森林が現在よりも濃密と仮定すると「ムルト川の両岸を縁取っている森林」と『女王の森 Forêts de la Reine』はヴォージュ森林とアルデンヌ森林とを結合する役目をしている。ムルト川両岸森林はヴォージュ森林に隣接し、女王の森はアルデンヌ森林に近接する形である。そして、「クレルモン町とヴァレンヌ村を擁するアルゴンヌの森」はアルデンヌ森林の南方面への延長と見てもいいし、逆に女王の森の北方へ延びる先端と見ることも出来る。

又、1790年のフランスの地方行政区分に従っても、ヴァレンヌ、クレルモン、コメルシー、ゴンドルクール等はバールルデュック (Bar-le-Duc)を県都とするミューズ県Département de la Meuseに所属し(Mirot, 1980, p.403)、「女王の森」の西半分もミューズ県に入っている。従って、「女王の森の通過」を「アルゴンヌの森の通過」として解釈するのは、以上の状況を踏まえれば不条理ではないつまり、本詩一行目の「女王の森」は、二行目のHerneを女王(Reine)のアナグラムとして読む方向への誘発効果に加えて、三行目の「ヴァレンヌ」が、外でもなく、「ヴァレンヌ・アナルゴンヌ」を意味するという限定効果をも担当しているのである。蛇足ながら、「女王の森」の原文は、「女王」が複数形のReines (Queens)となっているが、この語尾のsはVarennes の語尾と押韻する必要から付加されたに過ぎない。

次に、「双方とも同じように」(deux pars = so with the one as with another)とは、「二つの側で Des deux parts: 一方の側も他方の側も同様にchez l'un comme chez l'autre (Littré)」という辞書の解説に基づく。これは「主語たるべきQueenとthe Monarch」に関して同じ事態が当てはまる、という状況副詞句である。つまり、詩中ではバラバラの行動に見えても、同一の馬車に乗っていたのだから、全く同じ行動になる。

そして、「女王」の原文はHerne: 「herneのうちにはreine(queen)が看取される、文字hを文字iに替えることにより。」(herne ⇒ rehne ⇒ reine) (Bouys, p.58) これは一般的に認容されたるアナグラムの手法である。Hというキャピタルイニシャルも「人物」を暗示する。この読みは、一行目の印象的な地名「女王の森」によって早くも喚起される。

なお、1-2行目は、原文を直訳すると、

By night shall come through the forest of Queens,
So with the one as with another the detour Queen White Stone,

となるが、文法的には、through (par)という前置詞がthe forest of Queens, the detour(迂路)及びWhite Stoneの三項目(後で見るようにWhite Stoneも地名であり、三項目は全てthroughという前置詞に固有の空間的概念に適合する)を支配していると考えられる。そして、間に置かれたQueenはSo with the one as with anotherの一方に該当する主語(動詞shall comeの)として理解するのが合理的である。このような«語順混乱»もノストラダムスが得意とする詩意韜晦技法の一つである(Cf. ...and the word-order freely jumbled to fit the demands of rhyme, rhythm, and general obscurity...(Lemesurier, 1997, p.88))。

遠廻りの道」( vaultorte) =「Voltorteは古語で、voie détournée(回り道)、vol de travers(斜め高飛び)を意味する」(Bouys,1806, p.57)。「vau, 渓谷(val)、谷(valée); prene la vau torto, 遠回りをする (prendre une voie détournée); tort, torto, [形容詞] 曲りくねった (tors, torse)」(Fourvières) 実際、ルイ16世が予定した目的地のモンメディ(Montmédy)に至るパリからの直道はランス(Reims)経由の筈だが、聖別式のために王の人相がよく知られている聖都ランスを彼は避けて、あたかも南東方面の『女王の森』に惹かれたかのように、ボンディ、クレー、モー、ラ・フェルテ、モンミラーユ、シャロン、ポン・ド・ソムヴェル、サント・ムヌー、クレルモンというもっと南東方面へ迂回する田舎じみた遠回りの道を辿った(Sagnac, 1920, p.298; Choiseul, 1822, p.56-72)。

白石」も実在地名である:「ヴァレンヌ・アナルゴンヌ(Varennes-en-Argonne)はエール川(l'Aire)の右岸に位置し、クレルモン(Clermont-en-Argonne)からは30km程である。ヴァレンヌはノストラダムス時代には『ヴァレンヌ・カストロンVarennes-Castrum』と呼ばれており、10世紀以来バール伯(comte de Bar)領地に属していた。預言者は各地遍歴の旅の中で、白亜と粘土で出来た土壌のために『白石Pierre Blanche (White Stone)』と呼ばれていたその周辺地域も訪ね歩いた。」(Schlosser, 1985, p.127)

灰色の衣を纏った王者」の原文はle moine noir en gris = the black monk in gray (灰色の衣を着た黒い修道士)。これを単純に文字通り受け取ると我々は何時まで経ってもノストラダムスの予言詩の解釈で前進することはないだろう。歴史の事実を背景に置きつつ、ノストラダムス特有の言語運用のコツを掴まなければならない。我々は既に、noir (black)というありふれた語全27例中、黒色という本義はノストラダムスでは6例(22%)に過ぎず、21例(78%)が「王(roi = king)」の意味で用いられている事を見た(§17, III-43)。このアナグラム解釈の最初の提唱者もBouysである:「noir のうちには、文字nを打っちゃればroi(王)が看取される」 (p.58)。そして、文脈上、既に「双方とも同じように」という状況副詞句の一方が「女王」であるとすれば、そのもう一方は釣合い上「修道士」ではあり得ない。従って又、moine (monk)の意味もノストラダムス的用語法の捻りを考慮する必要がありそうだ。彼の捻りの一つに<語源還元法>と言ってもよいような方法がある。例えば、moine (monk)の語源は「教会ラテン用語monachus, ギリシア語monos «seul» (alone, single)に由来する独居者、隠者(solitary)」(Petit Robert)。この語源に乗りつつ、ノストラダムスはmoineを更にmonarch (君主)にまで祭り上げる。何故なら、monarchの語源は、「ギリシア語monos- alone + -archein rule」(一元支配者)だからである(旺文社英和中辞典、1975)。事実、『予言集』でのmoine, moinesse (moineの女性形)の全7用例中、過半の4回(本詩を含む)は君主・王妃の意味であり、3回が修道士・聖職者である。

従って、le moine noir = the black monkという文学的表現は、「黒い修道士」に非ずして、内実は、「黒い」と「修道士」に共通の意味として「王たる一元支配者」を強く表出する。しかしそれだけなら同語反復に陥る不手際を免れない恐れがあるが、実はmonos(single)にはその上更に、another of the two partnersという意味も込められていると見るべきだろう。つまり、既出の so with the one as with anotherのうち、一人は「Herne = reine 女王」で、「他方の一人another」という意味でのmonosがmoineという語で表現されている。この事は関連詩IX-34(§355)にle part soluz mary = only the partner-husband(夫たる連れ一人)という表現で当のルイ16世が示されていることからも言えるのである。

そして、当日のルイ16世の服の色に関しては、彼が着ていたのは「栗色の大きなフロックコートgrande redingote marron」(Sagnac, 1920, p.299)、又は「ブラウンのフロックコートfrac brunとブラウンのベストgilet brun」(Bimbenet, 1868,p.37)であったとする説(逃避行に同行した女官の証言だけに信憑性が高い)もあるけれども、最初期の同時代的記録(新聞記事だけに迅速だが偏向している可能性もある)によれば、「彼の着物は鉄灰色であったSon habit était gris de fer」( Prudhomme,1791, p.544, cité Le Pelletier, I, p.193; cf. HH, XII, p.240)。しかし実は預言者はこれら両説に同時に対応するようにgris (gray)という語を選んだように見える。「生彩のない、ぱっとしない、陰鬱な」という第二義が「単色のブラウン」を指し得るからである。なお、「灰色(生彩のない茶色)の衣を纏った en gris」という表現は、§354, VIII-22のdrap gris (灰色、又は生彩のない茶色の毛織物)に対応している。

所で、ルイ16世のモンメディ移転計画に深く関与した軍人の一人シュワズール公爵は次のように記している:「フェルゼン氏が旅行用として、王の為にブラウンのフロックコートと丸帽子、王妃には灰色のドレスと帽子、[王妹]エリザベートには黒のドレスと帽子、王太子と王女には顎下締め付きの娘ドレス2着を作らせて置いた。」(Choiseul, 1822, p.50)。そして、「双方とも同じように」(deux pars = so with the one as with another)という句を厳密に二つの主語に適用すると、以下のように« en gris (in gray) »という句も二人に係ると読める

Queen, the Monarch, so with the one as with another,
Shall come through the forest of Queens,
the detour, White Stone, in gray into Varennes by night .

そうすると、王妃については正確に「灰色の衣服」であり、王については同じen grisという原文が「灰色」又は「単色のブラウンという生彩のない、ぱっとしない、陰鬱な色」として解釈可能となる。実はノストラダムスはヴァレンヌ事件での王と王妃を一緒に並べるというこの手法を§353, §354でも使っている。即ちそこでは、

王は 「パルピニャンの御大 the great of Parpignan 」 (§353)、

王妃は 「優妃パルピニャム the grace Parpignam 」 (§354) と称されている。

以上を総合すれば、「ヴァレンヌ」とはフランス各地に多数見られる同名地名に関わらず、唯一「ヴァレンヌ・アナルゴンヌ(Varennes-en-Argonne)」を指すのであって、ルイ16世逃亡事件の舞台として史上最も有名なヴァレンヌ村であると断定してよい。

その上、関連詩 IX-34 (§355) に出て来る Saulce (ソース)が、「当のヴァレンヌ村の最高責任者 Sauce (ソース)」であり、彼が王の逮捕を執行した事実に照らす時、もはや一片の疑いもないことになる。

他方、例えばドレヴィヨン、ラグランジュ共著『ノストラダムス』(伊藤進監修、後藤淳一訳、創元社、大阪、2004, p.138-139)などは、ノストラダムスと同時代のシャルル・エチエンヌの『フランス街道案内』(1553)の記述から、ロワール・エ・シェール県(県コード番号41)、アリエ県(コード03)、メーヌ・エ・ロワール県(コード49)にある各「ヴァレンヌ」が解答候補になり得ると言う。しかし、ノストラダムスが、こういう街道案内書の地名から『予言集』詩篇の作詩を行ったという推定は、そもそも全く動機なき作詩をノストラダムスに押し付ける如き虚無思考である。もしその見方が一分の理でも己に要求するつもりなら、同様の手法でノストラダムス『予言集』の少なくとも10篇程度の詩について、当該フランス街道案内記の記述に即した解説を我々に提供してほしいものだ。

ひとたび«女王の森»がミューズ県(コード55)とムルテモゼール県(コード54)にまたがるロレーヌ地域自然公園南半を占める位置にある事実が前提に置かれると、両県(コード55と54)外の全てのVarennesは本詩該当から外れる。私がチェックした限りでは、ヴァレンヌ・アナルゴンヌ(Varennes-en-Argonne)のみが当該県(コード55)内にあり、他のすべてのVarennes地名は両県外のものである。

即ち、La Varenne からVarennes-Vauzellesまで合計50か所が見出されたが(cf. Bescherelle; Michelin, 2002, index; GeoCenter, 2000, index )、県コード番号別に分類すれば以下のようになる(括弧内は複数個;括弧無しは一個のみ)。

02, 03(2), 21(2), 24, 28(2), 31, 36(2), 37, 41, 42(2), 43(3), 45, 49(2), 52, 53, 55, 58(2), 61, 63(4), 71(7), 77(3), 80, 82, 86(2), 89(2), 91(2), 94.

なお、当時においては、ミューズ県、ムルト県、モゼール県は旧ロレーヌ国の範疇にあった(cf. Mirot, 1980, p.403 et Carte XI)(当時のムルト県は現在のムルテモゼール県の南半とモゼール県(コード57)の南半に相当し、残りの北半2つがモゼール県を構成)。以上の分布を基に「女王の森」近隣のヴァレンヌを検討してみると、 55以外には強いて探せば52, 02の2カ所が比較的近い。しかし52 (オート・マルヌ県のVarennes-sur-Amance)はヴォージュ森林の西南端に位置し、02 (エーヌ県のCourtemont-Varennesに属する集落Varennes)は王一行が避けたランス方面のルート上にある。従っていずれも却下される。かくして残るのは矢張り 55のみである。

もし大前提を動かして、仮に一行目の la forêt de Reinesを「ブルターニュのレンヌの森la forêt de Rennes」(コード35)(cf. Michelin, 2002, p.55 F2; GeoCenter, 2000, p.45 Yc59)と解するとしても、それとどこかのVarennesを関連付けて、詩全体を想像界にではなくて「歴史的文脈」の中に位置付ける試みは成功しないだろう。

依って、本詩冒頭の「夜間」とは、ルイ16世一行が午後11時半にヴァレンヌ村に入った1791年6月21日の夜(cf. Sagnac, 1920, p.302)に該当する。なお、英訳では不明だが動詞viendra (shall come)が三人称単数であるが、これは二行目の「女王」と三行目の「灰色の衣を纏った王者」が「各個的」にその主語とされていることを示す(実際に詩中でも離れて置かれている)。

最後に、「カペー朝立憲君主が暴動、戦火、流血、断頭の因となろう」について:「これらの詩句は、彼が立憲君主に選ばれて以降、且つ又彼がヴァレンヌに逃亡した時以降、継起的に起った全ての不運を表現している」(Bouys, 1806, p.58-59)。因みに、ルイ16世が立憲君主として立ったのは彼がその受諾の「署名をした1791年9月3日で、王は爾後、«被選出者élu»となり、絶対君主ではなくなった」(Ionescu, 1976, p.279)。但し、署名で約束された「国民議会の前に於ける受諾の厳粛な作法」が実施されたのは同9月14日である(Sagnac, id.,p.328)。又、「暴動」としてはパリ民衆のテュイルリー宮襲撃(1792.8.10)、「戦火」としては対オーストリア戦争(1792.4.20~)、「流血」としては「(1792)九月の虐殺」が具体的に該当する。「断頭」(1793.1.21)は言うまでもないだろう。  
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フランス革命15 ヴァレンヌ事件(2)

§353. ヴァレンヌ事件(2)(1791-1792): VIII-24.

第八サンチュリ24詩:
代官が門の入口の所で、                                    
パルピニャンの御大を仕留めるだろう。                                 
モンペルテュイに安全の地を求めるつもりながら、                            
思惑外れに終るだろう、リュズィニャンの庶子は。
                        

The lieutenant at the entrance of the gate,
Shall stun the great of Parpignan.
In expecting to save himself in Monpertuis,
Shall be deceived a bastard of Lusignan.                                                                                   

本詩はヴァレンヌ事件(1791)の予言詩第二弾であるが、同時に翌年(1792)の8月10日事件も予言している。。

先ず、1-2行目については、以下の歴史記述が正確に当てはまる。

「[1791年6月21日午後]8時頃、王はサント・ムヌーに着いた。ブラインドが上げられていた馬車の中に、宿駅長ドルーエは、コンデ龍騎兵連隊に7年就役していた間に何度も眼にした事のある王妃の姿を認めた気がした。そして大きなフロックコートを着た人物の中に王を認めた気がした。彼はそれまで王を一度も見た事がなかったが、その肖像はアシニャ紙幣に刻されていて良く馴染みがあった。彼は自分の抱いた疑念を市当局に伝えた。当局は急ぎ検討し、そして馬車を追跡し停車させる役目を彼に授けた。彼は即座に馬に乗り、元王妃連隊龍騎兵で、当地県会職員ギョームを連れて出発した。二人はクレルモンへの道を全速力で駆けた。10時頃王はクレルモン・アナルゴンヌに着いた。馬車は馬匹交換の時間の10分間しか停車しなかった。旅行者達は急ぎ又出発した。[その少し後]ドルーエとギョームが到着して、クレルモン市当局に情報を上げ、当局は王室馬車の先回りをするためにヴァレンヌへ向け二名の伝令を放った。それからドルーエとギョームの二人は森を抜ける間道を走った。」(Sagnac, 1920, p.301)

「馬車がヴァレンヌに着いたのは11時半頃だった。人口1500人のこの小さな町はエール川縁に立地し、左岸に高地町、右岸に低地町があり、その間の川には橋が架かっていた。高地町には教会の後陣で作った一種のアーチ門があり、その下を道路が通っていた。」(Sagnac, id., p.302)

「中継陣は最初は高地町入口に置かれていたのだが、最後には追っ手を防ぐには橋を塞げば容易だという考えから、橋を越えた低地町へ移された。王はこの変更を報らされていなかった。高地町に着いた時彼は中継陣が見つからなくて驚愕した。御者たちが向うを探しに行くよう命じられたが、彼等はクレルモン宿駅長からの命令を守るためということで拒否した。その時、ドルーエが姿を現した。王の馬車が家並みに沿って寄せられているのを暗がりの中で確かめると、大通りを教会まで全速で駆け下り、息を切らしながらルブランが経営する宿屋『黄金の腕』に入った。『あなたは愛国派か?』彼は低声でルブランに聞いた。『そうだ』主人は答え、周りの者もみんな自分と同様にそうだと附け加えた。そこでドルーエは熱を込めて、王がパリから逃げ、その馬車がヴァレンヌ高地町に居る事、馬車が下りて来ようとしているので何としてでも停車させなければならないと言った。ドルーエは、市長・代議員ジョルジュの不在時にはヴァレンヌの最高権威となる助役ソースの家に案内された。それは食料品屋で、橋の近くに住んでいた。ソースは自分の子供達を起こさせた。子供達は高地町に行って駈けながら叫んだ:『火事だ!火事だ!二台の車と家具で橋を塞ぎましょう。アーチの傍の「黄金の腕」宿に集まりましょう。』」(Sagnac, id., p.302)

「夜闇の中での通りのざわめき、灯火の往来は王と王妃を不安にした。一行がアーチ門にやって来ると、馬車が停められた。そしてソースが旅券を要求したので、呈示が行われた。」(Sagnac, id., p.302)

代官 lieutenant」とは本来「誰かの代わり taking (tenant) the place (lieu) of ... をする代理人」のことである。であるから、「当局は急ぎ検討し、そして馬車を追跡し停車させる役目を彼に授けた。」と言うサント・ムヌー当局の委任が彼サント・ムヌー宿駅長ドルーエを「市の当該業務の代理人」たらしめた。

」とは、原文huis = 門porteを意味する古語(Littré)で、ヴァレンヌの「高地町には教会の後陣で作った一種のアーチ門があり、その下を道路が通っていた。」という記述に合致する。

パルピニャンの御大」とはフランス国王ルイ16世を指す。何故なら、Parpignanという語は、南仏に実在する町Perpignanと共にその中にPari(s)という要素も含んでいて、Perpignanは、例の 提喩法 synecdoche の手法により、「全体としてのフランス」を意味し、更に、換喩法によりその首都パリが王宮、王座、国王を意味するからである (cf. Torné-Chavigny, 1861, p.45)。なお、ペルピニャンを含むルシヨン Roussillon 地方は、ピレネ条約 (1659) によってスペインからフランスへ国家的管轄が変わったので、それ以前ならペルピニャンがフランスではなくスペインを意味する事も出来る。これはエジプトとオスマントルコの関係 (大団円 9 (1)) と同様で、ノストラダムスは必ずこういう歴史的変遷を前提にして(或いは先見力で見透した上で)提喩を構成している。

なお、「パルピニャンの御大 le grand de Parpignan 」は、関連詩VIII-22(§354)の「la grace Parpignam」と呼応している。この句は従来誰も解釈出来ていないが、王妃マリー・アントワネットを表すものと思われる。つまり、la grace (the grace)は「優美さそのものの擬人化としての優美な女性」を表現する。そして語尾が n ではなくて m で終わるParpignamは形式上彼女の名前とされている。そこで「優妃パルピニャム」といった意味になる。そして語尾の m は当然 Marie Antoinette のイニシャル M を暗示している (但し、この同じ Parpignam という形が、X-11 (§498)では単に Perpignan の意味で使われている。又、元来、Perpignan には Perpinianum, Papirianum という2つのラテン語語源が認められる(Bescherelle)ので、ノストラダムスは2つの語源を彷彿とさせるような Parpignan, Parpignam という neologism を作ったと思われる)。

他方、3-4行目は、以下の史実を下敷きにしている。

ルイ15世の庶子としてナルボンヌ伯は同時に宮廷人、謀略家、趣味人であった。」(Montgaillard, III, p.90)

「ナルボンヌ:ルイ伯爵。1791年12月6日戦争大臣に任命される。軍隊規律の立て直しに尽力。煽動家達の反対に遭う。それまで彼を支援して来た議会の穏健派も守ってくれなくなる。内閣の中でも反対勢力に押され、辞任するつもりの所、1792年3月10日罷免された。ナルボンヌ氏は軍に戻って雌伏しようとした。だが国王に呼び戻され、パリに着いて3日目に8月10日の事件が勃発。訴追決定を受けたが、スタール夫人の世話で逃亡に成功し、英国に渡った。ルイ16世が裁判にかけられたと知るや、彼はロンドン在住の王の元閣僚達を集め、審理の場に立ち審理の中で内閣の行為の責任を訴えるべく国民公会に一緒に通行許可証を求めようと提案した。こういう献身行動は確実な、だが栄光に満ちた死を彼等に約束するものだった。ナルボンヌはそういう死を敢然と負う覚悟と見えた。彼は独り通行証を請求した。しかし彼の強い懇願にも拘らずそれは拒絶された。」(Feller, cité Torné-Chavigny, 1861, p.43)

モンペルテュイ」Monpertuisという地名は実在しないから、これはノストラダムスの新造語(Neologism)である。新造語法も予言者の手練れを成す一要素である。その語源的意味は「私のmon (my)」+「出口、穴pertuis (gap, hole)」(Petit Robert)であるから、罷免されたナルボンヌが退去先に選んだ「自分の古巣の軍隊内部」というものに相当する。トルネシャヴィニはこれをヴァレンヌ逃亡(1791)の目的地モンメディMontmédyと同一視しようとするが(Torné-Chavigny, id., p.45)、その計画にナルボンヌ伯は未だ関与していなかったから、適解にはならない。それにトルネシャヴィニは前半の「Mon」をMont(山)と同じとするが、『予言集』の用語全体を検討すると、「山」の意味の場合はノストラダムスは常にmont, Montを使用し、所謂そのApocope (語末省略)としてのmon, Monは見当たらない。他方、mon という語の使用は一回だけ見られ、しかもそれは預言者が自分自身を称する「私のmy」という意味である(III-24: mon dire = my saying)。それに対し本詩の場合の「一人称形式」は日本語「マイホーム」と同様、誰にも適用可能な「親和的一人称」である。

しかし、彼は永くそこに留まる事は出来ず、「国王に呼び戻され、パリに着いて3日目に8月10日の事件が勃発。訴追決定を受けたが、スタール夫人の世話で逃亡に成功し、英国に渡った。」依って、所期の彼の思惑(気安い軍隊暮らし)は、パリに呼び戻された事と、8月10日の大政変に遭遇して追われる身に成った事という二重性において外れたのである。

リュズィニャンLusignan」は、LouisのアナグラムLusiと、「生まれるgignomai」というギリシア語に由来するgnanを結合した語で、「ルイから生まれた子」として、「庶子(ナルボンヌ伯)」の説明的同格語となっている(Torné-Chavigny,id.)。

更にLusignanはLézignanという南仏に実在する町を想起させるが、これは人名ナルボンヌが矢張り南仏のNarbonneという町名に同じで、Parpignanが示唆するPerpignanという町もそれらの近隣にある。従って本詩の最初の印象は南仏に集中する三つの地名がテーマのように見えるが、実はそこに止まっている限り正解は出ない、というノストラダムスのテクニックを理解する必要がある。

修辞法としてはそれは、 転用 Trope (地名等を本義から離れて人名や一般名辞等として使用する)、 語形変異 Metaplasm (正書法の若干の文字を変えて本来の意味に変化と謎を与える)に該当する(cf. Ionescu, 1976, p.143-144)。ここでは預言者はこれら二つの技法をコンビネーションで使っている。彼の作詩が如何に複雑、且つ高度な修辞技法を駆使したものであるかが銘記されなければならない。

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フランス革命16 ヴァレンヌ事件(3)

§354. ヴァレンヌ事件(3)(1791-1793): VIII-22.

第八サンチュリ22詩:
ゴルサン、ナルボンヌが知恵を以って[議会に]忠告するだろう。
偶然、優妃パルピニャムが正体を知られ,
赤い都市はそのことに同意しようとしないだろう。
高跳び、灰色の衣服のために、命が失われ。

                                                   
Gorsan, Narbonne, shall warn [the National Convention] with their wisdom.
By chance, the grace Parpignam disclosed,
The red city will not consent to it.
For the high flight, gray drape, the life lost.

本詩はヴァレンヌ事件(1791)の予言詩第三弾であるが、同時にその後の展開も予言している。

先ず2-3行目、及び4行目の「高跳び、灰色の衣服 haulte vol, drap gris」がヴァレンヌ事件に関係し、1行目がその後の国王処遇に関する国王擁護派の活動(1791-1793)、最終行全体がヴァレンヌ事件に端を発する国王訴追と処断を扱っている。

そこで二行目のthe grace Parpignamであるが、前節(§353)で「パルピニャンの御大 the great of Parpignan」がフランス国王ルイ16世を指すことを見た。本詩のパルピニャンParpignam(語尾がnとmの相違のみ)も基本的には同じ意味を持つ。つまり、それは南仏に実在する町Perpignanと共にその中にPari(s)という要素も含んでいて、Perpignanは「全体としてのフランス」を意味し、その首都パリによって王宮、王座、王室を意味する。しかも原文はlaという女性定冠詞をもつ。それ故この句は「パルピニャンの御大 the great of Parpignan =フランス国王ルイ16世」と好一対の王妃マリー・アントワネットを表すものと思われる。

つまり、la grace (the grace)は「優美さそのものの擬人化としての優美な女性」を表現する。そして語尾が n ではなくて m で終わるParpignamは詩の中の文法形式から見ると彼女la graceの名前と取るのが適当であろう。そこで「優妃パルピニャム」といった意味になる。ParpignanもParpignamもフランス語では「パルピニャン」という同じ発音になるが、日本語としては区別を設けてParpignamを「パルピニャム」とするのが分りやすいだろう。そして語尾の m は当然 Marie Antoinette のイニシャル M を暗示している。

「人々の心を支配するのに王妃は王冠を必要としなかった。このプリンセスは、その女性としての魅力に加えて、その出自の偉大な諸性質及びその血統のあらゆる威光を備えていた。未だかつてこれだけの優美さにこれだけの善良さが相伴ったことはない。思いやりは彼女にとって一個の欲求となっていたが、それだからと言ってそれが一個の美徳である事を止めることはなかった。」(Goguelat, 1823, p.12)

「王妃、その優雅さ(grace)は、威風と混じり合って、彼女を目にした全ての人々を感嘆させた。ホレース・ウォルポールは、1775年に舞踏会で彼女を見たのだが、次のように書いている:『ヘベもフローラも美の三女神も、彼女の傍らに来たら街の女に過ぎない。彼女は拍子に合せて踊れないと人は言うが、しかしその際間違っているのは拍子の方なのだ。』」(Carré, 1926, p.3)

そして2行目の原文動詞 trahyr (trahir, to betray)は多くの場合は「裏切る」の意味だが、ここは特殊的な意味としての「秘密にして置きたいものを漏らしてしまう、正体を暴く」(Petit Robert)として理解するのが妥当だろう。ヴァレンヌ ー モンメディ への秘密の旅の途中で王妃が最初にその正体を知られてしまったのは史実として確定している。

「[1791年6月21日午後]8時頃、王はサント・ムヌーに着いた。ブラインドが上げられていた馬車の中に、宿駅長ドルーエは、コンデ龍騎兵連隊に7年就役していた間に何度も眼にした事のある王妃の姿を認めた気がした。そして大きなフロックコートを着た人物の中に王を認めた気がした。彼はそれまで王を一度も見た事がなかったが、その肖像はアシニャ紙幣に刻されていて良く馴染みがあった。彼は自分の抱いた疑念を市当局に伝えた。当局は急ぎ検討し、そして馬車を追跡し停車させる役目を彼に授けた。」(Sagnac, 1920, p.301)

そして多くの場合、ノストラダムス『予言集』の「赤いrouge (red)」という語は、「革命的、体制転覆的」という意味で使われているので(cf. Torné-Chavigny, 1861, p.32; 127)、「赤い都市」は革命派が支配権を握った首都パリ(取り分け48区体制となった1790年6月22日以降)(cf. Sagnac, 1920, p.271)を指すが、この場合は「そのこと、つまり王室のモンメディへの移転旅行の継続」を禁じパリ帰還を定めた命令を出した国民議会である(cf. Sagnac, id., p.305)。

実際に議会は既にパリ市内に在ったから、革命的パリ⇒革命的議会という換喩が成立する。「[1789年10月6日]夜10時パリに到着し、国王はチュイルリー宮殿に入る。ヴェルサイユからパリへの遷都が民衆の圧力によってなされた。議会はチュイルリー宮の北の王立馬匹調教場に置かれることになる。」(芝生瑞和『図説フランス革命』 p.72)

「高跳び」は勿論、§352 , IX-20で主題となったモンメディ移転行動であり、「灰色の衣服」はこの場合、2行目で示される王妃が主役という観点から言えばその王妃の衣服の色と解され、それは§352 , IX-20で見たように史実に合致する。そして、この行動が王室に対する国民の信望を一挙に崩壊させて遂には「ために、命が失われ。」という結果に繋って行く。

さて、その帰結のカウントダウンは議会(国民公会:1792.9.20-1795.10.26)の王政廃止決定(1792.9.21)から始まり、訴追決定(1792.12.3)で本格化する。そして一行目の予言は、二人の人物がその中で国王擁護に動いた事実を述べている。

南仏ルシヨンのナルボンヌ市と同名の「ナルボンヌ」は前節(§353, VIII-24)で見たように「ルイ15世の庶子、ナルボンヌ伯」であり、「ゴルサン」はアントワーヌ・ジョゼフ・ゴルサスAntoine-Joseph Gorsasのノストラダムス的異名である。ナルボンヌ市の直ぐ北にクルサンCoursanという町があるが、語形変異Metaplasmの手法でこれに引っ掛けたものとなっている。同様に2行目の「偶然」のフランス語原文Tuchamテュシャンは、ペルピニャン市の直ぐ西北にあるテュシャンTuchan町に掛けた語形変異Metaplasmである。これが「偶然に」という意味のギリシア語 Tuchēi に似るので、文脈上「偶然に」という副詞句と解される(Torné-Chavigny, 1861, p.43)。

「ナルボンヌ:ルイ伯爵。ナルボンヌ氏は軍に戻って雌伏。だが国王に呼び戻され、パリに着いて3日目に8月10日の事件が勃発。訴追決定を受けたが、スタール夫人の世話で逃亡に成功し、英国に渡った。ルイ16世が裁判にかけられたと知るや、彼はロンドン在住の王の元閣僚達を集め、審理の場に立ち審理の中で内閣の行為の責任を訴えるべく国民公会に一緒に通行許可証を求めようと提案した。こういう献身行動は確実な、だが栄光に満ちた死を彼等に約束するものだった。ナルボンヌはそういう死を敢然と負う覚悟と見えた。彼は独り通行証を請求した。しかし彼の強い懇願にも拘らずそれは拒絶された。」(Feller, cité Torné-Chavigny, id.)

「ゴルサス(アントワーヌ・ジョゼフ):国民公会議員。1752年リモージュ生れ。ヴェルサイユに寄宿学校を保有し、革命の始めよりその熱心な賛同者。『ヴェルサイユ新聞』を編集し、紙面は蜂起と秩序破壊を説く。近衛連隊の宴会に関する彼の不正確な報道が1789年10月5-6日の不幸な出来事を誘発。けれども、公会議員になると彼は最も穏健なグループに属した。ルイ16世の裁判では、«拘留と国民投票»案に票を投じた。ジロンド派と結んだので、ジロンド派追放の運命に殉じ、1793年10月7日処刑された。」(Feller, cité Torné-Chavigny, id.) 

「この時期の革命的正義の主たる政治的仕事はジロンド派の根絶であった。切り落とされた最初の首はゴルサスの首であった。パリで逮捕され、法益剥奪者として、単なる本人確認の上断頭台に送られた。」(Pariset, 1920, p.167)「[1791.7]ジャーナリストのゴルサスは、共和国を成すにはフランスは広すぎると明言した後、こう結論した:法の最初の対象にして法に拠ってしか統治しない一個の君王、これぞ我らが必要とするものだ。共和政の衆愚よりは木偶の坊のお人よし王様の方がまだ益しだ。」(Sagnac, 1920, p.316)

以上の史実に基づけば、「二人が忠告した相手は議会である」という解釈が自然に出来るので、1行目は、原文に無い「議会」を補い、「ゴルサン、ナルボンヌが知恵を以って議会に忠告するだろう」と読むのが妥当である。なお、知恵の原文は sel(salt, 塩)で、古典的なメタファーである(Torné-Chavigny, id.)。  
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フランス革命17 テュイルリー宮襲撃;国王幽閉

§355. テュイルリー宮侵入(1792.6.20)、襲撃事件(8.10)と国王幽閉: IX-34.

第 九サンチュリ34 詩:
一方だけ、つまり夫が尖り頭巾を被せられるだろう。
戻ると、争いが瓦(テュイル)の上を通るだろう。                             
五百一人によって肩書を有った者が裏切られるだろう。                          
ナルボンとソース、塗油されたる尊者は見張り付き。


Only the one side, the husband shall be mitered.
On his return to Paris, a conflict shall pass over the tile,
By five hundred and one shall be betrayed a titled,
Narbon and Saulce, an anointed reverend under close guard.

本詩はヴァレンヌ事件(1791)が後に尾を引いて起った民衆のテュイルリー宮侵入(1792.6.20)、襲撃事件(8.10)と国王のタンプル塔幽閉を予言している。

冒頭の「一方だけ」(only の原語はラテン語soluz = solusで、seul = only の意味である。Cf. Bellaud, 1806, p.130)とは、§352 (IX-20) の「双方とも同じように」という表現に呼応している。しかもそれは「」の方であると明言されている。従って、疑いようもなくルイ16世を指している。なお、ここで明確になるのだが、IX-20 の「双方とも同じように」という表現を「夫婦、夫と妻」として短兵急に解釈する(e.g. Bouys, 1806, p.57; Bellaud, 1806, p.126;Torné-Chavigny, 1861, p.50)のは文法上妥当でない。何故なら本詩にその解を当てると、「夫だけ、夫が」という同語反復になってしまうからであるし、Littré 辞典にもそういう語義は挙げられていない。

尖り頭巾」の原語に相当するのは「mitre, miterミトラ、司教冠」で、古代ペルシアの「尖り頭巾」でもある。これは、ルイ16世が1792年6月20日、テュイルリー宮殿の王の居室にまで侵入して来たパリの民衆が差し出した「革命勢力の象徴的な帽子」、即ち「司教冠」やペルシアの「尖り頭巾」と同様に先端の頭頂部分が逆円錐形に尖った形をしている「フリジア帽 bonnet phrygien、赤いボンネットbonnet rouge」を表し、王は民衆に好意を示すべくそれを頭に被り、その上三色ワッペンさえ帽子に付けた。又王妃と王太子は一緒に別の部屋に居たが、そこにも民衆が押し寄せ、王太子に被らせるよう王妃に尖がり赤帽子が渡されると、王妃はそれを王太子の頭に被せた(cf. Sagnac, 1920, p.362-364)。このように、王妃はその帽子を被っていないから、予言は正確に成就している。

(テュイル)」は、「テュイルリー宮」を表す:『テュイルリーという呼び名は、昔その土地で瓦が製造されていたからである。』(Bouys, id., p.61) 「13世紀には、今日カルーゼル広場、テュイルリー宮殿および同庭園が占めている大空間は茫漠たる地面でしかなくて、幾つかの瓦製造工場の姿が見られるのみであった。」(Meindre, 1854, p.508)

テュイルリー宮での争いは、第一に今挙げた1792年6月20日の出来事であり、第二に、3行目が予言する同年8月10日事件であるから、「戻ると」という副詞句は、言うまでも無く前年の「ヴァレンヌからパリへの帰還、ないし送還」(1791.6.25)である。なお、原語 Retour (Return) は De retour (On one's return) の前置詞 (De, On) が省略されたもの。

五百一人によって肩書を有った者が裏切られるだろう。」という表現は、8月10日事件の、ノストラダムスによる驚嘆に値する正確な数字を伴う予言である(Torné-Chavigny, 1861, p.63)。

「マルセイユの人々の到着は待望の合図を下した。パリに居を構えるマルセイユの若き弁護士バルバルーは、市長ムラーユに6月、『死するを厭わぬ男子600人』を要求していた。当時マルセイユは、王国の中で最も熱心な革命派都市の一つだった。6月22日、マルセイユで宴会が開催され、そこでモンペリエのジャコバン派の一人が、ストラスブールでルジェ・ド・リールが作曲した『ライン軍のための戦争歌』を歌った。その場で一軍団をパリへ出発させる事が決まった。その軍団には516名の男子が属し、そのうち500名はマルセイユ及びその近隣都市の国民軍から採用され、16名はトゥーロンからであった。マルセイユ兵たちは7月30日パリに入った。彼等は町中の気分軽やかな中、ショセダンタンの兵舎に導かれた。宮廷はマルセイユ兵達をスワソン方面へ発たせようと欲した。そこで連盟派秘密司令部は市当局に赴き、その許可の下、マルセイユ兵達を貴族軍団に近すぎるショセダンタンから革命派セクション内のコルドリエ修道院に移動させることになった。ダントンとショメットが指揮を取って、4日から5日の夜間、その移動が行なわれた。」(Sagnac, id., p.374-375)。

「8月9日夜から10日:この時、コメルス通りで銃声が響いた。『武器を取れ!』という叫びが間もなく辺り一面に聞こえ、蜂起宣言となった。11時半であった。マルセイユ兵達はコルドリエ修道院門前で隊形を組み、大砲を引き出し、味方に附いた大勢の群衆で膨れ上がった。6月20は示威であったが、8月10日は決定打となる筈であり、事実、その事に最早疑いは無かった。王、王妃、彼等の二人の子供達、彼等の妹エリザベス婦人は寝ていなかった。王に残されていたのは800人から900人のスイス兵と一個大隊を僅かに上回る国民軍だけだった。砲門は不幸にも国民軍の砲手隊に委ねられており、そのため敵たちが現場に存在していることになった。... サンテール[革命派国民軍司令官]はサンタントワーヌ郊外町で躊躇していたが、ダントン独り (Danton seul = Danton only) と マルセイユ兵達は思い切りよくコルドリエ通りに集結し、そしてじれったい思いで彼等はサンミシェル橋で他の攻撃隊の到着を待った。マルセイユ兵達はブルターニュ連盟兵達と一緒に隊列の先頭に立って進軍して行き、大砲を王城に向けた。」(Thiers, II, p.235-244)

即ち、「五百一人」とは、マルセイユ及び近隣町出身の500名を中核とした516名の革命兵と、パリに於けるその先導者ダントンを指している。

そして、「肩書を有った者」とは、「立憲君主という名前を有った」(Bouys, 1806, p.61)ルイ16世である。飽くまでも立憲君主の静的合法的立場を貫こうとする彼が「裏切られる」のは、そういう立憲君主の立場を尊重し擁護する立憲派勢力が首都においてルイ16世失墜を唱える革命派に完全に圧倒されて行き(cf. Sagnac, id., p.378)、遂に合法的市政が『社会秩序の名の下に暫定的停止』に署名させられ、代って革命市政が力づくで市庁舎内に本拠を置いた時点(8月10日午前6時)であり、その直後にダントンとマルセイユ兵達を前衛とする王政打倒の武力攻撃に直面することになった(cf. Sagnac, id., p.383)。

なお、原文動詞trahyr (to betray)はこの場合、文脈上過去分詞と見るべきで、trahi (betrayed)と読む(Bouys, id., p.63)。

そして四行目の「ナルボン」と「ソース」は、前節までに言及された二人の人物である。彼等の言動に関する叙述語が何も無いが、明らかに「ソース」は二行目「ルイ16世のパリ帰還」が含意する「ヴァレンヌ村」に関わり、「ナルボンNarbon」は「ナルボンヌNarbonne」のApocope(語末省略)と見て、§353(VIII-24)、§354(VIII-22)で見た「ルイ15世の庶子、ナルボンヌ伯」と同一視出来る。本詩内で最も関わりがあるのは3行目が表す「8月10日事件」に彼も連座した事である。「ナルボンヌ」の「ヌne」が無いのは意味ありとせば、フランス語否定辞 ne (not, ヌ)を欠く、つまりこの人物はルイ16世に好意的であって、否定的ではないことか。Narbonの後半bonはそのまま「善いgood」の意味でもあり、Bourbonのbonに通じて、ブルボン家の血を引く事も含意されている。

『予言集』の中でNarbon, Narbonneは都合12回の用例があり、南仏の地名が6回、ナルボンヌ伯が2回、20世紀の偉大な政治家の一人が4回となっている。

他方、「ソース」はヴァレンヌ村でルイ16世に対して否定的に振舞った。「ソース (Sausse) はヴァレンヌの行政代官(procureur-syndic de Varennes)」(Bellaud, 1806, p.129)。「そこでドルーエは、王はパリから逃げたこと、彼の馬車はヴァレンヌ高地町に居ること、これから下って来ようとしていること、是非とも停車させなければならないことを熱っぽく語った。彼が連れて行かれたのは、市長・国会議員ジョルジュが不在の時ヴァレンヌ村の最高権威者である自治体代官(le procureur de la commune)ソース(Sauce)の家だった。彼は食料品店をやっていた。」(Sagnac, id., p.302) 

「自分の手中にフランス国王の運命を握っている小さな町の行政代官、この慎ましい食料品店主 [Sauce]」は国王と王妃の旅次続行の懇願をやんわりと斥け、国民議会の命令を携えたラファイエット軍副官ド・ロムフ(de Romeuf)のヴァレンヌ到着まで時間を稼ぐことに成功した。(Sagnac, id., p.303-305)

「『ガゼット・ナショナル』1791年6月25日の記事にこうある:前夜の国民議会会報でクレルモン地区行政代表の一人、マルチネー氏は話した。«ヴァレンヌ自治体代官ソース氏(M. Sausse)が、王と王妃が彼に為した約束と、更には抱擁に対してさえも対応して彼が取った賢明かつ英雄的行動についてお話致します。『私は王様が好きです。でも私は祖国に忠誠で在りたいと思います。』» 又、翌々8月18日の国民議会会報にはこうある:«国民議会は、ヴァレンヌで王の逃亡を最も効果的に阻止した人々に与えるべき褒賞検討委員会の報告を聴いた後、ヴァレンヌ自治体代官ソース氏 (le sieur de Sauce) に対して20,000リーヴルを支払うことを議決した。 »」(Le pelletier, I, p.195-196) 

「ソース(Sauce)という名前は世界史のページの中に二度は出てきていないことを銘記しよう。」(Robb, 1961a, p.20) 

所で、「ソース」の表記が史料に依って、Sauce, Sausseの2通りがあって、他方、ノストラダムス原詩ではSaulceとなっている。これについては、Sauce と全く同じ綴りの普通名辞 sauce (調理用ソース)の由来を検討すると一定の回答が得られる。

「sauce: 本来『塩で味付けた』という意味の salsus (salé)の実詞としての俗ラテン語 salsa が語源で、それに合わせて長い間 sausse とも綴られて来た。」(Bloch & Wartburg)

つまり、ラテン語からフランス語への転訛の形式に則って、salsa は、sause となる(e.g., alba ⇒ aube; talpa ⇒taupe; malva ⇒mauve)(Scheler, p.248) 。但し、この場合、後ろの s が「ズ」とも「ス」とも発音され得るので、「ス」であることを明確化する為に s に代えて c 又は ss を用いたのが sauce 又は sausse となった。従って、その人名の語源は不明ながら、Sauce とSausse は異形同語と見て良く、「ソース」という同じ発音を有つ。

他方、ノストラダムスが用いた Saulce という形は、多分、上記の過程を逆回転させたもので、フランス語正書法の模索段階で試みられた「語源回帰」の手法を思わせる(cf. Brunot & Bruneau, p.18-19)。

つまり、Sauce という形は、本来が l を含む元の語、例えば「Salsius サルシウス」というようなラテン名から来たものだと言う筋を留めるべく、Saulce と綴るべきだという「語源回帰」の手法が行われ、且つ職業的司法書記達(basochiens) はサラリーアップを伴う写字分量の水増しという不純な動機からもこの手法を乱用した(Lemesurier, 1997, p.101)。

ただ、既に l が u に変化した訳なので、再度の l は矢張り発音には影響を及ぼさない。従って、Saulce も「ソース」と読む。

この手法はノストラダムスにのみ特有のものではなく、16世紀にまで続く中世的綴り字の伝統の実景であり、初期活版印刷業者も、経済合理性からすれば余計なこの手法を墨守した。ノストラダムス著作の最初期の刊本にはその残影が色濃く残っている (e.g. voudra を vouloir に牽き付けて vouldraとする; haut を altus に牽き付けてhault とする、等々)。

余談ながら、フランス語は人名なども語尾は可能な限り端折る傾向が強い。例えば、「アリストテレス」は日本語では元のままで、ドイツ語でもこの通りだが、英語は Aristotleとなり、フランス語に至っては Aristote にまで切り詰められる。他方、「プラトン」はそれ自体既にフランス語的なのか、そのまま Platon であるが、英語は Plato となってその強力な発音原則に同化させた。

さて、4行目後半は諸家で解釈が分れる所だが、トルネ・シャヴィニ解(Torné-Chavigny, 1861, p.64))が最も合理的で生彩に富む。

何故なら、氏は、一行目のsoluz (only) という語が、如何にも簡単な用語ながら、何故わざわざラテン語が用いられているかをいぶかり、その答えは、4行目の par coutaux avons d'huille も同様にラテン語を中核にして読解せよ、との預言者の老婆心を推測する所に見出されると考えるのである。

氏に依れば、フランス語「ナイフ couteaux (pl.)」に似せたcoutauxは実はラテン語Custos (guard, guardian, sentinel)で、uがフランス語ではouとなって、結果、Coustosに近いCoutauxにされたと言う。

又、Avonsはフランス語でWe have の意味に似ているが、ラテン語としては、Avus (grandfather, ancestor, aged)に由来する。そして最後のhuilleはそのままフランス語で「油」とし、王の聖別式に使う聖油と解す。そうすると、Avons d'huille は「塗油されたる老尊者」つまり「フランス王」となる。

そして、Par coutaux は By the guardians となり、「塗油されたる者が見張り付きにされる」という意味が現れて来る。

これは正に、8月10日事件の直後にルイ16世を襲った悲劇的事態、即ち「タンプル塔幽閉」を表すことになる。

国王一家の幽閉に関する予言詩 ⇒ §367 (IX-23), §368(IX-24)。                                                 
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フランス革命18 ルイ16世廃位請求;国民公会選挙

§356. 「ルイ16世廃位請求」(1792.8.3)、国民公会選挙: VIII-20.

第 八サンチュリ20 詩:
見せかけの選挙による偽りのメッセ-ジが、             
都の中を駆け巡り、締結されたる約定が破棄されるだろう。                         
票は買収され、チャペルは血に染まり。                                 
そして帝国は別の者と婚約を交わし。


The false message by a feigned election
Shall run through the capital, the concluded pact broken.                       
Votes bought, the chapel stained with blood.
And the empire contracted to another.
                             
偽りのメッセ-ジ」とは、「1792年8月3日、パリ・セクションの名で国民議会に提出された『国王廃位請願書』」のことである(Torné-Chavigny, 1861, p.38)。この請願書は社会的事実であるから、「偽りの」とは、「かくあるべき真実基準に照らして不当な」という予言者の判断であろう。

見せかけの選挙による」とは、パリ各区(48セクション)の代議員選出が、暴力行使をも辞さないジャコバン派勢力の圧倒的な増大の下で為されたため、穏健な立憲派成員が会合自体を欠席して、僅かの反革命派を含むだけの中で実施された、自由な意思が疎外された選挙ということである(Sagnac, 1920, p.378; Montgaillard, III, p.130)。

」の原文はラテン語 Urbs (city)でローマ、又は首都、大都会を表す。この場合はパリである(Torné-Chavigny, id.)。

「ルイ16世廃位請求がパリ中を駆け巡った」ということは、その帰結としての「締結されたる約定の破棄」、即ち、「ルイ16世と国民議会との約束に相当する立憲君主制の停止= 国民議会による国王の権利停止議決(1792.8.10)」(Sagnac, id., p.389)という革命から翻って判断されるように、ジャコバン派勢力とその主張がパリ市中に浸透して行ったということ、そして究極的に「武力による8月10日革命」が成功したという事である。

三行目の後半「チャペルは血に染まり」は、明らかに、その直後の9月初めに生じた「9月事変」における拘禁聖職者殺害を指す

そして4行目は、「帝国」がこの場合は「強大国フランス」を意味するだろうから、フランスが婚約した相手たる「別の者」としては、「同9月成立の国民公会」以外には思い及ばない(Vignois, 1910, p.73)。何故なら、「国の結婚相手」として想定されるのは「対外的同盟、又は自国政府」であり、本詩では外交が焦点ではないから、そして立憲君主制の廃棄に代わる政治権力が示唆されているからである。従って、「別の者」とはもっと広く「共和政」と解することも出来る。

そうすると3行目前半の「票は買収され」とは、国民公会議員選挙に関するもので、「買収」という表現はこの場合、必ずしも具体的不正の指摘というより、選挙一般の悪弊に触れつつ「選挙」を強調したもので、要するに「国民公会議員選挙の実施」を表すのが主眼と思われる。「選挙は静穏の内に実施された」(Sagnac, id., p.412)。

全体的に時間順序が緊密で正にズレのない詩句の構成である。                                         
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フランス革命19 宣誓拒否司祭国外追放

§357. 宣誓拒否司祭国外追放(1792.8.26) : VI-69.

第 六サンチュリ69 詩:                                       
非常に悲惨な事が起るだろう、長引きはしないにしても。
恵与していた人々が施しを受けざるを得なくなるだろう。                         
裸同然で、飢え、凍え、渇き、力を振り絞って、彼等は、                         
山々を越えて行き、その情景は大いなる憤慨を惹起するだろう。

                                                   
The pity shall be great without being prolonged too far.
Those who were used to give shall be constrained to take.
Naked, suffering from hunger, cold and thirst, they shall,
In straining themselves, pass the mountains to scandalize the world.

「国外追放はあらゆる革命に付き物であるから、亡命者達の脱出に関するノストラダムスの予言詩を、我々は国外追放が多くの人々にとって謂わば不可欠となったその時期 [1792.9] に置こうと思う。」(Bellaud, 1806, p.132-135)

「1792年8月10日から9月21日の国民公会の開会に至る迄の期間は、パリの48のセクションに立脚するパリ・コミューンと立法議会という二つの権力が並び立ち、前者が後者に圧力をかけて急進的な政策の採用を強いた時期だった。立法議会は8月11日に「反革命容疑者」の逮捕を全国の市町村に許可し、8月17日には、8月10日の「犯罪」を裁くための「特別刑事裁判所」の設置を承認した。そして8月26日には、宣誓拒否司祭は全て2週間以内に国外退去、これに従わない場合にはギアナに流刑する、という法令を可決した。」(柴田三千雄編著『フランス史2』山川出版社、 p.368)

二行目「恵与していた人々」という表現はカトリック聖職者達と見ていいだろう。従って、主題は宣誓拒否司祭国外追放ということになる。

宣誓拒否司祭とは、議会主導の「聖職者市民法」(1790.11.27)に則り、「国民と法と国王に忠実であることを誓う」と誓約することをあらゆる聖職者に課した国民議会に反対し、伝統的な信仰をあくまでも護ろうとした「信仰告白者達 confessors of the faith」(Torné-Chavigny, 1861, p.159)である。

この人々が「自ら意に反する法令に従わない選択をした」事は「力を振り絞って」という訳の原語 soy bander (to band together)という語が「団結して起ち上がり抵抗する se soulever, se liguer (to rise up, to league )」(Cayrou) という意味をも同時に持っている事から言えるのである。

長引きはしない」という表現は、1793年11月7日に革命政権(国民公会)に依って廃止されたカトリックの「犠牲祭儀が短期間で戻って来るだろう」(§403, I-44) という予言と符合している。その戻る時期は、同じ国民公会が1795年5月30日に出した所定礼拝場における礼拝許可令と見られる(cf. Torné-Chavigny, id., p.125)。するとこれは約18カ月(1年半)に当る。本詩は1792年8月末から始まるので、33カ月(3年弱)になる。

前節 (§356, VIII-20) で見た「チャペルは血に染まり」という事態は、この8月26日の直後の9月初めに生じた拘禁聖職者殺害であり、そして「山々を越えて」行った亡命者達の行先は全ヨーロッパに及んだが、フランス革命の「強烈な反宗教性」に激しく反応し、それを断固批判した教皇の庇護の下へと奔る人々が多かった。

「1792年9月2日-3日の事変で3名の司教と300名以上の司祭が殺害された。死刑執行人と暗殺者の凶刃を逃れ得た者達全ては国外追放に処され、さもなくば自発的亡命を科された。ヨーロッパは亡命司祭達で溢れた。4000名以上が教皇領に受け容れられたが、ピウス6世は彼等を牧者の慈愛と父の涙を以って接受した。」(Feller, Pie VI, cité Torné-Chavigny, id.)

なお、原文 soy bander の bander の意味は、tendre avec effort; e.g. Bander son esprit (努力して張り詰める;例:己が精神を張り詰める)(Petit Robert) である。従って、soy bander は to strain oneself といった意味になる。           
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フランス革命20 一致結束を旨とした王党派の愚策:討議ボイコット

§358. 一致結束を旨とした王党派の愚策:討議ボイコット (1791.6 - 1793.1.20) : V - 37.

第 五 サンチュリ37詩:
三百人が一つの意思で協調するだろう,                              
それは一重に彼等の達成目標に到達する為である:
二十カ月後には全員が執達吏立会人として、
彼等の王を裏切るだろう、神聖な憎悪を装いつつ。


Three hundred people shall be of one will and agreed,
In order but to arrive at the end of their aim:
Twenty months later all of them, as witness,
Shall betray their king, feigning sacred hate. 
                                                   
三百人」という表現は『予言集』に2回(本詩及び§410, VII-36 )出て来るだけであり、VII-36詩が「塗油されたる者達に反対する300人」として反王権・共和革命派を表すのに対して、本詩の場合は逆に「王政擁護派300人」を意味する。彼等が堅固な意思統一にも拘らず目的達成に失敗するというのが趣旨である。ここでいずれの場合も「300人」という数字は概数である。だが「それは不特定な数という事ではない。何故ならそれは20カ月後に再び現れるのだから。我々は日常的に概数を使用してそれとは若干相違する数を表す。」(Torné-Chavigny, 1861, p.65)

予言者が一国の君主の死命を決する問題で対立する二大勢力を「300人」という同じ数で表したのは、定員七百数十名の議会の中で、根本的に両者は相い拮抗しており、いずれかが初めから他方を圧倒していた訳ではない、という認識に基づくであろう。なお、「一重に(but)」の原文は「強調用法のque」である(Suzuki)。

所で、20月を隔てて問題となっている二つの時期は何か。「執達吏立会人」の原文はrecordz (recors)で、執達吏とはこの場合、死刑執行人のことで、王政擁護派の人々はルイ16世の助命に失敗し、逆に死刑賛成派に助力したという結果が容易に読み取れるように、後の時期はルイ16世に対する国民公会の死刑決議の最終的決着となる「380票対310票での執行猶予案否決」(1793.1.20)である(Thiers, III, p.258)。

そして、フランス人の期間計算の仕方が、例えば今日の2週間後を「15日後」(今日と同じ曜日に当る日)と言うように「両端も数に加える」方式なので、1793年1月の20カ月前は1791年6月に当る(Torné-Chavigny, id., p.66)。これは正に「ヴァレンヌ事件」の起った当月である。

議会はこの問題にどう対処すべきか?「ともかく、6月24日と26日に投票となり、«議会の議決は王の裁可ないし許諾の必要なしに執行出来続けるであろう»;これは実際上、王は一時的に権利停止された;不可侵とは宣言されない;こうしてルイ16世の廃位は退けられ、その近日の復権が準備された、ということを意味する。それまで王は捕囚の身となる。」(Saganc, 1920, p.313)

「ルイ16世の出奔の当日と翌日、議会の両陣営は互いに相手の動向を注視していた。人民派は驚いていたが困惑してはいなかった。旧体制の王党派達は激しい不安を感じていた;自分達の方から少しでも何か意思表示すれば民衆の憤激を呼ぶ恐れから、彼等は全員沈黙を守った。反対派の方の指導者たちが声を挙げるのは、唯、警備と保安の方策を提案する為に限られ、それら提案は反対なしに通過した。国王逮捕の報せがパリに到達した瞬間、右派の議員達、或いは諸委員会に属している貴族たちは投票を忌避し、そして全員が議会審議への参加を拒否した;つまり彼等は無作為を決め込んでしまったのだ、その大半が協調手段を欲していた憲法擁護派議員達を彼等の支援で補強する事が出来た筈の時に、そして又議会の一般的雰囲気がルイ16世に対して好意的であったその時に。虚しくもマルエ(Malouet)只独りが彼等に対して意見した:議会が開催されている限り、審議に参加する限り、公共秩序又は君主政の基本諸原理に有害な全ての政策に積極的に反対するのが諸君の義務であり、且つ利益でもある、と。どんな論拠も彼等の決意を揺るがす事は出来なかった。かくも純粋でかくも王に献身的なこれら王党派の人々は議会審議への参加を差し控えた、王政特権を救うべく非常な力量を自分たちが持ち得べきその時に臨んで。致命的な諸結果を十分にもたらすようなこの偽りの方策に固執して彼等の内の290名は生じ得べき全てに反対する秘密の抗議声明に署名する準備を進めていた。1791年6月30日:290名の代議員達は、憲法を厭うべきものとなし、且つ議会の諸活動を無効として攻撃する目的から、爾後、王の身柄と神聖な権威という自分たちが護るべき最後の唯一の利害を対象としない討議には全く参加しないと述べて、議決済みの、或いは将来議決される諸決定に反対するとの声明を出した。」(Montgaillard, II, p.376-380)

「右派の討議ボイコット:右派はデスプレメニル(d'Espréménil)が起草し290名が署名した長い声明を出した。それは王の収監に抗議した後、議会の仕事にはもはや参加しないという決意を告げていた。これは一種の国内亡命であり、反対派を力づけるものであった。それは丸で王の権利停止よりも廃位を選好するに等しかった。」(Saganc, 1920, p.314)

従って、その後の国民議会では「その全ての議決、全ての方策は唯一出席の284名の代議員達に依って可決され、裁可された。」(Montgaillard, III, p.156)この議会多数派は立憲主義派(constitutionels)であって、1791年7月17日の「シャン・ド・マルス事変」に象徴されるように、革命急進勢力を阻止すると共に、「貴族達からも眼を離しはしなかった。8月1日には亡命貴族に対する法令と宣誓拒否司祭に対する法令を票決した。しかし貴族達は集会対抗新法や愛国急進派に対する全ての施策を喜んだ。」(Saganc, id., p.321)

この憲法制定議会は遂に所期の目的を達成し、憲法制定と共にそこに組み込まれるべき「立憲君主」としてのルイ16世の合意と受諾を手に入れ、壮麗な儀式で点睛する(1791.9.14)(Saganc, id., p.328)。

9月30日に解散した憲法制定議会に替って構成された「立法議会」(1791年10月1日開会)は旧議会員再選が禁じられた結果、「745名の議員はすべて新人から成っていた。この時期になると、革命初期に大いに活躍した貴族の多くは農村に引き籠るか亡命してしまっていて殆ど選挙に立たず、又制限選挙のために民衆や小ブルジョワが選出される事も無かったので、議員はほぼすべて、地主や官僚、そして特に法律家などの裕福なブルジョワであった。彼等は新人とはいえ、その多くは89年以来、国民衛兵やジャコバン・クラブで活動したり、地方の司法・行政部門の役職に就いたりしてかなりの政治的経験を積んで来ていた。従って立法議会の議員は、たとえ91年体制を維持しようとする穏健派(右派)であっても、89年以来の革命的変革を支持しており、議会内には革命に敵対する勢力はもはや存在しなかったのである。」(柴田三千雄編著『フランス史2』山川出版社、 p.364)

しかし激しい物価高騰と食糧難、及び革命干渉排除の対オーストリア戦争を背景にして、革命は議会外で取り分けパリ民衆の中に急先鋒を見出してゆく。議会の宣誓拒否司祭国外追放令(1792.5.27)、パリ近郊2万人地方国民衛兵基地創設法令(1792.6.8)が国王の拒否権で否定されると、民衆は一層過激となり、1792年6月20日の王宮騒擾、8月10日武力革命へとエスカレートして行った。「立法議会は8月10日、パリ・セクションと蜂起コミューンが要求していた王の廃位ではなく、その権利停止を議決し、«国民の主権、自由と平等の支配を保障する為採用すべきと信じる諸手段について宣明する» 配慮を国民公会に委ねた。立法議会は最初、王とその家族は«立法府»敷地内に留まるよう決めたが、次に考えを変え、王弟の亡命以来空いているリュクサンブール宮をその住居に当てると決定した。キャトルナシオン・セクション代表が来て、リュクサンブール宮は地下墓地を通して逃亡が容易になっていると意見すると、議会は別の場所を選ばなければならなくなり、ヴァンドーム広場の司法大臣邸を指定した。だがコミューンは逃亡を危惧し、タンプル塔を選ぶよう強要した。議会は折れ、王の警護と宿所をコミューンに任せた。王は、深い濠に囲まれた大きなタンプル塔に閉じ込められた。王はそこで非常に厳しい監視の下に置かれた。」(Saganc, id., p.389-390)

「遂に9月20日、国民公会代議員達はチュイルリー宮に集合し、新たな議会を構成した。その定数が満たされて、暫定的に構成が成され、権限審査が行われ、続いて役員指名に移った。ペティオンがほぼ満場一致で議長に宣された。ブリソ、コンドルセ、ラボサンテティエンヌ、ラスルス、ヴェルニョー及びカミュが事務局員に選ばれた。これらの選択から、当時議会でのジロンド派影響力の程が知られる。8月10日以来恒久体となっていた立法議会は、21日代表を通して、国民公会が形成された事、立法が終了した事を伝達された。二つの議会は相互に混同され得ず、公会がこれからは立法議場を占有することになる。」(Thiers, III, p.22-23)

「長い諸討議ののち、最後に、国民公会は問題の全てを以下の3つに括った(1793.1.14):

ルイ・カペーは国民の自由に対する陰謀と国家の一般治安に対する攻撃との罪有りや?

何であれ、判決は国民の裁可に附託されるべきや?

いかなる刑罰を彼に科すべきや?」(Thiers, III, p.247 )

投票結果は、結局、全て過半数以上で「有罪」「附託なし」「死刑」となった。(Pariset, 1920, p.19-21)

死刑判決では、投票総数721票のうち、賛成387、反対334で、賛成票の中で条件付きが26票あり、これを差し引くと賛成361となり、絶対過半数361に合致する、という誠に際どい判決であった。従って、予言者が危ぶんだように、王政擁護派が一定数の反対票を投じて死刑派への「神聖な憎悪」を演じて見せはしたけれども、徹底的に多数派工作の努力をするのを怠ったという気味が残るわけである。

なお、デュフレンヌ解釈(Dufresne, 1995, p.140-141)は20月の両端を「1792年11月のロベスピエール一派による死刑企図確定」又は「1793年1月のルイ16世死刑判決」と「1794年7月のロベスピエール逮捕・処刑」とする。「厳密に20月後」と彼は言うが、しかしフランス式算法によればこの間は21月又は19月となり、20月にはならない。それに、本詩の「300人又は全員」を氏のように死刑賛成者と見なすと、彼等は「執達吏」自体であって、「立会人」という間接的存在ではないし、「王を裏切る」という意識は元々持っていない。彼等は「堂々と主張している。」それに対して王を出来れば救いたい人々が力及ばず「結果的に裏切る」に至ったのである。
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フランス革命21 共和派も王党派も国王処刑に責あり

§359. 共和派も王党派も国王処刑に責あり (1793.1.21) : II - 2.

第二サンチュリ2 詩:
共和派も王党派も、フランスが彼等の幸せの為にした事と、
同じ程の悪事を等しく働くだろう。                                   
花の家系に対する死罪、柱の上に吊り下がる何か巨大なもの、
王が臣下達に捕えられて、「何て頑固なんだ!」と言うだろう時に。

                                                   
The blue head as well as the white head shall do
As much wrong as France has done for their good.
Death to the flower's, something grand hung on the branch,
When the king taken by his subjects shall say, "How obstinate ! ".
                                                   
共和派」「王党派」の原文は文字通りには英訳のように「青い頭」「白い頭」であるが、この場合「頭」は「帽子に付ける徽章、ワッペン」のこと。というのも、「徽章、ワッペン」に当るフランス語 cocarde (cockade) には「頭」と言う意味があり、その語源が雄鶏 coq (cock) であって、鶏冠のイメージが中核に在るからである。

そして革命時期に共和派兵士達は「青者達 the Blues」、王党派は「白者達 the Whites」と呼ばれた(Ibuki)。その両者が同様に悪事を働く、と言う読みは、「フランスが彼等の幸せの為にした」という表現から推論出来る。つまり、「彼等の」という人称代名詞は複数形だから、文法的には夫々単数形の「共和派」と「王党派」の二者を受ける。フランス国家は過去、いずれに対してもその幸福安寧の為に為す事があったのに、彼等はいずれも逆に同じ程の悪事を働くだろう、という予言である。

その悪事とは、ここでは「花の家系に対する死罪」を行うことである。花の家系とは「白百合紋のフランス王家」を意味する(Fontbrune, 1976, p.134)。「柱の上に吊り下がる何か巨大なもの」とは、言うまでも無く「ギロチン」を表す。

ここには、前節(§358, V - 37)で見た「王政擁護派300人」も国王を裏切ったのだ、という予言者の認識が重ねて表明されている。「 三百人」という表現は『予言集』に2回(§358, V - 37と§410, VII-36 )出て来るだけであり、VII-36詩が「塗油されたる者達に反対する300人」として反王権・共和革命派、即ちここで言う「青い頭」を表すのに対して、V-37詩の場合は逆に「王政擁護派300人」、即ちここで言う「白い頭」を意味する。

更に4行目は、対応史実を再確認するように、「王が臣下達に捕えられて、「何て頑固なんだ!」と言うだろう時に」とある。これは正にヴァレンヌ村での出来事を表している。

「何て頑固なんだ!"How obstinate ! "」と訳した原文はただ、combien (how)であるが、Combien, Saulce, vous êtes têtu ! (ソース、君は何て頑固なんだ!)と言うルイ16世の発語が、仮に史実として記録されていないとしても、実際の状況にピッタリ合致する。そして、詩の冒頭に繰り返される「頭tête」という文字も、語源的に連関するtêtu (頑固な)という連想を自然に誘う。

「そこでルイ16世はソースを味方に付けようと試みた。王妃の方もソース夫人を籠絡しようと努めた。しかし全て無益だった。」(Sagnac, 1920, p.303)

«「自分の手中にフランス国王の運命を握っている小さな町の行政代官、この慎ましい食料品店主」は国王と王妃の旅次続行の懇願をやんわりと斥け、国民議会の命令を携えたラファイエット軍副官ド・ロムフ(de Romeuf)のヴァレンヌ到着まで時間を稼ぐことに成功した。(Sagnac, id., p.303-305)「『ガゼット・ナショナル』1791年6月25日の記事にこうある:前夜の国民議会会報でクレルモン地区行政代表の一人、マルチネー氏は話した。«ヴァレンヌ自治体代官ソース氏(M. Sausse)が、王と王妃が彼に為した約束と、更には抱擁に対してさえも対応して彼が取った賢明かつ英雄的行動についてお話致します。『私は王様が好きです。でも私は祖国に忠誠で在りたいと思います。』» 又、翌々8月18日の国民議会会報にはこうある:«国民議会は、ヴァレンヌで王の逃亡を最も効果的に阻止した人々に与えるべき褒賞検討委員会の報告を聴いた後、ヴァレンヌ自治体代官ソース氏 (le sieur de Sauce) に対して20,000リーヴルを支払うことを議決した。 »」(Le pelletier, I, p.195-196) » (§355, IX-34)

「何て頑固なんだ!」と言う品評には、多くの場合、「言う事を聞いてくれそうに見えるが、実は決して聞いてくれない」という相手の態度がある。この時、ソースは正にそういう状況に身を置いていた。むしろそれは彼の計略そのものであった。

つまり彼は出来るだけ柔らかい物腰で王に対応し王の希望に沿うような素振りをしながら時間稼ぎをして、裏で共和派の援軍を呼びにやり、その到着をひたすら待っていたのである。

「真夜中の30分過ぎ頃、ソースは当地最大の軍事センターであるヴェルダンに武力援助を乞うべくメッセージを送った。『早く!国民防衛軍及び大砲と一緒に来て下さい。王とその家族がこちらに居ます。早く、早く!助けに来て下さい』」(Tackett, 2003, p.19)

「事実、相当長い間待たされた。とうとう十分な数の国民防衛軍が集結したという事を確認したソースは、本心を偽装するのを止めて、君主に対して身元が割れており逮捕されているという事を明言した。」(Thiers, 1823, p.319)
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フランス革命22 端麗の王の過酷な処刑

§360. 端麗の王ルイ16世の過酷な処刑 (1793.1.21) : VI - 92.

第六サンチュリ92 詩:                                        
かくも雅びなる美麗の君主、                                  
国家元首に対する策謀、第二の事実は裏切られ:                             
都はもろ刃を帯し、顔面は粉末で焼け、                                 
余りに過酷な殺戮の為、王の頭部は憎まれ。


A prince of such graceful beauty,
A scheme against the sovereign, the second fact betrayed:
The capital with the sword, his face burned with powder,
By too great a murder the head of the king hated.

「この詩の中で、ノストラダムスが当の出来事の238年も前に、この不幸なルイ16世に定められた運命に呻吟し、彼が犠牲となる裏切りと殺戮に憤慨し、更にはその亡骸を無に帰さんとして、生石灰の中に埋める挙に出たパリの都で、王の頭部にさえも向けられた憎悪に悲憤しているのが伺える。」(Bellaud, 1806, p. 141)

従って、「第二の事実」とは、「1774年に絶対君主に登った」第一の事実に次いで、「1791年に立憲君主として再登板した」ルイ16世の事実を指す(Torné-Chavigny, 1861, p.33)。

国家元首に対する策謀」を廻らしたのは「国民公会を主導する共和革命派」であり、彼等は君主政を廃止して(1792.9.21)共和国を立てた(1792.9.22)から(Pariset, 1920, p.3-4)、明らかに立憲君主ルイ16世は裏切られたのである。

都はもろ刃を帯し」とは、王の処刑の日の、実に物々しいパリの武装警戒振りを表現している。「通りでは総員非常呼集が鳴らされた。パリの国民防衛軍総司令官サンテールの指揮のもと、全武装軍が動員された。タンプル塔監獄から処刑台まで、大通りに沿って、軍隊、セクションの兵隊及び各県連盟兵達が途切れの無い二重の垣を作っていた。革命広場には二万人近い人々が集まっていた。町は活動を停止し、商店は閉じられ、作業場は人気もなく、丈夫な男達は全員武器を帯びていた」(Pariset, id., p.23)。

余りに過酷な殺戮」とは、量的な大量殺戮というよりも、上述のように、ルイ16世唯独りに対する失敗を許されない厳格な大掛かりな当日の処刑行動を言う。そして「軍隊の解散は平穏理に行われた。そしてその事を少しでも沈思しようとしてみれば、パリ人や各県人の十万人に近い男達の動員が、最高の全たき秩序の中で、僅かの抵抗の気配すらなく、心配な事故も全然無く行われたのは、多分、革命が己自身に対して付与する最高の尊敬に値する光景を成していたのである」(Pariset, id., p.24)。

顔面は粉末で焼け」「王の頭部は憎まれ」とは、ギロチン断頭後のルイ16世の遺骸に対する更なる不敬の所行を表す:「柳籠の中に入れられた王の身体と頭部は忽ちのうちにマドレーヌ墓地に運ばれ、生石灰を入れた深さ12フィート、開口部6フィートの堀の中に早速投げ込まれて、堀は再度生石灰で覆われて、王の体と頭は直ぐ解体してしまった」(Montgaillard, III, p.415)。

なお、冒頭の「かくも雅びなる such graceful」の表現は、原語 venuste がラテン語 venustus, 即ち of Venus(ヴィーナスの)に由来するから、原理的に「女性的」という意味であって、ルイ16世について「女性的な美」とは、「肥満」を言う。実際、「痩せの美」がもてはやされるのは極く現代的流行であって、原始以来、地球上の女性美は肥満の要素を除外しては成立しなかったと思われる。そして、ルイ16世の肥満振りは周知の事実である。(cf. Carré, 1926, p.2)
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フランス革命23 不和、竜巻、処刑

§361. 国王と国民の不和、竜巻、処刑 (1791-1793) : I - 57.

第一サンチュリ57 詩:                                        
大いなる不和によって、竜巻が震い出すだろう。
協定が破られ、頭を天に向け:
血を吐く口が血の中を泳ぐだろう:
乳と蜂蜜で塗油された彼の顔は地に塗れ。


By the great discord a waterspout shall tremble.
The accord having been broken, his head set up towards heaven:
His bleeding mouth shall swim in the blood:
His face anointed with milk and honey to the ground.

3-4行目「血を吐く口が血の中を泳ぐ」「乳と蜂蜜で塗油された彼の顔は地に塗れ」という表現は明らかに、「顔面は粉末で焼け」「王の頭部は憎まれ」という前節(§360, VI-92)の表現に符合し、ルイ16世の過酷な処刑(1793.1.21)を描写した予言詩である。なお、「地 ground」の原語 sol は、『予言集』に全24回の用例があり、「地」の意味は本詩だけであり、他は、天体としての太陽7回、君主的人物11回(うちルイ16世1回: §387,IX-19、ブルボン家1回: §520,I-38)、ゴールド・マネー3回、日本国2回となっている。

「頭を天に向け」とは、処刑当日の王に付き添い、処刑台に登らんとする王を励ましたエッジワース神父の次の言葉を想起させる:「聖王ルイの息子よ、天へとお昇りなさい。」(Pariset, 1920, p.23) (cf. Torné-Chavigny, 1861, p.156)。

従って、「協定が破られ」とは、前節(§360, VI-92)の「第二の事実は裏切られ」と同じで、国民公会を主導する共和革命派による「君主政廃止」(1792.9.21)と「フランス共和国創設」(1792.9.22)による「立憲君主ルイ16世」の抹殺である。

竜巻が震い出す」という表現は、同じ「竜巻 trombe = waterspout」という語が『予言集』の中であと一回だけ(§615, I-40)、しかも「1830年の7月革命」を指す為に使用されていることから明瞭なように、紛う方なき「革命」のメタファーである。この場合は、ルイ16世処刑に直結して行く1792年8月10日革命を指す。§383,I-3では、旋風 tourbillon, whirlwind という表現が同趣旨で用いられている。


従って又、冒頭の「大いなる不和」とは、8月10日革命の主要原因として、「ヴァレンヌ逃亡事件に象徴されるその前後の国王と共和革命派との激しい軋轢」を意味するだろう。
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フランス革命24 ルイ16世の不当な処刑

§362. ルイ16世の善良さと不当な処刑 (1791-1793) : VII - 44.

第七サンチュリ44 詩:
一人のブルボン家の者が大層善良な方であるだろう時に、
その人柄の中に正義の徴の数々を持ち、
その時代に自分の名前として血筋から来る名前を持ち、
逃亡のために責め苦を不当に受けることになろう


When one of the Bourbons shall be good,
Having in himself the marks of justice,
Of his blood then having his name,
Because of his flight unjustly shall he receive his punishment.

一人のブルボン家の者」即ちルイ16世の「善良さ、正義の徴の数々」:「彼は不器用で、小心、”無骨”、正直で善良、驕りも虚飾もなく、正義の本能の数々を具備し、篤信のキリスト者で、知性は凡庸」(Carré, 1926, p.2)。

血筋から来る名前」:ルイ16世、即ち正式なフランス語式表現で「ルイという名前の第16番目の王」である以上、当然ルイ1世からルイ15世迄の先祖を持っている。この名前の初代のルイ(ルートヴィヒ)1世(778-840)は、「ルイ善良王le débonnaire」又は「ルイ敬虔王le pieux」と呼ばれた。その性格、長短は16世に非常に似ているから、ノストラダムスは特にこの初代ルイを念頭に置いていたのかも知れない。

「ルードヴィヒ一世 カロリング朝の西ローマ皇帝(814-840)。カルル一世(大帝)の第3子。大帝の在世中、皇帝兼共治者となる(813)。篤信であったが、統治者としては無能で、即位後間もなく領土を3子ロタール一世、ピピン、及びルードヴィヒ(ドイツ王)に頒ったが(817)、再婚して(818)、末子カルル二世が生れたので(823)、領土の分割をやり直そうとして3子の反抗を受け、戦に敗れて(833)一時譲位し(同)、翌年復位した。このことは延いて父子兄弟間の争をひき起し、フランクの国力を衰えさせた。」(『岩波西洋人名辞典増補版』1981, p.1680)

逃亡」:これは勿論ヴァレンヌ事件である。Cf. §352(IX-20), §353 (VIII-24), §354 (VIII-22).

責め苦」:これは勿論ルイ16世処刑である。Cf. §359(II-2), §360 (VI-92), §361 (I-57).

不当に」:これは他の関連詩(§363, X-43; §364, X-16; §365, IV-49; §366, VIII-87; §370, I-68)でも見られる予言者の変らぬ判断であり、ルイ16世自身も自らの無実を最後まで訴えている:

「『「聖王ルイの息子よ、天へとお昇りなさい。』エッジワース神父のこの言葉は瞬く間に伝説となったのだが、これで抵抗を止め心静まった彼は神父に支えられて梯子を登った。彼の顔は真っ赤になっていた。彼は台の縁に跳んで行って叫んだ:『皆さん!私は無実のまま死にます。私は...を許します。』将官達の命令で太鼓の音が激しくなった。彼は足を鳴らし、身台の上に縛り付けられる間も未だ抵抗しようとした。彼は絶えず話し続けた、そして、群衆にはもう彼の言う事が耳に届かなくなったので、彼は死刑執行人とその助手達に話した:『諸君、私は人々が私に咎め立てしている事については全部無実です。私が望むのは、私の血がフランス人達の幸福を強固にしてくれる事です。』彼は刃が落下した時も未だ叫んでいた。一人の助手がその頭部を掴み、人々に見せた。群衆は叫んだ:『フランス国民万歳!』そして、護送車が遺骸をマドレーヌ墓地に持って行く間に、群衆は処刑台に殺到し、君主の血に触れた。ルイが脱がされた上着は一瞬のうちにズタズタにされ分配された。ラ・マルセィエーズの歌に合わせて暫く人々は輪になって踊った。それは苦悶の後の急な弛緩であった。」(Pariset, 1920, p.23-24)。
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フランス革命25 軟弱な時代と善良浮薄な王室

§363. 軟弱な時代と善良浮薄な王室 (1789-1793) : X - 43.

第十サンチュリ43詩:                                        
とても良い時代、余りに過ぎたる王の善良さよ:
政策の作りては壊す、性急にして唐突、又は不作為。
人々は王妃に関する虚報を安易に信じ込むだろう、
王自身はその善意のため死に置かれ。


In very good days too much goodness of the king:
Policies done and undone before long and suddenly, or omission,
People shall easily believe in false noises concerning the queen,
Himself put to death because of his benevolence.

とても良い時代」:「少しでも真っ当で且つ公平であれば誰でも、革命前の時代はそれ以後の時代と比較してとても良いものだったと同意するだろう。当時フランスは平和の安らぎ、幅広い隆盛な商業、無数の運河によって豊穣と富のあらゆる資源を大量に運搬する物流秩序を享受していた。そこでは各人が、その環境、その才能、その勤勉さに応じて必需品、安楽品、果ては贅沢品迄も手に入れていた。」(H.D., 1800, p.16-17)

王の善良さよ」:前節(§362,VII - 44)参照:ルイ16世の「善良さ、正義の徴の数々」:「彼は不器用で、小心、”無骨”、正直で善良、驕りも虚飾もなく、正義の本能の数々を具備し、篤信のキリスト者で、知性は凡庸」(Carré, 1926, p.2)。

余りに過ぎたる」:これは時に人格の善良さに伴う政治的無力を告げる。二行目がその無力を語る。

政策の作りては壊す、性急にして唐突、又は不作為」:政府のこの欠陥は大臣の度を過ぎた交替に如実に表れている。「こんなに頻繁に大臣を変えた治世は嘗て無かった。この君主が治めた18年半の間に、67名の大臣が数えられ、そのうち幾人かは二度、ネッカーは三度数えられており、これは結果として一大臣当り3カ月となる。そのリストを次に示す:Amelot, Barentin, Bertrand de Molleville, Boyne, Breteuil, Brienne, Broglie, Beaulieu, Cahier de Gerville, Calonne, Castries, Champion de Cicé, Clavières, Chambonas, Clugny, Dabancourt, Danton, de Grave, Delessart, de Crosne, de Joly, d'Ormesson, Debouchage, Dumourier, Duportail, Duport-Dutertre, Duranton, Foulon, Fourqueux, Fleurières, Joly de Fleury, Lacoste, la Galaisières, Lailliac, la Jarre, la Luzerne, Lamoignon, Lambert, Laporte, Latour-Dupin, Lenoir, Liancourt, Leroux, Malesherbes, Maurepas, Miromenil, Montmorin, Montbarrey, Mourgues, Narbonne, Necker, Pastoret, Puységur, Roland, Sartines, Ségur, Servan, Saint-Germain, Saint-Priest, Sainte-Croix, Taboureau, Tarbé, Terrier-Monceil, Thevenard, Turgot, Vergennes, Villedeuil.」(Bouys, 1806, p.66-67)

「人々は王妃に関する虚報を安易に信じ込むだろう」:王妃マリー・アントワネットは、幼くして異国の宮廷に嫁し来り、同じく若い”無骨”な王ともしっくり行かなく、為に自己防衛の必要からも極端なえこひいきと周囲には映る偏った宮廷内人間関係を形成していた。そのため王妃を激しく憎み、攻撃を加える敵対者を多数産んだ。その中から彼女の不品行、取り分け彼女の出費を非難する「赤字マダム」という悪口や、彼女を詐欺の真犯人扱いしようとする「首飾り事件」が発生し、王妃の国民的不人気を醸成し、革命的反感を生んだ(cf. Carré, id., p.136-143)。

「ルイ15世の後を継いだルイ16世は、いっとき人気を獲得するが、すぐに宮廷と王妃マリー・アントワネットの不人気に埋もれてしまう。誹謗文書やパンフレットは、道徳的に堕落し、国庫を浪費する宮廷というイメージ(実際は、国庫収入の約5パーセントを消費)を広め、淫乱で浪費的で義務に忠実でない「オーストリア女」として王妃を描いていた。こうして、王政の聖性が不可避的に低下していった。」(柴田三千雄編著『フランス史2』山川出版社、 p.343)

王自身は死に置かれ」:前節(§362,VII - 44)「責め苦」及び §359(II-2), §360 (VI-92), §361 (I-57)参照。

その善意のため」:前節(§363,VII - 44)「不当に」及び §364(X-16), §365(IV-49), §366(VIII-87), §370(I-68)参照。
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フランス革命26 盗み取られる政権と生命

§364. 楽観的善政の故に盗み取られる政権と生命 (1792-1793) : X - 16.

第十サンチュリ16詩:
フランスの統治に於いて満ち足り、生きることに満足し、
流血、死、憤激、そして不正利得を何ら知らぬ人、
おべっか使いではない人々によって君は妬まれるだろう、
盗み取られる王様、キッチンに置き過ぎた信仰。


Happy with the reign of France, happy with your life,
Being free from blood, death, fury & rapine,
You shall be envied by non-flatterers,
A stolen king, too much faith in cooking.

フランスの統治に於いて満ち足り、生きることに満足し、流血、死、憤激、そして不正利得を何ら知らぬ人」:前節(§363, X - 43)の「とても良い時代、余りに過ぎたる王の善良さよ」と同趣旨。「満ち足り、満足し」(happy)のニュアンスには、客観的に保証された揺るぎない事実というよりも、ルイ16世の「楽観主義に由来する主観的満足感」が認められる。客観的には「彼は不器用で、小心、”無骨”、正直で善良、驕りも虚飾もなく、正義の本能の数々を具備し、篤信のキリスト者で、知性は凡庸」(Carré, 1926, p.2)という評価となる。

王に対する「おべっか使い」とは、少なくとも日常的に王と接触可能な宮廷の人々ないし高位聖職者(第一身分)・貴族(第二身分)であろうから、「おべっか使いではない人々」とは「平民、第三身分」のことである。

「平民、第三身分」「によって君は妬まれる」。これは§347(VIII-21):「第三の抵抗によって」と同趣旨である。「第三者」、つまり「民衆」のチュイルリ王宮襲撃(1792年8月10日の武装蜂起)を大きな推進力とした「国民公会」という三番目の議会(一番目は憲法制定国民議会、二番目は立法議会)の議決に基づいて、ということであろう。勿論「第三身分」という意味もそこに込められているのは疑いない。

そしてその果てに「盗み取られる」のは王位(1792.9.21 王政廃止)と生命(1793.1.21 死刑)である。これは一行目の幸福感の源泉とされた「統治」と「生命」がいずれも楽観主義的なものでしかなかった事の厳しい帰結である。

それは§348(VIII-100):「対処に事欠くこと多くして」という表現に通じ、「信じ易い善良な王」の実務的力量の不足に外ならない。ルイ16世自身の意識は、自分ほど国民の幸福安寧を思い、善政を敷くことに努力している君主は稀である、という高い自己評価に立つが、しかし、そこには国家経営に要求される厳しさの側面が欠けているというのが歴史家の大半の見解になっている。特に財政政策が大臣の頻繁な交替で一貫性を欠き、又、多くの論者が指摘するように、「厳しさの中核たる防衛力」の適宜適時の行使に関して迷いを露呈した。

キッチンに置き過ぎた信仰」:これはルイ16世の大食漢振りと極度の肥満体質を指している。既に§360(VI - 92)で予言済みであるが、そこでの「かくも雅びなるsuch graceful」の表現はラテン語venustus, 即ちof Venus(ヴィーナスの)に由来するから、原理的に「女性的」という意味であって、ルイ16世について「女性的な美」とは、「肥満」を言う。実際、「痩せの美」がもてはやされるのは極く現代的流行であって、原始以来、地球上の女性美は肥満の要素を除外しては成立しなかったと思われる。そして、ルイ16世の肥満振りは周知の事実である。(cf. Carré, 1926, p.2) 

「フランスの王の一人、その王冠を盗み取られ、騙し取られ、剥ぎ取られてしまう王、太り過ぎている王、食べ過ぎで、料理に惚れ込んで巨漢となっているこの王は、明らかにルイ16世である。」(Bouys, 1806, p.86)

本詩は「フランスの統治」という表現によって対象が明示されており、且つ「」という二人称の使用(tutoyer)によって「預言者自身の身近な対象」を指示する。

事実、「」という表現でノストラダムスがその『予言集』の中の他の6編の4行詩で親しく語りかけている相手は、予言者と同郷のフランス関係者(首都パリと解し得る「太陽の町」(§209, I-8) 、ナポレオンとその軍隊を内容とする「フランス」(§426, III-23)、ナポレオン1世に関する「フランス政権」(§572, III-49)、17世紀の「フランス艦隊」及びその「一人の船員」(§279, III-87)、南仏オランジュの町を指すと思われる「オーラの娘」(§64, VI-100))、又は「枢機卿会Sacré Collège (Sacred College, College of Cardinals)」(§244, X-91)である。この最後の例は、至高の神に由来する世界史的大予言を預り、『予言集』の中でローマカトリックの立場を貫徹するノストラダムスにとっては、ローマ教皇を頂点に戴く「枢機卿達の一団」は、祖国「フランス」と並んで「君」という呼び方で語り掛け得る相手であるに違いない。
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フランス革命27 ルイ16世とエッジワース神父

§365. ルイ16世の昇天、その証人エッジワース神父 (1793.1.21) : IV - 49.

第四サンチュリ49詩:                                        
国民の前で血が流されるだろう、
その者は高き天から離れることはないだろう:
しかしその話は長時間に渡って聞き届けられることはないだろう、
一人の独身者の機智がその事の証人として現れるだろう。


Before the people blood shall be shed,
Who shall not go away from the high heaven:
But the people will not hear his words for a long time,
The wit of the only person shall come to testify it.

国民の前で血が流されるだろう」:これは勿論ルイ16世処刑である。Cf. §359 (II-2), §360 (VI-92), §361 (I-57), §362 (VII - 44), §363 (X - 43), §364 (X - 16); §409 (IX-11): 「義しき人が公衆の前で死に置かれ、その只中で息絶える」。

その者は高き天から離れることはないだろう」:処刑されたルイの魂は昇天する。何故なら彼は無辜であるから。Cf. §362 (VII - 44): 「一人のブルボン家の者が大層善良な方で、その人柄の中に正義の徴の数々を持ち」;§363 (X - 43):「余りに過ぎたる王の善良さよ。王自身はその善意のため死に置かれ。」;§364 (X - 16):「流血、死、憤激、そして不正利得を何ら知らぬ人、盗み取られる王様」; §366 (VIII-87): 「無実の血」; §370 (I-68):「三人の無辜なる者」(ルイ夫妻と王太子); §409 (IX-11): 「義しき人が公衆の前で死に置かれ」。なお、「その者」の原語 que (which,whom,that) は先行詞のない関係代名詞主格 qui (He who)と同等で、古フランス語の名残としてノストラダムスはこれを多用している。今の場合はその先行詞のない事例 (Who) である。

その話は長時間に渡って聞き届けられることはない」:「彼は絶えず話し続けた、そして、群衆にはもう彼の言う事が耳に届かなくなったので、彼は死刑執行人とその助手達に話した:『諸君、私は人々が私に咎め立てしている事については全部無実です。私が望むのは、私の血がフランス人達の幸福を強固にしてくれる事です。』彼は刃が落下した時も未だ叫んでいた。」(Pariset, 1920, p.23)。

一人の独身者の機智がその事の証人として現れるだろう」:「『「聖王ルイの息子よ、天へとお昇りなさい。』エッジワース神父のこの言葉は瞬く間に伝説となったのだが、これで抵抗を止め心静まった彼は神父に支えられて梯子を登った。彼の顔は真っ赤になっていた。彼は台の縁に跳んで行って叫んだ:『皆さん!私は無実のまま死にます。私は...を許します。』(Pariset, id.)。なお、ノストラダムス『予言集』における「単独者 seul = only」の用例の一つに「独身者(célibataire = single)であるところの聖職者」という意味がある (Torné-Chavigny, 1861, p.145)。この場合はエッジワース神父を指している。「その事」とは、二行目の「その者は高き天から離れることはないだろう」という不可視の精神世界の出来事を指し、精神世界のそれなりの権威者であるエッジワース神父のエスプリに富んだ言葉によって初めてその真実性が保証されるのである。
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フランス革命28 無実の血に悔恨を抱く者あり

§366. 無実の血に悔恨を抱く者あり (1793.1.21) :VIII - 87.

第八サンチュリ87 詩:
企まれた死が完全に実現するだろう。
不利な事実が示されて、旅行は死出の旅となる。
立憲君主として臣下によって創設され受容され破棄される。
無実の血を己の前に見た者は悔恨に暮れる。


The conspired death shall be fully effected.
The charge confirmed, his journey turning to be fatal:
He shall be chosen, created, received and annulled by his subjects:
He who shall have the blood of innocence under his eyes in remorse.

企まれた死」:共和革命派による「国家元首に対する策謀」(§360, VI - 92)に同じ。
                                                              
立憲君主として臣下によって創設され受容され」:「カペー朝立憲君主」(§352, IX-20)に同じ。なお、「選ばれし者esleu (elite)」という表現は『予言集』の中に全20回登場し、教皇選出5回、国家元首決定11回、大勢力の頭目選定2回、その他2回となっている。このうち、国家元首に関しては、全て純然たる世襲による即位以外の形での就任がノストラダムスにより「選出」と言われていることが分かる。投票(V-92)、合議機関決定(IV-89, V-49, VII-35, VIII-41)、属国支配を脱した新たな自律的君朝創設(IV-97)又は教皇に依る認知(X-18)、そして事実上世襲であっても立憲君主制の採用(IX-20, VIII-87, VIII-8)及びその後嗣(I-39)がそれに該当する。

破棄される」:立憲君主として再登板したルイ16世は「裏切られ」(§360, VI-92)、「協定が破られ」(§361, I - 57 )に同じ。

不利な事実が示されて、旅行は死出の旅となる」:「この国王一家の逃亡事件は、外国によって支援された反革命という疑念に確証を与え、国民的規模の動揺を引きおこした。国王を廃位してその運命を国民の判断にゆだねることを要求する請願書や、政治体制としての共和制をもとめる請願書が、コルドリエ・クラブなどから提出された。このように国王一家の逃亡事件は、国民の国王にたいする信頼を失わせ、共和主義運動を高揚させて、「世論における王政の死」に寄与する事になったのである。」(柴田三千雄編著『フランス史2』山川出版社、 p.360-362)

無実の血を己の前に見た者は悔恨に暮れる」:「自己の眼前にルイ16世の血を見た者」とは、その処刑の任に当った処刑人以外にない。「ルイ16世の死。この尊貴な犠牲に死を与える嘆かわしい任務が私の先祖に下った。シャルル・アンリ・サンソンのリベラルな憧憬、革命の大義に対する最初期からの共感は良く知られている。だが今となっては、諸々の出来事の進行によりこれらの感情は一方的に冷めてしまったとはっきり言わなければならない。立法議会は制憲議会の念願をもう全然実現しなかったし、そして今国民公会は一個の暴力体系を創設してしまい、小心に最も遠い人々や、一番断固たる心をも恐れさせている。王の廃位、タンプル塔幽閉は、素直な魂の人々全ての中に、新しい思想に一番献身的な人々の中にさえも、最高の憐憫の情、そして多分このような極端な事態に至った大義の正当性に関する若干の躊躇を産み出している。」(Sanson, III, p.442)。

「いずれにせよ、彼はその息子、もう27-8歳になる私の父親、と同様、可能な限り出来事の外側で生きていた。実際の所、1792年8月10日のその日、我が家では午前中、チュイルリー宮殿襲撃を知らなかった程である。」(Sanson, id., p.448)。

「国民防衛軍の士官、下士官の選挙で、私の父と私の祖父は軍曹、私の大叔父シャルルマーニュ・サンソンは伍長に任命された。その任務のために、いわゆる市民的諸義務が他の全ての生活業務よりも優先したこの奇怪な時代に相次いだ政治的意思表示の諸行事に思った以上に積極的に参加しなければならなくなった。彼等がこの軍務に精励し始めて程なく、公会の中でタンプル塔に囚われた王の審理が開始された。」(Sanson, id., p.462-463)。

「不運な国王が公会の司法壇に出頭して来た時、何よりも彼はチャールズ1世が先に辿ったあの殉教王者の道を自分が歩んでいると感じたに違いない。彼に向けられた訴追の不実、最も初歩的な司法手続きの没却は余りにも露わに、彼の落命が決定済みであって、時代の過ちを償い鎖を解かれた妄動を鎮めるべく生贄として彼の血が流されようとしている事を彼に示していた。」(Sanson, id., p.464)。

「690票の内380票の多数で死刑宣告を受けた王の執行猶予案が否決された。この恐ろしい審理の推移の全てを抉られるような不安の心で追っていた私の祖父が知った最初のニュースがこれだった。1月20日というこの日は彼にとっては家族祭日になる筈だった。60歳に入った祖母と彼の結婚の29年目の記念日であった。二人にはとても貴重なこの日にちにこのような喪のヴェールを投げ掛ける惨事は彼女には知らせないで置きたいと彼は思った。しかし彼の表情に変化が起り、そのため彼を苛む苦悶を隠し切れなかった。家族全員が淀んだ暗い悲しみを顔に表していた。」(Sanson, id., p.466-467)。

「私の祖父と父は銘々で外出し、街中を歩いて拡がり出した噂を収集した。人々は既に知っていたが、王は死の心づもりをするための3日の猶予を願い出ていた。公会はそれを聞くどころではなく、立法府近辺まで足を伸ばしていた私の祖父が確実に知った所では、フランス王に為された最後で唯一の恩恵は、自分の家族から別れの挨拶を受けることと、信じる宗教の神父に処刑時付き添ってもらうということであった。従って疑いも無く刑の執行は翌日に為されることになった。祖父は意気消沈の様で帰宅した。それより先、父も同じく悲しい報せを携えて戻っていた。届けられた書類の中には、夜間に処刑台を整え、朝8時からそこで罪人を待つべしとの致命的命令があった。手紙の中には、タンプル塔から革命広場迄の道のりにおける王の救助事案に対してはあらゆる対策が取られており、彼サンソンが革命広場で少しでも抵抗の様子を見せれば無数の打撃に貫かれ倒れ落ちるだろうという警告があった。こういう脅しではなく、最も丁寧な懇願の形式を帯びた手紙もあった。それは彼が犠牲の解放者達の仲間になり、執行を時間をかけて行い、群衆の中に混じり民兵の層を割り、処刑台の上から王を連れ去る決意をした男達に時間を与えるよう切望していた。この後者の手段を私の祖父は不可能とも考えられないものとも見なさなかった。それは彼に一筋の希望を与える残された唯一のものだった。」(Sanson, id., p.467-469)。

「運命的ニュースが分った今となっては、予定された記念日はもはや問題にはなり得なかった。それら質素な祝いの膳は下げられた。そして、タンプル塔の囚人が獄の奥で死の夜を徹し、最後の晩餐のパンを千切り、葡萄酒を飲んでいる間、翌日にはその者の死刑執行人となるべき者はそのつましい家族と共に祈りと涙のうちに断食をしていた。」(Sanson, id., p.470)。

しかし、処刑当日、首都は革命政府の厳重万全の武装警備が敷かれ(cf.§360, VI - 92)、サンソンの一縷の望みもはかなく潰え、彼自身が執り行わざるを得なかったギロチン操作の中でルイ16世は刑死した。

その後、彼とその後継者たちは、自己費用で毎年1月21日にルイ16世の御霊の慰撫のため、というよりもより多く自己の良心の平安のために、贖罪ミサを行って貰うようになった(Robb, 1961a, p.108; Sanson, IV, p.1-51)。

シャルル・アンリ・サンソンの孫アンリ・サンソンはその家業となっていた処刑執行人の職務をこう見ていた:「私が正義の祭壇の上に捧げた110個の人間の頭のこの一覧表...」(Sanson, VI, p.537-538)。

なお、「悔恨に暮れる」の原文は par remort (= par remords) で、この前置詞 par は「行動様式・態様 manière」を表す。例えば、par honor = honorablement; par veir = vraiment (Brunot & Bruneau)。 従って「悔恨を胸に抱く様で無実の血を眼前に視る」の意となる。英語の in remorse は正にピッタリの訳ということになる。par のこの用法は§371, X-17: par un regret にも見られる。
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フランス革命29 タンプル塔の王室一家

§367. タンプル塔の王室一家(1792-1793) : IX - 23.

第九サンチュリ23 詩:
次男坊は丸塔の下の監獄で遊び、
その頭上には中央物の屋根の高き物。
神殿(タンプル塔)には王なる父、聖なる抗議、
身を生贄とし、祭りの香煙と成りて聖別を行うだろう。


The second son playing in the prison beneath the round tower,
The high of the roof of the center over his head,
The king, his father, in the temple, sacred protestation,
Shall consecrate in sacrificing himself into festival incense.

次男坊は遊び」:ルイ16世の王太子(のちルイ17世)。1785年生れの彼には1781年生れの兄がいたが、この兄は1789年に亡くなり、次男坊が王太子になった。1792年に未だ7歳の子供は囚われの生活の中でも遊びに関心を集中している。彼の遊びは、散歩が許される時は庭で「ボール遊び」「石けり」「駈けっこ」、室内では「ボール遊び」「羽根つき」「ソリテリア」「拳玉」「輪並べ」等 (cf. Beauchesne,1852, I, p.231-232; 276-277; II, p.93-94 )。

」:原語はla tonneで、「大樽」の意味だが、その形態から「丸い塔」と解し得る。これはタンプル塔の「四方の脇の丸い4つの小塔」を指す。「タンプル塔イラスト」(芝生瑞和『図説フランス革命』河出書房新社、2007, p.103; Beauchesne,1852, I, p.212))参照。

監獄」:原語は古語le freschで、le fraisに相当し(cf. Godefroy: frescheté = fraîcheur)、「冷所、刑務所」の意味がある (Suzuki)。 

丸塔の下の監獄」:1792年の8月10日革命後に王一家がその中に幽閉された監獄としての「パリのタンプル聖堂・タンプル塔 le Temple」を指す。3行目の普通名辞「神殿 le temple」も固有名辞 le Temple「パリのタンプル聖堂・タンプル塔」の意味を併せ持つ。予言者が固有名辞を普通名辞にして用いたのは、監獄が実はルイにとって「聖所」であり、ルイが「殉教者」の意味を持つ事を示唆しようとしたもの。

その頭上には中央物の屋根の高き物」:これはタンプル塔の建築構造から理解出来る。「タンプル塔、このかなり大きな建物は、屋根裏部屋を持たない高さ150フィートの大塔で出来ていて、四方の脇には丸い4つの小塔が付随し、北側にはずっと低い別の小塔を2つ載せた支壁が備わっている。それは5階に分れ、[2階以上の]各階には30フィート四方の部屋と3つの小塔に設えられた別の小部屋3つがあった。4番目の小塔の中は立派な階段になっていた。壁は平均9フィートの厚さがあり、建物全体が切り石造りであった。」(Mag. univ. I. 515, cité Torné-Chavigny, id., p.54) 王室一家が収容されたのは3階と4階に限られた (Beauchesne,1852, I, p.221-225; 315-319)。

つまり、「中央物」とは「高さ150フィートの大塔を戴く角柱形の5階建て主棟」であり、その中央棟の屋根の「高き物」とはその150フィートの主塔である。

聖なる抗議」:断頭台上のルイ16世が自己の無実を主張した事実を指す。「彼は台の縁に跳んで行って叫んだ:『皆さん!私は無実のまま死にます。私は...を許します。彼は絶えず話し続けた、そして、群衆にはもう彼の言う事が耳に届かなくなったので、彼は死刑執行人とその助手達に話した:『諸君、私は人々が私に咎め立てしている事については全部無実です。』」(Pariset, 1920, p.23) (§365, IV - 49)。なお「聖なる抗議」の原語はsaint Solonneで、「聖ソロンヌ神殿 le temple saint Solonne」という体裁を取りつつ、Solonne がギリシア語 Salos (trouble, agitation)に通じて、ルイ・カペーの取った抗議行動を表す(cf. Torné-Chavigny, id., p.51; 55)。Solonneは IX-21(§388)にも見られ、同義の Sallon (§307, X-62), Salon (§522, IV-27)に通じ、従って SolonneとSalosとの綴りの距離は埋まる。Solonne という語は、Salon に還元して初めて意味を持つが、その綴りは、多分、アテネの立法者ソロンΣόλων (Solōn) に懸けたノストラダムスの韜晦語であろう。

身を生贄とし、祭りの香煙と成りて」: 古代の燔祭の如く、無実のルイ・カペーが生贄となって焼かれ、立ち上る浄化力ある燻煙を広く国土と国民に振り撒く様を現実の断頭事件の精神的・象徴的意味として予言者が描写している。なお、原語 fumは、parfum(香水)とfumer(煙る)という2語を無理なく連想させるので、fum de feste(祭りのfum)を「祭りの香煙 festival incense」と訳した。

聖別を行う」: 断頭台上のルイ16世が身を生贄に捧げてフランスとその国民を浄化・祝福する意思を示した事実を指す。「彼は絶えず話し続けた、そして、群衆にはもう彼の言う事が耳に届かなくなったので、彼は死刑執行人とその助手達に話した:『諸君、私は人々が私に咎め立てしている事については全部無実です。私が望むのは、私の血がフランス人達の幸福を強固にしてくれる事です。』」(Pariset, id.) (§365, IV - 49)。
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フランス革命30 §355(続). 検証:ナルボンヌは裏切者か?

§355(続). 検証:ナルボンヌは裏切者か? : IX-34.

第 九サンチュリ34 詩:
一方だけ、つまり夫が尖り頭巾を被せられるだろう。
戻ると、争いが瓦(テュイル)の上を通るだろう。                             
五百一人によって肩書を有った者が裏切られるだろう。                          
ナルボンとソース、塗油されたる尊者は見張り付き。
                                                                          

検証:ナルボンヌは裏切者か?                                                                                 
本詩3行目、4行目前半の解釈については、名指しされているナルボンヌを裏切者と解釈するか否かに関して議論がる。しかし、テキスト自体の最も適切な文法的読み方と、それに対応する解釈の典拠となる史実そのものの提示という観点から、ナルボンヌをルイ16世に対する裏切者として扱うのには無理がある。

「ナルボンヌ裏切者」説を典拠と共に出した最初の解釈者はブーイ(Bouys, 1806, p.61-63)である。「ナルボンヌは戦争大臣であった。この大臣について何程か知りたい人はベルトラン・ド・モルヴィル氏の『革命史』を参照願いたい。著者はその著作の幾つかの個所で王にとって気に入らないナルボンヌ大臣の姿勢について不平を述べている。」

これだけ見ても、モルヴィルの言は、政敵が政敵について不満を吐露しているだけで、「裏切りの証言」には程遠い。元来、モルヴィルは海軍大臣としてナルボンヌと同じ内閣にあって政策方向が互いに全く異なっていた。ナルボンヌが完全な徹底した立憲王政の確立と強化以外にはフランス王室を護る手段は無いと確信していたのに対して、モルヴィルは立憲王政には不満で、表面上は憲政を守りつつ、「買収資金」を活用して旧勢力を抱き込み、王権強化の憲法改正を狙っていた。王の信任を最も厚く得ていたのもモルヴィルである。そして、王自身はナルボンヌの人と成りも思想も十分承知の上で、バルナーヴを筆頭とする立憲主義者達の慫慂に従い彼を入閣させたのだった。バルナーヴ、デュポール、アレクサンドル・ド・ラメートという立憲派の幹部達は、実は、ヴァレンヌ事件の中で見た「王妃を衝き動かす逆境の中の勇気」に甚しく感銘を受け、王妃と秘密の文通を行うようにさえなった。

不屈の立憲主義という点で考えの一致する閣僚として彼等が王妃に強く推薦したのがナルボンヌであり、外国、特に祖国オーストリアの強力な介入を願う王妃は元来外国頼みを否定するナルボンヌの政策に反対で、且つ彼がスタール夫人と親密にしている点で彼が大嫌いであったが、敢えてこれを受け容れ、王も認める所となった。

そしてこの最初からの路線対立は、ナルボンヌが政治活動を巧妙且つ精力的に行った結果、国民的人気を獲得し、これに脅威を感じた政敵モルヴィルが他の閣僚を味方に付けて閣内で彼を攻撃し、孤立したナルボンヌは辞意を固め、それに先んじて王が彼を罷免したのである。この時王はバランス上、ナルボンヌの政敵モルヴィルをも一緒に罷免した (以上3パラグラフ cf. Dard, 1943, p.81-111)。

ところで、バランス上、ナルボンヌをその政敵モルヴィルと一緒に罷免せざるを得なかったという事自体既に、ナルボンヌに明確な特定できる裏切り行為が認定された訳ではない証拠であろう。つまり、ナルボンヌにおける「王に対する裏切り」といった本質的要素はここに存在しないで、政治家達の政治レースしか見られない。むしろ立憲王政の守護者として軍隊を増強し規律付けるという政策の戦争大臣ナルボンヌが出来過ぎたため、政敵に引きづり下ろされたのである。

なるほど、「大臣たちは裏切り者(traîtres)だったと王と王妃は自分に言った」とフェルゼンは間接話法では書いているが、直接話法では「ベルトラン(ド・モルヴィル)は良い。だが彼一人では何も出来ない。ナルボンヌとレサールのやる事は全部自己保存のためで、王の為には何一つやらない。」とあるから、これはブーイの言う「不平・不満・愚痴」の類でしかない。「裏切者」というのは王妃と同様外国勢頼みのフェルゼン自身による評語であろう(cf. Dard, id., p.105)。

それに以上の事は1792年3月初旬で終っており、その後新たな2つの内閣 (Muel, 1895, p.23-25)を経験した3カ月以上先の6月20日事件や、ましてや8月10日革命に何も直接関係が無いから、ナルボンヌの裏切り云々という話は元々出て来ようがないのである。むしろ8月10日革命後には逆に彼自身も王と同様の国家的犯罪の被疑者とされるのである(Dard, id., p.122)。


ブーイもナルボンヌの明確な特定の言動を裏切りの証拠として挙げている訳ではない:「本詩の標的である者(立憲君主の肩書を持つ者)が無数のフランス人達によって、501人によって、ナルボンによって、そして就中ソースによって裏切られるであろう。」

ブーイは「501人」という表現に「多数の者」という意味しか読まず、トルネ・シャヴィニがその半世紀後に指摘するに至る「500名のマルセイユ兵とその先導者ダントン」という史実上明確な対象に気付いていないから、実に漠然たる解釈に終っている。

所で「裏切り」というノストラダムスの用語は「具体的で明確な言動という証拠」を厳しく要求しているが、トルネ・シャヴィニの解釈はその点、「史家チエールの革命史に記載のマルセーユ兵500名と先導者ダントンを最前衛とする8月10日王宮武力制圧」(Thiers, II, p.235-244) を以って、「立憲君主に対する国民の背信行為」の証拠としていて不足が無い。

事実、「裏切る」「裏切り」「裏切者」という用語は『予言集』の中に合計25回登場する。そのうち本詩を除く24例について診て見ると、語源的意味としての「受け渡す」が2回 (IV-26, V-12)、特殊的意味としての「本心を晒す、正体が現れる」が2回 (III-68, VIII-22)で、その他の21回が「いわゆる裏切り、即ち具体的で明確な言動を証拠として指摘出来る背信行為」である。

この21回の中には既に解釈済みの「ルイ16世に対する裏切り」が2回含まれている。その一つは「300人」という特徴的な概数で示された「国民公会に於ける王党派の議会上の失敗、即ち国王処刑の議決を阻止し得なかった政治的無力(1793.1.20)」を証拠に挙げ(仏革命とナポレオン20, §358, V-37参照)、あと一つは「立憲君主に対する廃位議決という議会の背信行為(1792.9.21)」を示している(仏革命とナポレオン22, §360, VI-92参照)。

従って本詩の場合も、トルネ・シャヴィニの解釈に従い、「史家チエールの革命史に記載のマルセーユ兵500名と先導者ダントン計501名を最前衛とする1792年8月10日武力革命」 を証拠にして立憲君主ルイ16世に対する国民の裏切りと見れば、ノストラダムスの判断基準に十分合致するだろう。

なお、トルネ・シャヴィニはナルボンヌを裏切者には含めないが、本詩結末の「国王収監」事件にはその遠因として彼が居たという解釈をしている(Torné-Chavigny, 1861, p.64)。しかしこれも時間先行因子が後発事象のある種の原因であるという最も緩い意味での因果関係以上の意味は持ち得ないし、他の予言詩(§353,VIII-24; §354, VIII-22)でのナルボンヌの扱いが「善玉」である以上、そして予言者ノストラダムスの人物批評が決して「ぶれない」という稀有な事象に注目すると、ナルボンヌとソースを並べて出したノストラダムスの本意は、ジョン・ホーグが言うように「善玉と悪玉の両論併記 Nostradamus couples the names of Sauce and Narbon to pit radicals and moderates against each other」と見るべきだろう(Hogue, 1997, p.713)。つまりこの場合、両者は互いに反対の立場に立っており、ソースは革命議会から表彰され褒賞を得たが、ナルボンヌは逆に8月10日革命後に議会から訴追を受けている。

しかも、固有名をあからさまに出すという稀有なノスタラダムスの予言は、その事によって、その名前に付随する最も周知の歴史事実を併せ示唆する(暗黙裡に予言する)という表現形式である事が多いということが銘記されてよい。逆に言うと、固有名を出す以上、多くの場合、それ以上の詳細は省略しますよ、という彼の最高度の自信に満ちた手法である。

その最も良い例は新惑星海王星 Neptune の発見に関する予言詩IV-33(§613)である。

従来この詩は「Neptune発見の掃天観測に入っていた英国天文学ティームが、それより若干遅れて来たフランス・ドイツ連合ティームに先を越されて新惑星発見の栄誉を取り逃がした」というその英国の観測家 Challis の労苦に報いるべく予言者が歌った詩であると解釈されて来た。

つまり、チャリスは何故失敗したかというと、この詩には「満月の皓皓たる白光の下にNeptune が」という事項がその他の天文条件と共に記載されているから、「運悪く満月に邪魔されたのだ」と人は解釈した。

しかしチャリス自身、そんな弁明を決して受付ないだろう。何故なら実地の天文観測家にとっては満月の存在など初めから織り込み済みで、そういう悪条件では観測は休止する筈だから。そして、観測を行なわない場合、観測の失敗という事もない。のみならず、彼はその1846年8月7日夜の満月の直前と直後に当る8月4日と12日の観測では、後から振り返っての話ではあるが、その新惑星とされた天体を見ていた。つまり彼はプロの観測家らしく、その満月の存在をクリアーし、何も邪魔されていないのである。

従って、彼が問題の天体を望遠観測中に実見しながら、新惑星として確認を取り、特定 (identification) するという肝心の作業が出来なかったのは、別の理由に依る。それは彼が、そのための必須の手引きとなる新惑星の数学的計算に基づく予見位置の十分に正確な情報を持っていなかったからである。そしてその計算担当者は同僚の Adams であったから、結局の所、アダムズの計算結果が十分な正確さを持っていなかった故に、英国ティームはネプテューン第一発見に失敗したのである。

それと全く反対に、フランス・ドイツ連合ティームが他に先駆けて同年9月24日に新惑星特定に成功した最大の要因は、フランスの数学者ルヴェリエ (Leverrier)が提供した計算結果の目標天体位置情報が極めて正確であった、という事実にある。それは、ベルリン天文台のガレ(Galle)とダレスト(d'Arrest)がルヴェリエの予知情報を記した手紙を夕方受領した9月23日の明くる24日の早々に(0時15分)もう発見に成功した事実が顕著に示している。

そして「ネプテューン」という命名が為されたのは、同年10月1日付で欧州各天文台にルヴェリエが送った手紙の中においてである。他方、同月11日にチャリスとアダムズは「オケアノス Oceanus」という名前を提案したが、それが採用されなかったのは第一発見の栄誉に伴う優先的命名権を彼等が持たなかったということであろう。(以上、Kollerstrom, 2001-2011 参照)

つまり「Neptune」という命名自体が、その第一発見に本質的役割を果たしたフランスの数学者ルヴェリエに依るもであるから、ノストラダムスが詩文中に記載した「Neptune」という名前には同時に「Leverrier」という人物が「歴史的論理的に内包connoteされている」と見なければならず、従ってこの詩の本意は海王星の新発見日及びその命名日を既に前提とし、それより後日の同惑星と満月の会合にあると考えなければ筋が建たない。

そして、「その発見と命名の記憶を強く残したその直後の最初の予見可能な海王星と満月の合」こそが最も詩趣に叶い、且つ予言者にも読者にも一番 fascinating なそれであろう。それは実際、1848年8月14日夜の出来事になる。この時期フランスは、7月王政崩壊(同年2月)と大統領ルイ・ナポレオンの登場(同12月)という大きな政治的事件の狭間(interregnum)に在った。

この顕著な事例に鑑みるに、IX-34詩の「Narbon & Saulce」という2つの名前の記載は、いずれも歴史上特定容易な名前である以上、Neptune と同様、「具体的記事が省略されている」と見ることが出来る。見る人が見れば「Nostradamus couples the names of Sauce and Narbon to pit radicals and moderates against each other」(Hogue, 1997, p.713)と言えば足りる。

故に又、詩末尾の「par coutaux avons dhuille」という説明は、ナルボンとソースには直接関係のない別事と見る方が詩の構成を充実したものにする上からも有理である。何故なら、従来、トルネ・シャヴィニ以外はこれを食糧品・油商のソースに関連付けて、「我々が量り売りでそれから油を得る人」だと説明するが、このような説明は確かに「油の小売商」の辞書的説明にはなっているが、ソースという人物の特異な歴史的含蓄には何も附け加えないからである。

一般的にノストラダムスの詩文は非常に高度な知的謎解きの作業を読者に課す事を使命の一つにしていると思われる。その線上では、トルネ・シャヴィニが見事に実行したように、一行目のsoluzというラテン語の一件無益な使用からここ4行目にもラテン語を見つけて読み解くという解決が出て来る。そうすると奇しくも「護衛に見張られた王者」という予想外の意味が浮かび出てきて、まさしく「8月10日革命後の王のタンプル塔幽閉」という重要な史実へ導く。そうするとここに、「ヴァレンヌ事件(含ソース)+6月20日事件+8月10日事件(含ナルボンヌ)+王収監事件」という革命の主要部の重要部分が揃う事になり、「ソース=我々が量り売りでそれから油を得る人」という子供じみた、蛇足的解釈を粉砕してしまう。このような解釈は、「天文観測家は満月時にも普通に観測をする」と前提するのと同じような水準にある。

所が、トルネ・シャヴィニが本質的解釈を提供したと思われる直後、ルペルティエ(Le Pelletier, 1867, p.195-198)が強引な曲解を行った。即ち彼は、「501人」について「500人」と「1人」を切り離したのであり、それを裏付けるため、敢えて上記引用のティエールの歴史記述から「ダントン一人」という肝要な部分を脱落させた

つまり彼は「500人=マルセイユ兵」、「1人=貴族の称号を持つナルボンヌ a titled Narbon」としたのである。彼の読み方を英訳で紹介しよう。

'An attack shall be directed against the Tuileries by five hundred men; he [Louis XVI] shall be betrayed by a noble named Narbonne.'

ここで「500人によって」という句をattackという名詞に懸ける(英訳ではdirectedという動詞部分に懸かるとも言えるがフランス語原文ではそうならない)のは許容範囲内としても、そうした場合、残りの部分は原文に即して英訳で再現すると、one betrayed shall be titled Narbon(裏切られる一人は爵位を持つナルボンヌであろう)としかならない。

所がルペルティエの結論的説明は he [Louis XVI] shall be betrayed by a noble named Narbonne(彼 [ルイ16世] はナルボンヌという一貴族によって裏切られるであろう)となっていて、「裏切られる者」が「裏切る者」に変換され、且つ残されたテキスト部分にはもう有りもしない前置詞 by を再導入している。これはテキスト解釈というより、テキストの諸単語を用い、且つそれ以外の用語も導入して自由に適宜作文せよ、といった課題の一回答のようなものに過ぎない。しかもルペルティエは「ナルボンヌの裏切り行為」に関する史証を何一つ挙げていない。

次に、別の新たな典拠を以って「裏切り説」を述べたのは米国のロブ(Robb, 1961a, p.19-22)であり、イオネスクがそれに全く追随し、竹本忠雄がイオネスクに追随している。先ず、ロブの説明は次の通りである。

「駐仏アメリカ大使グヴェルナー・モリス(Gouverneur Morris) は彼 [戦争大臣ナルボンヌ]について、自著『フランス革命日記』の中でこう書いている:議会は至って低調でもう倒れそうになっていたのに、ナルボンヌの陰謀が効いて、秩序と良能政府に犠牲を払わせて、少しばかり持ち直したが、それも狙いはナルボンヌの私腹肥やしだ。彼はブリソー、及びその他のあの破れ被れの有害な一派と気脈を通じているのだ。」(引用A)

「歴史家ルイ・マドラン(Louis Madelin) はこう語っている:間もなく宮廷はナルボンヌが王政をデマゴーグ達に売り渡したと責め立て... カトリック達は、『スタール夫人と結託したプロテスタントの陰謀だ』とまで言ってナルボンヌを非難した。王妃はナルボンヌを憎悪し、1792年3月10日、王は彼を罷免した。」(引用B)

先ず注意しないといけないのは、引用Aの話し手(発言主)は、大使モリス自身ではなく、モリスが1792年3月13日朝食を共にして会話した相手ジョベ-ル(Jaubert)であり、この人物はモンシエル(Montciel)の代理人としてモリスの意見を聞きに来た訪問客で、モンシエルはモルヴィル陣営に属する政治家である。

そして二人が「諸党派の状況 (the state of parties)等に関して大いに意見交換した」中でのジョベールの発言だという事である。ジョベールという代理を介してモリスからの意見を徴しに来たモンシエルは、3日前のナルボンヌ、モルヴィル等閣僚の罷免の後を襲うべく取り沙汰されている閣僚候補の一人である(Morris, 1888, p.517-518)。こういう立場、状況の中での引用Aの発言は果たしてどれ程の客観性を持ち得るだろうか。

この発言は要するに「ナルボンヌは国王と政府の立場を無視して議会強化に協力した」という事である。しかし、元来ナルボンヌは完全な徹底した立憲王政の確立と強化以外にはフランス王室を護る手段は無いと確信し、そのためには議会対策と合憲軍隊の組織充実が要諦と見通し、その方向で大車輪の政治活動を展開しつつあった。それに対してこういう評価が出て来るのは、既にブーイの項で見たように、「立憲王政には不満で、表面上は憲政を守りつつ、買収資金を活用して旧勢力を抱き込み、王権強化の憲法改正を狙っていたモルヴィル」(Dard, id., p.102)の基本姿勢を諸に反映している。

それは政敵が政敵について不満や非難を述べているだけで、「裏切りの証言」には程遠い。

次に引用Bは、話内容が3月10日罷免前のことだから、明らかにナルボンヌ引きづり落し工作の中心人物モルヴィル陣営の宮廷内圧力の反映であり、引用Aの話内容と同質で、「裏切りの証言」には程遠い。歴史家マドラン自身は、引用Bを記述するに当たり、「宮廷は立憲内閣をとても不器用に揺すった」(Madelin, 1912, p.206) と断っている。つまり、これは「宮廷」といっても、主として本当の政治的判断力に欠け、個人的感情に駆られるマリー・アントワネットとその取り巻きによる「真の忠臣閣僚(ナルボンヌ)の誹謗中傷による追い落とし工作」と見て間違いあるまい。

王妃マリー・アントワネットの感情的主張の影響は強力であったとしても、国王ルイは常に必ず最終的判断は自分自身で行った(Carré, 1926, p.135-136)。この場合も、現実に「ナルボンヌとモルヴィルを抱き合わせで両方罷免した」のは国王の相当に熟した政治的判断の証しである。

以上のように、ロブが援用した史実は「ナルボンヌの裏切りの言動の証拠」とは到底なりえない。しかも彼のテキストの読みは、one betrayer will be titled Narbon となっているが、「一人の裏切者 one betrayer」という語はフランス語原文のどこにも無い。従って、ロブの「解釈」なるものは、「存在しない原文の史証を欠く独自の構想」以外のものではない。

それ故、イオネスク(Ionescu, 1976, p.280-282) が「この四行詩はその明晰さ、そしてその日付の正確さにより、ノストラダムスの作品に見出し得る最も嚇々たるものの一つである」とまで激賞しながら、欠陥解釈としてのルペルティエとロブに全面的に依拠して再検討を怠り、自身が持つ本来のテキスト分析と史料渉猟の実力を忘却したのは極めて遺憾である。

ましてや、イオネスクの本来は忠実な紹介者であった竹本忠雄が、この詩に関しては、イオネスクを典拠に見せかける中で、それを踏み越えて、「ナルボンヌはシャン・ド・マルス事件においてブリッソと共に王の処刑要請を進めていた」とか、「国民公会でナルボンヌは死刑執行を説いたロベスピエールの側に付いた」というような、全く史実に無く、従って又竹本自身も何一つ典拠を挙げていない話を書き記した (Takemoto, 2011, p.372-373) のは、ノストラダムス研究者の風上には決して置けない暴論である。

この後者に関しては、そもそもナルボンヌは国民公会議員でもなく、且つフランス入国を拒否されて当時亡命先のロンドンにあって、国王処刑日3日前にはイギリス首相ピットに面会して助力を懇願していたというような事実 (Dard, id., p.132) を完全に無視した虚構である。

又、「ナルボンヌはシャン・ド・マルス事件においてブリッソと共に王の処刑要請を進めていた」という記事も竹本の捏造と言っていい。ここで竹本が「シャン・ド・マルス事件においての処刑要請」というのは多分「ジャコバン派がその幹部ダントン、ブリソ、セルジャン、ラントナ、デュカンセルに起草を委ね、実際にはブリソ一人で仕上げた国王廃位請願書」のことであろう(cf. Sagnac, 1920, p.318)。

これはシャン・ド・マルス事件が起った7月17日の2日前に脱稿し、前日ジャコバン派内で承認されたもので、「あらゆる立憲的手段によるルイ16世の交替」(id.)を求めているが、「処刑」の文言は無い。1791年、ヴァレンヌ事件直後のこの時期、フランス国内のいかなる党派も「国王処刑」のプログラムの萌芽さえ持たず、正に7月のこのシャン・ド・マルス事件後に明確となり、先鋭化して行く左右勢力の死活的対立において共和政創設を目指した左派急進グループの中で漸く一年後に芽生えて来る案でしかない。即ちそれは1792年8月3日、パリ・セクションの名で先ず『国王廃位請願書』が国民議会に提出された (§356, VIII-20) その前後のことである。

そしてブリソが書く任に当ったこの請願書にナルボンヌが関与する余地は、思想的にも、時間的にも、空間的にも皆無に等しかった。何故なら、史実に依れば、その事件日、即ち1791年7月17日とその前後、ナルボンヌはフランス国内には居なかったからである。

即ち彼は僧侶民事基本法の為もはやフランスで自由にカトリックの信仰礼拝が出来なくなる事を恐れた国王の二人のおば(ルイ15世の二人の娘マダム・アデレードとマダム・ヴィクトワール)が、ローマでなら自由に宗教の勤めが出来ると期待して、個人の享受する人権に従いイタリアに移住する旅行の実行責任者に任じられて諸々の困難、障害、妨害を持ち前のエネルギーと機略で克服してその責めを果し、1791年4月にはローマに入っていた(Dard, id., p.68-73)。

「ナルボンヌがフランスで進行中の重大な出来事を知ったのはローマに於いてである。1791年4月2日に起った友人ミラボーの死に彼は驚愕した。ヴァレンヌ事件 [1791.6.20-25] は君主制の弔鐘が鳴らされているように思えた。マダム・アデレードの側近としての役目の中に、母親が居り、そして妻も来たローマに、そうしようと思えば彼はフランス国外に留まり、出来事の帰趨を静かに待つ十分な理由を見出す事も出来た。マダム・アデレードと、それに加えるに母親の勧めがあったけれども、彼はもうこれ以上長く自分の連隊を放って置けないのだとはっきり言った。彼はローマで三色帽章を付けていた。7月初め、彼は母国への帰途に就いた未だ間に合うなら君主政を救うべく身を捧げる決心をしてブザンソンに行く前に彼はコッペに寄った。[スイスでスタール夫人と一緒に暫く過ごした後] 彼はジュネーヴを発ち、7月25日にはヌフブリサック駐屯の連隊に合流していた。9月1日に彼はパリに在って、そこでスタール夫人に再会した。」 (Dard, id., p.73-74) 

なるほど、7月17日前後は記録上空白であるが、「王政を救うべく決心して帰国途上にあったナルボンヌ」はこの時、記録された旅程から最も合理的に推測すれば、ジュネーヴの直ぐ北のレマン湖畔の町コッペ乃至ジュネーヴにスタール夫人と共に滞在していたであろう。これは彼の最終目的地で指揮下の連隊が駐屯するヌフブリサック(コルマール東方のライン川左岸の地)と旅の出発点ローマのパリ寄りの中間点であるが、ここから抜けて、或いは伝令でも使ってこの間、通信も交通も時間を要した時代に僅かの日時内にパリのブリソと幾度も往復を要するような連絡を取り、「王の処刑要請」という、彼の本来の不抜の信念に反する重大謀議を進めていたとは到底考えられないし、そもそもそいう「処刑要請」などブリソも知るまい。

もしナルボンヌが国王を見捨てるつもりだったなら、そもそも彼はこの旅には立たずローマで貴婦人と家族を護りつつ安穏に暮らす道を選択していただろう。

なお、竹本がもう一つ引用するデュメジルの「君主制活性化のためにナルボンヌの立てた案は、王妃の考えとぶつかり、シャトー(国王側)からの敵視と内閣閣僚からの怨恨を同時に招き、議会からは不信を買う始末だった...」という評価は、本質的に上記ナルボンヌ対モルヴィルの政治闘争の基本構図内のエピソードであって、仮にナルボンヌが「敵味方いずれから見ても、変節漢の謗りを免れなかった」という状況が見かけ上あったとしても、実はナルボンヌは基本の所では決して変節せず、王の認諾の下、閣僚として内閣に迎えられる時点から(実際はもっと初期から)、モルヴィルと共に罷免される時点まで、一貫して周囲にはガラス張りの中で、安定した立憲王政という大きな政策を追求し続けていたのだから、彼は決して「論理的にも実際の言動上も裏切者ではあり得ない存在」であった。

この竹本によるデュメジルの引用も竹本式に誇張された不正確なものである。それは本当はデュメジルの個人的な人生の師匠であった会話相手エポポンディ氏の発言であり、その発言内容は至って中立的、客観的なものであって、フランス語原文は次のようになっている:「『誰にとっての裏切者か、裏切者か否か、というような事は我々の決すべき問題ではない。』とエポポンディ氏は話を再開した。『しかし事実を言えば、彼等は、ナルボンヌもソースも、王党派と共和派の両方から等しく、裏切りの責めを負わされる結果になった。君主制活性化のためにナルボンヌの立てた案は、王妃の考えとぶつかり、シャトー(国王側)からの敵視、内閣閣僚からの怨恨、そして議会からの不信を同時に招いてしまった。』」(Dumézil, 1984, p.52)。

ナルボンヌの真なる忠臣振りは、大臣罷免後も、1792年8月10日革命直前、「日毎に孤独を感じる度が増し、遂に忠誠の有難さを理解し始めたルイ16世の秘密の命令で呼び戻されてパリに来」て(Dard, id., p.118)、国王救出の計画を練っている最中その革命勃発に遭遇し(Dard, id., p.120-125)、追われて英国に亡命中は国民公会に国王弁護と閣僚有責の論を送り、果てはフランス入国を得て議会で直接国王弁護の主張を行いたいとまで言って議会に拒否されたというような廉直と勇気に如実に表れている。そのような行動は本人の死を意味する筈と見切っていた嘗ての同僚にして政敵で同じ英国亡命中のモルヴィルは一緒に行動しようというナルボンヌの誘いを、「そのような計画を抱くに至ったナルボンヌ氏の立派な節操、騎士道的献身を称賛しつつも」固辞した(Dard, id., p.129-130)。   
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