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はじめに1 『預言集』刊行前の予言詩 VI-47 (§950)

VI-47 (第6サンチュリ第47詩, §950): フランス軍がスペイン低地諸国に侵攻し乱暴する(1554年夏)。

二つの山の間で二つの大軍が、
各自の憎しみを秘したままにしておくだろう。
ブルュッセルとドールがラングルによって打ち負かされるだろう。
メヘレンで己が乱暴の所行を遂げんがために。

この詩の解釈の発端は、ブルュッセル、ドール、メヘレン(原文はMalignes)という地名の読み込みにある。ブルュッセルとメヘレンはベルギーにある都市である。だが、現在はフランスに属するドールも、それ以前はベルギーに属していて、その期間は1678年のナイメーヘン条約まで、と限られており、当時のベルギーの支配者はスペインだった。そこに解釈の大きな手掛かりがある。ラングルはフランスを表す。従って、この詩の大意は、フランスがスペイン低地諸国に侵攻し勝利したという史実である。

次に、やや細かい点だが、四行目の原文で, leur peste (彼らのペスト = 己が乱暴の所行)という表現から、このフランスの侵攻は、先立つ苦い敗戦の仕返しとして行われた、ということが推論できる。「ペスト」という用語は、ノストラダムスの詩の中では、「疫病としてのペスト」の意味は極めてまれで、大抵は「そういう恐ろしい病気にも似た人為的暴虐、悪性の所行、戦禍」という意味で使われる。従って、今回フランス軍がスペインに加えたのが「彼らの [スペイン人に対する] 戦禍」と言われていることの裏には、以前に「スペイン軍の [フランス人に対する] 戦禍」があった、ということになる。

又、「ラングル」という地名は、他の詩で「ラングル公爵」という用例があり、歴史上存在しないこの称号は、ラングルというカトリック宗教都市を自己の社会的宗教的活動の拠点にしていた熱心なカトリック、フランソワ・ド・ギーズ公爵(1519-1563)を指すと解されるので、この場合もそう考えてみる。これは、ラングルという場所・都市がそこで活動するギーズ公という人物を表しているから、修辞術上、換喩法 (metonymy)  に則った表現ということが出来る。というのもそれは、下記のLittréの換喩法の説明の4° 物が作られる場所を以って当該物を表す、という手法とアナロジー的に同じと言えるからである。何故なら、「物が作られる場所」をこの場合は、「人が活動する場所」に置き換えることが許されるであろうからである。

16世紀中葉のフランス最高の将軍の戦歴は華やかである。シャルルカンが仕掛けたメッス攻囲戦(1552-1553初)では、見事な指揮で短期間に防備を構築して敵を冬将軍の中に蹴散らした戦功は彼の名声を確立した(cf. Lemonnier, 1904, p.152-154; Dareste, IV, p.92-96)。

世界皇帝の矜持を粉砕されたシャルルカンは直ちにその年 (1553) の夏、北フランスを大軍で蹂躙して鬱憤を晴らした。中でも、テルアンヌとエダンの二都市は完全な廃墟にされた (cf. Lemonnier, 1904, p.155-156; Dareste, IV, p.99)

それに対するフランス側からの報復がアンリ二世の執念の資金集めの結果、翌年 (1554) 6月~8月、成功裏に実現された(cf. Lemonnier, 1904, p.156)。この時、先ず、フランス軍はスペイン低地諸国のエノーを攻めた。しかしナミュールで敵に阻止されたので、西転してバンシュ、マリモン(Marimont)、カンブレジ、アルトワ(ランティ)へと破壊の限りを尽くしながら進軍した(cf. Martin, VIII, p.436-437)。

さて、一行目の「二つの山」とは実際の山岳ではなく、多分、バンシュの北と南に位置するマリモンMarimont or Mariemont: Morlanwelzに含まれる集落)(cf. Bescherelle)とジュモンJeumontという二つの都市だろう。モン (mont) はフランス語で「山」を意味する。このような「洒落」 (jeu de mots) はノストラダムスの得意技の一つである。既に、「ジュモン」 (Jeumont) という地名自体が、「洒落」 (jeu de mot) というニュアンスを暗示している ! 例えば、第6サンチュり第54詩 (§712, VI-54Maroq という語は、Maroc (モロッコ)という地名を直示しつつ、同時にフランス第三共和国大統領 (1873-1879) Maréchal Mac-Mahon(マクマオン元帥)を意味していると解釈できるし、また、第1サンチュり第89詩 (§509, I-89 velle という語は、vallée (谷)という本来の形態が押韻上変形を受けたものと解されると共に、1813年、その haulte velle (高い谷 = ピレネー山脈)をスペイン方面から突破してフランス南西部に侵攻し、ナポレオン体制転覆に寄与した英国の将軍Wellington を暗示していると考えられる、等々。

そして、「二つの大軍は各自の憎しみを秘したままにしておく」という事は、これら二軍は実際に相互の憎悪から交戦しているフランスとスペイン両軍ではあり得ない。この時フランス軍の主力は、ギーズ公率いる軍団と、ライヴァルであるコリニ提督
(1517-1572) 率いる軍団の二つであった。ランティ攻囲戦でフランス軍は大勝する。その最も著しい戦勲を二人の指揮官が決死の形相で言い争った(cf. Martin, VIII, p.437)。少し前のバンシュに於ける迄は、二人の青年時からの引き続いた固い友情はなお継続していたのに、である(cf. Bouillé, I, p. 313)。まさに、「各自の憎しみを秘したままにしておく」という事がそこバンシュでは有ったのである。そして、ランティにおいてまさにこの日(1554813日)に、ギーズ公 (生粋のカトリック) とコリニ提督 (ユグノーのリーダー) の友情は、一転して激しい憎悪に変じ、あたかも、間もなく開始されるフランス宗教戦争の狼煙のようである(cf. Bouillé, I, p.313-314)。

なお、「メヘレン」という地名は、直ちに「ランティ」を意味するのではなくて、提喩法 (synecdoque, synecdoche)** という比喩の一つに従った用法である。提喩法とは、「全体を部分で置き換えること。例: “トリノとフォサノ(部分)を以ってピエモンテ(全体)を表す(I-58)。あるいは、ハンガリー(部分)を以って、そのハンガリーを包含するオーストリア帝国(全体)を表す。」(Ionescu, 1976, p.143)。一般的には、提喩法は次のように規定される:「提喩法は、を以ってを表し、又は種を以って類を表す言語技法、ないしは全体を以って部分を表し、又は部分を以って全体を表す言語技法である。例:カンヴァス布(帆)で以って船を、波浪で以って海洋を、青銅で以って大砲を表す。 « 提喩法は換喩法の一種であるが、提喩法の特徴は、本義としてはより一般的な意味を持つ語 [カンヴァス布、波浪、青銅に対して、より特殊な意味 [船、海洋、大砲を付与する点にある。» (DUMARS. Trop. II, 4.)  « 換喩法の場合には、私は或る名辞を他の名辞の代わりとして置くが、他方、提喩法の場合には、私はより多くのもの (le plus) をより少ないもの (le moins) の代わりに、又はより少ないものをより多くのものの代わりに置くのである。» (ID. ib.)(Littré)

 

同様にして、「メヘレン」は、「ベルギーという空間的全体の一部分」として「ベルギー」という全体を表す提喩と捉えることが出来る。そして、「ランティ」もベルギーの一部分であるから、結果的に「ベルギー」を表すということになる。ノストラダムスの四行詩にはこの種の表現が頻出する。しかも、ノストラダムスは、この詩の「ドール」の場合のように、その国家的帰属が諸世紀間に転変する地名を好んで取り上げる傾向がある。従って我々は、特に地名に関しては、そういう歴史的変遷を十分考慮に入れた上で、単に個別的な地域に限定することなく、主としてその国家的帰属は何かという問題意識を持って、解釈に取り組まなければならないのである。このことは、ノストラダムスの預言四行詩作成の根本動機が、単なる狭い諸地域の片々たる出来事の予示ではなくて、「諸々の政権、諸々の党派、諸々の宗教が大いに反対のものに、しかも現在と比べて正反対のものに変化してしまうだろうLes regnes sectes & religions seront changes si opposites, voire au respect du present diametralement.(1, p.33) という世界史的・国際関係論的事象の先取的記述という点に存した事と深く関連している。

過去、この詩についてそれなりの解釈を提起した唯一の例といってよいデュフレンヌの説明 (M. Dufresne, Nostradamus, Sixième Centurie, 1996) は、詩の文法的意味可能性と提起された統一性のない諸々の史実が合致していない、という難点を持つ。例えば、彼はsimulte (simulté) という語を「tromperie欺瞞」と訳しているが、正しくは「haine, inimitié遺恨」である (Godefroy古仏辞典)

** 
なお、提喩法と対照される「換喩法 métonymie, metonymy」について上記古典辞書(Littré)は以下のように説明している:「修辞術の用語。或る語を、意味理解増進を要求する他の語の代わりに用いる言語技法。この一般的な意味では、換喩法はあらゆる転喩 (tropes) に共通するものだろう。けれどもそれは以下の用法に限定されているのである。

1° 原因を以って結果を表す。

2° 結果を以って原因を表す。

3° 容器を以って中身を表す。

4° 物が作られる場所を以って当該物を表す。

5° 記号を以って記号付けられた物を表す。

6° 抽象名辞を以って具体を表す。

7° 思念や感情の座とみなされる身体部位を以ってそれら思念や感情を表す。

8° 家の主人の名前を以ってその家を表す。

9° 前件を以って帰結を表す。」

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はじめに2 『預言集』刊行前の予言詩の位置づけ

『預言集』刊行前の予言詩、という性格付けは、何か矛盾的に聞こえるだろう。

要は、ノストラダムスは、何時、又は、何時頃、後に出版することになった予言四行詩を書いたのか、作成した、のか、という問題である。その場合、我々は明確に、予言可能性というものを信じている。そして、その歴史的実現を提示しようとした幾多の先達の、まさに悪戦苦闘としか云えないような、涙ぐましくも、また、実に貴重な営為の中には、宝石のごとき真実がキラキラと輝きながら含まれていることを確信している。その立場から見ると、彼の詩は、全て「予言」として作成されたという主張が当然提起されてよい。

ノストラダムス研究家の中には、フランスのハルブロンのように、その作品の全部が他の誰かによって事後に作成された「見せかけの予言」に過ぎないという最も極端な見解の人がいたり、かなりの数の詩は、明らかにノストラダムスが生前に見聞した経験を題材にした歴史的写生詩だろう、と考えたりする人々がいるし、又、作品は確かにノストラダムス著作ではあるが、内容は決して「予言では有り得ない」と固く信じる予言不可能論者もいる。

私はむしろ、『預言集』初版刊行の1555年5月より約一年前の1554年夏の出来事を扱っていると思われる VI-47 詩も、作者自身にとっては「予言」であった、と考える方が予言可能論者としての理論的整合性を持つと思う。つまり、それは、作者自身が「自らその実現の可否を検証する」という意味のもので、いわば、予言の見本であったに違いない、という算定である。ということは、その作成は、1554年夏よりもっと前であった、ということになるだろう。では、それは何時頃まで遡るのか。実は、そういう問題意識から、私が見出した「最も早い時期の予言詩」が、この第6サンチュリ47詩である。

これを裏付ける第一の根拠は、

1VI-47 詩が主題的に扱っている「1554年夏のヴァロワ・ハプスブルグ戦争」の前段階に位置付けられるその前年の1553年夏の大きな出来事と思われる「テルアンヌとエダンの壊滅に結果したヴァロワ・ハプスブルグ戦争」を主題的に扱った詩が見当たらないし (1557年ギーズ公のイタリアからの帰還とフランス北方方面への作戦計画を扱ったIX-88 (§24) Theroanne (テルアンヌ)という地名が出て来ているが、これは1553年以来敵方に占領されていると言う意味合いでわずかに言及されているに過ぎない)

2)第二に、更にその前提・布石・与件とも云うべき「1552年秋ー1553年初のあのメッス攻囲戦」を主題的に扱ったと思われる詩 (PrévostVI-61がそれだと主張しているが、これについては後でエントリーを立てて考察する) も見出せないという発見である。

とすれば、彼の予言四行詩作成作業は、正にこの時期(1552年秋-1553年初め)に於いて実施中であったように思われる。そして、1554年フランスのベルギー侵攻の前に作成し終わった、という考え方が成り立つであろう。即ち、その戦争を主題的に扱ったVI-47詩そのものも、作者自身に対する「成否を賭けた一個の予言詩」として作成されたと仮定するならば、当然その作成時期は、1554年夏よりも前であったであろう、ということである。

その事情を推測する一つの根拠として、ノストラダムスの『預言集』以外の分野の著述出版活動が1555年以降急に増幅されており、更に1555年には王妃カトリーヌ・ド・メディシスの懇請を受けた国王アンリ二世の召出しにより、プロヴァンスからパリへ、長途の旅もし、これには諸準備も含め半年は費やしたようだ。1557年刊行分を1555-1556年に作成し、1558年分を1557年に作成する余裕はなさそうだ。従って、少なくとも(遅くても)1554年初めまでに全部作詩済み、という線がかなり有力視されて来るのである。

そして、この仮説には、強力な援護者を我々は持っている。ノストラダムスの秘書をしていたことのある解釈者第一号とも言うべきジャン・エメ・ド・シャヴィニである。
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はじめに3 シャヴィニの証言

ノストラダムスの秘書をしていたことのある解釈者第一号とも言うべきジャン・エメ・ド・シャヴィニは、「ミシェル・ド・ノートルダム師の生涯に関する要論」の中で次のように述べている。

「彼は、そこ(エクサンプロヴァンス)から、小一日ばかり離れたサロンの町(アヴィニヨンとマルセーユの中間)に来て、二度目の結婚をした。そこで、顕著な変異動乱がヨーロッパ中に到来し、且つ、このフランス王国の血なまぐさい内戦と禍に満ちた混乱が運命的に近付いていることを予見したので、熱に浮かされ、全く新たな忘我の情に駆られた如く、彼の百詩集ども (ses Centuriesと、次のように始まるその他の予兆詩ども (autres présagesとを書き始めた。

 

D’ESPRIT divin l’ame presage atteinte

Troubles, famine, peste, guerre courir,

Eau, siccité, terre & mer de sang teinte:

Paix, tresve**, à naistre, Prelats, Princes mourir.

 

神霊に捕捉されて魂は預言する、

騒乱を、飢餓を、ペストを、戦争への賭けを,

水を、乾きを、血に染まっ陸と海を:

平和や休戦の誕生を、聖職者達や君主達の死没を。

 

それらのもの (Lesquelles) を彼は出版しようとせずに長らく保管しておいた。その題材の斬新さが、彼に対するこの上もなく悪意に満ちた無数の非難、中傷、攻撃を引き起こさずには済まされないことを計算済みだったからである (実際そういうことが起ったのだが)。終いに、人々の役に立ってもらいたいという自分の欲求には勝てずに、彼はそれらを公にした。するとたちまち、我が国及び外国の人々の口に、噂と評判が、大きな称賛と共に駆け巡った。」(Chavigny, J. A. de B., La Première Face du Janus Français, Les Héritiers de Pierre Roussin, Lyon, 1594, p.3)

[** 古語 tresve (現trêve、休戦)という語は、しばしば、trefve と書かれることがあるが、これは16世紀の活版印刷において、の字の別の形であるʃ (エス。本当はもっと字に近似している)と、他方に(エフ)とがあって、両字は殆ど区別がつかず、活字として供給の豊富なの活字を両方に共用していた事情から来ていて(Lemesurier, 1997, p.101参照)、後世の人は印刷された字形からを認めれば、そうだと思い込むに至った。しかしながら、フランス語正綴法の歴史(12世紀から15世紀)から見れば、この場合は、が正しい(cf. Chevignard, Présages de Nostradamus, 1999, p.113, p.115 et p.131; Guinard, Index des termes utilisés dans les premiers almanachs de Nostradamus et dans la préface à César [Corpus Nostradamus 37])。何故なら、このは発音されない子音であって、専ら、その前に置かれた字の発音様態を指示する役目を担っていたからである。字は多様な発音があって、この場合、字が規定する発音様態とは、[e] (e.g. dé /de/) 又は [ɛ] (e.g. belle /bɛl/) である(Beaulieux, 1927, I, p.149)。つまり、tresve の発音は、現 trêve と同じく、[trɛv]になる。当時のこの習慣から言えば、実際に紙に印刷されているのが字だといかに強がったところで、trefve という語形を真実と見做すのはナンセンスということになる。上記の詩の四行目のtresve の二字後に在るnaistre (現naître という単語にある字も同様の働きを持っている。このも、発音はしないで、ただその直前にある ai という二重母音を [ɛ] として発音させる役目を担っている。即ち、naistre の発音は現 naître と同じ [nɛtr] である。これは、に対するの役目が、以外の他の母音にまで拡張されるようになった結果である。確かに、naistre (生れる)の場合、そのは、初めは、その語源に当るラテン語 nascor (ナースコル、生れる)に内在する字を継承したものであったが、その後、フランス語発音法の観点からは、そのが発音されないため、に対する無音のと類同的と見做されるに至ったのである(Beaulieux, id., p.48 et p.149参照)。

他方、「新しい」という意味の形容詞男性形 neuf [nœf] の女性形neuve [nœv] が、中間にを挿入したneufve [nœv] という形で印刷されている場合があるが(e.g. quatrains I-24, I-87, II-89, III-70, III-97, VI-97, VIII-74, IX-12, IX-18, IX-57, IX-92, IX-100, X-49 et X-93)、この f は確かにである。これは男性形の末尾のを導入したもので、それは単に、「法律家の書記等が、書字した文書の行数の多寡で報酬を受ける中で、より高い報酬を得るための小細工」として発達した「番外文字 extra letters」の一例である(Lemesurier, 1997, p.100-101参照)。

 

ここで「彼が出版しようとせずに長らく保管しておいたそれらのもの(Lesquelles)」とは、フランス語原文から容易に判別できるように、「彼の百詩集ども(ses Centuries)」である。何故なら、「それらのもの」という関係代名詞は「女性複数形」(lesquelles)であり、その先行詞の候補のうち、「彼の百詩集ども (ses Centuries)」という名詞も同じく「女性複数形」であるのに対して、「その他の予兆詩ども (autres présages)」という名詞は「男性複数形」だからである。なお、仮に、「女性複数形名詞と男性複数形名詞」の両方を先行詞とする場合の関係代名詞は、フランス語文法の基礎の基礎ながら、当然「男性複数形」(lesquels)であるから、如上の例で、当然、男性複数形の名詞は先行詞にはなっていない。つまりシャヴィニのこの証言を素直に受け取れば、「諸々の預言の百詩集ども」を取り集めた『預言集(Les Prophéties)』の初版発行が15555月であったから、その原稿を保管していた「長らく (long temps)」という期間を、「少なくとも1年以上 [仮に、15ヶ月としよう。というのも、他方において、1550年度以降に出版が始まった彼の『アルマナック(占暦)』類はその年度毎更新という性格上、対象年度前年の年初から執筆に取り掛かり、秋までに完成され、印刷に回され、11月には市場に出る、というように、10ヵ月以上は保管されなかった、という事情があるからである(cf. Brind’Amour, 1993, p.31)。] と見れば、著者ノストラダムスは、15542月頃迄には、原稿を完成していたということになる。

 

シャヴィニのこの証言内容は、彼が残した上記伝記のラテン語バージョンに依っても確かめることが出来る:

 

... 霊感に捕われて、彼は、諸々の預言の百詩集ども (prædictionum Centurias) [Centuries des prédictions] を執筆し始めました。この事は最初は、私達が次のように [ラテン語四行詩に] 翻訳するようなフランス語 [フランス語四行詩] で行われました。 

 

Horrida vaticinor divino numine plenus

Bella, famem, turbas, fluidæ contagia pestis,

Diluvia atque æstus, terras, mare sanguine tincts,

Paces ac vitas, magnorum & fata virorum.

 

恐ろしき事どもを私は預言する、神霊に満たされて、

戦争を、飢餓を、動乱を、政情不安を、ペスト感染を、

洪水を、且つは炎暑を、血染めの陸と海を、

平和を、そして偉人達の生き様と宿命を。

 

それら (quasを、彼は長い間隠していました、彼の係累たちに対して諸々の憎悪や、更には多くの人々の嫉妬を彼が呼び集めることにならないか(それは実際に起った事なのですが)、と懼れて。」(Chavigny, id., p.9)

 

ここでは、「それら」という関係代名詞は女性複数形 quasであり、その先行詞は、女性複数形の名詞Centurias (百詩集ども Centuries)以外には無い。ここにはそもそも、フランス語バージョンにあった「その他の予兆詩ども」という語に相当するものが何も無い。そして、「次のように始まるその他の予兆詩ども」に一見、対応するのが、「この事は最初は、私達が次のように[ラテン語四行詩に]翻訳するようなフランス語[フランス語四行詩]で行われました。」という説明で、この説明は、勿論、「百詩集ども」に係っている。ここで注意すべきは、実例に上がっているラテン語四行詩は、いわゆるノストラダムスの「予兆詩集」の中の « 予兆詩第一番 » として通常位置付けられているもののフランス語原文(D’ESPRIT divinで始まる上記フランス語四行詩)のシャヴィニ自身によるラテン語訳ではあっても、それはあくまでも、「百詩集ども」(Centuries)にまとめられた「諸々の預言」(prædictiones = prédictions)のフランス語言語形式(quatrain = 四行詩)を間接的にラテン語四行詩で説明しているに過ぎない、ということである。「ノストラダムスの伝記」を序文的に持つシャヴィニの著作(Janus)の本文にはいくらでも「預言(四行詩)」の例が出て来るのに、何故にシャヴィニはこういう回りくどい説明方法を取ったのかは、推測の域を出ないが、恐らく、この « 予兆詩第一番 » が、ノストラダムスの独特な風趣の預言詩作品を髣髴とさせるのに最も都合がよいと思われたからではあるまいか。つまり、「預言集」の各四行詩は、劈頭の二詩とその他若干のものを除けば、具体的で特殊な個別の出来事を預言しようとしていると思われるので、表現自体も特殊的個別的であるのに対して、この予兆詩第一番は、非常に一般的な表現に留まっていて、一種の「総括的・総論的・序言的預言詩」の体裁を帯びているのである。それは、敢えて、「序言四行詩le quatrain-préface, the foreword quatrain)」と呼んでいいものである。

 

さて、事実、彼の二度目の結婚 (一度目の妻と二人の子供は1538年にペストで亡くなっていた) 154711月だったから、何時頃から書き始めたかは正確に言えないが、この間、百詩集執筆の時間は十分あったと言えるだろう。そして、全体が完成したのが、15542月頃とする想定は、我々が最も初期の歴史事実を主題にした予言詩として見出し得るVI-47 (§950) 詩が、まさにその直後の1554年夏のフランス・スペイン戦争を扱っている、という事実、並びにそれ以前の歴史を主題にした予言詩(但し、予言主題の「前提として非主題的に回想されたと思われるもっと過去の史実」への言及を除く)が見出せないという事実とピッタリ符合するのである。 

ところで、遡る1552年秋-1553年初のメッス攻囲戦は皇帝シャルルカンの大敗北=ギーズ公を最高指揮官にしたフランス防備軍の大成功に結果したという特筆大書し得る史実のはずで、この時期がノストラダムスの予言対象時期に含まれていれば、必ずそれに関する予言詩が存在しないはずのないものであろう。ところがそれは存在しないと我々の研究結果は示す。「否、それは存在する。」とフランスの古典学者、プレヴォ (Roger Prévost) は反論する。次回はプレヴォのその主張を検討してみたい。
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はじめに4 1552 - 1553年メッス攻囲戦の詩は存在しない(上)

プレヴォが主張する1552年メッス攻囲戦の詩というのは、VI-61 である。ところで、その前に、一体メッスというフランスの町の名前が問題なら、先ず第一に、その Metz という単語が使われている詩がノストラダムス『予言集』の中にあるかどうかをチェックするのが研究の定石であろう。実は、興味深いことに、たった一つしかそれは存在しない。勿論、当の地名が出てこなくてもその地に関する出来事は語られ得る。しかし明言された地名に注目するのが定石の初歩である。それは X-7 (§276) である。
 
大きな闘争がナンシーで起ころうとしている。
かのエマチヤンは言うだろう:「私はすべてを従わせる」と。
ブリテン島は活力と知恵を求めて苦慮するだろう。
二人の「フィ(Phi.)」の間で、長らく、メッスを保有する事はないだろう

ここで解読の鍵となるのは「エマチヤン æmathien (= Læmathien = l’Æmathien)」という普通の辞書にはない語である。しかしノストラダムスは他に4回もこの語(多少綴りは異なるが)を使っている:若きエマチヤン jeune Aemathien (X-58), エマチオン Haemathion (IX-93) (語頭の h はフランス語では発音しない), 偉大なるエマチヤン grand Aemathien (IX-38)、エマチオン Aemathion (IX-64) 。都合五回も使われているこの語は明らかに人物指示名のようであり、こうした同一的固有名詞はノストラダムスの場合、大抵は「同一人物」を指す。そしてこれもノストラダムス研究上の定石の一つだが、普通のフランス語辞書にはない語については、ギリシア語、又はラテン語に語源がないかどうかを探ることになる。そしてこの語については、非常にうまい具合に、エーマチオス(ήμάτιος) (ēmatios) というギリシア語形容詞に行き着く。これは「昼の、日の、光の」という意味である。それをフランス語で名詞化すれば「エーマチヤン Ēmatien 、エーマチオン Ēmation 」となっておかしくない。そして、ギリシア語やラテン語のフランス語化のプロセスの中で、長母音 Ē, ē と二重母音 æ (ae, Æ) とは等価となり、更に二重母音æ (ae, Æ) と他のヴァリアントに使われているœ (oe, Œ) は区別が無くなった (Cf. Scheler, Aug., Exposé des lois qui régissent la transformation française des mots latins, Maisonneuve & Cie, Paris,1876, p.111-113.) 。従って、Ēmatien  Ēmation は、Æmatien, Æmation と書ける。 ただし、ここまでなら、どうしてth に変わっているのかが説明できない。ところで、ギリシアの男性の名前として、普通に、「エーマティオーン」 « Ήμαθíων, Ēmathiōn » という名前が通用していた ( Pillon, Alexandre, Vocabulaire grec-français des noms propres historiques, mythologiques et géographiques pour servir de complément à tous les dictionnaires grecs-latins et grecs-français, Le Normant, Paris, 1858, p.50)。従ってノストラダムスは、語形成のプロセスの一つとして機能する同化 assimilation によって、Æmatien ( Aematien )Æmation ( Aemation )  Aemathien Aemathion に変化させて、より一層男性の名前らしく装わせたと考えられる。その場合、エマチヤンはフランス語の普通の語尾-ienを採用し、エマチオンはギリシア語語源により近い形を残している。そして、その意味は、「日の人、光の人」として読ませようとしたに違いない。ノストラダムスが予言しそうな歴史的人物として第一に候補に浮かぶのは、当然、太陽王と称されたルイ14世であろう (cf. Lavisse, 1911b, p.366-367)。実際、彼の予言力は、「ルイ14世は世に太陽王とも称されるだろう」といった厚みを備えた歴史透視力を備えている。そしてルイ14世は、その長い治世の未だ若い時期には宰相マザランに任せたが、中期以降は完全に親政を執り、自他ともに認める絶対専制王政を実現した(cf. Lavisse, id., p.319)。「私はすべてを従わせる」という予言詩の言葉は絶対専制君主ルイ14世に関して見事に的中していると言わざるを得ない。

 

ところで、懐疑論者レオニは、こういう説に与せず、これを「マケドニア人 Macedonian」と解したが、それはその元に「マケドニア」を意味する「エーマチアEmathia = Macedonia 」という語が想定されるからである(Leoni, 1982, p.392-393; p.414-415)。しかしよく辞書を調べると、彼の新説は成り立たないことが分る。何故なら、エーマチア Emathia に住む人はエマチヤンEmathien, エマチオンEmathionとは言わないのであって、男性はエマチエウスEmathieusないしエマチウス Emathius、女性はエマチスEmathisと言うのである (PillonSmith-Lockwood)。更にレオニにとって一層都合が悪いのは、ノストラダムスがわざわざIX-93詩に Haemathionという綴りを示しているという事実であって、この語頭のH字は,フランス語にはないがギリシア語では明確に存在するハ行音を表す(ヘマチオン)。実は、上記エーマチオス(ήμάτιος) (ēmatios)というギリシア語は詩に用いられる雅語であって、通常は、ヘーメレーシオスμερσιος (hēmerēsios) という語が同じ意味で用いられる (Liddell & Scott)。これはヘーメラμέρα (mera)「日光、昼、昼光、一日」を語源とする。他方、マケドニアを意味するエーマチアの場合は完全にH音が欠如しているので、「エマチヤンAemathien, エマチオンAemathion、ヘマチオンHaemathion」を総合的に捉えるならば、そこに「エマチアEmathia= マケドニア」を読み取る解釈は閉ざされることになる。

のみならず、「エマチヤン」系列の5詩に登場するNancy, Metz, Blaye, Rochelle, Agen, le Gaulois, Narbonne, Gaule, phossens (= Marseillais), passer montz Pyrennees, Bourges等の語句はすべて「フランス」に関連する事実は、問題の人物が「フランス人」であって「マケドニア人」ではない、という見方を強く支持するのである。

さてこれで詩の中心が定まったので、これを起点にして他の部分の解釈を進めることが可能になった。

一行目は、ナンシーでの大戦闘を述べるが、実は先代のルイ13世が1633年に当時ロレーヌ公国の首都だったナンシーを占領した。

他方、三行目は正にルイ14世の同時代の英国のクロムウエルの極端な清教徒的政権の内戦による物的、人的資源の枯渇を語る。

そして四行目がメッスに関連しているが、「二人のフィ (Phi.)」とは多分、Philippe という名の二人だろう。そしてこの詩は、ルイ14世とほぼ同時代の各国元首が出て来ることから、「フェリペ4世」 (フランス語で Philippe IV ) という名のスペイン王 (在位 1621-1665) (フェリペ二世の孫)が思い浮かぶ。そこでこの王の治世下のメッスとの関連を調べると、間接的な話になるが1648 年の皇帝フェルディナント三世とルイ14世も参加したウエストファリア条約 (フランスではミュンスター条約というで「フランスへのメッスの完全な帰属」という条項が認められる。つまり、それまでは、実に1552 年にアンリ二世の大元帥モンモランシーが占領し、1553 年にギーズ公がシャルルカンの奪回攻囲戦を完璧に斥けて以来、単にフランスが「実効支配」していただけだったのが、正式な領有を1648 年に皇帝フェルディナント三世が100 年近く経ってやっと認めたのである。

又、フェリペ二世 1559年にフランスとカトーカンブレジ条約を結び、1556年のヴォーセル休戦条約破棄以来3年継続して来た対フランス戦争を講和にまとめたが、その際フェリペ二世は、叔父にあたる皇帝フェルディナントに代わって「元来神聖ローマ帝国領のメッス、トゥール、ヴェルダン」の三司教領を回復する要求を担っていたのが、本気で交渉する熱意がなく、且つフランスは実効支配中のメッスの回復請求は帝国議会の議題にすべき事を徹底して主張したため、結果的にそのフランスのメッス支配権が事実上継続することになった。

従って、「二人のフィ (Phi.)」のもう一人はこのフェリペ二世 (Philippe II) ということになる。メッスに対するフランスの実効支配はシャルルカン時代の1552年に始まっているものの、詩の表現は「二人のフィ (Phi.) の間で長期間」とあるから、予言者の目には、シャルルカンではなく、1556年に事実上その後を継いだフェルディナント及びそれ以降の歴代皇帝(マクシミリアン二世、ルドルフ二世、マティアス、フェルディナント二世、フェルディナント三世)が映じている。従って、「メッスを保有する事はないだろう」という句の文法上隠れた主語は「神聖ローマ帝国、又は皇帝」と読める。そしてそこでは、1556年に皇帝退位したシャルルカンの存在は捨象されている。

メッスを主題にしたこの詩の中でもノストラダムスは 「シャルルカンによる1552-1553年のメッス攻囲戦」の史実を捨象している以上、他の詩でこれに触れているとは到底考えられないのだが、しかしプレヴォはVI-61詩がそれだと主張している。(以下次回)
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はじめに5 1552年秋-1553年初のメッス攻囲戦の詩は存在しない (下)

メッスを主題にした詩の中でもノストラダムスは 「シャルルカンによる1552年秋-1553年初のメッス攻囲戦」の史実を捨象している以上、他の詩でこれに触れているとは到底考えられないのだが、しかしプレヴォはVI-61詩がそれだと主張している。

VI-61 (§197)
撓んだ大きなタピスリはやっと只の半分しか
その歴史の大略について呈示しないだろう。
政権から追われたものは離れた地から熾烈な欲求を持って出現するだろう。
かくして誰もが信じるようになるだろう:彼は戦争で事態に対処する気なのだと。


この中で、「撓んだ大きなタピスリ」とは、ギーズ公が「攻囲を解いた後のシャルルカンのキャンプを捜索した際」に発見し押収した「皇帝のテントに飾られていた六枚の巨大な羊毛、絹、金のタピスリ」で、「フランス王国の創始者、クローヴィス王の生涯の主要なエピソードを描き出していた。」 (Cloulas, 1985, p.332)

では、「やっと只の半分しかその歴史の大略について呈示しない」とはどういうことか。

「皇帝が放棄したテントの中のタピスリは、それらの大きさから見て、半分しか拡げられていなかった 」のだとプレヴォは答える。(Prévost,Roger, Nostradamus le mythe et la réalité,1999, p.57) 

しかし、この答えは史実に裏付けられたものではなく、プレヴォ自身の推測にしか過ぎない。何故なら、プレヴォが参照した史料は上記Cloulas  Henri IIの記事だけで、ここには絵柄の半分しか開陳されない状況で飾られていたというような説明はない。プレヴォは「それらの大きさから見て」とわざわざ断っているのは、それが自分の判断であることを自白している。この認識が欠けていたために、従来の解釈者はこの詩の解釈に失敗したのだと彼は誇らしげに言うが、彼の誇る「認識」には、史実以外の要素が混じっている。それは、詩の表現に合うように史実を捏造したに過ぎない。

それが彼の想像であることは、彼が次のような質問に答えられないだろうことからも示すことが可能だ。

それらのタピスリ6枚のうち、2枚だけが現在ランス大聖堂の付属博物館に保存されている。それは、ギーズ公が実弟であるランス大司教のロレーヌ枢機卿に贈与した結果である。それを研究した美術専門家によれば、各一枚のサイズは, 幅8m50cm、縦4m75cmである (Loriquet, 1882, p.48)。これは大きいと言えば大きいが、しかし主は皇帝や君主たちである。彼らは平凡な常人の考えでは必ずしも律し切れない。小さいベッドに合わせて足を切るような真似はしないだろう。陣地の天幕などは設計自由で、幾らでも大きく設置可能だ。それでもプレヴォ氏が半分しか拡げられなかったのは事実だ、というなら、その二分の一展示とは、具体的には、
1.
3枚だけ全展開。
2.
6枚の夫々が六分の一展開。
3.
5枚の各々が五分の三展開。
4.
4枚の各々が四分の三展開。
のうちのどれだったか、或いはもっと違う方法だったのか、教えてほしい。
実証的報告者なら、「半分」と言う時、巨大な6枚のタピスリであるからには、もっと具体的な態様を述べるのではないか。

我々は、ノストラダムスが作詩執筆中の出来事といってもよい対象について予言するとはつゆ考えない。では、この詩は何時の事を扱っているのか。タピスリという語が出てくるのは極めて異例で、この詩一回しか用例が無い。それだけに、プレヴォが提示した解決以外に何か候補があるのかと、気がかりにもなるが、しかしフランス16世紀の歴史に、これ以上に広く広く人口に膾炙したタピスリにまつわるエピソードがある。それは、ヴァロワ朝が終わって、ブルボン朝の始祖アンリ四世が登場した時期に世に流布した政治パンフレット『メニッポス流の風刺劇』 Satyre Ménippée にフィクションとして描かれた12枚の巨大なタピスリである。(イオネスクの解釈について言うと、彼はタピスリを全く不誠実に「ロシア10月革命の諸裏面coulisses」としている。これでは、タピスリという具体的用語が全然活かされないし、表を飾るという役割とは逆の意味を強制するので、彼の強引過ぎるという悪い面が出た解釈例と言える。Cf. Ionescu, V., 1976, p.462

メニッポスというのは風刺を利かせた論説が得意の古代ギリシアの哲学者で、その流儀で現下のフランスの政治勢力の一方(いわゆるリーグ派)を他方(アンリ四世)に就く作者たちが辛辣に批判した冊子で、1594 年頃に出た。

この冊子の冒頭部分に、これから開催される1593年パリ三部会(リーグの首魁マイエンヌ公爵が2月10日に招集したもので、ユグノーの王アンリ四世を認めない彼らが、カトリックの王を新たに選出する目的を持つ)の会議場を飾るタピスリとして出て来る。そしてその12枚には最近の主要な出来事が描かれている。

旧約聖書出エジプトの有名な場面を借りた光景:モーゼが故アンリ三世、アーロンが故ブルボン枢機卿、黄金の牛が故ギーズ公爵の姿を取り人々から高く置かれ崇められている(これは、アンリ三世が15885月バリケードの戦いのあとパリから逃れてのち、リーグ派優位の情勢の中での交渉の末、158884日付特認状で、リーグ首領ギーズ公に国王総代官位=統帥権を付与し、アンリ四世の叔父でカトリックのブルボン枢機卿を正当王位継承予定者に資格付けた事実に基づく絵柄であろう)。

アンリ三世を首都から追放したパリ・バリケードの戦いの図(15885)

旧約に基づき、ダヴィデ王の息子で、世にこれほどの美男子はないと言われたアブサロムが王の後継者に決まったのを笠に着て父王をバリケードで囲み、更にイエルサレムから追放した図(ギーズ公も飛び切りの美男で有名。アブサロムは最後にダヴィデの軍隊に殺されるので、アンリ三世の命で15881223日粛清されたギーズ公の運命と重なる)。

アンリ三世が修道士ジャック・クレマンに暗殺される図(158981日)。

サンリスの戦闘(リーグ軍の勝)(1589517日)。

アルクの奇跡(王軍の勝)(1589926日)。

イヴリの戦闘(王軍の勝)(1590314日)。

「パリの楽園」風景の中に、アンリ三世の命で殺害されたギーズ公と弟の枢機卿、それにアンリ三世を殺害したジャック・クレマンが見える。

この頃の、熱心なカトリックのリーグメンバーの増加の様子。

10°
アンリ四世によるパリ攻囲中、リーグの幹部オマール公の出撃作戦の図(15905月)。

11°
過激な独断行動に走ったリーグ派四名をマイエンヌ公の命で絞首刑の図(1591124日)。

12°
最高司令官マイエンヌ公が「ガリアのヘラクレス」(フランスの元首を暗示)の装いをした図。 (Pithou, 1848, p.20-33)
  
この流れの中で、「政権から追われたもの」とは「アンリ三世」に外なるまい。正にこの人物こそ、詩句が狙う焦点である。そうすると、3-4行目は、ユグノーのナヴァール王(後のアンリ四世)とさえも同盟を結んで、リーグから首都を奪還しようという彼の激しい怒りと一体の熱望を述べている。その余りの激しさは、周囲の誰の目にも明らかな程であるというのが詩句の素直な読み方であろう。

実はこの点に又、プレヴォの解釈の綻びが浮き出る。というのも、彼はこれをシャルルカンのこととして説明するために、心身ともに意気阻喪していると自身も見ているシャルルカンの実情と詩句の激しい表現とがかけ離れているのを、「これはノストラダムスが皮肉で語っているのだ」という苦しい言い訳をせざるをえなくされているからである。

では1-2行目はどうか。解読の鍵は二つある。一つは「撓んだ」(plié) という語の二義性であり、もう一つは「やっと只の半分しか」という表現の物理的でない読み方の採用である。

第一に、plié (プリーツが付いた、襞のあるの意味に近い)の意味は大きく、「折り畳まれた」と「たわんだ」の二義ある。プレヴォは前者しか言わないが、フランス語辞書には後者もシッカリ載っている。そして、大きな、上等な作りの柔軟なタピスリなら、拡げ切った場合、まっ平らよりも、むしろ幾らか、上品な「たわみ」を持つ。そして Satyre Ménippée が描写するタピスリも「リッチな素材を使って」織られたものと言われている。ノストラダムス解釈に際し必要なのは、彼の各用語を、相当な辞書が定義する全ての意味の範囲で考察するという態度である。

第二に、従って『サチール・メニッペ』は12枚のタピスリの絵が、大幅に見えないように隠されているとは述べていない。むしろ見える全てが描かれている全てだとしている。故に、「歴史の大要の半分しか」呈示されていないのは、「あとの半分は絵の中に描かれていない」ということである。それは、ノストラダムスの観点から、「極めて重視すべき一事」が絵には欠けている、という託宣である。そしてそれは、本詩の焦点たるアンリ三世に関わる大事である。そういう観点から、12枚の絵に欠けたものとして思い浮かぶのは、本詩の後半が正に暗示している当のものだ。先に我々は「3-4行目は、ユグノーのナヴァール王(後のアンリ四世)とさえも同盟を結んで、リーグから首都を奪還しようというアンリ三世の激しい怒りと一体の熱望を述べている。」と言ったが、ここにその答えがある。アンリ三世とナヴァール王の同盟締結(1589430)である。実は、この同盟関係を扱った詩が他に11編もある。それ程ノストラダムスはそのことを重視していたのだろう。故にその一事だけで「歴史の大要の半ば」と言ったのだろう。

本来、この件を絵の中に挿入するとすれば、の間に位置するだろう。それを抜かしたのは、『サチール・メニッペ』がアンリ三世を専ら「敵、仇」としか見ようとしないためである。ただ、ではリーグと一緒、では反リーグ、という違いしか見ていない。

ところが、史実を冷静に見れば、アンリ三世はナヴァール王と同盟することで、彼を正統な王位継承予定者として指名し、そのことでフランス王位継承の大原則である男子世襲(サリカ法)を守り、且つ同時に、ナヴァール王の宗教については、懇切に、カトリックへの改宗を慫慂し、軍事的協力体制も築いた。そのすぐ後にアンリ三世は凶刃に斃れるが、やがて新しき王アンリ四世はこの同盟の果実を実らせ、収穫し、カトリックへの改宗も慎重に時間をかけて実施して、現実に二つの国家への分裂もありかと危ぶまれたフランスの、一体性のある国家像の原型を作り出す。

これに関連して付言すれば、アンリ三世について「稚児好きの軟弱な王」と偽りの評判を立てたのも、「1586-1589年のリーグ派の者たち」であり、実態は「アンリ三世はおしゃれ好きではあっても、本物の戦士であり、ポーランド王に選出されたのも、大戦士との評判が大きく、彼の取り巻きは互いに盟約した勇敢な兵士ばかりであり、アンリ三世の死後もアンリ四世に多大の貢献をした」のである(cf. Champion, Pierre, La Jeunesse de Henri III, tome II, p.310-311)
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はじめに6 ノストラダムス『預言集』「序文」の記述から見えるその作成時期について。

以上の議論から明らかになったように、1552-1553冬季のハプスブルグ - ヴァロワ戦争を主題的に扱った予言詩が見当たらないということは、ノストラダムスがまさにこの冬季期間を包含する一時期に予言四行詩を作成中であった、という推測を有力なものとして可能にする重要知見の一つである。これは、「はじめに3 シャヴィニの証言」での議論とうまく噛み合う。そして、他にもう一つ、それに関する重要な証言がある。それは、『預言集』初版(1555年5月刊)冒頭のノストラダムス自身による「序文」(1555年3月1日付)の中の記述である。

この序文は、当時一歳を少し過ぎたばかりの自分の長男セザール(1553年12月18日生れで、ノストラダムス50歳の時の子)に捧げられた体裁で叙述されている。『我が息子よ、君の遅まきの誕生は、私が絶えず夜なべ仕事をするのにたっぷりの時間を与えてくれた。それで私は、神的本体が天体の回転によって私にもたらしてくれた認識の対象を、書き物の形で定着させ、君の父親の肉体的消滅の後も記念として君に残し置き、同時に人類の共通の利益のためにも残すことが出来るのだ。』(Préface de M. Michel Nostradamus à ses Propheties dédiées à César) (№1, p.31)

 

ノストラダムスのこの言葉を最も素直に受け取れば、彼は息子セザールの誕生より前に『預言集』を完成させることが出来た、と読み取れるのではないだろうか。何故なら、その彼の言葉の趣旨は、「長男が誕生するより前に自分に恵まれた日々の徹夜にも近い夜の豊富な時間を得て、静謐と安心を必要とする預言詩作成作業に専念することが出来た。その結果、今こうして出版まで漕ぎ着けた『預言集』なる作品の元原稿を私は手書きで仕上げたのだ。それは君に捧げるのが私の本望で、既に齢50の私の現世の形見として君に贈りたいのだ。それは、大御神様から下された霊感の賜物として成ったもので、いずれ人類一般の知恵の宝ともなるはずのものなのだよ。」という事であるからである。勿論、長男が誕生すればそういう時間が持てないのか、と言えば、一概にそうとも言い切れないのだが、この文は、父親としてのノストラダムスが長男の誕生以前と以後に実際に体験した事実を基に述べたものと見れば、納得が行くのである。従って、彼の『預言集』は、セザ-ル誕生の1553年12月18日より前に出来上がっていた、という我々の見立てをここに打ち立てる事が可能になる。

なお、上記文章の「書き物の形で定着させ」の原文は、reserer par escript であるが、この reserer という動詞については、従来二通りの解釈が行われてきた。それは、代表的な16世紀フランス語辞典 (Huguet) の対応する語「resserrer」の解説にも、基本的に異なる、というよりむしろ相反する二通りの意味が見られることから来ている。

Resserrer 1. Refermer(再び閉じる)、Enfermer(閉じ込める)。— Resserrer 2. Ouvrir(開く)。」

の意味の場合:わが息子セザール・ノートルダム、おまえがおそまきながら誕生したので、神そのものが星辰の運行で私に知らせて下さった事どもを、人類共有の利益となるように文章で書き記し、おまえの父の肉体的消滅後の思い出としてその記録をおまえに遺しておくために、私は、不眠不休で夜を徹して永い間働き続けた。Asakura Masanori,ノストラダムス予言集 息子セザールへの序文」: http://www.ne.jp/asahi/mm/asakura/nostra/proph_text/Preface.htm , 201758日閲覧)。その他の訳例:「文書として書き下ろす」schriftlich niederlegen(Centurio, 1953, p.27);「書き物として記載する」(mettre par écrit) (Dufresne, 1997, p.13);「書き物として保存する」to preserve in writing(Lemesurier, 1997, p.182)、等

の意味の場合:わが息子セザール・ド・ノートルダムよ、おまえの遅い到来は、私をして夜通しでの作業に専念せしめた。それは、神が星辰の転回を通じて私に知らせてくれた人類共通の利益となるものを、書き物によって明らかにすることをもって、お前の父祖の肉体的消滅の後の土産とすべく行ったものである。Yamatsu Sumaru, 「ノストラダムス予言集第一序文「セザールへの手紙」・全訳注:http://www.geocities.jp/nostradamuszakkicho/sonota/preface.htm , 201758日閲覧)。その他の訳例:「開く」(ouvrir)(Le Pelletier, II, p.462;「書き物で開示する」(revealing in writing)(Leoni, 1982, p.121;「書き物で開示する」(révéler par écrit)(Brind’Amour, 1996, p.2;「書き物によって開示する」(rendre accessible, révéler (transmettre) par l'écriture)(Guinard, CN33、等。

辞書的な判断から言えば、どちらの解釈も十分正当に可能であるのだが、文脈と状況に照らし合わせれば、の解釈がより適切と思われる。何故なら、

 

第一に、ここでの「書き記す」という行為の対象は、「神的霊感を得てノストラダムス独りが認識し得た未来事象」であり、その神秘的な認識内容(これは精神内の非物質的知覚である)を、「言語的に物質的な形で定着させる」という課題が、今は達成されなければならないからである。従って、それは、「文書の中に当該内容を確保する、閉じ込める」という描写が当てはまる。

第二に、それは、父親の死後にもその
mémoire (memory, 記念、思い出、土産)として残るような物、従って極めて有体的な実物性を持った物であるから、最終的には「書物として今や出版される手筈になっている『預言集』自体」がそれに該当するとしても、今ここで直接話題になっているのは、それに至る以前の預言的著作家の夜の仕事部屋での活動の産物、即ち手書きの原稿、乃至それを彫琢し終えた手書きの完成稿を指すと見るのが妥当であろう。その状態を観察すれば、彼の認識内容が「そこに開示されている」と見るよりも、「まさにその中に留め置かれている」という形容が相応しいのではあるまいか。

第三に、しかも、先にシャヴィニの証言で見たように、「出版して世間に公開する、開示する決断をするまで、著者は、『百詩篇集』の原稿を長らく保守・管理していた」のであり、それは「閉じ込める」という一状態であると共に、その状態は、「文書に認める事が、文字を介して物事を開示するという機能を持つ」としても、その文書が今、「再び閉ざされている」という状態になってもいる、と言い得るからである。

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はじめに7 ノストラダムス『預言集』1555年版、1557年版、1558年版の各予言四行詩の作成時期の一体性について。

ノストラダムス『預言集』の第1,第2,第3サンチュリの各100詩篇、及び第4サンチュリの第53詩までを掲載する初版は1555年刊行で、他方、第一から第7サンチュリ(100篇に満たない)を含む第二版は1557年刊行であり、第8,9,10サンチュリを含む独立本は1558年に出た。従来、ほとんど全ての研究者は、ノストラダムスが刊行毎に、その前に新規分の詩を作成した、と無批判に想定して来た。しかし、これは、締め切りに追われる多忙な現代の著述家の習性を近代初期の偉大な天才的著作家にも漫然と当てはめたに過ぎない予断であって、逆に初版の発行前に全てが出来上がっていた(シャヴィニの証言はそう想わせる)、という考え方が何故出来ないのか。私は、これまでの論述でその可能性を提示して来たが、この路線を支持する別の一状況を以下に述べてみたい。最初に一つの表(版別・年代別予言詩史実該当数統計)を掲示しよう。


 

合計
958

1555年版『預言集』 (353篇)

1557年版『預言集』(1555年版所収分を除く。所謂第11,12サンチュリ分を含める。)(305篇)

1558年版
『預言集』
300篇)

16世紀の歴史事象を扱った詩篇数

233

81

93

59

16世紀の内、出版年より前(出版年を含む)の歴史事象のみを扱った詩篇数(従って、出版年より後の年代まで予言が及ぶ詩篇は除く)

(16)

無し。

参考:最初期の対象年次を持つ詩篇は、

I-18
[1552-1556].
II-31
[1556].
[]
内は対象年次。

問題となり得る境界線上の詩:(11) []内は対象年次。
VII-16
[1553-1556].
V-46
 
[1555-1556].
IV-67
 
[1556].
IV-90
 
[1555-1557].
VI-68
 
[1556-1557].
VII-4
 
[1556-1557].
VII-31
 
[1556-1557].
IV-98
 
[1557].
VII-28
 
[1557].
VII-29
 
[1557].
VII-39
[1557].

問題となり得る境界線上の詩:
(5
)
[]
内は対象年次。
X-95
[1557].
IX-88
[1557-1558].
IX-22
[1558].
IX-29
[1558].
IX-40
[1558].

これらは、写生詩や事後詩というより、歴史事象前作成の予言詩と見ることが出来る。出版が遅れた事によるズレの現象に過ぎないだろう。

17世紀の歴史事象を扱った詩篇数

79

28

18

33

18世紀の歴史事象を扱った詩篇数

131

53

28

50

19世紀の歴史事象を扱った詩篇数

287

97

98

92

20世紀の歴史事象を扱った詩篇数

219

89

67

63

世紀外抽象詩篇等

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958詩篇 Cf. Introduction, §1. La totalité des Prophéties de Nostradamus; 958 quatrains.



以上の統計数を見ると、三版とも、出版年以降の予言詩が圧倒的に多い。従って、基本的に、ノストラダムスの『預言集』は、著者自身が言うように、「予言の書」という性格が認められる。しかも、第二版で「問題的」との可能性を持つ11篇(VII-16, V-46, IV-67, IV-90, VI-68, VII-4, VII-31, IV-98, VII-28, VII-29 及びVII-39)は、「預言詩解釈一覧表」に記載の通り、その予言対象期間最遠が1556年又は1557年であるから、1555年の初版に収載していたならば、「予言詩の資格を十分に持ち得た詩篇」である。同様にして、第三版の「問題的な」5篇(X-95, IX-88, IX-22, IX-29 及びIX-40)も、その予言対象期間最遠が1557年又は1558年であるから、1555年の初版に収載していたならば、「予言詩の資格を十分に持ち得た詩篇」である。結局、『預言集』全958詩篇のうち、世紀外抽象詩等9篇を除いて、16世紀から20世紀の未来事象を対象にした949篇の四行詩は、初版刊行時には全て「予言詩」として通用し得るものであった。この事は、著者が、初版発行時以前に、しかも、それより一年以上も前に、『預言集』詩篇の全体を作成済みであった、との我々の見立てと合致する。

1558
年刊行の『預言集』第三版「アンリ二世宛て献辞」(1558627日脱稿)の中でノストラダムスは次のように述べている:「おお、極めて人文主義の教養が豊かでいらっしゃいます大君よ、[そのようなあなた様でも]予言四行詩の大部分は極めて厄介なものでございまして、そこに道筋をつけることが出来ない程でしょうし、ましてやどれか詩篇を幾つかでも解釈することもままならないほどでありましょう。しかしながら、私は書き物によって残し置くことを希望しました、そこで大部分の出来事が起ることになるでありましょう年々を、町々を、都市々々を、地域々々を。実に、1557年3月14日たる今現在から始まって、1585年、1606年、そしてはるか先にまで至るような年度をさえも残し置きたくて。」(№10, p.155

 

ここで、「1557年3月14日たる今現在」という時期は、「ノストラダムスが四行詩で予言しようとした未来事象の生起年度の一つ、しかもその開始年」として出て来ている。そして、その第三版は翌1558年に出版されたのだが、そこには、1557年を含むそれ以降の年々の出来事を扱った予言詩が含まれている、という著者自身のこれは断り書きという事になる。そこで、実際に、我々の解釈し得た状況からみると、X-95(§26)詩が正に「15578月のサンカンタン戦でのスペイン勝利・フランス敗北」を扱っており、更にIX-88(§24)詩が「フランス軍勇将ギーズ公がサンカンタン敗北を聞いて遠征地のイタリアから急遽西北フランス方面へ援軍を率いて移動」という1557年秋から1558年初めにかけての関連事項を扱っている。そして第三版には、これらより前の出来事を扱った詩篇はなく、他は全て1558年を含むそれ以降の年度の予言詩であるから、これは著者自身が闡明している事情と完全に合致している。このことは、ノストラダムスが非常に注意深く、各予言詩の対象年次を把握していて、第三版には1556年や1555年の年度で終わるような詩篇を入れなかった、という高度な配慮を思わせる。そして、実際彼自身もこう述べている:「もし私が各予言詩に対して時間の計数を付与しようと欲すれば、それは為し得るでしょう。」(№10, p.166

 

しかし、そもそも1558年の第三版の現容は、当初の予定にはなかったもので、ノストラダムスが1555年に国王アンリ二世の招きで宮廷を訪問した結果、その類稀なる尊顔拝謁の恐懼と感謝に基づく臣下の恭礼の印として、「千篇を成就することになる私の預言集の残りのこれら三つの百詩篇集を陛下に献上する」№10, p.154ことになったのである。このことについて彼は長い間、どうしたものかと思案したというが、それは、『預言集』初版を刊行して、同第二版の準備も完了間近かと思われる1555年後半という時期に於ける問題であろうから、本来なら第三版は、第二版の掲載最後尾の第七サンチュリ第42詩(この数は当時の用紙印刷技術上の制約から決まる)に続く同第43詩から最終の第十サンチュリ第100詩を収載すべきものだったろう。ところがこれだと、時の最高権力者たる国王への献上本が、「著者の長男に宛てた献上本の単なる続編」となってしまう恐れがあったろう。そのため、著者は相当思い切った決断をして、陛下への献上本は形容整うように「第八サンチュリ第1詩から始まり第十サンチュリ第100詩で完結する」現在の形の編集にし、と同時に詩篇数の僅少感を補填する必要上からも相当長文の国王への献辞を書き足して出版した。そして同時に他方においては、第七サンチュリ第43詩から同第100詩までの計58篇は苦渋の決断の中で刊行を放棄したのであろう。しかし、そういう中にあっても、預言者たる著者ノストラダムスは、各予言詩の持つ対象年次性について細心の注意を払い、第二版と第三版に夫々掲載すべき四行詩を配分選定したと思われる。その場合、二つの版の収容詩篇数は既定であるが、どの詩篇を選び入れるかの自由度はあり得た。

実際、もし、第三版の「問題的な」5篇(X-95, IX-88, IX-22, IX-29 及びIX-40)を第二版に入れて、逆にその代わりに第二版で「問題的」との可能性を持つ11篇(VII-16, V-46, IV-67, IV-90, VI-68, VII-4, VII-31, IV-98, VII-28, VII-29 及びVII-39)の中から5編を取って第三版に入れる可能性もあった筈だが、それだと、第二版は「問題的詩篇」は上記X-95詩のみになるのに対して、第三版の方は、予言最終年次が1556年のVII-16, V-46, IV-673篇及び同1557年のVI-68, VII-4, VII-31のいずれか2篇の計5篇が選ばれたなら、1558年という刊行年と全然交錯しない過去年対象詩篇が目立つことになって、預言書としての面目にとっては決してプラスのことではあり得なかったであろう。

このように見てくると、ノストラダムスは『預言集』初版を刊行するに至る準備段階の編集時に、既に「全四行詩1000篇を机上に確保していた」と見ることが出来る。勿論、以上のような統計的特徴は、著者は各版刊行直前時に新規分を詩作し終えた、という漫然たる前提とも矛盾しない。けれども、初版序文(1555年3月1日付け)の中の、彼の次のような言葉は、既に『預言集』全1000篇の完成を前提することなしには、発し難いものであったであろう:「私は、各巻が100篇の予言天文詩を包含する複数の預言書を書き上げた [従って、第四サンチュリも第七サンチュリも既に夫々100詩篇を持っていただろう]。これらの予言を私は若干晦渋化しつつ推敲して仕上げた。そしてこれらの予言は今(1555年3月1日)から3797年に至る迄の [即ち全予言の最終に位置する予言に至る迄の] 中断無き占断である。」
№1,p.39;...もっと平易な形で、私は、全体が散文で詳しく書かれた別の預言書を私の個人的使用分として作成した。それには、所、時、所定の用語が規定されている。後世の人々は、私が私専用の別の預言書でより分かり易く語りつつ書き留めたまさにその如くに、諸々の出来事が間違いなく起ったと認知して、これらの所、時、所定の用語を理解するでしょう。」(№1,p.44)。
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