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§1 仏陀再誕と仏陀出現

大川隆法主宰「幸福の科学」の仏教論的意義

§1.仏陀再誕と仏陀出現

 大川隆法主宰「幸福の科学」(平成3年宗教法人認可)の教義の中核は、仏教の継承・再興と新展開、に存している。このことは、大川隆法「幸福の科学」主宰(現総裁)自身が、ブッダ・ゴータマ・シッダルタ、即ち古代インドでそもそも仏教を創始した釈尊その人の、現代における生まれ変わりである、との宣言と直結している(大川隆法:『釈迦の本心』『仏陀再誕』(以上、角川文庫)、『永遠の仏陀』『真説・八正道』『悟りの 挑戦 上・下』『沈黙の仏陀』(以上、幸福の科学出版)等、参照。)。

そこで我々は真摯なる哲学道徳宗教思想研究者として、この宣言を重く受け止め、出来るだけ包括的にこの事態の真理の追求に取り組もうと決意した。何故なら、従来、人類の精神的教師の一人として世界史的に尊崇されてきたという実績のある仏教の開祖釈尊の魂が、我々と同時代に、しかもこの日本に、現に転生しており、既に法を説いているということの真偽問題は、切実な人類史上の意義如何という大問題としては言うに及ばず、単に学問的観点からだけでも限り無く巨大であろうからである。

 ところで、仏陀再誕問題は、仏教論的には、二通りの見方から検討され得る。というのは、そもそも、仏陀再誕に関して、小乗仏教(今この呼称は単に原始仏教と部派仏教の総称として用いる)はその可能性を原理的に否定していると共に仏陀出現の一般的可能性を認めていると考えられるし、他方大乗仏教は、原理的に仏陀再誕の可能性を認めていると考えられるからである。つまり小乗仏教では、究極の悟り(涅槃)を得るということは、転生輪廻の流れからの離脱としての解脱と考えられており、むしろもはやこの世に再生再誕はしないということが、仏陀(覚者)の必須条件とされていると解されるのである(M.エリアーデ、P.クリアーノ『エリアーデ世界宗教事典』奥山倫明訳、せりか書房、1994年、P.279参照)。

とは言え、そこでも<過去七仏>の思想というものがあり、仏陀という覚醒的人格は、釈尊の前にも既に六人いて、釈尊はその七人目にあたるとされており、誰でも悟りの結果として仏陀と成り得るのであるから、常に、仏陀出現の可能性が語られ得るのである。他方大乗仏教では、一大事因縁(諸仏世尊は、唯、一大事の因縁を以ての故にのみ世に出現したまへばなり。)として、既に悟った筈の仏陀が、無明の迷路に漂う衆生の救済という大目的のためにこの世に生まれ落ちる、即ち現実的に転生のプロセスの中に入ると認められているのである(『国訳一切経 法華部全一』大東出版社、1985年、「妙法蓮華経」P.41)。

 ここでは、まず、小乗仏教的観点から検討を進めてゆくとしよう。即ち「幸福の科学」で説く仏陀再誕の問題を、仏陀出現の問題として提起し直す。つまり、誰であれ、仏陀釈尊の再誕者であるということは、何はともあれその人は現に仏陀として悟りを得ている者であることになる。そこで問題は、仏陀とはどのような人なのか?、どのような条件が備われば仏陀と認定され得るのか?ということになる。要するに、人はいかにして仏陀に成るのか? 仏陀出現の根本的ファクターは何々か?が先ず解明されなければならない。

 この問題は簡単に答えられそうだが、しかしよくよく突き詰めて見て行くと、従来の諸研究では必ずしも明確な結果が出ていない。確かに、厳密に考えると、「仏陀を知る者は仏陀のみである」ことになる。そして現に仏典にもこれに似た表現が見られる(仏の成就したまへる所は、第一希有難解の法なり。唯仏と仏とのみいまし能く諸法の実相を究尽したまへばなり)(『国訳一切経 法華部全一』大東出版社、1985年、「妙法蓮華経」P.37)。

しかし厳密にそうであるとするならば、「各人は、仏陀であるか、または仏陀でないかのいずれかである。そして自分がそう思うままに仏陀であり、または仏陀でない。」という完全にプロタゴラス的な認識相対論の世界に迷い込むことになる。

 ここで我々は、道徳性の発達段階論を提起したローレンス・コールバーグの考え方に頼ることにしたい。彼の見解によれば、人は使用可能な段階より比較的高い段階を使用出来ないまでもそれを理解することが出来るという。即ち、道徳性の発達段階が仮に最低の1から最高の7まであるとして、或る人が現に使用可能な段階、つまり彼が理解でも行動でも実現している段階を5とすると、それより上の6ないし7の段階について、彼は理解することが出来るのである。ただ彼に欠けているのは、現実的にそれを行動面で行使する能力である。これがもし現に使用可能な段階が2や3とすると、6や7の段階を理解することも出来ない状態であることになる(L.コールバーグ『道徳性の形成』永野重史監訳、新曜社、1987年、PP.56-58参照)。

これは我々の日常的経験に照らしても首肯し得る見解である。従って、現に仏陀でない人も、仏陀の状態に関して一定の理解を形成することが可能である、という前提から我々はスタートすることが出来る。その際我々の現段階がどのあたりにあるかの確認はさしあたり必要ではない。ただ仏陀に関する知的・実践的関心があるということで、この際、充分である。

[初出: 二 瓶 孝 次:  大川隆法主宰「幸福の科学」の仏教論的意義  ~ 成道(悟り)の弁証法的構造 ~  北海道教育大学紀要(第一部A)第46巻2号,1996]
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§2 原始仏教(釈尊)の基本的立場(上)

§2  原始仏教(釈尊)の基本的立場:四諦八正道・無我・縁起・最善観的輪廻転生論

 仏陀出現問題を考察する第一のアプローチは、原始仏教として一括される釈尊の教説の基本的性格の確定である。
これについて筆者は既に「釈尊の悟りと道徳的発達(上)(中)(下)」において論考した。

今ここにそれを再掲することにしたい。

       釈尊の悟りと道徳的発達(上) 仏教思想研究の方法論
                  
                  
            目  次
   1.釈尊の悟りは懸崖の頂きに立つ(西田幾多郎による評言)
   2.釈尊の価値を検討証明すべき「システム」とは?
   3.和辻哲郎『原始仏教の実践哲学』について
   4.和辻哲郎『原始仏教の実践哲学』における仏教研究資料批判の画期的透徹の批判的検討
   5.釈尊の悟りの内容へのアクセスを担うシステムの構築の方法の模索
   6.初期仏教経典(E)の確定としての仏教資料批判
   7.和辻哲郎における資料批判貫徹の新機軸
   8.和辻哲郎『原始仏教の実践哲学』における原始仏教の哲学的思想論的研究の方法的開始
   9.文献学的研究対哲学的研究
  10.仏教資料の哲学的研究の出発点
  11.理論的研究のための仏教資料論の底本群の決定
  12.原始仏教の理論的研究の出発点

1.釈尊の悟りは懸崖の頂きに立つ(西田幾多郎による評言)

「我が関新助は恰もニュートンと期を一つに極東の孤島に現はれたのも妙だが、サラセン文化以来驚く可き年代を経て発達して来た数学と、彼の一代の独自な収穫が、近いものであったのは世界的に驚異とされてゐるのは、吾人の意を強ふするに足るが、微積分の領域にはいってゐた彼の数学も、算盤と算木を使用する複雑な理路は、彼独りの理解に止って、其後の発達は見られなかったのは、一つに継承を容易ならしめる組織の欠点に外ならない。
 普遍的に消化され吸収さる組織これが確実な成長持続の根源である。譬へると釈尊の足場は懸崖の頂きでありとすれば、丁度関新助の数学である。その微積分が今日高等数学の範囲で学生などに消化され吸収され、日常の栄養となったのは、組織の賜であり、釈尊の価値を検討証明するのも同様に遂には、この「組織」の力である。」

 これは西田幾多郎が京都大学を定年退官(昭和3年8月)した時期に或る有名総合雑誌に強く請われて寄稿した短文(注1:「言葉に代へて」『文藝春秋』昭和3年9月特別号、『西田幾多郎全集第19巻』第4版,1989年,岩波書店、東京、PP.842-846所収)の一節である。この時西田は、大学を定年退官したとはいえその従来の哲学研究を一層進展しようとする強い決意と燃える情熱のうちにあった。「……今、自分は丁度家で云ふなら建て掛けの道程にあると云ふのが適当であらうか、ある大きな思索の組織を完成するべく常住に心が用ゐられてゐるから、たとへ、ちょっとしたものを書くにも自分の性格上、多少真剣に、この間、軌道を変へなければならないと云ふことは誠に調子のそぐはない、且つにがい負擔である。私をして心ゆくまゝに私の道を歩ませてもらひたい。「白つゆや、無分別なる、をきどころ。」……」

 西田が自己を白露に擬しているのはその歌詠の趣味とともに奥ゆかしいが、事実、この当時における西田の思索は、『働くものから見るものへ』(昭和2年10月刊)における「場所」のアイディアを発展させた『一般者の自覚的体系』(昭和5年1月刊)に収められた諸論文執筆に結果しているものであって、これは『善の研究』(明治44年1月刊)という彼の処女的総括体系に次ぐ第二の彼の哲学体系の出現であった。これだけでも既に一個の巨人的思索の跡を窺わせるのであるが、彼の場合はこのあと更に『無の自覚的限定』(昭和7年12月刊),『哲学の根本問題』(昭和8年12月刊),『哲学の根本問題続編』(昭和9年10月刊)を経過して,「哲学体系への企図」たる『哲学論文集第一』(昭和10年11月刊)から『哲学論文集第七』(昭和21年2月刊)に至るまでの長大雄勁な研究が累加されてゆく。 西田哲学の「組織」つまりシステム(体系)は、「絶対矛盾的自己同一」という論文(これは昭和14年11月に刊行された『哲学論文集第三』の第三論文であり、昭和14年4月『思想』に発表された)において完成・確立されたといえるであろう。

 「「絶対矛盾的自己同一」に於て、私は一応私の根本的思想を明にした。」(西田幾多郎『哲学論文集第四』序、昭和16年8月)

 「私は第三論文集に於て、私の根本的思想を把握し得た。」(西田幾多郎『哲学論文集第五』序、昭和18年9月) 事実、これ以後の諸論文は、「絶対矛盾的自己同一」なる根本論理から、実践、歴史、芸術、国家、物理、数理、空間、生命、宗教等の諸問題を応用的に論じたものとなっている。つまり、「ある大きな思索の組織を完成するべく常住に心が用ゐられてゐる」と昭和3年に言われた西田のその哲学体系化の企図は、その十余年後「絶対矛盾的自己同一」なる昭和14年の論文に於いて実現されたのである。

 ともあれ、西田は日本の思想的営為におけるシステム化の努力の余りないことを指摘しており、また、釈尊の場合にもそのことが言えることを指摘しているわけである。それに対して彼自身の哲学的努力がまさしくシステム化の枢軸としての根源論理の把握に向けられていたということが自他共に認め得るであろう。「絶対矛盾的自己同一」の哲学システムは、言うなれば、《ダイヤモンド製の真珠》の如きものである。この譬喩は『哲学の根本問題続編』の「序」の後に初めて付され、その後『哲学論文集第三』まで続く西田独特の「図式的説明」の価値に特に妥当する。(数学史上ニュートンがライプニッツより先に微積分の原理を発見したようだが、ライプニッツの表記法が至便であったため、これが広く普及したとされる(注2)。

注2*「言葉に代へて」『文藝春秋』昭和3年9月特別号、『西田幾多郎全集第19巻』第4版,1989年,岩波書店、東京、PP.842-846所収*

数学と哲学では事情が同じではないとしても、特に西田哲学の理解のためにその図式的説明をもっと活用することが今後行われるべきである。)

 事実、この西田哲学そのものを十分に解明し得た研究はまだ出ていないのではないか。西田哲学に対する関心と研究は最近内外ともに活発であるが、その真価を明らかにし得ているとは未だいえないのである。その哲学自体既にシステムではあるが、未だなおそれは我々の既知の諸システムとの連絡をつけられないままに、「懸崖の頂き」にあるが如くである(注3)。

注3* 例えば最も代表的なものとして末木剛博の浩瀚な四部作『西田幾多郎 その哲学体系I-IV』1983-1988 ,春秋社、東京、を挙げることができる。これは西田哲学研究としては理論(記号論理学)により理論(体系としての西田哲学)を解明したものとして一つの模範である。これはこれで徹底的に学ぶべきである。しかし哲学論としては、その純粋 内部脈絡の解析迄は著者の意図を成就しているが、進んで比較思想論的検討を介して最終結論に到ると極めて矮小となり、まさに龍頭蛇尾の感を禁じ得ない。これは主として氏の仏教思想理解が従来の枠に止まり、それに準じて西田 哲学の内的理解も進まないからである。特に「空思想」「絶対無」の理解は常識的であり、平板である。西田哲学の根本性格が「無実体論」「現象実在論」であるという氏の結論は、我々が仏教思想の理解を推進するならば、その妥当性を失うであろう。結局氏自身の哲学的立場は、記号論理学の専門家としての優れた力量と比較思想の広範な学識というその身上を別にすれば(といってもこれらがその立場と別にあるわけではない)、西田哲学において根本から斥けられている「対象的意識の立場における個人的意識」(これこそ西田哲学に対して氏が最後に難じている「独我論」の発生源である)を唯一の可能な意識と信じ込んでいる素朴近代常識人の立場でしかない。氏の最終的結論(6)と(7)は特にこのことを如実に示している。我々は仏教思想の理解を進めて、将来西田哲学については氏と同様に、『善の研究』から出発して考察して行かなければならない。なお次注参照*

実は我々のこの研究も、今直ちに西田哲学の研究に入るのではないが、間接的には、システムとしての西田哲学の解明に資するのが計画の一端である。(そしてその通路は、一口で言うと、ライプニッツのモナドロジーである。実際、西田幾多郎自身「自分の哲学はモナドロジーだ、それもクリエイティブ・モナドロジーだ」という意味のことを言っている(注4)。

注4*「永遠の生命としてすべてを包む有は対象的有であることはできない故に私はプロチノスの一者(絶対的有)を絶対 的無と云ったのです。今度の論文で述べた創造的モナドの世界も無限なる生命全体を包む世界と云ってよからうと思 ふのです…」昭和13年9 月25日付三宅剛一宛書簡『西田幾多郎全集第19巻』第4 版,1989,岩波書店、東京、PP.47-48。 「強ひて私の考をモナドロジー的といふならば、ライプニッツのそれの如く表象的でなく創造的といふべきであらう。 辯證法的モナドロジーである。」「歴史的世界に於ての個物の立場」『西田幾多郎全集第9巻』第4版,1988,岩波 書店、東京、P.97*


 従って、「釈尊の足場は懸崖の頂きにあり」という西田の釈尊に対する言葉がそのまま、或る意味では西田哲学自身にあてはまるのである。

2.釈尊の価値を検討証明すべき「システム」とは?

 「釈尊の価値を検討証明するのも同様に遂には、この「組織」の力である。」と西田は釈尊への理解の大道を指示している。仏教思想史上、三蔵のなかで「経」と「律」に対する「論」が事実上このような「組織化」の努力であったといえるであろう。しかし現在の哲学的な方法論による仏教研究としては、直ちに「論」の伝統に乗ることは得策ではない。むしろ、いわゆる西洋哲学の手法から我々は学ばなければならない。しかも既に日本において我々の先輩が試みたところを振り返りながら一層の進展を期することが、学問的研究の継承発展のために望ましい。その場合我々はこの論文のタイトルが示すように、道徳的発達の観点から釈尊の悟りの内容を理解しようと企図する。仏教はその根幹に道徳的修練を据えた宗教であって、その道徳的修練は段階的な発達向上が可能であり、各発達段階はそのまま存在論的性格を持つ、そしてこれは釈尊の悟りの理解から明らかになる、との見通しのもとに論究を開始する。

3.和辻哲郎『原始仏教の実践哲学』について

 仏教思想を西洋的伝統の哲学研究の中にしっかりと組み入れて組織的に研究するという方向における代表的な業績として我々は、和辻哲郎『原始仏教の実践哲学』(1927)を有しているのではないか。即ち、和辻のこの著作には思想史上二通りの意味があると考えられる。つまり、

 一つは、仏教研究資料批判の画期的透徹であり、
 二つは、哲学的思想論としての仏教(原始仏教)の研究の開始である。

前者は、西洋近代仏教学の明治期の導入以降、国内外の代表的諸研究を踏まえて当時における最も先端的で決定的な原始仏教資料批判を展開して、特にその後のわが国の原始仏教の研究に多大の刺激と明示的方向とを与えた(注5:『和辻哲郎全集第5巻』1962, 岩波書店、東京の中村元の解説「原始仏教の実践哲学」(PP.581-585)参照)。後者は、元来哲学的立場に関しては「無記」(肯定的にも否定的にも何も主張しない)の態度を徹頭徹尾維持していたとされる釈尊の教説の根本的立場に関して、西洋哲学の正当な手法として、一定の明瞭な哲学的立場を比定したことを指している(注6:和辻哲郎『原始仏教の実践哲学』第一章「根本的立場」『和辻哲郎全集第5巻』PP.90-97参照)。

 けれども、我々はこれらの和辻の仕事は、有益且つ貴重な導きと示唆をあたえてくれる反面具体的成果としては重大な難点を含んでいたと見ている。それ故今、和辻の思索の根本的批判的検討を行い、真の新たな展望を開かなければならない。

4.和辻哲郎『原始仏教の実践哲学』における仏教研究資料批判の画期的透徹の批判的検討

 では、和辻の仏教研究資料批判の画期的透徹とはいかなることか。そしてその何が批判的検討に付されなければならないのか。
 先ず、そもそも仏教研究資料批判とは、簡単に言って、仏教経典類として伝わるもののうち、歴史的人物としての釈尊がその在世中に直接に説いたと考えられるものを、釈尊以外の者の手になるものと考えられるものから判別・区別する仕事である。そしてこれは近代の研究的知性が、いわゆる南伝仏教のパーリ三蔵と、いわゆる北伝仏教の三蔵(代表的なものは漢訳三蔵)との共通性と相違とに直面して、前者には、大乗仏教と言われる後者の大乗的諸経典が含まれていないことを認識して、大乗諸経典は仏滅後はるかのちに創作された非仏説であり、大乗仏教の伝統の中で小乗仏教経典とされる「阿含部」と言われるものと大部分一致するパーリ三蔵が歴史的釈尊の指導した教団の奉持した経典を歴史的に直接的にか間接的にか継承しているとの判断に到ったことに源を持つ。この意味において、歴史的釈尊の指導した教団の奉持した経典が現在から見て有り得べき理想的な研究資料であるが、現存のものはそれそのままのものではなくて、幾多の変形を経てきたものと考えられている。従って、最も原形に近づけた復元がこの場合、「原始仏教」を我々に伝える資料を構成することになる(注7:例えば、三枝充悳「阿含経とは何か」中村元・三枝充悳『バウッダ 佛教』1987,小学館、東京、第二部第一章,PP.31-77参照)。

 そこで和辻哲郎『原始仏教の実践哲学』における仏教研究資料批判の画期的透徹とは、まさにこの意味の仕事を極めて明確な態度において実行して見せたというその点にあるのであって、それ以後そのような方向において特に我が国での研究成果が顕著である(注8:例えば、中村元『原始仏教の思想 下 原始仏教4』中村元選集第14巻 1971年,春秋社、東京、P.268.および、 同『原始仏教 1 ゴータマ・ブッダ 釈尊の生涯』中村元選集第11巻 1964年,春秋社、東京、P.7 参照)。

 ところで、そのような原典批判という一種の技術は、他方において、取り出されたる原始的資料についての思想的解釈を伴っている。本来ならば、原典の洗いだしを行ったのちに思想的解釈を行うべきであり、また誰もそのように始めは意図するものである。けれどもこれがなかなかそのようにすんなりとは行かないのである。何故かというと、原典の洗いだしを純技術的にのみ遂行することは誰も果たし得ていないのであって、事実上、資料の選別・評価に当たって例外なく一定の解釈的立場を採らざるを得ないでいるからである。そしてその場合に一番多く見られるのは、「非神話化の精神」とでも呼べるような或る種の「唯物論的実証主義」である。すなわち、いかなる宗教にも認められる超常的神秘的神話的事象一般の否認ないしその実証主義的合理化説明である(注9:このことは釈尊の根本思想の解釈と関連する問題であって、本稿下篇で論じたい)。

 このことは、純歴史的認識とでも言うべき事柄に関しても妥当する。すなわち、例えば現存パーリ三蔵は釈尊の直接的指導のもとにあった原始仏教教団の奉持していた原経典からなにほどか変形しているという見積りに当たってそこに必ず評価者の一般歴史観的認識基準が採用されざるを得ない実情にあるのは否定できない事実である。一口で言うと、資料批判を実行する研究者たちは通例極めて「懐疑主義的」である。すなわち、歴史的伝承に対する一般的信頼感を欠いているとの印象を受ける。これはその精神態度ないし研究的知性自体の「唯物論的実証主義の傾向」と密接に関連していると見ることができる。本来、探究(スケプシス)は懐疑(スケプシス)を一つの動因とするものであるが、それだけではなく他方そしてより根本的には驚異の心(アリストテレス参照)をそのエネルギーとするのである。

 そこで今、我々が釈尊の悟りの内容へのアクセスを担うシステムの構築の方法を構想するにあたり、仏教研究資料批判の我々の基本的態度を、懐疑主義的なものではなくて、中道的態度として確立しようと願う(注10: 一般的伝承批判は仏滅年代論と関わる問題であり、その全的な中道的展開は他の機会に譲る。ここでは我々は従来の懐疑的批判的研究の最大限の中道的継続としての「細心な立場」(具体的には中村元の立場)に接続することにする。中村元「原始仏教聖典成立史研究の基準について」『原始仏教の思想 下 原始仏教4』中村元選集第14巻,1971年,春秋社、東京、PP.259-489参照)。けだし、何事にせよ、中道的態度の勧めは釈尊の教えの最基礎的なものであることは誰もが認めるところである。

5.釈尊の悟りの内容へのアクセスを担うシステムの構築の方法の模索

 仏教資料批判の目的はすべて歴史的釈尊の事実的教説の確定であり、これを通して釈尊の内面的悟りそのものを解釈しそこに参入することにあるのは全て共通であろう。この手続きには基本資料の確定と思想解釈という二つの仕事が含まれている。そこでこの問題を次のように形式化することにより整理して考察しよう。

 先ず、我々の探究の究極目的である「釈尊の内面的悟り(菩提 Bodhi)そのもの」を記号Bで表わそう。
 次に、釈尊の成道から入滅に到る間の教化活動から生じた教示(Teachings )の全体を記号Tで表わす。

 次に、いわゆるパーリ語三蔵(the Pali Buddhist Texts )を記号Pで表わす。また大乗仏教の伝統の中で小乗仏教経典とされる「漢訳阿含部」と言われるものを記号Cで表わす。

 次に、いわゆる大乗仏教固有の大乗諸経典(the Mahanaya Buddhist Texts )を記号Mで表わす。

 そして、Z=P+C+MなるZを、我々が現在所有している仏教資料の全体を表わす記号とする(従って、我々がここで我々が現在所有している仏教資料の全体と言うものは、普通の意味での全仏教思想史上の資料の全体ではなくて、厳密に《P+C+M》なるZに限定されたものである。)

 そうすると、近代仏教学がこれまでに既に一致して認めたのは、先に述べたことと同じことであるが、BにアクセスするためのTへの最初の手がかりはZでは決してなくて、P+Cであるという一点である。この主張の要点は、Zの成員の一つであるMが決してTとの事実的連絡を有しない、何故ならMは仏滅後はるか後代の人為的創作の産物であるから、ということに存する。他方、P及びCはその文献としての歴史事実的性質から見て、Tに由来する伝来の事実的に最も直接的な結果であるとみなされているのである。ただし問題は、TからPあるいはCに到る間に多くの変形があったであろう、という一点に集中している(この変形要因をdとすると、T+d=PあるいはT+d=Cとなる)。そこで、PあるいはCの言語学的、歴史学的、考古学的等、あらゆる可能な分析方法により、PあるいはCに生じていると推測されるdの結果を浮き彫りにしてTに最も近似したPあるいはCの原形の復元が目ざされるのである。そこでさしあたりPとCが共通に持つであろう一つの源泉を記号T´で表わせば、T´が復元されるべき原形である。この復元作業は当面PあるいはCの構成諸部分の継時的再構成であり、そのうちの最古層の確定が眼目となる。確定された最古層のPあるいはCの部分が当面、T´に最も近似していると見なされるのであるから、PあるいはCのこの最古層として確定された部分を初期仏教経典(the Early Buddist Texts )として記号Eで表わすならば、TないしT´に最大限近づいたEの確定こそが仏教資料批判の現実的目標である。
 
 想定される資料伝承の流れ:
  B → T → T´ → E → P(or C)
 資料批判による復元作業:
  P(or C)→ E → T´ → T → B
 
6.初期仏教経典(E)の確定としての仏教資料批判

 そこで、現在までの仏教資料批判の成果を概観するならば(注11:例えば三枝充悳「阿含経のテクスト」 中村元・三枝充悳『バウッダ 佛教』1987,小学館、東京、第二部第二章 PP.78-112.及び三枝充悳上掲「阿含経とは何か」参照)、Eはどの程度まで明らかになっているであろうか。

 先ず、全ての仏教資料批判に共通しているのは、さしあたりPにのみ話を限るならば、Pが互いに性格の異なる三部分より成っているという点の確認である。即ちPは、固有の意味での経典(スッタ)(これをいま記号Sで表わす)、そしてそれら経典解釈の論議(アビダンマ)(これをいま記号Aで表わす)、及びいわゆる戒律(ヴィナヤ)(これをいま記号Vで表わす)、という三部構成となっているということである。そしてAはSに対する仏弟子たちの研究的論議なのであるから、その資料としての性格はTからの明白な隔絶である。つまりAはTに接近すべきPからは厳密に排除されるのである。他方、Vはその起源は釈尊の教示にあるものの、仏滅後の仏教教団の自立的展開と諸部派へのその分裂の過程のなかで相当大きく変動して行ったと見なされている。事実、このVに限ってみればその資料批判はかなりの程度まで徹底されている。「徹底されている」という意味は、Vに関してその全体にわたる資料批判がその当否はともかくとして実施されているということである。そこで批判されたVにしてEに含めてよいとされる部分を記号VEで表わすことにしよう。
 
 しかし他方、Sに関しては未だなお、その全体にわたる資料批判は実施されていないのであって、ただ多かれ少なかれその一部分についてしか資料批判が実施されているに過ぎないというのが実情である。そしてこのことは理論的には原理的困難を提起するであろう。何故なら、それはPの構成諸部分の全体がどのようなものであれ、その一部分であるSの全体的資料批判の未遂という事実によって、Pの全体の資料批判の未遂を帰結し、従って、Pは全体としては、資料批判を受けない状態と変わりはないということになるからである。

 なるほど、Pの個々の部分の個々の資料批判はそれはそれなりに一定の確実な知見をその都度Pの文献性質についてもたらしてはくれるであろう。けれどもそれはあくまでも部分に限定された知見でしかない。どんなものについてもそのある部分に関する性質を直ちに全体に関する性質に推及することは原理的に許されない。むしろ、その部分が全体を表示するアナロジー的性質を持つと仮定される場合に限り、その部分から全体へのこの種の推及が許容されるのである。従って、どんなに厳密に行われたとしても資料批判が全体にわたらず部分的にのみとどまるものである限り、その成果に立って、全体に関して何かを立言することは理論的誤謬を免れない。

 もっとも、一定の資料批判の成果を全体判断として活かす可能性は皆無ではない。即ち、事実的には部分的にとどまるその資料批判の事実的限界を以て仮に全体と見立てるならば、その全体判断は理論的整合性を欠かないであろう。だが良識からみてそれは極めて片寄った判断であるに違いないと感じられるであろう。けれども現在までの文献学的資料批判の遂行者たちの大部分は、理論的に見ると、このようなかたちの作業を行っているのは後に見る通りである。

 それでは、資料批判の貫徹は可能ではないのであろうか。おそらく現在のようなあくまで緻密な文献学的作業方法を唯一の技術として頼む限りPの資料批判の貫徹は事実上不可能である。何故ならば、この技術ははじめから到達すべき終局のいかなるものかを知らないからである。けれども、もしあらかじめ、PならPの全体に関する資料批判の実行可能性を見極めることによって、その可能性の範囲内でそれを実行するならば、その限りにおける全体判断が獲得されるであろう。前者は現前する全体をまず懐疑してただ偶然手に触れ得る限りのものを以て全てと断定するのであるが、後者は既に現前している全体の姿形の一段進めた焦点化を目指すのである。哲学的探究の本来の性格が後者に近いものであることは誰も異存あるまいと思われる。そして実は、和辻哲郎『原始仏教の実践哲学』における仏教研究資料批判の画期的透徹の意味は、このような全体的資料批判の可能性を先取したというまさにその一点にあったと言うことができるであろう。それ故にまた、その上に立って思想的解釈可能性をも獲得することが出来たのであった。しかしそれは我々の見るところ、資料批判としても、思想解釈としても、決して満足の行くものではなかったのである。どうしてか?  

7.和辻哲郎における資料批判貫徹の新機軸

 では、具体的にはどのような風にして和辻はその資料批判を貫徹し得たのか。そしてそのどこに難点があったのか。 和辻はその『原始仏教の実践哲学』序論「根本資料の取り扱い方について」において、原典批評の現状が精密周到なものとして著しく進んで来たことを認めつつも、それが近い将来に一応完結し得るような容易なものではないと見ている。従ってもし思想の理解が完結した原典批評を俟つべきものならば、歴史的ブッダの思想の研究は開始され得ない。しかし和辻はここで思い切った提案を行う。それは原典批評の正しい方法を見つけさえすれば、我々に与えられたる資料の内にいかなる思想が存しそれがいかなる開展を示しているかを理解することが出来るという見通しである(注12:上掲『和辻哲郎全集第5巻』PP.11-12参照)。

即ちこれは、「主としてパーリ経律蔵及び漢訳阿含小乗律によって知らるる仏教」としての「原始仏教」を理解するためには、「主としてパーリ経律蔵及び漢訳阿含小乗律」から成る資料の一つ一つに対して「発見された原典批評の正しい方法」を適用して、結局原典批評と思想考察とを表裏一体的に且つ一挙に為し遂げることを意味する。それにしてもこのようなことはいかにして可能なのか? 和辻の実際の仕事振りを見てみよう。

 原典批評の正しい方法を見出すために和辻は近代仏教学開始以来の代表的研究者たちのそれぞれの方法の反省をまず行った。その初めには、パーリ経律研究の権威とされるオルデンベルクとリス・デヴィズが吟味される。最初に、オルデンベルクは二つの方法を混用することによって、現存パーリ三蔵の各部分の成立の継時的順番を決定した。その方法の一つは各部分の類型づけと各類型毎の成立年代の新古の別を明らかにするところの原典内在的分析方法である。もう一つは原典の文献的性質とは別の経律に関する伝説に基づく年代決定方法であり、これは原典超越的方法である。ところで和辻に言わせれば、この二つの方法は噛み合わない。何故なら前者はただ「現存パーリ三蔵の内部的成立順序」を明らかにするだけであり、他方後者が明らかにするのは「或る特定の経律の成立」ではあるが、これら二者がたとい名称を共有しても同一のものであることの保障はないからである。我々が確実に頼り得るのは現存経典とその確実な延長のみであるから、ただその原典内在的分析方法のみが正しい。かくして和辻はこう結論する「我々が氏に学ぶべきはただ現存経律に含まれたる種々の作品の類型を新と古とに判別するの一点のみである。」(P.16)(注13:括弧内のページは上掲『和辻哲郎全集第5巻』の頁を表わす。以下同様)

次にリス・デヴィズの場合であるが、彼の方法もやはり二つの方法の混用であり、先のオルデンベルクと異なるのは原典内在的分析の手法を一層進めて経典の類別ではなしに経典用語の種類、叙述の様式、表現せる思想(特に年代的意味を持つ仏塔崇拝の有無等)を手がかりにした点、及び考古学的及び歴史的証拠を以て年代決定に資せしめた点にある。しかしこれは原理的にはオルデンベルクと同様のものであって、「我々が氏に学ぶべきは」、「現存経律の発達を現存経律自身から見いだそうとする第一の方法……のみである。それが純粋に徹底さるることによって年代観もまた正しくつかまるるであろう。」(P.23)

 「以上のごとく我々はパーリ経律研究の権威たる両氏の説から動かし難い根拠を有する部分と動きやすい仮説に基づける部分とを判別し、現存経律の批評が現存経律自身の中から押し進められるべきであることを見いだすのである。動きやすい仮説の方面では仏滅年代、結集伝説、経律に関する伝説、アショーカ王誥の言語等に関して、原典自身の批評とは独立に精密な研究が行なわれねばならない。我々はその独立の研究が原典自身の内面的批評の結果と合致することを望むことはできるがその一をもって他の研究の根拠とすることは慎むべきである。」(P.24)

 次に、特に漢訳仏教文献を利用し得る厚遇に与かるわが国において顕著な漢パ対照研究を見てみると、これが漢パ一致するところにより古い同一源泉的な経律を見出すという当然ではあるがしかし資料発達の批判を欠く短絡的な方向に走って、直ちに歴史的ブッダの真面目にまみえるという「根本仏教」の叙述に達したのは、かえってオルデンベルクやリス・デヴィズの原典内在的研究の断絶を意味したものとして和辻により批判される。(PP.25-26)

 これに反し、原典批評をただ原典自身に基づいて遂行したものがオットー・フランケである。フランケは、言語学的分析により韻文のパーリが散文のパーリより時代が古いことを認め、韻文から成る部分(ガーター)を確定した。ところで現存経典の最古層を成すこのガーター(詩頌)は、「それに先立つ古経典」(すべて韻文パーリで書かれたる)を前提にしておりその部分的反映であるとされる。他方、歴史的ブッダの教説が直ちに全て韻文形式を持っていたとは考え難いから、「全て韻文パーリの古経典」は歴史的ブッダの教説の記録ではなくて「既に文学的作用を経た作品」である。そのようにしてフランケはパーリ経典の文学的作品としての特徴を解明する。ところが現存パーリ経典の構成順序に即した彼の文学的作品分析はその限りにおいて説得力を持つかに見えて、実はそれに相当する漢訳経典がそれとは全く異なる構成順序を持つという事実により完全に反証される。このことから言えるのは、現存経典を直ちにそのまま文学的創作の作品とみるのではなく、先立つ諸作品の単なる「編纂」と見るにとどまるべきであるということである、と和辻は結論づける。(PP.26-31)

 さてフランケが途中まで推し進めた所を更に徹底して行ったのが宇井伯壽の「原始仏教資料論」(注14:宇井伯壽『印度哲学研究第二』1925, 甲子社書房、東京、PP.113-260)であると和辻は言う。即ちそれは現存諸経典がそれらの編纂として成立した元のそれら古き諸作品の確定を試みたのである。事実、互いに相応する漢パ現存経典が夫々の仕方で編纂した際の元の素材的作品は共通的である。そしてそれらの経は、長部長阿含の対応部類に関しては、一、外道に対して仏教の優れたることを説くもの、二、仏教教理の大綱を説くもの、三、ブッダの超人たることを説くものの三類がある。また中部中阿含の対応に関しては教理の説明解釈を担う経が材料である。更に相応部雑阿含は同一項目ごとに分類された経を集成しており、増支部増一阿含は主題の名数を一から十一まで増上的に分類編集している。従ってここに編集編纂の意図が明らかである。ということは四部四阿含という現存の形に編纂されるべき多数の経典が当時所与としてあったということである。そしてそれら所与の経典が経律に見える「九分教」の意味するものである。そこで現存経典の中からこの「九分教」に比定されるものが選択される。

 これを補強すべく更に宇井伯壽「阿含の成立に関する考察」(注15:宇井伯壽『印度哲学研究第三』1926, 甲子社書房、東京、PP.303-418)は、広く多数の経を観察して、先ず以下の四類に属する多数の経はその形式から言って「ブッダの言葉」の記録ではないとする。即ち、一、仏滅後のものとして経自身が仏説ならざることを明示しているもの、二、ブッダ以外の者特に弟子信者の説教法談を伝えるもの、三、弟子の説法をブッダが承認したという形式のもので、この中にはブッダ在世時代には有り得ぬ事件等を描いたものがあり、ブッダの承認というのは単なる権威付けであって額面通りには受け取れない。四、ブッダの簡単な説法に対して大弟子の詳細な複演の付せられた経で、これは簡単な仏説の梗概要領に対する注釈である。ではこれら以外の経は果たしてブッダの言葉をそのまま伝えているのであろうか。問題なのは阿含中に著しい同一文の繰り返しである。個々の具体的な場合の活きた教誨であるはずのブッダの説法が、他の場合と同一の、言葉の末までも変わらない一定の型によって行なわれる。これは明らかに事実上の説法ではなく、説法の大意が型としてまとめられているのをここに用いたにほかならぬ。それではかかる型がブッダの説法の直接の梗概要領であろうか。否、これらは最初の溌剌とした梗概要領が記憶伝持せられ行く内に自然に沈澱凝固して最後に型となったものであろう。かかる型のでき始めるのはブッダの直接の弟子の時代ではなく、孫弟子の時代である。ここに固定的に維持する傾向が始まり、一定の型となれる偈文散文が生まれたのである。これがこの後代々伝承せられたいわゆる「仏語」であり、この仏語の周囲に説明解釈が起こってさらにこれらの説明解釈が型として伝えらるるのである。(PP.83-84)

以上は和辻による要約であるが、それにほぼ賛同しつつ和辻は型の固定の時期が孫弟子の時代(前320年頃迄)とする宇井説に対して、その時期は型化傾向の始まりに過ぎず、現存資料の示す多くの型が大体その時期に既に出来上がったのではなくて、型の漸次的発達を容認しようとする(P.84)。そこでその線に沿って和辻は具体的に、代表的な作品として内外の学者に最もしばしば論ぜられている長部大般涅槃経【マハーパリニッバーナスッタ】(長阿含遊行経)の分析を行なう。そして次のことが明らかにされる。即ち、「思うに涅槃経の編纂の際には、一方に涅槃に関する種々の説話が順列を定むることなく語られていたとともに、他方には仏の説法を綱目として簡単にまとめたものがいかなる時の説法とも定むることなく暗誦せられていたのであろう。この二種の材料は、一つは想像力に基づく文学的伝承であり、他は理論的興味に基づく教理的伝承として、最初より異なれる方向を示していたに相違ない。これらは最初の編纂において結合されはしたが、しかし二つの潮流が並び存し並び発達するに伴のうて、その後のはなはだしい増広を避けるわけには行かなかったのであろう。」(P.79)

 「我々はかくのごとき態度で現存の経典のうちに文学的及び教理的の発達の段階を見いだし、結局初期教団の内に行なわれた伝説や説法綱目に到達することができる。しかしそれらはすでに強度の神話化や型式化を経たものであって、史実をそのままに伝えるごときものでは決してない。我々に必要なことは、かくのごとき教団の伝承が現存の経典の核であり、この核のまわりに後代の種々なる発達が付着しているということを明らかに見きわめるにある。しからずして現存の経典を一人のブッダの思想の記録として取り扱おうとすれば、我々は到底これらの資料を学問的に取扱い得ずして終わるであろう。」(PP.82-83)

 このようにして和辻は現存経典の核として教団伝承があり、その伝承には文学的なものと教理的なものの二種類がある。そして教理的なものは思想内容の論理的な発達が諸短経の間の段階的な関係に反映しているから、この教理的発達の関連を複線的に明らかにするという明確な視点が得られると言う。「しかしなお一つ注意すべきことは、この際経典がその制作の中核たる動機において文学的傾向に属するか、あるいは教理を説く傾向に属するかを分別して考うべきことである。文学的作品はその本質の要求するところに従って、その想像力の働きの内に意義が見いだされねばならない。これらの作品もまたその当時の教理を物語の材料として用いている。しかし教理の理解に徹することはこれらの作品に必須のことではなく、また実際に徹しているとは言えぬ。具象的に描写するという要求は、時に思想をまでも神話化せしめているが、しかし文学的作品としてはむしろここに効績が認められなくてはならない。……なお理論的な経典自身の内にも種々の系統の相違のある事は見のがすわけに行かない。特に著名なのは、修定を強調するものと理論を強調するものとの差別である。この相違に着目すれば、経典中にはほぼ三つの大きい潮流傾向が並存することになる。我々はこの三者の間に時時矛盾撞着の存することを覚悟しなくてはならない。そうしてもしその間の統一を見いだそうと欲するならば、三つの潮流として発展しきたれる状態をそのまま結合しようと試みずに、その発展の源流においていまだ分化しきたらざる統一を追窮しなくてはならない。我々は多種多様なる経典を右のごとき視点の下に取り扱いつつ考察してみたいと思う。これによって五部四阿含に含まれたる個々の経全体の精密な対照や批評を完結することなくしても、初期仏経の思想に関する理解を望み得るであろう。」(pp.88-89)

 さて以上のように構想された和辻の資料取扱い法は、現存経典の内在的批判方法として徹底したものであるとされるのであるが、しかしその教理的なものと文学的なものの区分という方針は既に一定の文献観を表わしている。特に文学的なものの基準は神話化ということであって、これは全て神話的なものは単に人の想像力の産物であるという重大な決定を含んでいる。ではこの決定自身は、現存経典とは予め何の関係もない和辻の個人的信念以外のどこに根拠を持つのだろうか。この決定自体が既に和辻の拒絶する原典超越的要素を有する以上、その所期の純粋内在的原典批判法は成立しない。

 従って、先に和辻が「以上のごとく我々はパーリ経律研究の権威たる両氏の説から動かし難い根拠を有する部分と動きやすい仮説に基づける部分とを判別し、現存経律の批評が現存経律自身の中から押し進められるべきであることを見いだすのである。動きやすい仮説の方面では仏滅年代、結集伝説、経律に関する伝説、アショーカ王誥の言語等に関して、原典自身の批評とは独立に精密な研究が行なわれねばならない。我々はその独立の研究が原典自身の内面的批評の結果と合致することを望むことはできるがその一をもって他の研究の根拠とすることは慎むべきである。」(P.24)

と述べたことが破綻したものと見なければならない。そしてむしろ我々は言語学的内在的研究と歴史考古学的な外在的研究との積極的な結合を模索しなければならない。つまり、「オルデンベルクは二つの方法を混用することによって、現存パーリ三蔵の各部分の成立の継時的順番を決定した。その方法の一つは各部分の類型づけと各類型毎の成立年代の新古の別を明らかにするところの原典内在的分析方法である。もう一つは原典の文献的性質とは別の経律に関する伝説に基づく年代決定方法であり、これは原典超越的方法である。」ところで和辻に言わせれば、この二つの方法は噛み合わない。何故なら前者はただ「現存パーリ三蔵の内部的成立順序」を明らかにするだけであり、他方後者が明らかにするのは「或る特定の経律の成立」ではあるが、これら二者がたとい名称を共有しても同一のものであることの保障はないからである。我々が確実に頼り得るのは現存経典とその確実な延長のみであるから、ただその原典内在的分析方法のみが正しい。かくして和辻はこう結論する「我々が氏に学ぶべきはただ現存経律に含まれたる種々の作品の類型を新と古とに判別するの一点のみである。」(P.16)

 ところがこの和辻のオルデンベルク批判は当たっていなかったのである。実際ここで「現存パーリ三蔵の内部的成立順序」と「或る特定の経律の成立」とが絶対に折衝不可能であるという和辻の主張は必要以上に懐疑主義的であり、更には不可知論的でさえある。「二者がたとい名称を共有しても同一のものであることの保障はない」という命題が一般的に成り立つのであれば、和辻はあらゆる言語表現の可能性を否定したあのアンティステネスやスティルポンの立場に与したのである。むしろ我々はプラトンの打ち立てた弁証法に載って、二つの異なるものは或る意味では同一だが或る意味では違うという世界構造の中に住んでいるのである(注16:二瓶孝次,Article(arthron) in Aristotle and in the Stoa and its significance for the systematization of  the Greek eight parts of speech PART I.Plato as predecessor, 北海道教育大学釧路校紀要「釧路論集」第23号、1991, 第3 節及び注3[本ブログリンク]参照)。

従って原典内在的批判法と超越的批評法との折衝は研究上常に可能である。そしてこのことは一を他によって根拠づけることではなくて、夫々が持つ特質を持ち寄っての相互的援助と成長である。このようにして我々は近代仏教学の健全な出発点に新たに立ち戻ることになる。そして日本における現代仏教学の発展は実はこの健全な道を既に遥かに歩み来たっているのである。(例えば、中村元「原始仏教聖典成立史研究の基準について」参照。)(注17)

注17* この「基準」において中村氏は聖句の新古の度合いを判定する方法として大別して、
   一、聖典自身における引用言及という手掛かり、
   二、言語面における証拠、 
   三、歴史的文化的な証拠
を挙げている。このうち、一は、厳密に言えば、体系理論的か、又は二か三のいずれかに分類し得るものであり、結局証拠の種類としては、体系理論的、又は歴史言語的文化的の二種類が考えられるのみであって、項目二は、和辻の思惑とは違い、その本質においては原典超越的な歴史的性格の証拠なのである。なお、次注参照*

 
8.和辻哲郎『原始仏教の実践哲学』における原始仏教の哲学的思想論的研究の方法的開始

 しかし資料批判としての和辻の方法論の破綻は、原始仏教の哲学的思想論的研究の方法論としてのその意義と価値の喪失を直ちに意味するものではない。何故か?

 資料取扱いの和辻の方法は先に述べたように予め一定の思想的決定を含んでいたが、このことは厳密な資料批判としては避けなければならないことであるが、哲学的性格を持つ思想論的研究法としてならば反って必須の条件なのである。それがなければ同じ土俵に上ることが出来ないのである。従って和辻の資料論の意義は、文献学的言語学的批評としてではないような資料解釈が可能であるか、との問題提起にある。しかもこの問いは常に肯定で答えられ得る。何故ならそれはおよそ文献形式つまり言語表現を持つ思想の研究が可能か、ということなのだから、それは常に可能なのであるという理由による。事実、文献形式を持つ思想に関しては常に二種類の研究が可能である。一つはその言語的表現形式に即した研究、もう一つはその思想内実に即した研究である。そして原始仏教資料に関して言えば、和辻が追求した現存文献内在的批判とは実は本質的には超越的歴史的性格のものであって決して内在的なものではない。何故ならそれは言語学的研究であるがそれもそれによって時代的新古をあぶり出すのが眼目であるからである。即ちそれは古代インド諸語の一般的歴史チャートに重ねあわせて見えてくる経典諸部分の言語的新古の解析なのであるから、古代言語学史という経典外の基準に依頼していて、決して経典内在的ではない(注18: 和辻の思惑とは違って、経典の言語学的分析が歴史的性格を持つということは、例えば和辻自身が参照しているリス・デヴィズの言語発達段階仮説を見れば一目瞭然である。上掲『和辻哲郎全集第5巻』P.21, 注20参照)。

 それに対して和辻が最後に到達したのは確かに内在的研究の方法論である。というのも教理的発達の系統的研究ということは実は所与の文献の理論的体系的研究の一特殊形態(理論の発達史の研究)であって従って本質的に所与文献の限界内で遂行できる作業であるからである。これに対して文献を言語学的に取扱い、しかもそこに新古の推移を見ようとするのは歴史的言語学の応用であるから基本的に文献超越的な歴史的研究なのである。従ってそれは文献内在的でないとして和辻が退けた伝説や具体的事跡等の歴史的考古学的研究と同列のものである。つまり例えば、オルデンベルクの場合における「経典の言語学的類別とその時系列化」対「伝説的事実の考究」、及びリス・デヴィズの場合における「経典用語の種類、叙述の様式、表現せる思想(特に年代的意味を持つ仏塔崇拝の有無等)を手がかりにした文献研究」対「考古学的及び歴史的証拠による年代決定」を和辻は混用してはならない異質の二手法と見ていたが、実はいずれの二者も着眼すべき標識は異なるけれどもすべて歴史的本質において同一である。そしてこれら全てに対して、和辻の提起した立場こそが実は真に文献内在的研究法なのであり、これすなわち理論的体系的研究法にほかならない。なるほど和辻の企図する「理論発達史」は文字通りに解すれば純歴史的研究であるが、しかしここの和辻の場合はそれは論理的脈絡の発見による教理の発達的体系化を意味するのであって、要するに理論的体系構成の一手法でしかなく、これは歴史的に事実的な発達過程とは本質を異にするものである。それに対して本来の資料批判が目的とするのはまさにこの歴史的に事実的な発達過程の解明なのである。確かに、例えばヘーゲル的弁証法においては理論的展開と事実的発達との合致が理想として狙われているかのようであるが、現実には両者は完全には一致しない。

 ではここに至るために何故に和辻はこうまで文献学的資料批判の検討の迂路を回らなければならなかったのであろうか。それは仏教資料の歴史的研究として強固に自己確立しつつあった文献学的研究に対する哲学的理論的研究の自立の獲得のためである。

9.文献学的研究対哲学的研究

 近代仏教学固有の利点を成す文献学的言語学的研究の手法は、上に述べたようにその本質においては歴史事実的研究性格を持っているものである。しかしそれだけではまだ「仏教学」を形成することは出来ないのであって、それにどうしても理論的体系的研究がなんらかの形で伴なわなければならない。理論的体系的研究とは、研究対象を一なるものとして措定することから始まる。そこでもし「仏教学」が「仏教資料の思想的研究」であるのならば、そして文献学的言語学的資料批判の技術によって「仏教資料」がひとまず「事実的時系列的多様」へと分離・解体されるのであるならば、今度はこれらの多様を一において纏め観るのがまさに理論的研究(THEORY;テオーリア)である。

 和辻が初めから求めていたのは実にこのような理論的研究の立場である。しかし、こと仏教学に関しては当時はまだ少なくとも西洋哲学の伝統を引く日本の哲学界の中枢に位置する哲学者たちの一人であった和辻から見ると、仏教学への彼の早くからの実存的関心(注19:これは和辻の所謂「偶像再興」の動機、日本精神史への傾注と一体のものであろう)をいかにして哲学的学問的関心へと公然化することが出来るか、その展望は未開拓であった。そこで彼はどうしても仏教学専門の手法を無視し得ない感にとらわれ、哲学的動機を以てそこに敢然と跳び込んだのである。かくして『原始仏教の実践哲学』序言において和辻は言う、「この書の著者は仏教専門学者ではない。しかしこの書自身は原始仏教の哲学に関する純学術的な研究である。著者はその微力をもってなし得る限り学術的研究としての厳密な手続きを怠らなかった。」この場合和辻が単に哲学的な研究とは言わないで、「純学術的研究、厳密な手続き」ということを強調するのは、彼がこの時点では確かに仏教専門学者と同等の文献学的研究を哲学的研究の基礎として必須と見なしているからである。そして事実この言に違わず彼は「序論 根本資料の取り扱い方について」の六節と七節においてそれぞれ律蔵、経蔵の個別事例の資料研究を実践している。

しかし先にも見たように彼はその資料論の結語において、この種の資料研究は正しい方法が見つかりさえすれば所与資料全体に現実に適用し終わることなしにも思想研究は可能であるとしている。この結論は一見極めて逆説的である。一方において彼は現実的資料批判は貫徹が極めて困難であるとしながら、最後にはその事実的貫徹なしにも方途はあると言っているのである。この間の飛躍を彼はどうして為し得たのかと言えば、それは我々が指摘したように、資料批判の意味がこの間に全く一から他へと本人も気づかぬうちに転化しているからである。即ち、彼が追求した原典内在的資料批判は初めに近代仏教学者たちの文献学的研究にモデルを見ていたが、その到達した所は文献に密着した思想論的内在研究である。なるほど文献密着の一点において始終は筋道が連絡しているが、各活動方面は裏(文献の言語学的形式の歴史的系列化)と表(言表されたる思想の体系的解釈)に分岐している。そして彼の真の目的は後者にある。

「序言」で続けて和辻は言う、「しかしまたこの書は単に仏教研究家にのみ読まるることを目ざしたものではない。原始仏教の資料の内に見いだされ、そうして小乗大乗の哲学の源流となれる一つの独特な実践哲学を、一般の哲学研究者の関心の内に導き入れようというのが著者の目ざしたところであった。だから著者はこの独特な哲学の意義を哲学者の共有財としてでき得るだけ深く理解することに努力し、これを源流とする一つの哲学潮流への歴史的理解への道をも開こうとした。もしこれによってギリシア哲学の潮流に対立する他の思想潮流の特殊性が明らかにされ、哲学の史的考察において常にこの潮流もまた顧慮せられるに至るならば、著者の望みは足りるのである。不幸にして著者はおのが思索力の不足になやまされ、しばしばこの哲学の意義の深さを測りかねるという遺憾を感じた。この点において著者自身がさらに哲学的修養を重ぬべき必要を痛感するとともに、力量ある士がかかる理解の道をさらに徹底的に追究せられんことを望んでやまない。」(P.3 )

10.仏教資料の哲学的研究の出発点

 もし理論的体系的研究が研究対象を一なるものとして措定することから始まり、且つ、「仏教学」が「仏教資料の思想的研究」であるならば、そして文献学的言語学的資料批判の技術によって「仏教資料」がひとまず「事実的時系列的多様」へと分離・解体されるのであるならば、「仏教学」は今度はその理論的体系的側面の研究の開始を「仏教資料」の多様を一において纏め観るところに置くことになる。つまり、端的に言えば、技術的資料批判が完結していようがいまいが、「仏教学」が思想学研究として一応首尾一貫するにはなんらかの意味において資料の一体性を前提しなければならないのである。そこで事実的な歴史的研究としての仏教資料批判が原理上完全な完結を有し得ないとすれば(確かにこの種の研究の前途には完結することのない無限系列の事実が待ち構えている)、仏教学の思想学的自己展開は或る任意の線でその資料研究を打ち切り、自らの責任において対象資料の一括的提示を断行する所から開始する。ただし実際にはこのような方法論的プランは明確に自覚されていることは少なくて、大抵は文献歴史的批判と文献思想的解釈がごっちゃになっている。

 例えばそれは和辻自身がその資料批判としての徹底性を高く買っている仏教学者宇井伯壽の研究に対して指摘していることである。和辻は言う、

 「我々はオルデンベルクやリス・デヴィズから学ぶべき方法として、現存経律の製作年代や発達段階を、経律自身の含む種々の叙述形式、用語の種類、思想内容などより見分くべきことをあげた。次いで漢パ対照による経律の古き原形の探求が効果多かるべきことに言及し、さらにこの原形の経律をもフランケの試みしごとき作品としての取り扱いによって考察すべきであると論じた。これらの方法の意義を充分に理解し遺憾なきまでの精緻と透徹とをもって経律の取り扱い方を詳論したのが、宇井伯壽氏の「原始仏教資料論」である。

 宇井氏はブッダ及びその直弟子の思想の現われたものを根本仏教と名づけ、その後部派対立に至るまでの変遷発達の著しい過渡期を原始仏教と呼んで、これらの根本仏教、原始仏教の資料を現存漢パ経律の内よりいかにして見分くるべきかを論究した。まず初めに漢パのいずれを問わず経律の現形が部派時代に属することを論証し、五部四阿含の所説を直ちにブッダの言葉とするごとき態度が「言語道断」であるゆえんを明らかにした。次いで漢パ一致により推測せらるる原形も原始仏教以後の発達変遷を含みそのままにはアショーカ王以前の資料たり得ざること、この原形よりもむしろ九分教の方が古く、少なくともアショーカ王時代の資料たり得べきことなどを論じた。かくして我々の達し得る最も古き資料は五部中に含まるる九分教の古き部分及びそれと古さを同じくする律の古き部分であるとさるるのであるが、しかしこれらのものも言語学的な考察からアショーカ王以後に幾多の変遷を受けたことが推測され、従ってそのままには根本仏教の資料たり得ざる事になる。ここにおいて根本仏教は、何らか確実な標準の下に律九分教を批評的に取り扱うことによって、論理的推論の上に構成せられなくてはならない。そうしてその確実な標準とさるるものは、ブッダの重要なる事蹟とブッダ当時の一般思想と経律の古い部分の意味とから見いださるべき「ブッダの根本思想」にほかならぬ。

以上の論究は豊富なる材料と精密なる推論とによって試みらるるのであるが、しかし我々はこの論究の内に二つの動機が平行して働いていることを感ずる。一つは現存経律中より根本仏教の資料となるものを見いだそうとする動機であり、他は比較的古いと考えられる資料の解釈によってブッダの根本思想を確定せんとする動機である。後者は本来資料論の奉仕すべき目的として資料論の外にあるべきものであるが、この論文においてはそれが気短かにも資料論の内に現われ、しかも最後にはこの別途に得られたブッダの根本思想が資料批評の最後の標準とさるるに至っている。従って資料批評においてもブッダ根本思想の解釈においてもきわめて深い洞察が示されているにかかわらず、資料論全体としては不徹底の憾みを免れない。我々はむしろ、「経律のみではブッダの説を十分に知ることは不可能である」との断定をもって資料論を打ち切り、ブッダの根本思想はこの不十分なる資料の解釈に基づき氏のいわゆる「論理的推理の上に構成せられるもの」として資料論と引き離すべきであると思う。ブッダの根本思想についての氏の見解は恐らく現在において最も進歩したものであろうが、しかしそれは氏のいわゆる「真相の記されておらない」資料から、事実として認むべき仏伝の粗い輪郭を選び出し、その具体的内容を氏の追体験によって推測しつつ、その視点の下に資料を取捨して構成されたものである。それが真に歴史的人物としてのブッダの内生を言いあてているかどうかは、真相の記されていない資料から真相を掘り出す解釈理解の力に依属する問題であって、資料自身から権利づけられるはずのものでない。経律のいかに古い部分もブッダの言葉や生活をそのままには伝えず、ただ弟子の考察の跡を示すに過ぎぬとの結果に達したればこそ右の方法が取られるのであり、右の方法によってブッダの根本思想が知られたと考えれるる以上、さらにまたこの根本思想を標準として資料の批評確定を試みる要はない。目的はすでに達せられた。その目的を手段のために使用する人はあるまい。」(pp.31-33)

和辻がここで述べていることはまさに仏教学研究の正しい方法である。ただし和辻自身にも思い違いがあったのは先述の通りである。和辻の正しい方法の彼自身への正しい適用は、まさにここで述べられたように、資料批判は資料批判として一定の線で打ち切り、その限界内で思想解釈に取りかかるという形でなければならなかった。それが彼の場合は曖昧であって、資料批判の限界が隠蔽されている。それに対して宇井の場合は自ら資料批判の限界まで徹底することによりその限界を自覚したまではよかったが、専門家的意識に引きずられてこれを中途半端と感じ、更に思想解釈を以て資料批判の継続を企図したのは本末転倒であることは和辻の指摘が当たっている。(ただし、思想体系の確認の後にそれを基準として新たに資料批判を展開することは原理上可能である。また事実和辻が律の発達変遷を辿る時、偉大な宗教者たるブッダがしかじかの行為禁止の細目を命じたはずがない、という推論を行なっているが、この推論は内容からみれば正しいかも知れないが、歴史資料批判としては失格である。しかしこの推論形式はまさに始めに思想ありき、から出発して資料の歴史性を判断するのだから、和辻が宇井に対してとがめたことを和辻自身が行なっているのである。かくして、歴史資料批判は先述のごとく事実無限的過程であるから、それを別の角度から補う形で、理論的立場からの歴史資料批判が可能である。これについては別の機会に論じてみたい。)

 和辻がここまで思い到りながらも、自らの資料論の性格を読み切っていないのは、一つには当時におけるわが国仏教学の資料研究が彼自身言うように十分発達していなかった事情も影響しているであろう。又それに加えて、資料批判の技術を有する研究者がただそれだけの理由で自己の学問の全幅性(思想論的解釈も優越している、等々)を誇り、他の者を寄せ付けないという狭い学界の風潮に挑戦する必要もあったに違いない。しかし簡単に言って、言語が出来る人が直ちに優れた理論家であるわけではない。英語が出来るだけで思想家に成れるわけでもない。赤ちゃんも大学生もジョン・ロックも皆英語が出来るのである。

 逆にもしこれが必要程度に発達した状況にあれば理論的研究は自ら資料論に手を染めることなしに、与えられている資料論の諸成果から任意に適切と思われるものを「底本ないし底本群」として選び、その範囲内で体系的研究に専念してよいのである。そして現在我々はこのような幸運な状況にあることを認めることが出来る。

11.理論的研究のための仏教資料論の底本群の決定

 そこで我々は今、我々の仏教学研究としての理論的研究のための仏教資料論の底本群として

     中村元『原始仏教 1-5』すなわち、
        『原始仏教 1 ゴータマ・ブッダ 釈尊の生涯』
        『原始仏教 2 原始仏教の成立』
        『原始仏教 3 原始仏教の思想 上』
        『原始仏教 4 原始仏教の思想 下』
        『原始仏教 5 原始仏教の生活倫理』
(注20: 中村元選集第11-15巻,1969-1972 年,春秋社、東京)
を選択する。その主要な理由は次のとおりである。

 一、中村元の仏教資料研究は、我々がこれまで見てきた和辻及び宇井の研究の強い刺激のもとに行われて来たことが認められるので、我々にとって資料論の基本的連続が期待出来ること(注21: 中村元『今なぜ東洋か』1979年、TBSブリタニカ、東京、P.208 参照)。

 二、中村元の仏教資料研究は、世界的レベルで見ても最も進んでいるわが国の仏教資料研究の中で常に指導的であり且つ最も包括的であって、均衡を保っていること。

 三、これらの諸研究に関わる資料批判の基準が明記されていること(第六編参照)。
なおその他の研究者たちの諸研究も我々の理論的課題の論究の過程で適宜参考資料として参照されるのは当然であろう。

12.原始仏教の理論的研究の出発点

 研究資料の決定後直ちにその理論的研究に取りかかることが可能であるが、出発点をどこに置くかの問題は一義的には解けない。それは論究自体の究極目標に依存するであろう。そして我々のこの研究は和辻の開始した仏教哲学的研究の原理的延長たることを企図するものであるから、ここで先ずその先例を考察するのが我々の出発点の決定に役立つであろう。

 和辻は資料の取り扱い方を決定した後、理論的考察の最初にブッダの根本的立場を追求し、それをブッダ時代の社会思想史的展開におけるブッダの画期的回転として見ようとし、具体的にはブッダと同時代の代表的な思想家たちであった仏典に所謂「六師外道」の自由思想及び伝統的且つ支配的なバラモン思想との比較研究からブッダの新しい根本的立場を解明した。そしてそれは、伝統思想の形而上学的実在論と自由思想の感覚的唯物論のいずれとも背反する第三の立場であって、要するに形而上学的乃至反形而上学的性格を欠落した「法」(素朴なる、即ち主観客観未分化の日常生活的経験における現実存在の範疇:五蘊六入縁起等)の認識の立場であるとされる。(第一章)

 この結論はしばらく措くとしても、初めに社会思想史的比較によりブッダの根本的立場を解明するという着想は見事である。いわく「仏教の新しい立場は確かに仏教の根本思想の理解によって明らかにされるであろう。しかしその新しい立場が何に対する革新を意味しているかは、その時代の、あるいはそれ以前の思想を知ることなくしては明らかにならぬ。ただかかる思想を知る方法として、外から、すなわち後代に明らかな形を得た数論[サーンキャ哲学]の源流を推測しつつ考察するよりも、内から、すなわち仏教の経典自身の含む豊富な材料によって考察すべきだ…。前に述べたごとく経典に描かれたブッダは同時代の哲学的思索を真に哲学的思索として価せざるものと認めた。これらの斥けられた哲学的思索を明らかにすることは、やがて仏教の新しい立場を明らかにするゆえんであろう。」(P.99)

ブッダの思想的立場を同時代の思想潮流との比較から明らかにしようとするこの手法は社会思想史的・比較思想論的分析である。もっとも和辻はそれらに関する情報が他ならぬ仏典に記載されているからこれは内在的分析であると信じているが、ありていに言えばそれは違っている。社会思想史的・比較思想論的分析はその本質上超越的性格のものである。そのことにとって必要な情報がどこから得られるかは本質には関わらない偶然事である。ただしその比較的関係が「仏教によって斥けられた」との規定から考察されることは本質的なことである。何故ならこれはカントの所謂「無限的判断」(unendliche Urteile)を構成するのであって、無限的判断は「性質」(Qualität)の「カテゴリー」(Kategorie )において「実在性」(Realität),「否定性」(Negation)と並ぶ第三のカテゴリーである「制限性」(Limitation)を与える。そしてカントにあっては第三のカテゴリーは第一と第二との結合から生じるので、この場合も第三たる「制限性」(Limitation)は第一の「実在性」(Realität)と第二の「否定性」(Negation)との結合を意味する。即ち「制限性は否定性と結合した実在性にほかならない。」(注22: カント、篠田英雄訳『純粋理性批判 上』1961年、岩波文庫版、東京、P.143-157 参照)

 従って無限的判断へと換質可能な否定的判断は「制限性」という極めて理論的・思想的な重要な規定を与えるのである。例えば、「甲は乙でない」という「甲による乙の排除」を意味する否定命題は、換質(obversion )という論理学的手法によって、「甲は非乙である」という肯定命題に変換し得る(注23)。

注23* 換質(obversion )とは、「一つの判断の質を変じて、これと同一なる意味を現はさんと欲する論理的方法をいふ。 ……規則、一つの判断を換質せんと欲せば、先ずその客語を否定し、然る後その質を変ずべし、但し、その量を変ずる事なかれ。……「SはPなり」の換質は、「Sは非Pならず」となる。……「SはPならず」という否定判断の換質は、「Sは非Pなり」となる。」須藤新吉『論理学綱要』1947年、内田老鶴圃新社、東京、P.77-78参照*

 この種の命題をカントは「無限的判断」と言うのであるが、それは「非乙」という規定が「無限定的限定」となっているからである。否定が何故に一種の限定を成すかと言えば、否定は論理学的意味における「周延」(distribution)を有する(周延されている distributed)からである。

 周延を有するということは一種の閉空間を成すということである(注24)。

注24* 「ある命題において一つの名辞が周延している(distributed )とは、その名辞の外延のすべての要素について一定の関係が指定されていることを言う。そうでない時、その名辞は周延していない。」末木剛博・岩野秀明・石垣寿郎・丸山豊樹・石黒満・國嶋一則『知の根拠としての論理学』1987年、公論社、東京、P.72参照*


従って「甲は非乙である」という判断は少なくとも「乙という規定との関係から生じる非乙という規定」を明確に有する点で「制限性」を持つのである。要するにこの場合、甲は積極的にそれが何であるかは明きらかではないが少なくとも「非乙の範囲内」に入っていることは確実である。

 これは思想研究の比較的手法における極めて重要且つ効果的な論理学的要素である。我々も先ずこのやり方を以て出発点としたい。即ち、今、「ブッダによって斥けられたる哲学的立場」を記号Qで表わせば、B(釈尊の悟り自体)に関して、「Bは非Qである」という制限的規定が得られることになる。つまりBは今積極的には何であるとも明らかでないが少なくとも「非Qの範囲内」に所属することが確実である。このように制限されたBを、B(非Q)と表記しよう。他方、本来の資料批判によって到達されるE(初期仏教経典)の解釈によって知られる限りのBを、B(E)と表記しよう。そうすると、B(E)は少なくともB(非Q)の範囲内に属していなければならないことになる。何故なら、B(非Q)は超越的比較から見たBの制限的規定であるから、単にEに即して内在的に見られたB(E)よりも範囲が広いからである。換言すれば、B(E)はB(非Q)という制限の外にはみ出るような哲学的含意を持つ解釈であってはならないのである。(以下中篇)

(初出「北海道教育大学学紀要(第一部A)第45巻1号」1994)
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§3 原始仏教(釈尊)の基本的立場(中)

§3 原始仏教(釈尊)の基本的立場(中)

         釈尊の悟りと道徳的発達(中) 行為の因果律と最善観的輪廻転生論 
 
                目  次
  13.釈尊によって斥けられた哲学的諸立場としての「六師外道」
  14.六師外道(1) サンジャヤ・ベーラッティプッタの懐疑論とその克服(行為の因果律)
  15.六師外道(2) マッカリ・ゴーサーラの宿命論,六師外道(3) プーラナ・カッサパの道徳否定論,
    六師外道(4) アジタ・ケーサカンバリンの唯物論とそれらの克服(行為とその主体)
  16.六師外道(5) パクダ・カッチャーヤナの七要素説とその克服(行為の主体としての霊魂)
  17.六師外道(6) ニガンタ・ナータプッタのジャイナ教(業付随論)とその克服(業本質論)
  18.行為の評価の結果論(ジャイナ教)と動機論(仏教)
  19.善悪業の結果としての報いの分岐:因果応報の理
  20.良心・人格完成者・神々に対して悪は隠し得ない
  21.多神教的有神論の立場としての原始仏教
  22.釈尊における超能力(神通力)の保持とその使用の抑止(三カッサパの帰服)
  23.釈尊の悟りにおける超能力と道徳性
  24.仏教における「梵天」とは何か? また誰か?
  25.神々(霊的職能者)=人々(個体的生存者)の道徳修養と仏教的輪廻転生論

13.釈尊によって斥けられた哲学的諸立場としての「六師外道」

 今、釈尊によって斥けられた哲学的諸立場を記号Qで表わせば、B(釈尊の悟り自体)に関して「Bは非Qである。」という制限的規定が得られることになる。このように制限されたBをB(非Q)と表記しよう。他方、本来の資料批判によって到達されるE(初期仏教経典)の解釈によって知られる限りのBをB(E)と表記しよう。そうするとB(E)は少なくともB(非Q)の範囲内に属していなければならないことになる。何故ならB(非Q)は超越的比較から見たBの制限的規定であるから、単にEに即して内在的に見られたB(E)よりも範囲が広いからである。換言すればB(E)はB(非Q)という制限の外にはみ出る哲学的含意を持つ解釈であってはならない。このことは「B(E)はB(非Q)である。」という命題で表すことができる。

そこで今度は具体的に釈尊によって斥けられた諸哲学的立場Qを挙げるならば、いわゆる「六師外道」が代表的なものとして考慮されなければならない。[釈尊は六師よりも年が若かった。それはつまりかれが六師の思想的影響を受け、それをのり越えたところに自分の立場を見出したことを示す。コーサラ国のパセーナディ王が<孤独なる人々に給する人の園>に訪ねて来て、釈尊にいった。『あなたゴータマは無上のさとりを体得したと宣言なさるのですか?』これに対してゴータマ・ブッダは答えた。『大王よ。<無上のさとりを体得した>と正しく語り得る者があるとするならば、それはわたしのことです。何となれば、わたしは無上のさとりを体得したからです。』

ところがパセーナディ王は、ゴータマ・ブッダは生意気だと思った。詰問していう。『きみゴータマよ。教団をもち、仲間をもち、衆の師であり、名声ある指導者であり、多くの人々に行者として承認されている修行者・バラモンたちがいます。例えば、プーラナ・カッサパ、マッカリ・ゴーサーラ、ニガンタ・ナータプッタ、サンジャヤ・ベーラッティプッタ、パクダ・カッチャーヤナ、毛髪の衣をまとうアジタです。わたしが「あなたは<無上のさとりを体得した>と宣言しますか?」と尋ねたとき、かれらでさえもそのようには宣言しなかった。まして、あなたゴータマは年も若く、出家者としても新参者ではないですか?』

これにたいしてゴータマ・ブッダは断乎として答えた。『若いからといって侮ってはなりません。若いからといって軽蔑してはなりません。』…後輩であったにもかかわらず、ゴータマ・ブッダに自信をもたせたものは、かれが真理に達しているという確信であった。](ii,165~166)(注1)

注1* ローマ数字の i-v は、中村元『原始仏教 1-5』すなわち、『原始仏教1 ゴータマ・ブッダ 釈尊の生涯』、『原始仏教2 原始仏教の成立』、『原始仏教3 原始仏教の思想 上』、『原始仏教4 原始仏教の思想 下』、『原始仏教5 原始仏教の生活倫理』(中村元選集第11-15巻、1969-1972 年,春秋社、東京)とその頁数を表す。その引用文は[ ]で示した。以下同様。なおそこに掲げられている典拠をここに再掲はしない*

[マガダに対立する大国としてコーサラ国があった。シャカ族はもともとコーサラ国に従属していたのであった。釈尊の言として次のように伝えられている。『あちらの雪山(ヒマーラヤ)の中腹に、一つの民族がいます。昔からコーサラ国の住民であり、富と勇気を具えています。種姓に関しては<太陽の裔>といい、生れに関しては<サーキヤ族>(釈迦族)といいます。わたくしはその家から出家したのです。』

このコーサラ国が自分の種族であるシャカ族を支配していたのであるから、コーサラ国においてゴータマ・ブッダが特に王権に対してはたらきかけたのは当然のことであろう。…当時の国王パセーナディは釈尊とほぼ同年齢であったらしい。晩年にかれはこう言った。『尊師も王族であり、わたくしも王族である。尊師もまたコーサラ人であり、わたくしもまたコーサラ人である。尊師もまた八十歳であり、わたくしもまた八十歳である。』…ゴータマ・ブッダはパセーナディ王とよほど親しくしていたらしい。この王は美食大食をしていたために、歩くと呼吸が苦しくなるほどであった。そこで釈尊はかれに小食を実行させたところが、健康を回復したという。](i,360~362 )

 釈尊のこの確信と自信は、元来すでに悟りを得たその時点から形成されたものであるが、釈尊の在世中の最後の弟子となったスバッダの説得の時に至るまでも変わることなく堅持されている。それは釈尊臨終の時であった。[釈尊が病い重く、横臥しているとき、『アーナンダは尊師の背後にいて敷物によりかかって、涙を流して泣いていた』のであるが、そのありさまを見て、釈尊は次のように教えた。

『やめよ、アーナンダよ。悲しむなかれ、嘆くなかれ。アーナンダよ。わたくしはかつてこのように説いたではないか、--すべて愛するもの・好むものからも別れ、離れ、異なるに至るということを。およそ生じ、存在し、つくられ、破壊さるべきものであるのに、それが破滅しないように、ということが、どうしてありえようか。アーナンダよ、そのようなことわりは存在しない。アーナンダよ。長い間、お前は、慈愛ある、ためをはかる、安楽な、純一なる、無量の、身とことばとこころとの行為によって、向上し来れる人(=ゴータマ)に仕えてくれた。アーナンダよ、お前は善いことをしてくれた。努めはげむことを行え。速かに汚れのないものとなるだろう。』

そこへマッラ族の人々が集まったので、『アーナンダは、尊師に敬礼せしめた。』…『そのときスバッダという名の遍歴行者がクシナーラーに住んでいた。遍歴行者スバッダは「今夜最後のときに道の人ゴータマは亡くなるであろうとのことだ。」と聞いた。…かれはアーナンダのもとに近づいて言った。……「わたくしにはこの疑いが起こっている。しかし《わたくしがこの疑いを捨てることができるような教えを道の人ゴータマは説くことができる》と。このようにわたくしは道の人ゴータマに信頼をいだいている。さあ、アーナンダさん。道の人ゴータマに会わしてください。」と。

こういったときアーナンダは答えた「スバッダさん。修行をつづけて来られたかたを悩ましてはなりません。先生は疲れておられるのです。」』スバッダは三度いい張ったが、アーナンダは三度とも拒絶した。『尊師は、アーナンダがスバッダとこの会話を交わしているのを聞いた。そこで尊師はアーナンダに告げた、「やめなさい、アーナンダよ。遍歴行者スバッダを妨げるな。入って来い。何でも欲することを聞け。」と。

そこで遍歴行者スバッダは尊師のもとに赴いた。…かれは一方に坐して、尊師にこのことを尋ねた。「ゴータマさんよ。この諸々の修行者やバラモンたち、つどいをもち徒衆をもち徒衆の師で、知られ、名声あり、開祖として大衆に崇敬されている人々、例えば、プーラナ・カッサパ、マッカリ・ゴーサーラ、アジタ・ケーサカンバリン、パクダ・カッチャーヤナ、サンジャヤ・ベーラッティプッタ、ニガンタ・ナータプッタ--かれらはすべて己が智をもって知ったのですか?あるいはすべて知っていないのですか?その或るものは知っていて、或るものは知らないのですか?」』この疑問に対して釈尊は直接に答えることなく、つぎのように答えたということが、詩のかたちで伝えられている。『スバッダよ。わたしは二十九歳で善を求めて出家した。スバッダよ。わたしは出家してから五十年余となった。正理と法の領域のみを歩んで来た。これ以外には《道の人》なるものも存在しない。』かくしてスバッダは釈尊の最後の弟子となった。](i,461~463 )

 ここには「十難」(注2)(世界は時間的に①無限か、②有限か。空間的に③有限か、④無限か。身体と霊魂とは⑤一つか、⑥異なるか。人格完成者「如来」は死後⑦有るか、⑧無いか、⑨有り且つ無いか、⑩有らず且つ無からずか。という十の難問)に対して釈尊は肯定否定いずれの回答もせずに(無記)、完全黙秘し、そのような論議と探求の無意義であることを弟子たちに説いて止めさせたというエピソードに沿う釈尊の純哲学的論議回避の姿勢がやはり出ている。

注2*「十難」については、三枝充悳『初期仏教の思想』(1978年,東洋哲学研究所、東京)が良く整理して考究しており、中村の論考を補足し得るのでそれに従った。pp.45-55参照*


しかしそもそも釈尊が純哲学的論議回避を貫徹したことの真の意味は何であったか。『わたしは二十九歳で善を求めて出家した。スバッダよ。わたしは出家してから五十年余となった。正理と法の領域のみを歩んで来た。』という明確な自己認識からしたら釈尊に究極的な哲学的立場が見えていなかったとは考えられない。この意味で釈尊の立場は六師の一人サンジャヤの懐疑論とは異なっている。事実、サンジャヤは、自分の優秀な弟子であるサーリプッタとモッガッラーナが他の全ての弟子たち250人を引き連れて釈尊のもとにあらたに弟子入りするという人の師と自認する者の最大の屈辱を喫している。サーリプッタとモッガッラーナは釈尊の左右を占める二大弟子となったほど優秀な人たちであった。その彼らがサンジャヤを捨てて新たに師と定めたほどの大きな違いが釈尊には認められたのである。

14.六師外道(1) サンジャヤ・ベーラッティプッタの懐疑論とその克服(行為の因果律)

 [サーリプッタとモッガッラーナとがサンジャヤの徒衆をひきつれて仏教に帰したことは、最初期の仏教にとって重要な一大事件であった。この二人は通常釈尊の十大弟子のうちでも特に有力な二大弟子として伝えられ、サーリプッタは智慧第一、モッガッラーナは神通第一と称せられている。ところでサンジャヤはいわゆる「六師の一人」として有名な懐疑論者であった。マガダ王アジャータサットゥは釈尊に向かって、サンジャヤの教えを次のように告げている。

『ベーラッタ族のサンジャヤは次のように言った、--「大王よ、もしもあなたが《あの世は存在する》ということについて問うた場合に、わたくしがもしも《あの世は存在する》と考えたのであるならば、《あの世は存在する》とあなたに答えるでしょう。しかしわたくしはそうだとは考えない。そうらしいとも考えない。それとは異なるとも考えない。そうではないとも考えない。そうではないのではない、とも考えない。もしもあなたが《あの世は存在しない》ということについて問うた場合に、わたくしがもしも《あの世は存在しない》と考えたのであるならば、《あの世は存在しない》とあなたに答えるでしょう。しかしわたくしはそうだとは考えない。そうらしいとも考えない。それとは異なるとも考えない。そうではないとも考えない。そうではないのではない、とも考えない。もしもあなたが《あの世は存在し、また存在しない》ということについて問うた場合に、わたくしがもしも《あの世は存在し、また存在しない》と考えたのであるならば、《あの世は存在し、また存在しない》とあなたに答えるでしょう。しかしわたくしはそうだとは考えない。そうらしいとも考えない。それとは異なるとも考えない。そうではないとも考えない。そうではないのではない、とも考えない。もしもあなたが《あの世は存在せず、また存在しないのでもない》ということについて問うた場合に、わたくしがもしも《あの世は存在せず、また存在しないのでもない》と考えたのであるならば、《あの世は存在せず、また存在しないのでもない》とあなたに答えるでしょう。しかしわたくしはそうだとは考えない。そうらしいとも考えない。それとは異なるとも考えない。そうではないとも考えない。そうではないのではない、とも考えない。](i,345~346 )(以下同様に、《自然発生の生きものが存在する》……、《善業と悪業の果報のあらわれは存在する》……、《人格完成者は死後に存在する》……、等の命題について同様の「鰻のようにぬらぬらして捕え難い議論」(ii,111)が述べられる。)

[このように判断中止の思想を説いたサンジャヤの弟子全部を引きつれて、サーリプッタとモッガッラーナがゴータマ・ブッダに帰し、しかも進展途上の仏教教団の中核を形成したという事実は、仏教が懐疑論をのり超えて、それにうち勝ったものとして、世にひろがった経過を示している。初期の仏教教団が、形而上学的議論を拒否したことは、一度サンジャヤの立場を通過したことを示している。しかし原始仏教の立場は決してそれにとどまらなかった。それを超えて、右のアッサジの詩が示すように、ありとあらゆるものが因縁によって成立するものであると説く積極的な立場を打ち出しているのである。](i,346~347 )

 ここに、「右のアッサジの詩」というのは、サーリプッタとモッガッラーナがその托鉢姿の清らかさに打たれて近づいた仏弟子アッサジが初めて教示した<法に関する教え>である。すなわちアッサジは、自己の師の教えを問われて、「友よ。わたくしは新参者で、出家して日浅く、この教えと戒律をいま奉じたばかりです。わたくしはあなたに教えを詳しく説き示すことはできませんが、しかし簡略に要点をお話しましょう。」と断りながら次のように語った。

「もろもろの事がらは原因から生じる。真理の体現者はそれらの原因を説きたもう。またそれらの止滅をも説かれる。偉大なる修行者はこのように説きたもう。」「もしもこれだけが教えであるとしても、それだけで充分である。」と彼らは満足し、新たな真理のまなこを開かれ、アッサジの師たる釈尊に自分たちも師事することを決意する。(i,334~341 )

 さて、サンジャヤの鰻のような懐疑論を払拭する釈尊のこのように明確な因果律の立場は後で詳しく見るように人間行為の場面に最も顕著に妥当するものとして、行為の因果律と呼ぶことが出来るが、この行為の因果律の立場は他方では六師外道のうちの他の主張、即ちマッカリ・ゴーサーラの宿命論的人生観、プーラナ・カッサパの虚無論的道徳否定論、アジタ・ケーサカンバリンの唯物論をも克服する哲学的立場である。

15.六師外道(2) マッカリ・ゴーサーラの宿命論,六師外道(3) プーラナ・カッサパの道徳否定論,六師外道(4) アジタ・ケーサカンバリンの唯物論とそれらの克服(行為とその主体)

 実際、マッカリ・ゴーサーラの宿命論は全世界事象の完全な決定論的必然性の軌道に乗った展開を説くものであって、個々の人間の個々の行為も例外では有りえず、それらが織り成す輪廻の流れも予め決定されているという。[『輪廻は、桝によって量り定められた苦しみと楽しみであるとして、終末に達するのである。またそれの盛衰もなく増減もない。あたかも糸毬が投げられると、解きほごされて糸の終わるまでころがって行くように、愚者も賢者も流転し輪廻して、ついに苦しみの終わりをつくり出すであろう。』](ii,85 )

 これに対して釈尊は、個人的主体の随意の心の持ち方に従って人間的事象の万事が起こると言う。

「一  ものごとは心に基づき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行なっりするならば、苦しみはその人につき従う。--車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。
 二  ものごとは心に基づき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。--影がそのからだから離れないように。」
 (中村元訳『ブッダの真理の言葉・感興のことば』岩波文庫版、1978年、P.10)

 この、善因(清らかな心)→ 楽果(福楽)、悪因(汚れた心)→ 苦果(苦しみ)の理法は正に、行為の因果律と呼ぶのがふさわしい。そしてこの行為の因果律は、先にアッサジの詩に示されたように「もろもろの事がらは原因から生じる。」という一般的因果律の応用またはそのより基本的・普遍的な根拠律である。この問題は縁起説の検討として続稿で詳論したい。

 次に、プーラナ・カッサパの虚無論的道徳否定論とは「善い行為を行なっても、悪い行為を行なっても、その報いを受けることはない」との説、更には「善悪の区別そのものの否定」の説であって、次のように語られる。[『この世において(他人の身体を)切断し、(他人を)殺し、(他人を)傷つけ、(他人の)財産を奪おうとも、カッサパはそれらの(行為の中に)悪を認めない。また(善い行為をなしても、その行為の中に)みずからの功徳を(認めない。)』(ii,72)このような世間的道徳習俗を守らない人を最初期の仏教は「虚無論者」と呼び、虚無論を排斥した(ii,74 )のは、世間的道徳一般の理論的且つ実践的基礎としての行為の因果律を保守する限り当然である。

また次に、アジタの唯物論は[ウパニシャッドに説くような普遍我を否認し、霊魂と身体とは不可分のものであって、死後に霊魂は存在しない、と主張した。…『「愚者も賢者も、身体が破壊したのちには、断滅し消滅する。かれらは死後には存在しない。」と。毛髪の衣を着たアジタは、このように道の人としての実践生活の現に経験される果報を問われても、つねに断滅論を説いた。』](ii,102~104)[来世が存在しないと考える快楽主義者のいたことを、ジャイナ教聖典も伝えているし、また仏典が伝える六十二見のうちの<現在ニルヴァーナ論>のうちの或るものもそれと軌を一にする。…このような唯物論・快楽論の思想はインド一般に順世派あるいはチャールヴァーカと呼ばれている。(漢訳仏典では「順世外道」と呼んでいる。)…ところで思想史的には恐らく、道徳否定論の主張がまず最初に一般社会において支持を受け、それを基礎づけるものとして唯物論的形而上学が説かれるようになったらしい。ゴータマ・ブッダはこのような頽廃的・破壊的な思想にくみすることができなかった。かれは善を求め、道を求めた。かれのこの踏み切りの中に、後世仏教が偉大な建設的宗教として発展するに至る萌芽を認めることができる。](ii,105)

 さて、しかし断滅論としての唯物論を退ける仏教の取るべき立場はどのように性格づけたらよいであろうか。またこれとともに、もし仏教の有名な「無我論」が「自我の文字通りの絶無論」と解されるならば、明らかにそれは釈尊により唯物論的断滅論と機軸を同一にするものとして退けなければならないから、では一体「無我」とはどのような意味で理解したら仏教的なのであろうか。この点について、やはり外道六師の一人パクダ・カッチャーヤナの七要素説は一縷の手がかりを提供するであろう。

16.六師外道(5) パクダ・カッチャーヤナの七要素説とその克服(行為の主体としての霊魂)

 [一部の思想家は唯物論的な形而上学を唱えた。唯物論者は霊魂を身体と一体と見なしたのであるが、一部の思想家は霊魂という独立の原理を認めるとともに、それを物質的なものとみなして、身体を構成している物質的諸要素と同じ資格のものと解した。物質的な地・水・火・風・虚空という五元素のほかに、アートマンを第六の要素と見なす説が当時行なわれていたということを、ジャイナ教の聖典は伝えている。こういう思想傾向の一つの発展形態としてパクダの七要素説が現われたのである。…かれによると、人間の各個体は七つの集合要素すなわち地・水・火・風の四元素と苦・楽と生命(霊魂)とから構成されている、という。ここでは苦と楽というものを、個人的主観の属性あるいは様態のようなものとは考えないで、むしろ独立な実体的原理と解しているのである。これら七つの要素は作られたものではなく、創造されたものでもなく、他のものを産み出すこともない。これらは山頂のように不変であり、石柱が堅固であるように安定している。これらは動揺せず、変化せず、互いに他を害うこともない。互いに他のものに苦または楽を与えることもない。人間各個人はこのような多くの要素から構成されているのであるから、一人の個人が他の個人を苦しめ、あるいは楽しませることもないのである。このような要素集合観においては霊魂の独立性・主動性は認められないことになる。そこで実践の問題に関しては異様な結論がみちびき出される。--故に世の中には、殺す者も殺さしめる者もなく、聞く者も聞かしめる者もなく、識別する者も識別せしめる者も存在しない。利剣を以て頭を断つとも、これによって何びとも何びとの生命を奪うこともない。ただ剣刃が七要素の間隙を通過するのみである--と。](ii,76~77)

唯物論的な霊魂断滅論を斥るということは、従って、逆にただちにこのようなパクダ的な物質的霊魂観に立つということを意味しない。認められるべき霊魂はこのような惰性的なものではなくて、自主的活動的にして有責感のある原理に基づくものでなければならない。簡単に言えばその霊魂は、行為(業)の主体でなければならない。(ii,139-210)

 はたしてこれまでに見た六師のうちの五人は全てが固有の意味での行為(業)の主体を認めないことが今はっきりした。即ち、マッカリ・ゴーサーラの宿命論,プーラナ・カッサパの道徳否定論,アジタ・ケーサカンバリンの唯物論は勿論として、サンジャヤ・ベーラッティプッタの懐疑論でさえ、その懐疑論を厳密に徹底すれば実践論において行為とその主体について明確な断定は主張し得ないのである。(ii,113-114)他方、六師のうちあと一人残ったニガンタ・ナータプッタのジャイナ教の場合には、そこに仏教と同様に、行為(業)とその主体についての明確な説を認めることができる。しかし仏教との相違も次に見るように明らかである。

17.六師外道(6) ニガンタ・ナータプッタのジャイナ教(業付随論)とその克服(業本質論)

 [当時の思想界においては、種々の思想が対立し、互いに争っていたが、どれを採用したとしても解脱の障礙があるとして、サンジャヤは懐疑論に陥ったのであるが、しかし懐疑論の立場にとどまる限り、われわれがどのように実践すべきかという問題に関しては、いかなる指示をも与えることができない。そこでマハーヴィーラ〔ニガンタ・ナータプッタ〕は懐疑論の立場を超出し、知識の問題に関しては次のように主張した。事物に関しては絶対的なあるいは一方的な判断を下してはならない。事物は種々の立場から考察され得るから、多方面にわたって考察すべきである。もしも何らかの判断を下そうとするならば、「或る点から見ると」という制限を付して述べなければならない。例えば事物は、実体または形式という点から見ると常住であると言い得る。同時に状態または内容という点から見ると、無常であると言い得る。……この観察法を「見かた」という。それは「言い表わしの方法」であり、また「理解の規則」でもある。この点にもとづいてジャイナ教の立場は不定主義(相対主義)と称せられる。『諸々の事物のあらゆる状態を一切の認識方法と一切の観察法の規定とによって認識した人は、詳細な知識を楽しむ者と呼ばれる。』そうしてこの立場にもとづくならば、判断を陳述し、哲学説を組織し得ることを主張して、サンジャヤの懐疑論から脱出することができたのであった。](ii,124~125)

[インドの哲人はみな多かれ少なかれ人生が苦しみに充ちていることを教えているが、マハーヴィーラは特に現世の悲惨・苦悩を痛切なことばを以て強調している。『生きものは生きものを苦しめる。見よ!世間における大なる恐怖を。生きものは実に苦しみが多い。人間は愛欲に執著している。かれらは無力な脆き身体もて破滅に赴く。』…この『始めの無い〔永遠の昔からの〕一切の苦しみおよびその根源からの解放(解脱)』がジャイナ教の理想であった。初期のジャイナ教徒は輪廻の観念をはっきりといだいていたし、また無常の説も述べていた。](ii,127~128 )

[さて、この苦悩を解脱するために、ジャイナ教は形而上学的考察を開始する。宇宙は多くの要素から構成されているが、それらを大別して霊魂と非霊魂との二種とする。…霊魂は地・水・火・風・動物・植物の六種に存するから六種の霊魂がある、と考えられるという。…霊魂の本質は意志を含めた知と生命性とである。…したがってジャイナ教は唯一の常住遍在なる我を認めず、多数の実体的な個我のみを認める多我説に立っていると解せられている。さらにジャイナ教のやや後世の霊魂観によると、霊魂はその宿る身体に応ずるだけの大いさを有し、また上昇性をもっているという。…この二つの性質はジャイナ教の霊魂観の特徴として、後世有名になった。…物質は無数に存在し、多数の物体を構成し、場所を占有し、色・味・香・可触性を有し、また音響と暗黒と光輝と光明と影と灼熱とを特質としてもっているという。また物質は活動性と下降性とを有する。物質は業の力によって霊魂の周囲に付著し、その下降性の故に霊魂を身体の中にとどめ、上昇性を発揮することができないようにする。…世界はこれらの実在体によって構成されていて、世界(loka)の外に非世界(aloka )がある。世界と非世界との両者を合わせたものが全宇宙、あるいは自然世界である。宇宙は永遠の昔からこれらによって構成されていて、太初に宇宙を創造しあるいは支配している主宰神のようなものは存在しない。主宰神を否認したという点では仏教とも共通であり、後世のインドではジャイナ教は無神論の代表のように見なされた。](ii,130~134)

[人間の身体が活動して身・口・意の三業を現ずると、その業のために微細な物質が霊魂を取り巻いて付着する。これを流入と称する。これは漢訳仏典で「漏」と訳されることばである。ただ仏典では「漏」とは「漏泄」の義であると解するがジャイナ教徒はこの語(asrava)を「流れ入る」という意味に解した。…業に由来するその微細な物質は、霊魂を囲んで微細な身体(業身)を形成し、霊魂を束縛し、霊魂の本性を覆っている。このことを繋縛(けばく)と称する。この繋縛の故に、諸々の霊魂は地獄・畜生・人間・天上の四迷界にわたって輪廻し、絶えず苦しみの生存を繰り返している。…業の束縛の存する限り、われわれの生存は苦であると言わねばらぬ。なおここで、神々の世界もやはり迷いの領域に属すると考えていたことは注目すべきであろう。](ii,137~138)

[業に束縛されたこのような悲惨な状態を脱し、永遠のやすらぎである至福の状態に達するためには、一方では苦行によって過去の業を滅するとともに、他方では新しい業の流入を防止して、霊魂を浄化し、霊魂の本性を発揮せしめるようにしなければならない。これを制御と称する。…まず第一に遵守すべきものは、不殺生・真実語・不盗・不婬・無所有の五つの大戒である。ジャイナ教の修行者は戒律を厳格に遵守し、…不殺生戒は特に重要視され、…極端な不殺生主義を守って…さらに…種々の苦行を修めなければならない。ものすごい苦行の実状が叙せられている。…仏教では一般的傾向としてはこういう苦行を排斥するから、この点が異なっている。…ジャイナの修行者は占いや観相を行なってはならず、また種々なる医療を行なってはならぬと規定しているが、これはまたちょうど最初期の仏教でも規定していることである。…なおジャイナ教は行為の善悪の問題については、仏教の動機論とは反対に、結果論の立場に立っていた。…このような修行によって業の束縛が滅ぼされ、微細な物質が霊魂から離れることを止滅と称する。その結果罪悪や汚れを滅ぼし去って完全な知慧を得た人は修行完成せる人となり、…身体の壊滅とともに完全な解脱が完成する。…身体が死するや、解脱した霊魂は本来有する上昇性を発揮して上方に進行し、世界を脱して世界の絶頂に存する非世界という領域に到達する。…さて非世界に到達すると、そこにおいては霊魂はその本性において現われ絶対の安楽が得られる。これが真の解脱であるという。(ii,139~160)

 このように行為(業)についてジャイナ教の基本的見方は否定的である。つまり、業は霊魂を束縛する結果を生ずるのである。従って善業とは、逆に、そのような業の可能な限りの縮減以外にない。故にジャイナ教の業論の論理的帰結は、業の減滅という完全消極主義となる。これに対して、仏教の業論は、必ずしも消極的ではなく、本来、業(意・口・身の行為)の改善・浄化を目指す積極的向上主義である。中でも思いという心の行為そのもの(意業)が最も重要視され、従って業の改善とは直ちに心の改善を意味する。この点で行為一般を霊魂の理想態から背反的に切り離したジャイナ教とは正反対である。つまりジャイナ教の業論は「業は霊魂にとって本質的ではなくて偶有的付随的である」というものであるが、仏教のそれは「業は心にとって常に本質的な働きである」というものである。この相違は、身体の行為と結果を主要と見るか、それとも心の行為と動機を第一義と見るかの相違と関連している。

18.行為の評価の結果論(ジャイナ教)と動機論(仏教)

 事実、行為の規定と評価に関しジャイナ教は身業優先論・結果論を取り、仏教は意業優先論・動機論を取る。 [仏教の興起する以前のインドにおいては、なお呪術的なものが支配していた。バラモン教全体についてもそのように概括して言うことができる。そこで独立の哲学的思索を徐々にめざしていた人の思想の集録であるウパニシャッド聖典においては、呪術的なものからの離脱をめざして真実の自己(アートマン)を把捉すべきことを強調していた。しかし具体的な倫理については、体系的な思想は殆んど何ごとも説かれていない。ただ散説されているだけである。ところが仏教では非常に具体的な倫理が説かれている。仏教の教える実践は、一言でいうならば、道徳的に悪い行為を行わないで、生活を浄めることである。…悪い行いをしてはならないということは、繰返し教えられている。…他方人々は善の実行につとめなければならない。善人の行為は清らかである。そうして善をなすことに対する意欲をすすめている。〔故に仏教は意欲そのものを否認しているのではないことがわかる。〕そこで、善の実行と悪の不実行とは楯の両面である。『善によって悪に打ち克て。』「身と口と意との悪い行いを捨てて、身と口と意とによって善を行え。」…

そこで定型的表現として、次の有名な詩が成立した。『すべて悪しきことをなさず、善いことを行い、自己の心を浄めること、これが諸の仏の教えである。』(『諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教』)

正しい道徳は古今を一貫した永遠の理法であり、ゴータマ・ブッダが新たに創始し作り出したものではないという。ゴータマは真実の修行者、真実のバラモンたる道をみずから人々に教示するものであるという立場を標榜している。そうして昔の徳行すぐれた聖仙を称讃している。](v,3~6 )

[善悪の区別に関しては、仏教は動機論の立場に立っているとインド一般に認められていた。或る経典には、ジャイナ教徒であったディーガ苦行者と釈尊との対話が伝えられている。『〔釈尊いわく〕、「離繋派(ジャイナ教)のナータプッタは悪い行為の実行、悪い行為の展開についていくつの行為(業)を想定するのですか?」〔苦行者いわく〕「きみゴータマよ。離繋派のナータプッタはいつも<この行為(業)><あの行為>というふうに想定しているのではありません。われはいつも<あの罰><この罰>というふうに想定しているのです。」』恐らくニガンタ・ナータプッタが悪い行為それ自体を問題としているのではなくて、悪い行為(業)がのちに悪い報いをもたらすことを問題としていたという事実をのべているのであろう。

『〔釈尊いわく〕「では離繋派のナータプッタは、悪い行為の実行、悪い行為の展開について、いくつの罰を想定するのですか?」〔苦行者いわく〕「きみゴータマよ。離繋派のナータプッタは、悪い行為の実行、悪い行為の展開について、三種の罰を想定しています。--すなわち、身体(の悪い行い)についての罰、ことば(の悪い行い)についての罰、意(の悪い行い)についての罰です。」

〔釈尊いわく〕「ところで身体についての罰と、ことばについての罰と、意についての罰とは互いに異なった別々のものなのですか?」〔苦行者いわく〕「身体についての罰と、ことばについての罰と、意についての罰とは互いに異なった別々のものなのです。」

〔釈尊いわく〕「このように別々のものであって、互いに区別されているこれらの三つの罰のうちで、かれナータプッタはどの罰が、悪い行為の実行、悪い行為の展開について特に過ちが重いというのですか?」〔苦行者いわく〕「このように別々のものであって、互いに区別されているこれらの三つの罰のうちでは、悪い行為の実行、悪い行為の展開について身体による罰が特に過ちが重いとナータプッタは想定しています。ことばによる罰はそうではありません。意による罰もそうではありません。」』

次にこの苦行者の問に対して釈尊は答える。--如来の教えでは三種の罰を説くことはない。そうではなくて、身体による行為(業)と、ことばによる行為と、意による行為との三種の行為を想定する。そうして意による行為(心の中で思うこと)が最も重要である、--と。『このように別々のものであって互いに区別されているこれらの三つの行為のうちでは、悪い行為の実行、悪い行為の展開について、意による行為が特に過ちが重いとわたくしは想定します。身体による行為はそうではありません。ことばによる行為もそうではありません。』釈尊のこのような主張を聞いてナータプッタは反論した。--『実に微弱なる<意による罪>がどうしてこのように強大な<身体による罰>を凌駕し得るであろうか?』

この対話を通じて見ると、ジャイナ教のほうでは具体的な身体の行動にあらわれた結果の如何を重視し、これに対して仏教のほうでは人が心の中で何を思うかということ、心の中に思っていること、の善悪を問題としていたのである。この問題についてバラモン教のほうでどう考えていたか不明であるが、ウパニシャッドでは『人が意(こころ)で思念したことをことばによって語り、それを行為によって行う。』というし、また『マヌ法典』(一二・四)では『意(マナス)が十種の行為の推進者である。』という。仏教はこのような見解を受けて徹底させたのであろう。](v,10~14 )

19.善悪業の結果としての報いの分岐:因果応報の理

 [善あるいは悪をなそうと欲する動機が良い結果あるいは悪い結果をつくりなすという思想は、仏教の最初の時期から存在した。『悪い欲望があり恥を知らず、尊敬をも払わない人は、まさにその故に悪を生ずる。それによって地獄に堕ちる。』

ところで悪い欲望が起るか否か、ということは人に明知があるか否かによると考えられていた。そこで右の句を説明する場合に、付加していう、--『無明は後の悪いことがらをひきおこすための先駆である。…明知は後の善いことがらを達成するための先駆である。』という。…人は何故に諸々の美徳を実践し、悪を避けねばならないのか?原始仏教の説くところによると、善をまもり、美徳を実行するならば、いつか将来にはよい結果が生ずるというのである。

右のような思想はすでに詩句の中の諸処に表明されていたものであるが、散文の部分においては次の句がのべられている。ーー「身体、ことば、心に悪い行いをなす者に、願わしくない、欲せられない、喜ばしくない果報が生ずるという道理が存する。…また身体、ことば、心に善い行いをなす者に、願わしい、欲せられ、喜ばしい果報が生ずるという道理が存する。」そうして前者は良いところ・天の世界に生れることであり、後者は悪いところ・地獄に生れることである、と続けて説明されている。…

右に述べられたようなことを一般的命題としてまとめたものが<因果応報>の理であり、「善因善果、悪因悪果」の説である。経典の中には非常に印象的な譬喩が述べられている。『作られた悪業は、灰に覆われた火のように、燃えつつ愚者に従って行く。』悪を行った者は地獄(niraya)に赴く。その地獄もいろいろあると考えられた。また「悪いところ」(duggati 悪趣)に赴くともいうが、すでにかなり古い時代から「悪いところ」として地獄・餓鬼・畜生・修羅の四つが考えられていた。…世間の人々はこの世の財産・権勢・奴婢などを追求するが、それらはこの世限りのものであり、いかなる偉い人でも死ぬときにはただ独りで死に、かれに業が付随して行くだけであると言って、悪業を戒しめている。これに反して善を行った人は天の世界に生れるとか、神(deva)となるとか「善いところ」(sugati善趣)に生れるとかいうが、その生れるはずの天の世界もいろいろの名称を以て呼ばれていて、統一がない。ただ『天に昇る者は少ない。』と嘆かれている。『或る者は〔人〕胎に宿り、悪業を造った者は地獄に〔堕ち〕正しき者は天に昇り煩悩を滅し尽くした者はニルヴァーナに入る。』というがこれが原始仏教の来世観を最も良くまとめているであろう。人間は天界と地獄などとの中間的存在なのである。](v,14~48 )

20.良心・人格完成者・神々に対して悪は隠し得ない

 [また他方では、悪い行いは人々に非難されるべきであり、悪を隠すことはできないという。『かれが身体、ことば、またはこころを以て、たとい僅かなりとも悪い行為をなすならば、かれはそれを隠すことができない。隠すことができないということを、究極の境地を見た人は説きたもうた。』たとい人々に知られなくても、まず「自分が知っている」という思想も述べられている。『「<生きものを殺さないこと>によって殺生が捨てられるべきである」といったのは何を意味するのであるか?…諸々の束縛のためにわれは殺生者であったのであるが、それらの束縛を捨て断ずるために努めている。もしもわれが実に殺生者であるならば、その<生きものを殺したこと>によって自己もまたわれを誹るであろう。智者もそれを知って、殺生に縁って、われを非難するであろう。身体が断滅した死後に、殺生に縁って、悪しき場所に生れると予想される。』…また善悪の行為を神々が見ているという思想があり、神を証人に請うということも行われた。『あなた(=釈尊)のようなヴェーダの達人にお会いできたのですから、わが供物は真実の供物であれかし。梵天こそ証人としてみそなわせ。…』また世人のなす悪は、神々(deva)と人格を完成した人々(tathagata,pl.)が見ているから、隠すことはできぬともいう。したがって原始仏教においてもやはり「天知る、地知る、われ知る」という思想が表明されていたわけである。](V,50~51 )

21.多神教的有神論の立場としての原始仏教

 ここまで来ると原始仏教は、俗に言われることもあるような無神論では全然なくて、かえって有神論であり、しかも多神論的であることが明瞭である。

先に、ジャイナ教では「宇宙を創造しあるいは支配している主宰神のようなものは存在しない。主宰神を否認したという点では仏教とも共通であり、後世のインドではジャイナ教は無神論の代表のように見なされた。]ということを見た。つまり仏教は絶対的主宰神は或る意味で認めない(というのは仏教はその行為の因果律の立場から、人間主体の自立的向上の努力を第一義とするので、人間の個別的自由を否定する恐れのある他律的絶対支配の原理を認めない。そこでもし絶対的主宰神がそのような原理と見られる限りは否認される。それは他方において同様の他律的絶対支配を意味する決定論的宿命論が退けられるのと軌を一にする。ii,91 参照。)が、多くの神々は認めるのである。またジャイナ教も神々の存在を認めるが、その[神々の世界もやはり迷いの領域に属すると考えていた。]このように神々といっても完全解脱者には及ばない比較的価値低き者であるので、ジャイナ教=無神論のレッテルを張られたのであろう。この点は仏教も相当に似ている。仏教でも完全解脱者たるブッダの方が神々よりも価値高い存在者である。とはいえ、神々のなかには極めて高位の神々もいる。例えば、「梵天」がそうである。梵天とは何か、また誰か、について考察して、仏教本来の神々の位置づけを明らかにしよう。

22.仏教における「梵天」とは何か? また誰か?

 この問題に係わることとして先ず注目すべきなのは、釈尊における「超能力(神通力)」保持の事実であろう。釈尊における超能力(神通力)の問題については、研究者の個人的信念に従った解釈が出されることが多く、客観的文献に基づく厳正な解釈が未だ確固たる一般的支持を得ていない状況である。研究者の個人的信念に従った解釈がまかり通るのであれば、それは釈尊についての学問的研究とは言えず、その人の単なる臆念の告白にすぎない。ところが我々の採用した研究方法に従う限り、中村元氏のまとめた原始仏教の根本資料に基づく解釈となるので、それは私自身の個人的信念には左右されないのである。それで釈尊が或る種の超能力(神通力)を保持していたことは、中村元氏のまとめた原始仏教の根本資料に基づく限り完全に明瞭である。

 ウルヴェーラー(のちの称ブッダガヤー)での開悟成道直後の伝道躊躇の気持ちを梵天の勧奨により克服した釈尊は、自由思想の本場ベナレスへ赴き、最初の伝道努力(初転法輪)をしたが、その時彼に先ず5人の直弟子ができた。この5人は成道以前の釈尊の修行仲間であった人たちである。

次に青春の苦悩に堕ちたベナレスの長者の子ヤサが釈尊との幸運な遭遇の中で救われ、出家した。次にいずれもベナレスの上流家庭の子であるヤサの54人の友人たちが、自分たちを凌ぐエリートだったヤサの行動に動かされてやはり釈尊に帰依し、出家した。(ただしその前に出家はしないがヤサの家族4人が釈尊の在俗信者となっている。同様に在俗信者としては釈尊の開悟直後に飲食を供養して帰依したタップサ、バッリカという二人の商人、及び釈尊が托鉢の折に施食して帰依したバラモンの娘スジャーターとその家族、そして他の婦人がいる。)これで最初の釈迦教団(出家者)は61人となった。

次にベナレスから開悟の地ウルヴェーラーに戻る途中、とある密林に分け入って一樹のもとに座していたが、その密林に一団で遊びに来ていた30人の既婚の青年たちが多愛もない捜し事に熱中しているのを、「自己(atta)を探し求める」ことに切り替えさせて弟子にした。これで出家の弟子は90人となった。(i,192~291 )

[ついで釈尊はもと修行していたガヤーの地方にもどって、火の行者であった三人のカッサパを帰服させた。何故もとの土地へもどったのか、事情は良く解らないが、恐らく三カッサパはその呪力の故に当時の民衆の間で非常な尊信をあつめていたために、かれらを帰服させなければ、自分の教えがひろがるのは不可能だと考えていたのであろう。ゴータマはウルヴェーラー村に到達したが、そのときそこには三人の結髪のバラモンがいた。それはウルヴェーラ・カッサパとナディー・カッサパとガヤー・カッサパとであり、それぞれ五百人、三百人、二百人の結髪のバラモンの弟子を引きつれていた。この三人の名は、それぞれ「ウルヴェーラーに住むカッサパ」「ネーランジャラー河のほとりに住むカッサパ」「ガヤー市に住むカッサパ」という意味であったらしい。この三人は兄弟であったと伝えられている。ウルヴェーラ・カッサパは火に仕える儀礼を行なっていたが、ここで釈尊はあらゆる種類の神通を行じてかれを克服する。ウルヴェーラ・カッサパは自分のほうが優れていると思うが、最後には降参してしまう。そうしてかれらは毛髪・結髪・担架・事火具<じかぐ>を水に流してしまい、釈尊の弟子となり出家する。このことを見て、ナディー・カッサパ、ガヤー・カッサパおよびその弟子たちも同様に出家して釈尊の弟子となってしまう。…

ゴータマ・ブッダは神通力によって偉大な奇蹟を現じ得る人であると当時一般に考えられていたらしい。このことは他の点からも確かめられる。かれに対しては当時次のような非難が向けられていた。『実に修行者ゴータマは幻術者である。他の異学の人々の弟子をひきよせるために幻術を誘いのてだてとすることを知っている。」

しかしゴータマ・ブッダは、一般の修行僧が恣ままに神通を現ずるのはよくないと考えていた。伝説によると長老ピンドーラ・バーラドヴァージャが神通力によって王舎城の商人のところから栴檀の鉢を貰って来たとき、釈尊は修行僧らに神通奇蹟の使用を禁じた。総じて一般に諸々の仏伝の中で三カッサパの帰依が何故このように詳しく述べられているのか、われわれには良く解らない。しかし多くの経典では、のちの釈尊に言及する場合に「千二百五十人のビクたちと共にいた」と記すのが定型句となっている。その千二百五十人のうち千人は三カッサパの弟子たちであり、二百五十人は懐疑論者サンジャヤの弟子たちであったと考えられるから、最初期の仏教教団の中核を構成していたのは三カッサパの弟子たちであった。その人たちが一斉に仏教に入って来たというのであるから、これは重要な事実である。そうしてマガダ地方 - 当時インドの中心であった - の人々が、一斉にゴータマ・ブッダに帰依するに至ったきっかけは、一般に三人のカッサパが帰依するに至ったことであると考えられていたから、この事実はなおさら重要であるといえよう。](i,292~316 )

 他方、釈尊が煙や火炎を放射する超能力よりも大事だとしたのは、諸々の煩悩からの解脱という全く普通の人間の正しい理想であった。新たに弟子入りした千人を越える火の行者たちは、釈尊に「すべては燃えている」と表現される煩悩の激しい火炎こそ抑制され退治されなければならないと教えられた。(象頭山<ぞうづせん>における燃える火の教え)。(i,317~320 )火の大行者さえもが帰依した釈尊の偉大な信望により、マガダ国王ビンビサーラ及びマガダ国の12万のバラモン・資産者たちがやはり釈尊に帰依するに至ったという。(i,321~330 )

23.釈尊の悟りにおける超能力と道徳性

 故に、釈尊の悟りの中核を成すのは必ずしも超能力の獲得ではなくて、道徳性の理想の実現である。しかし、実はこの中心的な道徳性の理想の実現自体は、例えばその理想の実現したことが確実に知られなければ単なる主観的思い込みでしかない場合と区別されないことになってしまう。ところが仏典によれば、その理想の実現はそれ自体のうちに確証の標識をもっている。それが「漏尽通<ろじんつう>」と呼ばれる神通力の一つである。

すなわちそれは[煩悩がなくなったという自覚が生じ、それについて知識が成立する。それがのちに漏尽通<ろじんつう>とよばれるものとして概念化された。](iv,178)[仏教は少なくともその成立当初においては、バラモン教に叛旗をひるがえすという態度を表明しなかった。むしろバラモン教の伝統を継承して、その真実義を明らかにするという態度を表明していた。…しかし仏教では「バラモン」という語の内容を根本的に改めてしまった。真のバラモンは最上の階級に属する人々をいうのではなくて、徳行のすぐれている人のことをいうのである、と主張した。バラモンとバラモンならざる人との区別は、生れ(jati)の如何によるのではなくて、行為(kamma)の如何による。

『生れを問うことなかれ。行いを問え。…賤しい家に生まれた人でも、聖者として道心堅固であり、慚愧の心で慎しむならば、高貴の人となる。』…従って釈尊は、初期の仏教徒によると、バラモンの理想を回復し、実現した人なのである。…バラモンたちの間ではヴェーダの学習が神聖な義務であるとされ、ヴェーダ聖典に通じている学者が重んぜられた。しかし最初期の仏教ではこの伝統的な見解を受けながら、その内容を改めた。「ヴェーダの達人」とはヴェーダ聖典に関する文献的知識をもっている人のことではなくて、むしろ修行を完成した人のことでなければならない。

『何を得た人を<ヴェーダの達人>と呼ぶのですか?』という問いに対して答えていう、-『道の人ならびにバラモンどもの有するすべてのヴェーダを弁別して一切の感受したものに対する貪りを離れ、一切の感受を超えている人、- かれは<ヴェーダの達人>である。』「すべてのヴェーダを弁別して」というところにはいくらか妥協的態度が見られるが、全体としては改革的意図が認められる。またヴェーダに関する博学が重んぜられたが、それは末節を良く知っているということではなくて、学問の教える理想を身に具現することである。…

当時バラモンは三ヴェーダを奉じていて、「三つの明知をたもっている」といわれていたが、仏教もその呼称を受けついだ。修行を完成した人は三つの明知を体得した人であるという。ただその三つの明知の内容を改めた。仏教によると三つの明知(三明<さんみょう>)とは、(1)前世のありさまを知ること(宿命通<しゅくみょうつう>)、(2)死後の世界を見通すこと(天眼通<てんげんつう>)すなわち天界と地獄とを見ること、(3)生存の尽きてなくなることを確認すること(漏尽通<ろじんつう>)とであり、修行者はこの三つを完成するのである。…

しかし他の場合には、三つの明知として他のものを数えていた場合もある。『ブッダの弟子であって三つの明知をそなえ、(1)神通を得、(2)他人の心のありさまを知り、(3)煩悩の汚れのなくなった尊敬さるべき人々は多い。』ここでは後世の術語でいうと、(1)神足通<じんそくつう>と(2)他心通<たしんつう>と(3)漏尽通とを挙げているのである。だから初期の仏教においては<三つの明知>という語をバラモン教からとり入れて使っていただけであって、その内容が何を意味するかということについては、必ずしも一定していなかった。…そうしてその<三つの明知>にあてはめた前掲のものを総括し、それに天耳通<てんにつう>を加えて、後世の仏教教学体系においては「六神通」【宿命通・天眼通・漏尽通・神足通・他心通・天耳通】という定型的表現が成立するに至ったのである。](iii,394~403 )

われわれはここに、初期仏教が伝統的バラモン教との関係ではその「名目的容認」と「実質的転換」を成し遂げているのを認める。(iii,394-416 )ただしその「名目的容認」は理想的実質の容認・回復・実現を含んでいることを見逃してはならないのであって、単なる便宜的な伝道の仮装ではなかった。それは初期仏教が無神論とは程遠く、伝統的な神々を容認し、しかも代表的な神々(梵天、帝釈天)とコンタクト(連絡)をとり、実際にコミュニケーション(交渉)を行なっていたという事実にもはっきりとあらわれている。(注3:三枝充悳『初期仏教の思想』(上掲)は、古ウパニシャッドと釈尊との思想的近縁説(中村元)に対して疎遠説を提起した(PP.3-125)。そしてそれは、ゴータマ・ブッダが古ウパニシャッドに関して「正確な知識」(P.30)「深い知識」(P.120 )を有しなかったという氏の見立てによる。だが、『道の人ならびにバラモンどもの有するすべてのヴェーダを弁別して一切の感受したものに対する貪りを離れ、一切の感受を超えている人、- かれは<ヴェーダの達人>である。』(iii,402 )という釈尊の言葉は氏の見立てに対する明確な反証である)

24.仏教における「梵天」とは何か? また誰か?

1)梵天勧請[律蔵および経典によると、釈尊はさとりを開いてのち、自分のさとったことを世間の人々に説くのを躊躇したが、梵天の勧めで世人のために説くことを決心したという。これについて律蔵の散文の説明は明らかに後世のものであるが、そこに挙げられている詩句はやや古いものである。それによると、釈尊はまず説法をためらったが、これに対して梵天が釈尊に対して説法を勧めたということになっている。

『わたくしのさとったこの真理は深遠で、見難く、難解であり、思考の域を超え、微妙であり、賢者のみよく知るところである。わたくしが理法(教え)を説いたとしても、もしも他の人々がわたくしを理解してくれなければ、わたくしには疲労があるだけだ。わたくしには憂慮があるだけだ。貪りに悩まされた人々がこの真理をさとることは容易ではない。世の流れに逆らい深遠で見がたいから、欲を貪り闇黒に覆われた人々は見ることができないのだ。』(注4:新約聖書ヨハネ伝1-5 「光は闇に輝けども闇は光を悟らず。」という表現参照)

『世尊が何もしたくないという気持に心が傾いて、説法しようとは思われなかった。そのとき、<世界の主・梵天>は次のように考えた、- 「ああ、この世はほろびる。ああ、この世は消滅する。実に修行を完成した人・尊敬さるべき人・正しくさとった人の心が、何もしたくないという気持に傾いて、説法しようとは思われないのだ!』

『ときに<世界の主・梵天>は、あたかも力ある男が曲げた臂をのばし、のばした臂を曲げるように、梵天界から姿を消して、世尊の前に現われた。「尊き方よ。尊師は教えをお説きください。幸ある人は教えをお説きください。この世には生まれつき汚れの少ない人々がおります。かれらは教えを聞かなければ退歩しますが〔聞けば〕真理を悟る者となりましょう。」…『世尊はさとった人の眼によって世の中を観察された。世の中には、汚れの少ない者、利根の者、鈍根の者、教え易い者、教え難い者どもがいた。「甘露(不死)の門は開かれた。梵天よ。人々を害するであろうかと思ってわたくしは微妙な巧みな法を人々には説かなかったのだ。」』…ここで注目すべきことは、他の多くの世界宗教におけるように最高の神が命じたのではない。人格を完成した人間であるブッダに命令を下し得るものは何も存在しない。決定する者は人間自身なのである。](i,212~218 )

 2)カッサパとの対決時の神霊顕現[『さて尊師は、ほら貝結びの行者ウルヴェーラ・カッサパの庵のある或る密林に住しておられた。そのとき四大天王は深夜に優美な彩光によって、尊師のおられるところに近づいて、尊師に敬礼して、立った。大きなほむらのごとくであった。』

『さらに帝釈天(神々の王なるサッカ)は深夜に優美な彩光によってあまねく密林を照らして、尊師のおられるところに近づいて、尊師に敬礼して一隅に立った。それはあたかも大きなほむらのごとくであり、前の色彩や光輝よりもさらに優美であり、さらに絶妙であった。』

『さらに世界の主・梵天は深夜に優美な彩光によってあまねく密林を照らして、尊師のおられるところに近づいて、尊師に敬礼して一隅に立った。それはあたかも大きなほむらのごとくであり(注5:神の火炎は旧約のモーゼも見た。関根正雄訳『旧約聖書出エジプト記』1969年,岩波文庫、東京、P.11)、前の色彩や光輝よりもさらに優美であり、さらに絶妙であった。』この前後の記述の連絡から見ると、帝釈天のあとに梵天が出て来て、梵天のほうが帝釈天よりも霊力がはるかにすぐれたものであるということになっている。これはインドの宗教史的事実に対応することである。インドラ(帝釈天)はインド最古の宗教聖典『リグ・ヴェーダ』においては最も力強い、また最も人気のある神であったが、梵天はウパニシャッドあたりから登場して、仏教興起時代には世界創造神として民衆の間では最も尊崇されていたのである。](i,298~306 )

3)神々の体系[仏教では世界創造者としての神を認めないということが通説となっている。これに対して、例外的な表現がないわけではない。ブッダは神通によって、世界を開闢することも可能であると考えられた。しかしそれはただ教化のための方便にすぎなかった。他方、神々の存在は、仏教もこれをはっきりと承認していた。神(deva)を漢訳仏典では「天」と訳している。天に存在するものであると考えられたからである。…原始仏教聖典のうちでも特に古いのは詩句(韻文)の部分であるが、それらについて見ると神々は長寿で容姿すぐれ名声がある。神々はいわばすぐれた人間なのであり、天上においては神々も人間も区別のないものと考えられていたようである。…しかし神といえども、なお迷いの範囲のうちに存するのであって、…ゴータマ・ブッダの説き明かした真理は神々の権威をも超えたものであると考えた。…だから神々でも仏の弟子であり得る。神々も仏の教えを聴聞して帰依するに至る。…原始仏教の認める多数の神々の間の階位的関係・勢力関係についてもおのずから発展変化のあったことが知られる。最古のヴェーダ本集において最も有力であった神はインドラであり、ブラーフマナ文献において最も有力であった神は造物主(Prajapati )であったが、…しかし仏典の中では造物主はやがてすがたを消すに至る。そこで当時盛んに信仰されていた梵天が有力視され、インドラと肩を並べるものとされた。ウパニシャッドにおいては絶対者をブラフマン(brahman )と称し、中性名詞として用いているが、原始仏教聖典においては、ブラフマンは擬人視されて、男性名詞でのみ用いられている。ブラフマン(梵天)は神とみなされたのである。神々の中では梵天が第一の神と見なされていた。梵天は「梵天の世界」(Brahmaloka)にとどまるのであるが、そこには光明の輝きがあると考えられた。またその世界は不死である。梵天は瞬時に諸方を見る。…梵天が人々にすがたをあらわすときには、まずそのしるしとして光輝が現われ出る。…光輝は梵天の本質であると考えられた。そうしてのちには世界の主としての裟婆王梵天という名称が成立するようになる。ところでその最高の神としての梵天もインドでは一人の人格ある神とはみなされず、幾人もいると考えられるようになった。…過去世に善業を修した者がその徳の報いとして梵天の地位につくのであるから、梵天が多数いても構わないであろう。(この点は次に述べるように、インドラという神が幾人もいると考えられたのと共通である。)…また梵天の光輝といえども仏の眼から見るならば、完全なものではない。梵天は光輝をその特質としているが、しかし釈尊の光輝はさらに偉大であり、梵天のそれにも打ちかつものと考えられた。…インドラ(帝釈天)は『リグ・ヴェーダ』以来…「恵み深き者」と呼ばれ…雨を降らす神であると考えられていた。しかしそれよりも重要なことは、帝釈天が「神々の王」(天王)と呼ばれていたことである。「神々の王」というのは一人の神が永久に占めているのではなくて、一種の地位であり、絶えず異なった生存者がその地位を順次に占めると考えられていた。〔この見解は後代に至るまで継承された。帝釈天すなわちインドラとは個的存在としての神ではなくして特殊な地位にすぎなかったのである。つまり普通名詞のようなものであった。これは顕著にインド的な思惟である。〕

『リグ・ヴェーダ』以来神々の数を三十三でまとめることがなされ、…三十三神のことを概数を以て「三十神」とよぶこともあるが、戦いに勝った不敗のインドラに三十神が奉仕するという。そうして三十三天の神々はインドラ(帝釈)とともに如来および法の本質に敬礼するという。三十三神とは古くはすべての神を意味する語であったが、後にはそのほかに多くの神々も考えられるに至ったので、のちの仏教神話においては一群の神とみなされその音を写して漢訳仏典では「利天<とうりてん>」と呼ぶようになった。…そこには歓喜(ナンダナ)園があり、三十三天はそこに居住すると説くに至った。善行を行なった人はそこに生れることができる。『施与をなす人々はここから没して、自ら光りあるものとなって、ナンダナ園に逍遥する。かれらはそこで五種の欲をかなえて歓喜悦楽する。』しかしナンダナ園といえども絶対の境地ではない。そこも生死輪廻の範囲に属する。原始仏教における神観の発展とともに三十三天の上にヤーマ天(夜摩天)、トシタ天(兜率天)、化楽天<けらくてん>、他化自在天<たけじざいてん>が考えられるに至った。夜摩天とは死者の王ヤマの明るい性格だけをとり出して、このような特別の世界を想定したのであろう。これらの神々は喜楽を受けているけれども、愛欲の束縛に縛せられている。だからこれらの神々も輪廻するのである。](IV, 183~205)(注6:和辻哲郎『原始仏教の実践哲学』(『和辻哲郎全集第5巻』1962, 岩波書店、東京)は「本来ブッダの根本思想は全能なる創造神のごときを排するものであった。その点は当時の唯物論的な外道説と同様である。だからこの根本思想に忠実なものは梵天のごときをブッダの説法に導入するはずがなかった。しかし文学的想像としては、全能の神をブッダに奉仕せしめるということは、効果の多い、警抜な思いつきである。」(P.81)と述べて、梵天思想を文学的虚構と断じ、ブッダの根本思想を唯物論的性格としているのは看過し得ない。続稿参照)

25.神々(霊的職能者)=人々(個体的生存者)の道徳修養と仏教的輪廻転生論

 人間的視野から見る限り、ブッダが完全人格完成者として輪廻転生の最後の地上的生存を終えて至高の天的存在となり、ブッダに近いがなお未到のレベルの者たちはあと何回かの転生を通して修養を完結し遂にはブッダとなる。それよりも低いレベルの者たちは一層多くの転生を繰り返しつつ多大の修養を蓄積しなければならず、大多数の人々は魂の質的向上のためには殆ど無限に近い転生を必要とし、それがあたかも転生の「輪廻」(限り無い反復相)として見える。

従って「神々でさえ輪廻する」ということは、その神々とは相当程度に人格修養を積み向上した人々の肉体離脱後の生存相だと言うことである。つまりそのような生存相にある所謂《霊人たち》のうち、地上生存者たちに特に係わりのある一定の霊的職能者たちが、社会慣習上、一定の神々として意識され信仰されると考えられる。

普通の人間的視野では知覚されないが、仏教以前から精神科学の発達の長い伝統をもつインドの地では当時人々は輪廻転生を我々が近代科学を一般的に信じるように人生の根本前提として一般的に信じていた(注7:中村元『インド思想の諸問題』(中村元選集第10巻、1967年,春秋社、東京)p.13参照)。そして哲学思想の課題とは、一口で言えば、輪廻転生の事実に対してどのような対処をするか、に尽きていた。

仏教が対質したいわゆる六師外道も輪廻転生論として見ることができる。即ち(1)サンジャヤの懐疑論は輪廻転生の事実を括弧に入れるかのような素振りをみせつつ、いかなる断定にも与せず、あたかも輪廻転生を前提とするかのように精神安立の実践行は怠ることがない。(2)プーラナの無因論は輪廻転生の一般的信念に対する絶望的自我主義のあがき以外のものではない。(3)パクダの七要素説は輪廻転生の大前提である霊魂とその有責行為を是認しつつその化石化の理論を案出したが彼自身でさえその詭弁性に目を覆うことのできないはずの戯論である。(4)アジタの唯物論は輪廻転生の経綸自体を崩壊せしめんとし、また現代においてこそ多数の信奉者を見出す理論であるが、それは心の内省的観察の繊細な習練を欠いた粗雑な哲学以外のものではなく、多くの場合その霊界否定論は当事者の霊界恐怖感の隠蔽と糊塗の知的自己防衛である。(5)ゴーサーラの宿命論は輪廻転生の一面である浄化に必要な時間経過に注目したが、ただその経過を絶対視し、行為的努力の如何によるその短縮ないし延長を認めなかった。他方(6)ジャイナ教は或る程度まで輪廻転生の積極面すなわち有意的な霊魂浄化のプロセスを認めたが、行為(業)の捕らえ方が否定的であり、輪廻転生のプロセスへの積極的参入を欠く退嬰哲学である。

これに対して(7)バラモン教の伝統を引くウパニシャッド哲学は転生する個我からの脱却を、普遍霊ブラフマン(梵)への自己霊アートマン(我)の一致(梵我一如)の瞑想的直観智の方法で探求した。(iii,275, 190)(注8:中村元『インド思想の諸問題』(上掲)PP.10-17参照)

それらに対して(8)釈尊の教えは真に主体的人間的な行為的道徳的輪廻転生論である。それはジャイナ教の苦行主義を排し、ウパニシャッドの瞑想的直観智の方法を受け継ぎ、これを複数の階梯に分節し連継して、その他生活全面にわたる具体的修養の方法を総括して一般人誰にも妥当する《中道》を提示した。

これが、正見<しょうけん>、正思<しょうし>、正語<しょうご>、正業<しょうごう>、正命<しょうめょう>、正精進<しょうしょうじん>、正念<しょうねん>、正定<しょじょう>、の八支から成る八正道である(この中で「定」とは瞑想的精神統一と直観智の方法、いわゆる禅定<ぜんじょう>であり、幾つかの進展段階がある。)要するに、釈尊の仏教(原始仏教)は、転生輪廻とは神々をも超えるブッダ養成コースであることを明示したものである
これを最善観的輪廻転生論と呼ぶことにする。 
神々をも超えるブッダ養成コースということは、先にも触れたように、多くの高下の段階を成し、あたかもこの世で例えば教育段階として保育園・幼稚園・小学校・中学校・高等学校・大学・大学院といった進級があるように、人格のあらゆる要素を総合的に見る視点からの人格完成度の度合いとしてとらえることが出来る。それは細かく見れば、一人一人について段階があるはずであるが、大局的に原始仏教は先ず、①生存者(輪廻する者で欲望と生存とのきずなに結ばれ迷いの状態に帰って来る人)、②欲望の領域に帰らない人(なお生存のきずなに結ばれているが欲望を捨て去り迷いの状態に帰って来ない人)、③彼岸に達した人(完く煩悩の滅無に到達した尊敬さるべき人。いわゆる「阿羅漢<あらかん>」であるが、初期には「仏」もこう呼ばれていた。ともかく「解脱した人」)という三段を想定する。

所で迷っている人がもはや煩悩の世界に戻って来ない(不還性<ふげんせい>の)人となるためには中間になお階梯がなければならぬと考えて、その中間に<修道に踏み入った人>と<一度だけ欲望の領域に戻って来る人>という段階を考えた。そこで前段階(凡夫。迷っている生存者)を脱した聖者として次の四段階が成立した。①預流<よる>(修道に踏み入った人)。②一来<いちらい>(一度だけ欲望の領域に戻って来る人)。③不還(欲望の領域に帰らない人)。④阿羅漢(彼岸に達した人。完全な道人)。

所で聖者の四つの段階には各々、それに向かって進んでいる状態(向<こう>)と、行き着いた状態(果)とあるから、合わせると八つの状態が想定される(四向四果・四双八輩)。

また修道に踏み入った聖者(預流)が一度だけ欲望の領域に戻って来る聖者(一来)と成る迄には欲望の領域に七度迄は戻って来ることが有り得ると考えられた(極七返生<ごくしっぽんしょう>)。

また「道の究極に達した人」「正覚者<しょうがくしゃ>」でもなお学びつつある人であると考えられた。

後世の教義学で究極の悟りに到達した人は、もはや学ぶべきものの残されていない人(無学<むがく>)であり、それ以前の人は学ぶべきもののある人(有学<うがく>)と解せられたのと正反対である。(iv,255-257 )

かくして、六師外道との対質及びカッサパ、バラモン教、ウパニシャッド哲学等との部分的共通性を通して示された所に従い、釈尊の悟りの基本的立場【B(非Q)】は最善観的輪廻転生論である(注9: 西洋思想における輪廻転生論としては古代ではプラトン(特に『国家』第10巻のエルの物語)が代表的であり、現代ではルドルフ・シュタイナー『輪廻転生とカルマ』(西川隆範訳、1988年,水声社、東京)、同『いかにして前世を認識するか』(西川隆範訳、1993年,イザラ書房、東京)等が参考になる)、と我々は推定する。なお、今明らかとなったB(非Q)に基づくB(E)の解明は続稿に譲る。

 [初出:北海道教育大学紀要(第一部A)vol.45-2,1995]
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§4 原始仏教(釈尊)の基本的立場 (下)

§4 原始仏教(釈尊)の基本的立場(下)

 釈尊の悟りと道徳的発達(下) 実践的概念としての「無我」 

26.和辻哲郎の「無我」解釈について

 以上を通して、我々の仏教学研究としての理論的研究のための仏教資料の底本群として採用した中村元『原始仏教1-5』(『原始仏教1 ゴータマ・ブッダ釈尊の生涯』『原始仏教2 原始仏教の成立』『原始仏教3 原始仏教の思想 上』『原始仏教4 原始仏教の思想 下』『原始仏教5 原始仏教の生活倫理』)(注1)に基づいて、先ず、釈尊の基本的立場の制限的規定として、B(非Q)=最善観的輪廻転生論、という成果を得た。次にこれに基づいてB(E)の解明に進もう。即ち釈尊によって斥けられた哲学的諸立場を記号Qで表わせば、B(釈尊の悟り自体)に関して「Bは非Qである。」という制限的規定が得られる。このように制限されたBをB(非Q)と表記する。他方本来の資料批判によって到達されるE(初期仏教経典)の解釈によって知られる限りのBをB(E)と表記する。するとB(E)はB(非Q)の範囲内にある。何故ならB(非Q)は超越的比較から見たBの制限的規定であるから、単にEに即して内在的に見られたB(E)よりも範囲が広いからである。換言すればB(E)はB(非Q)という制限の外にはみ出る哲学的含意を持つ解釈であってはならないのである。

注1* 中村元『原始仏教1~5』即ち『中村元選集第十一~十五巻』、昭和四四~四七年、春秋社。なおこれらからの引用は[ ]の中に入れて、例えば(iii.237)のように巻数(iii は『原始仏教3』を表す)とその頁(237 ページ)を示す。以下同様*

 それに先立ち、我々が批判的に継承した和辻哲郎の研究結果を参照しておきたい。
 和辻は具体的には、ブッダと同時代の代表的な思想家たちであった仏典に所謂六師外道の自由思想及び伝統的且つ支配的なバラモン思想との比較研究からブッダの新しい根本的立場を解明した。

そしてそれは伝統思想の形而上学的実在論と自由思想の感覚的唯物論のいずれとも背反する第三の立場、要するに形而上学的乃至反形而上学的性格を欠落した「法」(素朴なる、即ち主観客観未分化の日常生活的経験における現実存在の範疇:五蘊六入縁起等)の認識の立場であるとされる(百七~百八頁)(注2: 和辻哲郎『原始仏教の実践哲学』(1927年)『和辻哲郎全集第五巻』昭和三七年、岩波書店。なおこの書からの引用は、以下、例えば(十三~二一頁)のように表す)。

しかし和辻は余りにも単純に、一方では自由諸思想を感覚的唯物論として一括し、他方では伝統的正統思想を形而上学と見て、両者の同時否定を以て釈尊の立場と考えた。

且つまた和辻には《神話的要素は人間の想像力による虚構であり文学的修辞である》という個人的臆念があるので(八一頁)、彼においては「唯物論の否定」→「形而上学(唯物論の否定)の否定」→「唯物論の暗黙の肯定」という仮定が成り立つ。

「唯物論の暗黙の肯定」という仮定は、既に見たように我々が到達したB(非Q)の範囲内には存しない。逆にそれ(唯物論的哲学)はQに所属する。従って和辻の解釈は、釈尊の基本的立場に背反する立場(Q)を以て釈尊の立場と解する重大な錯誤と言わざるを得ない(注3)。

注3* 和辻哲郎は「本来ブッダの根本思想は全能なる創造神のごときを排するものであった。その点は当時の唯物論的な外道説と同様である。」(八一頁)と述べてブッダの根本思想を唯物論的性格のものと見ている。しかし釈尊による全能神の排除は、霊的存在一般の否定という唯物論的趣旨とは異なり、単に人間的主体性に対する絶対的他律支配の原理の排除を意味するだけである。これについては、中篇21節参照*

この厳しい判断は、我々が、ブッダによって斥けられた哲学的諸立場それぞれの思想的内実及びそれらに対する仏教的諸対応を、和辻の印した轍に不用意にはまることなく、確定資料に基づいて客観的に検討した結果として獲得し得た判断である。

 この判断の再確認のために、和辻の考察の筋道を一通りフォローしておきたい。

27.和辻における伝統思想論

 初めに正統的伝統思想であるバラモン思想に関し和辻の議論は次のように進む。「正統バラモン系の思想において中心となるものは我(atman )の概念である。ウパニシャッドが作り始められたころ、経験的な現実の根源としてつかまれたものはあるいは「有」と呼ばれ、あるいは更にその根源にさかのぼって「非有」などとも呼ばれたが、しかし最も勢力を得ていた名はブラフマンとアートマンであった。

それは祭儀の中核たるヴェダの言葉それ自身であり、又その言葉と言葉を知れるバラモンとに内在する神秘的な実体、力であった。この言葉の魔力がやがて万物の支配力たるブラフマンの観念を作り出して行った。またアートマンは語源的には呼吸であるが、原始人にとって呼吸が生命の根拠、人格の存在の根拠と感ぜられる所から、やがて経験的な呼吸現象としての意味は後方に退き、その現象の本質、生命の根源として考えらるるに至った。

そこに存在的実体的な霊魂、自己、我の意義が生ずる。更に多なる「我」の根底に一者が求められ、宇宙はこの一者としての「我」の中に流れ込む。かくてアートマンはブラフマンと同じく宇宙の根源的な力となりその資格において同一視せられるに至った。この考えがアートマンの形而上学として形作られた。

それは古昔の形而上学に通例であるごとく、直ちに超感覚的本体として実体化され、男性人格的神としてのブラフマーとなり、この本体、この創造神が、転変して万物を生ずると考えらるるに至った。仏教の経典に描かれる正統バラモンは三ヴェダに通じウパニシャッドを奉ずるものであるが、皆創造神最高神としてのブラフマーを崇拝する。

「この君は実に梵天なり、大梵天なり。全能にして勝らるることなく、一切を見、一切を支配し、世界の自在主にして、全てのものの創造主、化生主、最上の能生者、一切を制する主、已生未生のものの父なり。」かかる梵天との共住同伴(または一致)が正統バラモンにおいて理想とせられた。」(九九~百一頁)

28.和辻における六師外道論

 次に伝統的バラモン思想に対する当代流行の自由思想たる六師外道についての和辻の概括を見てみよう。「この非正統的思想の特質は感覚論的唯物論的という点に認められるであろう。ここでは雑多を生み出す究極の一者の思想は残りなく捨て去られ、ただ感覚的直観的なるもののみが重んぜられている。すなわち人間を初めとして万物を構成するものは地水火風の諸要素である。これら要素はその存在の場所としての虚空の中でただ機械的に結合する。人間の死は要素への分解であって死後には何物も残らない。この考え<アジタの考え>においては精神的原理は入る余地がない。さてこれらの要素は作られざるもの、生産せざるもの、不変なるものであるが、この要素の中に楽、苦、霊魂(jiva)の三を取り入れる考え<パクダの考え>もある。ここには精神的原理が取り入れられたように見えるが、この霊魂は…要素としては地水火風等と同様であり決して普遍我に連絡するものではない。更にジャイナ教の考え<ニガンタの考え>になると…鉱物動植物等に認められる霊魂に対して、四種の非霊魂すなわちダルマ、アダルマ、虚空、物質があり、これらの五を実在体と称する。ダルマは運動の条件、アダルマは静止の条件であり、物質は原子(anu 微塵)にまで追究せられている。原子に対立する霊魂を認める点でそれらは全然唯物論とは言えぬであろう。しかしその霊魂が感覚的直観的なる生命の現象に基づいて機械的な結合の一要素として考えられていることは疑えぬ。かくのごとく非正統思想は、感覚的なるものにのみ権利を与えつつ、しかも感覚的なるものを機械的に構成する要素として考えられたものに不変無始の実在性を許すのである。」(百三~百四頁)

29.和辻における両辺排除の論法と「無我」解釈の唯物論性

 以上二つの互いに背反する考え方に対して、ブッダはその両方を同時に排除して、いずれでもないより高い認識の立場に立ったと和辻は考える。

「仏教は六師外道の一人なるサンジャヤ・ベーラッティプッタがなしたごとくに、ただ立場を取らない、判断を中止するというだけには終わらなかった。…原始仏教は日常生活的経験を批判し、その根本範疇を見いだそうとしたのである。しかもこの仕事は無我の立場において、すなわち主観客観の対立を排除した立場において、行われた。

日常生活的経験は主観の側面から見られるのではなく、そのままに素朴的な現実そのものとして取り扱われる。従って日常生活的経験を可能にする範疇とは日常生活的主観の形式なのではなく、素朴な現実存在そのものの有り方なのである。かかる意味の範疇がここには<法>として立てられる。」(百七~百八頁)

「計我の立場は凡夫の立場すなわち自然的立場であって、そこでは「我」が外界に対している。…そうしてこの「我」と他の多くの「我」との間に、さまざまの愛著憎悪等の葛藤が醸される。これが自然的立場における現実である。しかるに無我の立場はかくのごとき「我」もその本質としての「我」もすべて把捉し得られないことを主張する。そうして一切の現象の考察においてすべての「我」を抜き去ることを要求する。…だから「無我」とは言っても自然的な立場における経験的我をまで無と主張するのではない。経験的我は自然的立場の中核であり、一切の煩悩の根(ね)である。しかし法を観ずる立場においてはこの経験的な我を全然排除するとともに、この我の本質たるべき「法」としての我も全然その場所を持ち得ないのである。かく経験的我の排除とともに一切の我が根本的に排除せられるところにこの立場の注目すべき特徴がある。」(百三一~百三三頁)

30.釈尊における形而上学的無記について

 ここで和辻の議論の検討に入って行こう。普通、原始仏教では形而上学的無記が言われる。それは生前の釈尊が複数の形而上学的難問に関して完全に沈黙を守ったことを指す。すなわち所謂十難無記である。

 十難とは、世界は、時間的に①無限か、②有限か。空間的に③有限か、④無限か。身体と霊魂とは、⑤一つか、⑥異なるか。人格完成者(如来)は、死後⑦有るか、⑧無いか、⑨有り且つ無いか、⑩有らず且つ無からずか。という十の難問を言う(注4)。これらに関し釈尊は肯定否定いずれの解答もせず(無記)、完全黙秘し、そのような論議と探求の実践上無意義であることを弟子たちに説いて止めさせたというエピソードは単なる挿話というよりも、釈尊の説教活動を終始するバックボーンとなり、言わば戦略となっている。

注4* 十難の定式化については、三枝充悳『初期仏教の思想』昭和五三年、東洋哲学研究所、四五~五五頁、に拠った*

 他方、「無我」の教説はこれも釈尊がその長期の教育活動の中で、逆に今度は言わば口を酸っぱくして喋り続け説き続けたテーマである。

 とすると、和辻流の解釈に依れば、前者<十難無記>への解答が後者<無我の教え>であることになり、弟子たちの意表を衝く師の態度であったということになるが、果たしてこれで筋道の通る解釈であろうか。

寧ろ逆の可能性が考えられる。即ち無我の教えは決して十難無記への解答ではなくて、従って、無我とは決して形而上学的含意を持つものではない、それは常に実践的概念である、と。この方が師たる釈尊の弟子たちへの態度の素直な形を表すのではないだろうか。

 つまり、和辻の解釈のうち、十難無記は釈尊が伝統的バラモン的アートマンの形而上学にも、感覚的唯物論的哲学にも与せず、より高い第三の立場たる<法>の立場に立ったことを意味するとする点は、必ずしも一義的に決定可能な論点ではない。

釈尊の無記の態度とは、文字通り、立場決定の表明をサスペンドしているということであって、そのことから直ちに和辻のように実は第三の立場への態度決定を読み取るべきだ、ということにはならない。

和辻の場合、十難無記の各選択肢に、ほぼ、伝統的アートマンの形而上学と唯物論的諸哲学の論理的対立がそれぞれ反映されている(百五~百六頁)という見方をするから、仏教的基本の立場はこれらを排した所にあるとの推論が導かれる。

そこで問題は、仏教が他の同時代の諸思想に対してどのように関わったかを厳密に解明することでなければならないが、それは既に見たように、和辻流の単なる両辺排除ではなく、言わば是々非々の有機的弾力的個別的対応であったのである。つまり、形而上学的実在論と感覚的唯物論という両辺の同時的排除に仏教の新機軸を見る和辻に対し、我々は形而上学的実在論への親和性と六師外道に対する段階的疎密関係という有機的な関係を原始仏教に認めたのであった。

 この点をもう少し詳しく言うと、[六師はいずれも特徴ある学説を唱えた自由思想家として有名である。かれらはいずれもヴェーダ聖典の権威を否認し、バラモン教に反抗した。]そして確かに当初[釈尊も歴史的社会的には当時としては六師と異ならぬ存在であったのである。](ii.4~25)

 しかし、そのような自由思想家の一人という歴史的社会的位置づけを持つという点では、釈尊も六師と同類であるが、それだからと言って、伝統的ヴェーダ聖典とバラモン教に対する基本姿勢までもが、彼らと全く同様であったとは言えない。むしろ同じ自由思想家群に分類されても、釈尊はそれら六師の全体に対して実践的に厳しく対立する見解を提示しており、その具体的内容において今度は逆に伝統的ヴェーダ聖典とバラモン教に対する理想的・名目的一致の観を見せているのである。

 しからば、釈尊の立場と伝統的ヴェーダ聖典・バラモン教の立場との本質的相違は何であろうか。多くの場合それは、伝統的な形而上学的アートマン、すなわち実体的自我を釈尊は否定して、「無我」の説を立てたと解釈されている。

ところが、もしそうなら、それは「十難」の一つである「身体と霊魂とは一つ」という哲学的見解<⑤>を釈尊は採用していたという主張に事実上帰着することになる。そうなるとこの解釈は、さきに触れたように、釈尊の終始一貫した無記の態度、つまり肯定も否定も言明しないという判断停止の姿勢を踏み越えて、強硬に為される越権的な憶測以外のものではありえないことになる。

 他方、釈尊の「無我」の教説は、徹底的に実践的な意味のものとしてならば、「自我」の哲学的本質論を猶予したままでも、一貫して通用し得るのである。そこで以下の議論において、この点を釈尊の教説の中枢的機軸にかかわる問題と見て、我々の研究の底本として採用した中村元の業績に即して解明しよう。

31.道徳的実践的概念としての釈尊の「無我」の教え(中村元博士の研究成果の要約)

 [人間を見つめると、人間を動かしているものは、盲目的な欲望であるということを、原始仏教は見出した。『人々は欲求にもとづいて生存の快楽にとらわれている。』『かれらは欲望を貪り、求め、溺れて、吝嗇で、不正になずんでいるが、(死時には)苦しみにおそわれて悲嘆する、ーーここで死んでからわれらはどうなるのだろうか」と。』『諸々の生存に対する妄執にとらわれ、この世の人々がふるえているのを、わたくしは見る。下劣な人々は、種々の生存に対する妄執を離れないので、死に直面して泣く。』『わたくしは牽引する者(=妄執)を貪欲、強大な激流と呼び、吸い込む欲求と呼び、はからい、捕捉と呼び、超えがたい欲望の汚泥であるともいう。』
 釈尊はこのような人間存在の『根本を見た人』なのである。] (iii,101 ~102)

 [仏教の実践法として説かれていることはいろいろあるが、その根本は、われわれに迷いを起こさせる欲望をすてるということであった。『この世で諸々の欲望を超え、また克服しがたい執著を超えた人は、流されず、束縛されず、憂えることなく、思いこがれることもない。』『いろいろの欲望を貪り求める人がいると、諸々の煩悩がかれにうち勝ち、危難がかれをふみにじる。それ故に苦しみが、かれにつき従う。あたかも壊れた舟に水が浸入するように。それ故に、人は常に正しい念いをたもって、諸々の欲望を回避せよ。船のあかを汲み出すように、それらの欲望を捨て去って、流れを渡り、彼岸に達したものとなれ。』

 右は現存最古の聖典の一つである『八つの詩句の章』(Atthaka-vagga,Sn.IV) の冒頭の詩句である。初期仏教の詩人は、思うことを新鮮なことばのいぶきを以て表明した。ところでいまわれわれが右の詩句に含まれている思想を理論的に分析すると、
  (1)われわれの人間存在の根底には、欲望(kama)、貪欲(chanda)が潜在する。
  (2)それにもとづいて執著(visatti )が起こる。
  (3)そのために諸々の危難(parissaya )が起こる。
  (4)それ故に苦しみがつき従う。
ということになる。のちの教義学者たちはーーすでに聖典の散文の部分に現われていることであるがーー右の四つを(1)妄執(渇にたとえられる執著 tanha)(2)執著(upadana )(3)生存(bhava )(4)生と老死、という別のことばで表現し、やがて、十二の項目よりなる縁起の体系のうちにとりいれた。ただここで欲望に関して言い得ることは、欲望を表示する語が種々用いられているが、それらを表示する術語としては後には「妄執」(tanha )が一般的に用いられるようになった。](iii,102-104 )
 [では苦しみがこのように成立しているのは何故であろうか? 最初期の仏教においては、苦しみに悩まされている凡夫は、我ならざるもの(非我)を我(アートマン)と見なしているからであると説いている。そこでわれわれはいわゆる「無我説」の考察に入らねばならない。

 仏教は無我説の立場に立つものである。このことを仏教徒自身も標榜している。「諸法無我」ということは、仏教を他の諸哲学説から区別する標幟である三法印の一つとされている。またインドの他の哲学諸学派も、このことを承認している。例えばシャンカラは仏教を無我説(nairatmyavada )と呼んでいる。

 ところで「無我」とはどういう意味であるか。われわれはまずその原語を調べてみよう。パーリ語聖典においては、無我の原語はanattan (主格ではanatta)である。この語は名詞である場合もあるし、また述語として用いられる形容詞である場合もある。いずれの場合でも、「我ならざる(こと)」(not a soul)という意味と、「我を有せざる(こと)」(without a soul)という意味と二義がある。漢訳仏典においても「非我」と訳されることもあり、「無我」と訳されることもある。漢訳仏典に出てくる「無我」の直接の字義は「或るものが我(アートマン)を有しないこと」「或るものに我が無いこと」である。

 では、無我説の根本趣意はどこにあるのであろうか。

 経典の中の最古層に表明されている無我説によると、何ものかを「わがもの」(mama)「われの所有である」と考えることを排斥している。そうして修行者はまず「わがもの」という観念をすてねばならぬという。したがって無我説とはこのような意味における我執を排斥しているのである。(下線筆者)
 『(何ものかを)わがものであると執著して(mamayita)動揺している人々を見よ。(かれらのありさまは)ひからびた流れの水の少ないところにいる魚のようなものである。これを見て、「わがもの」という思いを離れて行なうべきである。(amamo careyya )ーー諸々の生存に対して執著することなしに。』
 「わがもの」「われに属す」(mama)という観念をすてねばならぬということは、初期経典の中のあちこちに強調されている。例えば修行を完成した人(tathagata )は『貪欲を離れ、わがものという執著なく、希求することがない。』真実の修行者は『わがものという執著なくして行なう』といわれ、『善き誓いを持っている人はわがものという執著がない』といわれている。これが修行僧のあるべきすがたとされているのである。すなわち真実の修行者にとっては、何ものかを「わがものとなす」「わがものとみなす」(mamayate)ことがなく、また「わがものとみなされたもの」(mamayita)も存在しないのである。真実の修行者は『執著することなく、常に心をとどめて(念じて)、わがものと執したものを(すべて)捨て去って世の中を歩きまわる』のである。修行者に対しては『世間における何ものをも、わがものであると見なして固執してはならない』と教えている。このようにこの「わがもの」という観念を離れ、我執をすてることが、修行の理想である。『世間を、草や薪に等しい、と智慧を以て観ずるとき、かれは「わがもの」という観念(mamatta )を見出し得ないが故に、「われに(このものが)存しない」(n'atthi me)といって悲しむことがない。』これがすなわち解脱の境地である。](iii .139 ~143 )

 [では何故に「所有」「わがもの」という観念を抛棄せねばならないのであるか。その理由として経典が挙げているのは次の道理である。ーーおよそ自己の所有と見なされているものは常に変滅するものである。したがって永久に自己に属しているものではない。また自分が死んだならば、自己の所有物、あるいは自己の所有のように見なされている人々(例えば家族等)は、自分から離れてしまう。したがって自己の所有に執著してはならない。ーーと。『人々はわがものであると執著した物のために憂う。(自己の)所有したものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅すべきものなのである。』](iii .150 ~151 ) [こういう意味における無我説は、ジャイナ教のそれと全く一致するのみならず、またバラモン教の所説とも、その趣意の上ではやはり一致するものである。](iii .148 )
 [ではどこに特に仏教的な特徴が存するのか? このことについては、以下において論ずることにしょう。以上の所説と相並んで初期仏教の聖典は、我ならざるもの(非我)を我(アートマン)と見なすことをも排斥している。『神々ならびに世人は、非我なるものを我と思いなし、名称と形態とに執著している。』

 ところでこの場合「我」と訳される原語「アートマン」(Skrt.,atman,Pali,attan)とはどういう意味の語であるか。アートマンとは元来気息を意味する語であった。さらに生命の主体と目されては「生気」となり、総括的には生活体すなわち「身体」「肉体」、特に「胴体」となり、他人と区別しては「自身」「自己」の意味となる。したがってインドの文献においては、再帰代名詞的に用いられることが多い。さらに内面的・本質的に解されて哲学的な意味では「本体・本性・本質・精髄・霊魂・自我」を意味するに至った。特にウパニシャッドにおいては、アートマンは万有の根本原理あるいは絶対者と同一視されるに至った。ところで初期の仏教徒はアートマンという語を主として「自身」「自己」の意に用い、それが原義であると考えていた。「アートマン」という語をシナ語に訳すに当たって、シナの訳経僧はこれに「我」という字をあてた。「我」という字は古くは、シナ語において一人称の代名詞の対格(accusative)を表示する語であった。故に往昔のシナの翻訳僧もアートマンの直接の字義は、今日の日本語でいう「自身」「自己」の意味に解していたことが知られる。(今日の日本語では、「我」というと偏狭な自我、恣意的な自己、というニュアンスを伴っている。例えば「我を張る」、「我が強い」など。このようなニュアンスは仏教の無我の観念ならびにその字義から対比的に導き出されたものであろうが、本来はこのような意味をもっていなかった。故にこのような誤解を避けるために、「自己」「自身」と訳したほうがよい場合がある。)

 さて、アートマン(自己)ならざるものをアートマンと見なすということの意味をさらに具体的に考えてみよう。非我(アートマンならざるもの)といわれるものの中でも、自己の身体・家族・財産・地位などは、自己にとって最も大切なものであり、しばしばアートマンであるかのごとくに誤り解せられる。しかしそれらはアートマンではありえない。このことはウパニシャッド及びヴェーダーンタ哲学において特に強調するところである。したがってこの限りにおいても、仏教はウパニシャッド乃至ヴェーダーンタ的思想と何ら異なっていない。(下線筆者)

 また「名称と形態とに執著する」云々の句も、同様に解することができる。ここで「名称と形態」というのは、ウパニシャッド以来、現象世界のありとあらゆるものを総称する呼称である。故に名称と形態とに執著することとは、アートマンを、具体的な差別相に限定されたものとして把捉すること、すなわちアートマンを対象的に把握することである。世人はこのような自己以外のものに執著して、自己を喪失しているのである。仏教はこのような思想を排斥したのである。したがってこの点についてもウパニシャッド的な思想の影響が認められる。ただし最初期の仏教においては、「名称」とは精神的な表象内容、「形態」とは身体のことであると考えていたらしい。ただ仏教では身体を特にアートマンであると誤り解する思想を、特に力を入れて排斥している。『窟(身体)のうちにとどまり、執著し、多くの(煩悩)に覆われ、迷妄のうちに沈没している人、ーーこのような人は実に厭離から遠く隔っている。実に世の中の欲望を捨て去ることは容易ではないからである。』

 身体がわれわれのアートマンであると解する思想は相当に根強いものがある。唯物論者は、身体即我の主張(dehatmavada )を立てるものとして知られている。のみならずそれが一般世人の見解である。『衆生は自己の身体を楽しむ。』また愚昧な凡夫はこの身体をわがものであると解している。『他のものである肢体をわがものであると思う。』神々といえどもこのような見解にとらわれていて、そのために輪廻の範囲に流転し、なお苦悩を脱し得ない。長寿天は仏の説法を聞いた後で、『ああ、われは未だ自己の身体を超えていない。実に無常である。』と嘆じた。

 さてこのような見解を初期の仏教徒は『自己の身体を執する見解』(sakkayaditthi,Skrt.=svakayadrsti)と呼んでいる。(この語は仏教における重要術語として用いられていたにもかかわらず、後にはその原義が不明となった。そうして後世この俗語形がサンスクリットに直される際にsatkayadrstiという語が充てられ、漢訳仏典では「有身見」と訳されている。略して「身見」ということもある。)このような見解を捨てるべきことが教えられている。実にこの身体を超越することに、仏教はその実践的理想を認めているのである。](iii .151 ~156 )

 [仏教独特の哲学的術語が構成されるにつれて、それを用いて、同一の道理を説明するようになった。すなわち新しい術語を用いながら、アートマン、あるいはわがものと同一視することを戒めるようになった。仏教では個人存在(ならびにそれと密接な連関のある現象世界)を構成しているものを、もろもろの形成力(諸行)あるいは五種の構成要素(五蘊)であると解した。それは(1)物質的なかたち、(2)感受作用、(3)表象作用、(4)形成作用、(5)識別作用の五種であり、これらの五種のはたらきの交錯において個人存在が成立していると考えたのである。これらの五つのものが執著を起こすための素材(upadana )となっていると考えた。(だからこれらの五つが五取蘊upadanakkhandha とよばれるのである。)そうしてそれらがわれわれに執著を起こさせるもとのものであり、われわれを束縛するものであるというので、神話的表現をもって悪魔(mara)とよばれている。したがって「これらの形成力あるいは構成要素をアートマンと同一視してはならない。アートマンとは異なったものと観ずべきである」と教えている。すでにウパニシャッドの中で哲人ヤージニャヴァルキヤは、アートマン以外のものはすべて苦しみであると説示しているが、仏教もその思想を受けて、諸々の形成されたものはアートマンならざるものであり、したがって苦しみである、と解している。〔アートマン哲学とのこのような思想史的連関が後世には見失われるに至ったので、後世の註釈者は極めて無理な解釈を施している。〕](iii .158 ~161 )

 以上を要約していうならば、アートマン以外のいかなるものをも、「これがアートマンである」とか「これがわがものである」とかいって執してはならぬ。そうしてこのような執著がないならば、それがすなわち解脱である、と考えたのである。初期仏教においては、このように「これ」として具体的にあるいは対象的客体的示して見せることのできるいかなるものもアートマン(自己)ではない、それはアートマンとは異なった他のものである、またそれはアートマンに属するのでもない、と教えているのである。『修行完成者は自ら自己を見ることがない。』アートマンを客体的なものとして認めることはできない、というのである。『自己によって自己を観じて(それを)認めることなく、こころが等しくしずまり、身体が真直ぐで、みずから安立し、動揺することなく、心の荒みなく、疑惑のない完き人は献菓を受けるに値する。』

 初期仏教における我に関する見解は以上のごとくであった。したがってわれわれはこれを無我説と呼ぶことを躊躇する。「無我」という語は誤解をひき起こし易い。初期の仏教においては決して「アートマンが存在しない」とは説いていない。むしろウパニシャッドなどの思想と多分に密接した連関を有するのである。

 かのヴァジラー尼の所説は、後世『ミリンダ王の問い』においてナーガセーナ長老の無我説の典拠とされているものであり、有名であるが、この尼僧も決して「アートマンが存在しない」とは説かなかった。ただ個体が諸々の形成されたものの集合にほかならぬということを主張するのである。『譬えば実に諸々の部分が集まったならば車という名称が起こるように、それと同じく五つの構成要素(五蘊)が存在するのに対して生存者という仮想(sammuti )があるのである。』ここでは客体的に生存する者としての生存者(有情 satta )は五種の構成要素(五蘊)の集合構成したものにすぎず、常住不変な実体として存在しているのではない、ということを言おうとするのである。初期ジャイナ教における術語の用例を見ても、アートマンは他者(para)と対立した概念であり、この点は仏教と同様である。そうして生存者(有情sattva)はアートマンとは別の概念として扱われているから、仏教の場合も同様であったと推定してよいであろう。しからばヴァジラー尼といえども決してアートマンを否認したわけではないのである。](iii .163 ~166 )

 [このように、初期仏教においては、アートマンを否認していないのみならず、アートマンを積極的に承認している。まず道徳的な意味における行為の主体としての自己(アートマン)を行為の問題に関する前提として想定している(下線筆者)。例えば『自己の義務を果たす者』(attano kiccakari)であるべきことを教え、自己(アートマン)が善悪の行為の主体であると考えている。さればこそ修行者は己れを策励して(pahitatta )修行に努める人なのである。そうして『自己をあるがままではなくて、異なって誇示する人』は貶斥されるのである。さらにまたアートマンならざるものをアートマンと解することが排斥されているのであるから、アートマンをアートマンと見なすことは、正しいことなのではなかろうか。聖典自身は明らかにこの立場を承認している。原始仏教においては自己(アートマン)を自己(アートマン)として追及することが正しい実践的目標として説示されている。すなわち真実の自己を求むべきことを勧めている。律蔵(散文の部分)の記述を見ると、釈尊は遊楽に耽っている青年たちに向かって、「婦女を尋ね求めること」よりも『自己(アートマン)を尋ね求めること』(attanam gaveseti)を勧め、そうしてかれらを出家せしめたという。 ところで『自己(アートマン)を尋ね求める』ということは、実はジャイナ教において説くところであり、表現の文句までも一致している(samcikkha'ttagavesae)。のみならず歴史的に遡って追求すると、このような思想は、少なくとも表現の文句の表面に関する限りは、ウパニシャッドにおいて「アートマンが探求せらるべきなり」と説かれているのと全く軌を一にしている。『このブラフマンの都(=身体)の内にある小さい蓮華の(形をなす)一住居ーーその内部に小さな空処がある。その内にあるもの(=アートマン)、それを尋ね求むべし。実にそれを知ろうと欲すべし。』ウパニシャッドにおけるこのような表現を原始仏教は継承したのである。そうして原始仏教においては、『自己を知る人』(attannu )が尊重されているが、これはジャイナ教において、解脱者は自己を知れる人であると説かれているのに対応している。](iii .167 ~168 )

 [ここに説かれているような思想の論理必然的な帰結として、アートマンはいたわり護られ益せられねばならぬ、という。まず自己の利を心がけねばならぬということを強調する。『自己の利益を識別すべし。』といい、『この故に賢者は自己の利を見て正しく法を思慮せよ。』と教えている。ところでここにいう自己の利(attha )あるいは益(hita)というものは、物質的享楽的感覚的なものを意味しているのではなくて、真実の認識、真理の体得を意味しているのであることはいうまでもない。さればこそ『自身の利を思って自身を抑えるのである。』ともいい、また「自己の利をもたらす事柄」の中では「堪え忍ぶこと」(忍辱)が第一であるという。これは、いわゆる利己主義的な意味での「自分の利益」とははっきり区別されねばならない。利己主義は排斥されている。『自分の利益のみを知る人間は、きたならしい。』](iii.169 ~170 )

 さらに原始仏教においては自己を愛することを教えている。アートマンは愛しきもの(piya)である。或る小さな神(devata)が『子に等しい愛しいものはない。』といったのに対して釈尊は『自己(アートマン)に等しい愛しいものはない。』と答えた。これは明らかに哲人ヤージニャヴァルキヤが『ああ、実に夫を愛するが故に夫が愛しいのではない。アートマンを愛するが故に夫が愛しいのである。ああ、妻を愛するが故に妻が愛しいのではない。アートマンを愛するが故に妻が愛しいのである。ああ、子らを愛するが故に子らが愛しいのではない。アートマンを愛するが故に子らが愛しいのである。』などと説いた教説にちょうど対応するものである。原始仏教においては、まず人間が利己的なものであるという現実の認識から出発する。 或るときパセーナディ王は、マッリカー妃とともに美麗絶佳なる宮殿の上にいたことがある。インドの宮殿は屋上が平らで歩んだり休息することができるようになっているので、妃とともに風光を楽しんでいたのであろう。そのとき王は妃に尋ねた。『マッリカーよ。お前にとって自分よりももっと愛しいものが何かあるかね?』王は或る答えを予期していたのであろう。甘い答えをーー。ところが妃ははぐらかしてしまった、ーー『大王さまよ。わたしにとっては自分よりももっと愛しいものは何もありません。』最愛の人々の間でさえもこうなのである。人間の実存のとぐろなす坩堝が露呈している。妃はさらに反問した。『大王さまよ。あなたにとっても自分よりももっと愛しいものがありますか?』『マッリカーよ。わたしにとっても、自分よりももっと愛しいものは何もない。』王はおそらく興ざめしてがっかりしたのであろう。かれひとり宮殿から下りて、釈尊のところへおもむいて、右の次第を告げた。そのとき釈尊はこのことを知って次の詩句を唱えたという。『思いによってすべての方向におもむいても、自分よりもさらに愛しいものに達することはない。そのように他の人々にとっても自分がとても愛しい。それ故に自己を愛する人(attakama)は他人を傷つけるなかれ。』

 ところで自己を愛するというのは、どのようなしかたでなされるのであろうか?原始仏教によると、真に自己を愛するということは、人間の正しい理法に従うことであらねばならぬ、と考えていた。『さすれば自己を愛し(attakama)偉大なるものを希求する人は、諸仏の教えに帰依して正法を尊重すべし。』したがって善を行なうことが、実は自己を愛することにほかならない。『もしも自己を愛しいものであると知ったならば、自己を悪と結ぶなかれ。』このような思想は、経典の散文の部分にも継承されている。パセーナディ王が『悪行をなす人にとっては自己(attan )は愛しいもの(piya)ではないが、善行をなす人にとっては自己は愛しいものである。』といったのに対して、釈尊はそのとおりであるとして是認している。

 『いかなる人々にとってアートマンは愛しいものであるのか? また、いかなる人々にとってアートマンは愛しくないものなのであるか? …身体によって悪行を行ない、ことばによって悪行を行ない、意によって悪行を行なう人々、ーーかれらにとってアートマンは愛しくないものなのである。かれらは「われらにとってアートマンは愛しいものである」というかもしれないが、しかしかれらにとってアートマンは愛しくないものなのである。それは何故であるか? 実に敵(愛しくないもの)が敵に対して為すであろうことを、かれらはみずから自分に対して為しているのである。それ故にかれらにとってアートマンは愛しくないものなのである。しかるに身体によって善行を行ない、ことばによって善行を行ない、意によって善行を行なう人々、ーーかれらにとってアートマンは愛しいものなのである。かれらは「われらにとってアートマンは愛しくないものである」というかもしれないが、しかしかれらにとってアートマンは愛しいものなのである。それは何故であるか? 実に親愛なる人が親愛なる人に対して為すであろうことを、かれらはみずから自分に対して為しているのである。それ故にかれらにとってアートマンは愛しいものなのである。』

 アートマンを愛しいものであると知って、真実の実践を行なうべしと説いている点では、ヤージニャヴァルキヤその他ウパニシャッドの哲人たちの思想と一致しているといわねばならない。](iii.171 ~174 ) [『自己を護る人は他の自己をも護る。それ故に自己を護れかし。(しからば)かれは常に損ぜられることなく、賢者である。』自己を護ることが同時に他人の自己を護ることでもあるような自己は、もはや互いに相対立し相争うような自己ではない。むしろ他人と協力することによってますます実現されるところの自己である。このような理想的な自己を実現するためには、もろもろの悪徳・煩悩の基体としての自己を滅却せねばならぬ。

このように実践の目標に関して、自己を愛し護ることと、また自己を滅しすてることと、二様の全然相反した教説がすでに経典の最古層に説かれているのであるから、最初期の仏教においては、二種の異なった自己を想定していたことが知られる。一方は悪徳煩悩の基体としての自己であり、凡夫の日常生活のうちに認められる。それは理想から乖離し、常に頽落する可能性を内在している。これに反して他方は理想として実現さるべき自己であり、その真実の状態は聖者が具現しているものである。簡単に表現すれば、小我と大我、と呼んでもよいであろう。『よく統御せられた自己は人間の光明である。』『自己を統御した人』は極度に称讃されている。このような目的を達するためには、修行者は禅定に入って心を静めることが最も重要であるから、かれは「自己を定に入らしめた者」「自己の安住した者」とも称せられる。そうして自己に打ち克つことを、仏教徒は「勝利」(戦勝)と呼んでいた。『戦場において百万人に勝つとも、一つの自己に克つ者こそ、実に最上の戦勝者である。』さて「自己を制する」といっても、その場合の自己なるものは決して形而上学的な実体ではない。それを具体的に理解するならば、心と同じであるといってもよいであろう。原始仏教聖典の最古層(ガーター)の中では修行者に対し、自らの心を護るべきことを教えている。『もろもろの思惟をよく統一し、みずからの心を護れ。』修行者は外貌の如何によって判定せらるべきではない。内心の清浄があらねばならぬ。『世間は心によって導かれ、心によって悩まされる。心という一つのものがすべてを従属せしめる。』解脱する主体は何か、というと、心が解脱するのである。例えば修行完成者の心境を告白している中に『わが心が解脱した』という。解脱した者のことを『心の善く解脱した人』と呼ぶ。後世の説一切有部等のアビダルマの教義によると、心は識と同じものと解せられているが、初期の仏教においては、精神的主体としての人間そのものを指していたのである。したがって五つの構成要素(五蘊)の中の識別作用(識)と必ずしも同一ではない。

 [『自己は自己の主である。』理想的自己は大海の中の島のようなものである。『汝は自己の良き島を作れ。けだし汝には他のよりどころがないからである。』喪失した自己の回復、自己が自己となること、これがすなわち初期仏教徒の実践の理想であった。表現に関する限りでは、この点にもウパニシャッド的なアートマン哲学が顕著に保存されているといい得る。](iii .179 ~184 )
 [或る場合には、アートマンすなわち自己が自己の監視者として、西洋倫理学でいう「良心」に近いものと考えられている。『悪い行ないをする人にとっては、世間に秘密の場所というものは存在しない。人よ。真実であるか虚偽であるかを、汝のアートマンが知っているのだ。証人よ。実に貴いアートマンを汝は軽視している。ーー自己のうちに悪があるのに自分らのために隠そうとする汝はーー。』

 これはバラモン教のほうで『マヌ法典』において『自己(アートマン)こそ実に自己の証人であり、また自己は自己の帰趨である。諸々の人間にとって最高の証人である自分の自己を軽視することなかれ。』という思想に対応するものである。以上考察したところからも知られるように、初期の仏教においては、著しくウパニシャッドの哲学に類似した表現を以て思想を説いているのであるが、さらに仏教の修行そのものを『アートマンに関する、真実無上の、ブラフマンへ赴く車乗』と呼んでいる。したがってアートマンがブラフマンと合一することが解脱であるというウパニシャッドの思想を少なくとも表現の文句に関する限りは一応承認しているのである。さらに原始仏教聖典の散文の部分には、修行を完成した修行僧は『このように現在において欲楽なく、静まり、清涼となり、楽しみを感受しつつ、ブラフマンとなったアートマンによって住する。』といい、この句が定型句としてしばしば繰り返されている。これは解脱に到達したこと、すなわちニルヴァーナを証得したことを意味するのである。このような理想的自己は容易に実現され難いものである。これは「アートマンの認識は容易に得られぬ」とウパニシャッドに説かれているのと表現が類似している。ウパニシャッドがアートマンの直観を強調していることは、周知の事実であるから、特に言及する必要もないが、ジャイナ教も自らアートマン論者(atmavadin )であることを標榜し、修行者にとってアートマンの知識の必須不可欠なるべき所以を説いている。故に仏教はこの点でも当時の諸宗教の思想を継承してそれを発展させたのである。](iii .187 ~190 )

[さて仏教の実践とは、以上にのべたように現実的日常的な自己が、理想的規範的自己に転ずることであるが、その際の行動主体となるものは、どこまでも個人的自己である。『みずから悪をなすならば、みずから汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから浄まる。浄いのも浄くないのも、各自のことである。人は他人を浄めることができない。』なるほど初期の仏教においても、他人を救うことを教えている。しかし修行者が自己の神秘的な力によって他人を救うのではない。他人をして正しい道に入らしめたのちに、その他人が他人自身の力によって他人自身を救うのである。もちろん原始仏教聖典においては、仏に対する信仰が盛んに強調されているが、それはブッダを模範としてその教法を実践すべきことを説いているのであって、仏道修行とはこのような覚者(ブッダ)に従って実践を共にすることであった。すなわち覚者に従って覚者と同じような理想的人格者となるのである。『釈迦よ、われをもろもろの疑惑から解き放ちたまえ』という修行者ドータカの願いに対して、釈尊は『われは世間におけるいかなる疑惑者をも解脱せしめることができない』と答えている。故にゴータマは自力の修行を強調したのであった。](iii.192 ~195 )

[以上に論じたように実現さるべき理想としてのアートマンは規範的意義を有するものである。

 ところでアートマンにたよることは、具体的にいえば人倫の規範としての法にたよることだと考えた。したがって正統バラモン系統においては、「アートマンを楽しむ」ということを強調するのに対して、仏教では「法(=真理)を楽しむ」という表現を多く用いる。例えば、『バガヴァッド・ギーター』においては、『しかるにアートマンを歓喜となし、アートマンに飽満し、アートマンに満足した人があるならば、かれにはもはや為すべきことは存しない。』と説くが、これに対して仏教では修行者のことを次のようにいう。『法を楽しみ、法を喜び、法に安住し、法の定めを知り、法をそこなうことばを口にするな。みごとに説かれた真実にもとづいて暮らせ。』〔これに対してジャイナ教では修行者は『法に安住せる者』
『自己が安立し法に従って生きるもの』でなければならぬという。〕

 すでに述べたように、経典の中では「自己を知る者」(attannu )であらねばならぬということが力説されているが、それは形而上学的なアートマンを知ることでもなく、また後世のアビダルマ教義学におけるように仮りに想定されている我(が)を分析することではなくて、『わたくしは信仰について、戒行について学問について、捨離について、知慧について、理解力について、これだけ達している。』と反省して知ることである。すなわち宗教的実践の具現において自己を知るのである。](iii.213 ~214 )

 [自己の実現とは法の具現にほかならぬと考えたところに、仏教が普遍的世界宗教として社会的実践性をたもち得た所以が存するのである。ところで仏教の最初期においては、「法」というのは、区別を立てることではなくて、むしろ執著をはなれ、すがすがしい心境に到達することを「法」とよび、それを「正しい」と称していたようである。『梭(ひ)のように真直ぐにみずから安立し、諸々の悪い行為を嫌い、正(sama)と不正(visama)とをつまびらかに考察している人、ーー諸々の賢者はかれを聖者であると知る。』ここで「正」というのは、西洋でいう正義とは異なって、心に違逆がなく、平らかで一如に帰していることをいい、「不正」とはそれとは異なって違逆・抗争のあるすがたをいう。そうしてこの理法を知ることによって解脱が得られる。それ以外の方法によっては解脱は得られない。釈尊のことばとして、『わたくしは世間におけるいかなる疑惑者をも解脱させえないであろう。ただ汝が最上の真理(dhamma)を知るならば、それによって汝はこの煩悩の流れを渡るであろう。』という。『内的にも外的にでもどれだけでも理法を知りぬけ。』『適当な時に法を正しく考察し心を統一して、暗黒を滅せ。』すなわち「法」とよばれるものは、「真理」と「仏の教え」と両方の意義があるのである。そこで仏の教えは「正法」(saddhamma) と呼ばれるようになる。それは「善き人々の正しい礼法・道徳」をいうのである。それは善人のみちすじなのである。『善き人々の法は老いることがない。』永遠につづくものなのである。](iii.216 ~220 )(注5:このような「実践的道徳的無我観」こそが原始仏教本来の「自己」の見方であるとすれば、「無我の立場は一切の現象の考察においてすべての「我」を抜き去ることを要求する。…かく経験的我の排除とともに一切の我が根本的に排除せられるところにこの立場の注目すべき特徴がある。」(百三三頁)という和辻の無我解釈は唯物論的偏向に陥っていると言わざるを得ない)

32.断常二辺回避中道の実践性格(中村元博士の研究成果の要約)

 [経典の散文の部分においては、人間の具体的経験的存在を構成していると思われる種々なる要素(諸法)<五蘊(iii.159 )・六入(iii.240 )・十八界(iii.241 )…筆者による>の一々について「それはアートマンではない。」「それはわがものではない。」と教えているのである。すなわち世間の凡人ならびに哲学者たちは、形而上学的原理としてのアートマンを想定し、アートマンを求めている。しかしわれわれ人間の具体的経験的存在を構成している精神的あるいは物質的な要素乃至機能のいずれをもアートマンと解することはできない。それらは絶えず変化するものであるから、常住不変なるべきアートマンの本質に相反している。またそれらは苦しみを伴うから、理想的完成的実体としてのアートマンとは異なるものである。しからばわれわれの自己(アートマン)はいかなるものであるか? それは対象的には把捉され得ない。世人が誤って自我であると想定するかもしれないところの対象的客体的ないかなる原理あるいは機能も、実はアートマンではない。そうしてこのような教説によって真実の実践的目標を達成しようとした。すなわちこのようにして、外的または具体的に把捉される何ものかに対する世人の執著や煩悩を去らせようとしたのである。このような思想を世間一般の呼称にしたがって仮りに「無我説」と呼ぶにしても、それは決して、「アートマンが存在しない」と主張したのではない。アートマンは存在するか、あるいは存在しないか、という問題に関しては、沈黙を守る、というのが原始仏教経典における散文の部分に現われている思想的態度であった。このような趣意は初期の詩句の仏教の中にすでに表わされているのであって、散文の部分はその思想を詳説しているにすぎない。ただし、最初期の仏教が多くは「わがもの」という所有の観念を捨てるべきことを教え、アートマンに関しては、アートマンを愛し、護り、アートマンを実現すべきことを強調するのに対して、散文の部分においては、むしろわれわれが対象的に把捉し得る何ものもアートマンではない、ということを強調する。

 これをサーンキヤ哲学と比較してみるとサーンキヤ哲学では人間の肉体の作用および身体の作用をアートマンから切りはなした点が仏教と共通である。しかしサーンキヤ哲学はそれらを超えたものとして純粋精神(プルシャ)を立てたのに対して、仏教は沈黙を守っていたのである。では仏教では何故沈黙を守ったか? ヴァッチャ族の出家者が「アートマンは存在するか?」という質問を三たび向けたときに、釈尊は三度とも答えなかった。そこで侍者アーナンダは「何故お答えにならないのですか? もしもお答えにならないと、<釈尊は答えることができなかったのだ>と、かれは言い触らすでしょう」と言ったのに対して、釈尊は答えた、『われもし答えて「我有り」と言わば、すなわちかれの先より来(このか)たの邪見を増さむ。もし答えて「我無し」と言わば、かれは先に癡に迷えるも、豈にさらに癡惑を増さざらんや。……もし先より来(このか)た我有りとせば、すなわち是れ常〔住を執する〕見〔解〕たり。今において断絶すとせば、すなわち是れ断〔滅を執する〕見〔解〕なり。如来は二辺を離れて中〔道〕に処して法を説く。』と。](iii.245 ~247 )このように見て来ると、断常の二辺を離れるということは、これも存在論的・形而上学的意味の言明ではなくて、人によってはいずれの見解も徒に迷いを増大するだけであるから、いずれとも断定しない、という実践的修行的趣旨において説かれていることが明らかである。従って、形而上学的諸問題についての釈尊の元来の無記の態度は依然としてここでも変更なく保持されているのである。

33.形而上学的「無我」説への逸脱傾向とその牽制(中村元博士の研究成果の要約)

 ところで、[ヤマカという修行僧は、次のような信仰を表明した。『われは世尊の説きたもうた法をこのように解する。煩悩の汚れ(漏)の尽きた修行僧は身体の亡びた後に断滅して滅亡し、死後にはもはや存在しない、と。』経典は他のもろもろの修行僧をしてこれを「悪しき見解」と呼ばしめ、『世尊はこのように説きたもうことはありえない。』と評せしめている。しかるにヤマカはなお自己の見解を棄てなかった。そこでサーリプッタは、ヤマカに対して、五つの構成要素の一々が無常であることを説き、次に、「修行を完成した人」(如来)は物質的なかたちなのではなく、また物質的なかたちの内に存するのでもなく、物質的なかたちの外に存するのでもなく、物質的なかたちを有しないものでもない、ということを一々悟らせて、次に感受作用・表象作用・形成作用・識別作用についても同様に繰り返す。そうして『修行を完成した人(如来)は経験的には真実に有るがごとくには認知され得ない。』と教え、ついにヤマカをして自己の見解の誤りであることを悟らせている。無我説は決してアートマンが存在しない、と教えていたのではないが、当時無我説をそのような意味に解した人々、およびそのような無我説を排斥した人々のいたことが、右の経典からも知られるのである。](iii.270 )

34.原始仏教に対する誤解としての形而上学的「無我」説の成立(中村元博士の研究成果の要約)

 [ところで散文の部分で強調されている思想を受けて、後世になると遂に「アートマンは存在しない」という意味の無我説が確立するに至った。説一切有部は明らかにこの立場に立っているし、また初期の大乗仏教にも継承されている。この教説を論証して確立させるための論法として用いられるものは析空観(しゃくくうがん)である。析空観とはシナ・日本の古来の仏教学者の間で用いられる呼称であるが、それは『法を析(しゃく)して空を明かす』すなわち一つの物をその構成要素に分析して、そのいずれの構成要素の中にもその物が存在しないから、その物は単に名称の上だけのものであって、真実には存在しない、と説く論法である。このような論法によって「我は存在しない」と主張するのである。

 このような見解に至る萌芽がすでにパーリ語経典の中に現われていることを、われわれは認める。…このような思想は『ミリンダ王の問い』におけるナーガセーナ長老の所論にも現われている。…このような見解は本質的には古い詩句に現われているヴァジラー尼の思想を詳説したものにすぎない。

 個体が種々の要素から構成されているという思想は、ジャイナ教をはじめ当時の哲学諸学派の説くところであるが、さらに遡ってウパニシャッドの中にも表明されている。…しかしながらウパニシャッドの哲人たちは、これらの要素あるいは機能の本源を追求してゆくうちに、ついに常住不滅のアートマンを見出し、それが宇宙の本体としての絶対者ブラフマンと一如であるということを証得するのを究極の理想とした。しかるに仏教では、このような分析的構成的な思惟方法を受けながらも、諸々の機能の背後にアートマンのような形而上学的原理を見出すことを拒否したのである。そうして万物が無常であることを説き、その思索は無常であると経験し得る範囲にとどまっていたのである。まだ「アートマンが存在しない」とは説いていない。ただ「アートマン」と「個人存在」(puggala )とをもしも同一視するならば、直ちにそのような結論が得られるのである。](iii.248~251 )

35.結語:霊魂実在への自力発見課題としての釈尊の教導形式

従って、釈尊が実際上、実践修行に関して「無我」という表現を以てしばしば教えを説いたとしても、もし、「アートマンは存在せず」という意味の無我説を直接釈尊に帰するならば、それは釈尊が理論上無記のままにしておいた問題について、単に語句の表面上の意義に釣られて徒に当て推量を行うものに過ぎない。

 しかしながら我々は合理的に可能な許される仕方で、釈尊が無記のままにしていた一定の理論的問題に関して、論理的推論を行うことが出来る。即ち、既に我々は「B(E)はB(非Q)である。」ような形において、釈尊の悟りの内容を解釈する緒に就いていたのだった。しかして、B(非Q)とは、我々の表現を以て言えば、最善観的輪廻転生論である(注6)。

注6*「無我」を仏教の形而上学的原理とする和辻の解釈では業論と輪廻転生論が本来の仏教思想として位置づけられ得ない。そこで彼は仏教の伝統を真っ二つに割って、「無我」的思想を仏教の系統とし、他方、業と輪廻の思想は関係のない別系統に属していたのが通俗的に仏教に付着されたに過ぎないとする(二七二 ~二九三頁)。しかし我々の解釈では業即ち行為の因果律と輪廻論とは最善観的輪廻転生論において原始仏教の綱格を形成するものと考えられた。この甚だしい相違は和辻が例えばニガンタ・ナータプッタの行為論と輪廻論も、マッカリ・ゴーサーラの強烈な宿命論的(従って固有の行為論を欠く)輪廻論も、はたまたプーラナ・カッサパの独特な無因果的偶然論も何ら具体的に考慮に入れることなく、極めて粗雑に仏教比較論を済ませた点に起因するであろう*

であるならば、例えば十難のうち、「身体と霊魂とは⑤一つか、⑥異なるか。」という問題については、「身体と霊魂とは異なる。」という⑥の選択肢を釈尊の悟りの内容の中に所属するものとして理解するであろう。何故なら、「身体と霊魂とは一つ」という⑤の選択肢は、心身の一度限りの生存の肯定及びそれ以外の可能的生存の否定を含意するものとして、身体以外の存在の多数度の生存の可能性を含意する輪廻転生論とは両立し得ないからである。

 また、[遂に「アートマンは存在しない」という意味の無我説が確立するに至った。説一切有部は明らかにこの立場に立っている](前節参照)と言われるように、極端な精神的原理の否定傾向に頽落した説一切有部でさえも、無為なるもの、つまり常住不壊のものとして、唯一、「ブッダの涅槃」を認めていたように、「人格完成者(如来)は死後⑦有るか、⑧無いか、⑨有り且つ無いか、⑩有らず且つ無からずか。」という問題については、「人格完成者(如来)は死後有る」という⑦の選択肢が、当然、やはり、釈尊の悟りの内容に所属するものとして認められるであろう。何故なら、説一切有部こそが最も限定的に狭く、「無常ではないもの=有為ならざるもの=無為なるもの」を想定していたのだから、その他の部派は当然それよりも広く「無為」をとらえていたと言えるからである(注7:矢吹慶輝「無為」宮本和吉他編『岩波哲学辞典 増訂再版』1930年、7刷、岩波書店、p.886 参照。即ち説一切有部が認める三無為のうち、虚空無為を除いて擇滅無為(ちゃくめつむい)と非擇滅無為という二者は終極的な悟りの智慧という唯一者に固有のものとされる)。

 かくして、通俗的仏教理解の最大の陥穽の一つとして今もある「実体論的無我説」は、実は釈尊その人の教えにはなかったものである、ということが明らかになった。この問題の理解を誤るならば、その誤解の帰結は天地の開き、雲泥の差に通ずるものであり、その真なる理解は徹底的に獲得されなければならない。

 俗に、「仏つくって魂入れず。」と言われる。もし、一部の専門的仏教学者が「ほとけ調べてたましいを抜く。」という大きな誤解に陥ったとすると、逆に、「仏つくって魂入れず。」とは、あくまでも健全な庶民的知恵を背景にした名言の一種であろう。その点、我々が導きのたずなとして来た中村元の仏教研究と理解の努力は、この庶民的知恵の健全性と呼応しつつ、次の氏の言葉に見事に結晶している。

 「仏教の思想的立場は無我説と呼ばれているが、それは決してアートマンを否定したものではない。客観世界に見出されるいかなる実体もアートマンではない-非我-ということを主張したのである。アートマンが実在するか否かということについては、釈尊は全く沈黙を守っていた。だから仏教を無霊魂説と解するのは誤りである」(注8:中村元「ブッダの根本思想とその人類史的意義」同編著『ブッダの世界』昭和五六年、学研、八頁。また「無我」の実践論的意味については中村元編著『自我と無我』序論インド思想一般から見た無我思想第一章「最初期仏教における無我説」昭和三八年、平楽寺書店、六~六五頁参照)。

 このように見て来ると、釈尊の十難無記の態度は、あくまでも実践修行中心の、その教えの方向づけの中で、哲学諸派との果てしない論争に巻き込まれる愚を根本的に回避する防御の知恵によって戦略化されたものであったと言うことが出来る。従って弟子たちは、その日々の実践修行の過程の中で、内面的思索において、十難への理論的解決がいかなる方向に見出されるべきであるかを、相互に以心伝心のかたちで検討・確認することができたと想定することはあながち無理な推定ではないであろう。むしろ、釈尊はそのことを望み、且つ期待したのではないのであろうか。それはまさに、哲学諸派との言語的論争を避けつつ(iii.3-45)、内面的に真理に自力的・発見的に到達するすぐれて叡智的な課題であったのではあるまいか。

事実、当時一般にも認められ、また仏教内でも認められていた神通力の一つに、「他人の心のありさまを知る他心通<たしんつう>」(中篇23節参照)というものがあった。この能力が開発されれば、自分より悟りの上級者に対してはともかくも、悟りの同等者ないし下級者に対しては、まさに言語的伝達を介さずにその思う所を直観することが出来るのである。このようなことを背景にして考える時、『われは世尊の説きたもうた法をこのように解する。煩悩の汚れ(漏)の尽きた修行僧は身体の亡びた後に断滅して滅亡し、死後にはもはや存在しない、と。』という信仰を表明した修行僧ヤマカに対して、何故に、唯一の師たる釈尊の直接的介入なしに、上級弟子たるサーリプッタが、あたかも教えの権威を有するものの如くに、その見解の誤りであることを知らしめて、その断見を捨てさせるように指導することが出来たのか? という仏教教団内部の見解の分岐と是正・統一の問題も初めて理解可能なものとなる。

 しかも、<断見>の排除に対するものは、必ずしも単なる<常見>の採用ではなかった。仏弟子中智慧第一と称されたそのサーリプッタの絶妙な説明によれば、“修行を完成した人(如来)は物質的なかたちなのではなく、また物質的なかたちの内に存するのでもなく、物質的なかたちの外に存するのでもなく、物質的なかたちを有しないものでもない。修行を完成した人(如来)は経験的には真実に有るがごとくには認知され得ない。”のである。“物質的なかたちなのではなく、また物質的なかたちの内に存するのでもない”という存在は何か或る種の<非物質的な存在>であろう。とはいえ同時にそれは、“物質的なかたちの外に存するのでもなく、物質的なかたちを有しないものでもない”存在であるから、<物質から単に切り離されてある存在>なのではない。この独特な弁証法的関係はこれ以上議論の上では追求されない。論理的議論の断念と実践的修行の反復へ誘うように、“修行を完成した人(如来)は経験的には真実に有るがごとくには認知され得ない。”との無限的断定が修行者に対して永遠の仏法の標識及び課題として預けられる。その中身は各自の修行における如来への接近度如何によって与えられるものであろう。

 つまり、釈尊も仏弟子たちも、現代の論理実証主義のような限定的な経験論者ではなかったのであり、感覚への還元と論理的命題への還元しか信じなかったものではなかったのである。むしろ、心一般の広大な領域に触れていて、直観的探求の習練に邁進していた求道の人々であった。実践綱領としての八正道はまさにその要であったであろうし(注9:八正道を中心とする修行論は和辻の解釈では実体論的「無我」を<正見>することへと帰着する(二五七 ~二七一頁)が、我々の解釈では最善観的輪廻転生論における心の善的形成が修行論の眼目となる。八正道は我々の心の善的形成の処方そのものである)、究極的目的理想としての涅槃は永遠不滅の普遍の灯明であったであろう(従って世界は時間的に①無限、空間的に④無限、と推定されるはずである。)。

しかしてそれらの根底には、苦しみの原因の止滅の方法、即ち苦諦・集諦・滅諦・道諦という四諦(四つの真理)の一体性が、存在する因果関係とその認識的把握の上に成立していた(縁起説)。それはあたかも、形相因・質料因・目的因・動力因という四種の原因を枚挙して、そういう原因からの認識を真実の知と見なした古代ギリシアの哲学者アリストテレスの認識論、そして更には、「知は力である」と宣言して、自然事象の因果律の把握に立つ近代科学とその技術的開発を先導した近代イギリスの哲学者フランシス・ベーコンの業績に比較し得るものであって、科学に日常的に先行する行為の次元において、その原理的因果的認識と実践的応用を提起した古代インドの仏教哲学の深い意味を知らしめるのである。(注10:「無我」の実体論的解釈との関連で「縁起」を「相依性」という論理的関係と見なしてあらゆる実在性の解消を引き起こす和辻の解釈(一七三~二四六頁)に対し、我々は因果関係一般としての縁起の中核に意志的・有責的行為主体を規律する原理たる行為の因果律、即ちカントの所謂自由による原因性を置いた。このように、総じて和辻の原始仏教論の内容的成果は我々の解釈とかけ離れているが、それは和辻が宇井伯壽の一連の印度哲学研究の軌道に大方従ったためであり、他方、和辻が厳しく批判し排斥している木村泰賢の『原始仏教思想論』こそ極めて正鵠を射るに近い立場にあったと今からは反省される)(完)

 [初出:北海道教育大学紀要(第一部A)vol.46-1,1995]