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§256 「真珠湾奇襲」は預言されたか?

世界史の中の日本1
§256 「真珠湾奇襲」は預言されたか? : IV-23

日本に関するノストラダムスの預言詩は、21世紀及びその遙か先へと展望する20世紀の締め括りとして登場する幸福の科学関連の16編 (§931-§946:大団円としての幸福の科学参照) を除くと、第二次世界大戦とその直後の期間に限られる。ノストラダムス自身、その『預言集』序文で語っているように、アジアについては「その一部」に関する預言しか作らなかった。それでも、欧米の圧倒的比重に及ぶべくもないとしても、非欧米圏では、中東・アラブ・イスラム関係が多いが、それに次いで矢張り日本関連詩が相当多いと言えるのである。

従来、多くの解釈者はどうしても「原子爆弾被爆」の関連詩に最も注目してきた感が極めて強いが、ノストラダムスの視野は、単なる戦禍の悲惨をそれとして取り上げるのではなく、世界史の動向の中での日本の客観的位置づけを見落としてはいないと思われる。その場合、植民地帝国とも言われるイギリスを中心とした世界編成の中で、その植民地体制を破る働きが日本の動向の特徴として預言されているのである。そして初篇は「対米英戦争」開始の預言詩であり、それは従来の見方のように、「パールハーバー奇襲戦」にのみ特化したものではなく、もっと広い客観的視野から見たものである。

先ず、従来これがその「真珠湾奇襲戦の預言詩だ」と声高に喧伝されている四行詩が、実はそれより300年以上も前の港湾都市攻略作戦を扱い、遠い過去に実現されたものである、という驚くべき事実を明らかにしよう。

IV-23詩(§256): ラ・ロシェル陥落 (1628.10.28)
海軍の艦船に乗り込んだ軍隊が
石灰、マグネシウム、硫黄、及び松脂を燃やすだろう:
安全保証地の長期の安息:
三日月湾の港、火の如きヘラクレスが彼等を壊滅させるだろう。


The fall of La Rochelle (1628.10.28): IV-23.
The legion in the marine ships
Shall burn calx, magnesium, sulfur, and pitch:
The long rest of the place of security:
The port Selyn, Hercules of fire shall consume them.

( La legion dans la marine classe
Calcine, Magnes soulphre, & poix bruslera:
Le long repos de lasseurée place:
Port Selyn, Hercle feu les consumera.)

海軍の艦船(classe はラテン語 classis: 軍隊、海軍、艦艇、艦隊の借用語 )に乗り込んだ軍隊が石灰、マグネシウム、硫黄、及び松脂を燃やすだろう」:これはルイ13世が指揮し、智臣リシュリューが差配する国王軍の攻撃に晒されるフランス・ユグノーの牙城ラ・ロシェルを援護するためプロテスタント国家イギリスが派遣した海軍の行った作戦で、「火船」による攻撃を表したものである。

「火船 brûlot とは、海軍用語であって、引火性及び爆発性の物質を積んだ船で、火災と破壊をもたらす目的で使用されるものである。」(Littré)

「火船 brûlot とは、可燃性物質を積んだ小型の船で、敵の船舶を火災に陥れる目的を持つものである。」(Petit Robert)

「ラ・ロシェルの人々はチャールズ1世に代表を送り援助を求めた。艦隊の司令はリンゼイ伯爵に委ねられ、彼は [1628] 9月18日、レ島のサン・マルタンの面前に碇泊した。王 [ルイ13世] の御臨在によって兵等の士気は高まり、港の防備は堅固だった。フランスの船舶に向けて投入された火船は避けられたり、沈められたりした。ラ・ロシェルの人々は力尽きた。彼等の代表たちは王に対し、自分等の不服従、及びこの国に対して武器を取った外国人と協力した事を許してほしいと懇願した。彼等はその過ちの赦免を得ると共に、生命の完全な保証とラ・ロシェルにおけるいわゆる改革派宗教の自由な礼拝行為の許しも得た。この記念すべき降伏条件が調印されたのは10月28日であった。」(Mariéjol, 1905, p.268-269)

安全保証地の長期の安息」:16世紀のフランスの宗教戦争の中で相互の妥協として、プロテスタントがラ・ロシェルのような特定の都市の内部で自由な宗教活動をカトリックの政府から認められる制度が「安全保証地 place de sûreté, place of security」であった。そして宗教戦争の総決算とも言うべきアンリ4世の発したナントの勅令 (1598.4.13) もそういう安全保証地を認めていた。

「アンリ4世は自己の改宗の本気度をカトリック国民に確信させようと努める一方では、ナント勅令を“僕の勅令”として守る意思を確認する事を怠らなかった。政策又は状況によって彼が両教会の一方に有利な計らいをしなければならなくなった場合、常に彼は、他方に対してなんらかの補償を与えたり取らせたりした。例えば、彼がイエズス会士達を呼び戻した時は、プロテスタント達に与えられていた安全保証地の諸特権の期限延長を実施し、ラ・ロシェルの人々がその町の城塞を拡張する事を認めた。」(Mariéjol, id., p.87)

因みに、原文のlasseurée place (= l’assurée place, the assured place) は、安全保証地 place de sûreté, place of security の最大限忠実な言い換えである。しかも定冠詞単数形という事は「特定の一つの安全保証地」を意味するが、それは「三日月湾の港」と云われているものの正体から判明する。

このように、取り分けラ・ロシェルは最も大きな特権を享受していた随一の安全保証地であって、且つ、新教勢力イギリスの対仏攻勢の野心と組むことによってフランス王権に実力的脅威を与える存在になって行った。アンリ4世を襲ったルイ13世とリシュリューがその脅威の根源を断つべく、「ラ・ロシェルの武装解除」作戦に出たのはその為である。従ってその都市城塞の徹底的破壊と反乱指導分子の処刑、及び宗教的以外の世俗的諸特権の廃止を中心とした戦果と勝利以外に、ナント勅令の約束した宗教項目の原理的変更は何もなかったのである。

従って、「三日月湾の港、火の如きヘラクレスが彼等を壊滅させるだろう。」という最終行は、「三日月湾の港」がラ・ロシェルだとすれば文句なく妥当する表現である。実際、「ヘラクレス」というギリシア最大の英雄の名前は、ノストラダムスがフランス国王の美称として用いているから、「火の如きヘラクレス」がこの場合は血気盛んな青年王 (28歳) ルイ13世だとして問題無く通る。即ち、「ヘラクレス」は『預言集』に全7回登場し、そのうち3回は「ヘラクレスの柱と称されたジブラルタル」を表し(V-13, V-51, IX-93)、他の4回はフランス君主を表す(本詩IV-23 ルイ13世; X-27 ルイ14世; IX-33とX-79 ナポレオン1世) 。

三日月湾の港」:これに関連する V-35詩: 「Cité franche de la grande mer Seline, The free city of the great Crescent sea 大きな月海の免税都市」についてのレオニの解釈は推奨出来る:「この海は恐らく三日月の形をした the Bay of Biscay ビスケー湾である。その都市とは La Rochelleラ・ロシェルだろう。」(Leoni, 1961, p.261)。

さらに興味深いのは,V-35 詩2行目の「Qui porte encores à l’estomach la pierre, Which still carries the stone in its stomach それは今もその腹の中に石を抱えている」という風変わりな説明である。これを解明した研究者は従来誰も居ないようだが、実はこれは単純な洒落であって、「La Rochelle という綴りの中央 (腹) には Roche, rock つまり岩 = 石がある」ということで、まさにこの都市がラ・ロシェルに他ならない事を預言詩人がユーモアを以て裏書きしているのである(その後再調査したら、ピーター・ラメジャラーもその著書の中で、La Rochelle (a name which of course has the word roche at its heart) (Lemesurier, 2003, p.185) と注記しているから、客観的には彼がこの見解の最初の発表者である事は確かだ。但し筆者自身は彼のこの本を購入したのは2010年7月で、海外業者発送通知メールが同7月13日付けで、それより後で手にしたことになる。他方この詩の筆者なりの解釈が完成したのは私製『預言集』台帳メモによれば2007年であり、彼の注を見るより前に出来ていたことは確かだ。実際この謎解きはノストラダムス解釈にいくらか熟せばかなり容易なもので、rochelle という普通名詞が roche の指小辞であるという説明(Godefroy)等からもヒントが得られる)。

そうすると、本詩 IV-23 の「三日月湾の港 Port Selyn, The port Selyn (直訳的には月の港)」というのも、 Selyn は Seline の男性形で同語であるから、2行目の「長期に安らうその安全保証地」という規定と相まって、ラ・ロシェルと解して差し支えないだろう(但しレオニ自身はこれはジェノアと解している)。事実、これと同じport Selyn 又は port Selin という表現が他に2回 (I-94, II-1) 見られるが、いずれも「ラ・ロシェル」と解して通る文脈の中に用いられている。つまり port Selyn は3回とも全部同じ意味なのである。

更に広く考察すれば、Selyn, Selin, Seline, etc. という語は『預言集』に都合12回登場し、極めて限られた意味しか与えられていない。第一に、今見たように、海又は港に関してSelyn が用いられている場合はレオニの云う「三日月形のビスケー湾」に因む意味のもので都合4例ある (V-35, I-94, II-1, IV-23)。

第二に、他方残り8例は全て、アンリ2世の愛人ディーヌ・ド・ポワティエの名前 Diane が「ローマ神話の月の女神、狩猟の守護神ディアナ Diane」 (Suzuki) と同じで、これは「ギリシア神話の月の女神セレーネー Séléné, Sélênê」(Suzuki) と同一視出来るので、その彼女に関連した形で出て来る。例えば、Selin(お月さま)という単独の形は「太陽 le Sol, the Sun」と並んで出て来て、為に太陽がその輝きを減じるという文脈になっている (VI-58, §36) が、これは少年時代に出逢って母性的愛情を注がれたアンリが20歳も年上の愛人に即位後も余りに気を遣いすぎたという君主(太陽)としての弱さを表している。

又、Seline bannière (月影の旗じるし) (II-79, §35) とはアンリ2世が馬上槍試合の折に掲げた白と黒の二色の旗で、これは愛人ディアヌの印の色であった。 そこから更に、Selin monarque (月影の君主)という表現が出て来て、紛れもなくアンリ2世を指している (IV-77, §47)。同様に le grand Chyren Selin (偉大な月影のシラン) (VI-27, §79; VIII-54, §37) もアンリ2世を指す(周知のように Chyren は Henryc = Henricus = Henry のアナグラムである)。

更に又そこから、le grand Selin croissant (偉大な月影の三日月さま) (VI-78, §52; cf. §79, VI-27: le croissant du grand Chyren Selin 偉大な月影のシランの三日月さま) というのはアンリ2世の正妃カトリーヌ・ド・メディシスを指している。そして最後に、le grand Selin (VI-42, §206; X-53, §178) (偉大なお月さま) という句は「アンリ2世からアンリ3世までのヴァロワ朝全体、ないしヴァロワ朝そのものが、月の食のように断絶する運命に在るものとして」指示されているのである(但し X-53 の例は、ヴァロア朝の終期の代表としてのカトリーヌ・ド・メディシスを具体的に表している)。実にノストラダムスの象徴体系はこのように整然と論理的に構成されているので、解読を注意深く進めて行けば手に取るようにその中身が判然として来るのである。

所で、「石灰、マグネシウム、硫黄、及び松脂」という成分は、嘗て「ギリシア火」と称された発火性混合物の成分に近似している:「ギリシア火 火薬の歴史は天然に硝酸塩を生成しやすい中国やインドにその形跡があるが、普通には667年ギリシアのカリニコスが作った“ギリシア火”(イオウ+ロジン+生石灰+石油)から始まるとされる。1313年、B.シュバルツがこれを硝石カリウム(KNO3)、イオウ及び木炭を混合した黒色火薬を完成させた(難波桂芳)」(日本メール・オーダー社刊『アルファ大世界百科』東京, 1974, 4巻, p.1222)。

又これについてエリカ・チータムは次のように注釈している:「ギリシア火は、濡れると高熱になり発火する為、海戦には大きな効果があったギリシア人とビザンチ人の“秘密兵器”。ノストラダムスより後になって、近年、漸く Lieutenant Colonel H. Hime がその組成を解明したが、それとノストラダムスの説明は合致している。」(Cheetham, 1981, p.176)

いずれにせよ、秘密兵器の製法は最高の軍事機密のため、これらの分析が正しいとは必ずしも言えないだろうが、ノストラダムスの指摘は「時に歴史に記されなかった事実の暴露」という趣を持つ場合があるので、本詩のこの特殊な成分表は実際の「火船に積んだ引火・爆発物質」を表すと信じてよいだろう。事実、生石灰は水に触れて高熱を発し、マグネシウムは容易に発火する。他方、黒色火薬等の近代火薬に必須の「硝石」がここに含まれていないので、そういう本格的火薬類とは明らかにカテゴリーを異にしている。

さて、以上の我々の分析を基準にして、本詩を「真珠湾奇襲戦の預言詩」とする解釈を完全に誤ったものとして論駁出来る。この説の開発者イオネスクとその邦訳者竹本は云う:
「巨大且つ強力な艦隊が爆発性物質によって惹起された大規模火災によって焼かれるだろう。この惨劇が可能になったのは、海軍と空軍の部隊が長い間この要塞化された基地に休息していたからである。この事は“月”(セレネ - 真珠)という名前を持ったアメリカの港で起こるであろう。この攻撃は競争心と嫉妬から計画され、不実なやり方で実行されるだろう。」(Ionescu, 1976, p.586)
「海の牙城を誇る 大艦隊が 石灰 マグネシウム 硫黄 石油ピッチで燃えあがるであろう。難攻不落の場の 長き熟睡(うまい)を破って 「真珠(セレネ)の湾」を ヘラクレスの火が 焼尽せしめよう。」(Takemoto, 2011, p.699-700)

これら両訳で共通なのは、先ず、「焼かれるのが大艦隊である」という点であるが、これは原文とは正反対ではないかと思われる。実際、三人称単数の動詞「燃やすだろう bruslera」の主語は艦隊に乗り込んだ軍隊(単数扱いの集合名詞la legion, the legion)で、燃やされるのは石灰、マグネシウム、硫黄、石油ピッチである。もし「石灰、マグネシウム、硫黄、石油ピッチ」が主語なら、動詞は三人称複数の brusleront でなければなるまい。

この初歩的過ちは、彼等が初めに「これは真珠湾の米艦隊がやられた詩だ」と前提に立てた故である。

次にこれも最大級に致命的な瑕疵であるが、成分表にある「石灰」(イオネスク自身、いみじくもこれは『生石灰』を意味すると説明している)というものが、第二次大戦時の爆薬の原料に用いられていたという両訳者の設定は完全にナンセンスである。

他方、「硝石」という成分が欠けているのは、それなくして黒色火薬以降の近現代の弾薬が製造不可能である事に鑑み、本詩の関連する時代が第二次大戦時とは違っているとの判断を正当化する。因みに、「石灰」の原語 calcine (カルシン) は古くは「エナメルを作る為に使った粉末状の金属酸化物」 (Littré) を意味した。しかしそのラテン語語源は calx で、chaux (石灰) の語源 calxと同一であるから、本詩の文脈上「石灰」と取っていい。そして単に「石灰 chaux」という場合は「石灰石」「生石灰」「消石灰」を意味し得るが、本詩内ではイオネスクの云うように「生石灰」が最適解であろう。又、原語 Magnes はギリシア語で「テッサリアないし小アジアの町マグネシアの住人」を意味し、そこから更にそこに産する「磁石」をも意味し、又「銀に似た鉱物」を意味した。そしてマグネーシアという普通名詞は「幾つかの鉱石、及び金属合金」を意味した(Ernout & Meillet)。依ってそこに「マグネシウム」を読み取るのは無理ではない。

更に、「月」から「真珠」を導出する連想経路は余りに迂遠ではないか。なるほど用例がこれ一つなら、そういう手法も強ち否定できないが、同じ「port Selyn」という用例が他に2つあって、そのうち例えば II-1 (§118) 詩は「アキテーヌ方面でイギリスの侮辱行為、自国人達自身による大々的侵入行為。邪悪な土地に動乱と戦禍があるだろう。 Port Selyn は甚だしく侵入が多いだろう。」と詠うが、この場合の Port Selyn を我々の見立て通り「ラ・ロシェル」と解するならば、この詩は16世紀宗教戦争中、新教徒がフランス国内から安全保証地たるラ・ロシェルに続々と移住してきた流れを彷彿させるし、且つイギリスの外征勢力もそこに着目して侵攻を断続的に行っていたという状況が読み取れる。しかしイオネスク・竹本コンビの説に従ってport Selyn を「真珠湾ないしその米軍基地」と取った場合、そこにイギリスの侵入があった験しは無いし、真珠湾が「アキテーヌ」というフランス南西部地域とどう係るかも意味が見付からない。しかし「ラ・ロシェル」なら「アキテーヌ」というフランスの古い地域割の中に包含される。

それから I-94 詩(§120) にも同様に port Selin という表現があって、「port Selin においてその暴君が処刑され、しかれども自由は回復されず。先制攻撃と復讐戦により新たな戦争。一人の婦人が畏怖せしめる力により尊敬を受けるだろう。」と詠われている。もしこの port Selin を「真珠湾ないしその米軍基地」と取った場合、詩の詠う内容に合致する史実は見出し得ないが、他方それを我々の見立て通り「ラ・ロシェル」と解するならば、この詩は16世紀宗教戦争中、ユグノーの総帥たるコンデ公(カトリシズムを奉じる預言者から見れば暴君)がラ・ロシェルに近い同じアキテーヌ地方のジャルナック (cf. Mirot, 1980, Carte VIII)で戦死(カトリック兵の力で処刑とも言える)した事実 (1569.3.13)、及びそれに代ってナヴァール王アンリ(後のアンリ4世)が立ち、未だ15歳に過ぎないその息子の後ろ盾としてその生母で熱烈な新教徒のジャンヌ・ダルブレがイニシアチヴを取って息子及び傘下の兵等を鼓舞激励したという史実が対応すると言えるのである。

しかもこの1569年という年次は16世紀末まで続くフランス宗教戦争の初めの方(第3次宗教戦争中)であって、以後何度も講和と再戦を繰り返すことも詩の内容と合致する。なお、「ラ・ロシェルにおいてコンデ公が処刑され」という文について、「ラ・ロシェルにおいて Au port Selin」という句は「コンデ公が帰属するフランスユグノーの武装勢力の拠点たるラ・ロシェルに属する」という意味が中核であるだろう(帰属を示す前置詞としての à )。つまりそれは「その暴君が新教徒である」という事の説明であって、彼が死した場所的意味は間接的なものとした方が筋が通る。

最後に、イオネスクは、「légion ないし phalange という語はノストラダムスにあっては、“精鋭部隊”、取り分け“米国軍隊”を意味する」という(Ionescu,id., p.584)。或いは彼は他の個所でいかにも自信タップリに「falange (phalange) という用語は légion と共に、ノストラダムスにおいては常に、(精鋭部隊である限りの)アメリカ軍を指示している」(Ionescu,id., p.659)と云っている。しかし彼のこの主張は一貫していない。何故なら彼は IV-13 詩の解釈では Double phalange を「プロシア軍とオーストリア軍」(Ionescu,id., p.397)とし、V-69 詩の phalnge は「ルイ・フィリップのフランス軍」とし、V-99 詩の phalange は「ナポレオン・ボナパルト軍」(Ionescu,id., p.330)としているのだから。

そしてIV-51詩のsa phalange (1555年版の№1, 6, 7 はすべてこうなっている) をイオネスクは la phalange と取ってアメリカ軍としているが、実はその肝腎のsa という所有代名詞は「北ヴェトナム元首の敵」を指し、従って sa phalange は「南ヴェトナム軍本隊」と解すべきもので、その援助隊たる米軍の事で無い。そして本詩の場合もハワイ真珠湾の米軍でないことが論証された以上、彼が云う「phalange = legion = 米軍」説は全くの虚構にすぎない事が判明した。

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§861 イギリスの植民地支配の350年(1600-1947): X-100

世界史の中の日本2

§861
イギリスの植民地支配の350年(1600-1947): X-100

日本に関するノストラダムスの預言詩は、21世紀及びその遙か先へと展望する20世紀の締め括りとして登場する幸福の科学関連の16編 (§931-§946:大団円としての幸福の科学参照) を除くと、第二次世界大戦とその直後の期間に限られる。そしてノストラダムスの視野は、原爆被災等の戦禍をそれとして取り上げるのではなく、世界史の動向の中での日本の客観的位置づけを見落としていない。その場合、植民地帝国・イギリスを中心とした西洋列強の世界編成の中で、その植民地体制を破る働きが日本の動向の特徴として預言されている。そして初篇は「対
米英戦争」開始の預言詩であり、それは従来の見方のように、「パールハーバー奇襲戦」にのみ特化したものではなく、もっと広い客観的視野から見たものである。

先ず、大前提となる「イギリス植民地帝国」の長期の支配を扱う預言詩 X-100を検討してみよう。

X-100
(§861): イギリスの植民地支配の350年 (1600 - 1947)

イギリスによる大帝国は、
300年以上の総河支配であるだろう。
大軍隊が海上にも陸上にも進撃するであろう。
ルシタニア人達はそれに満足しないであろう。

350 years of the British Empire by colonization (1600 - 1947): X-100.

The grand empire by England shall be,
The All-River of more than 300 years.
She shall dispatch grand troops by sea and land,
The Lusitans shall not be content with it.


( Le grand empire sera par Angleterre,
Le pempotam des ans plus de trois cens.
Grandes coppies passer par mer & terre,
Les Lusitains n’en seront pas contens.)


イギリスによる大帝国」:=大英帝国 the British Empire. 16世紀以来、海外に領土を獲得したイギリスの別称。最盛期には全世界の4分の1に達した。帝国の歴史はおおまかに、1763年のパリ条約で完成する<旧帝国>、つまり重商主義政策を前提とし、西インド諸島や北アメリカ植民地を核とする段階、②政治的な支配地域の拡大よりも、自由貿易主義をふりかざしつつ、圧倒的な生産力にものをいわせて実質的な経済支配を拡大した<自由貿易帝国主義>の段階、③工業化の波が若干の欧米諸国に広がり、競争が起こった結果、ふたたび政治的支配を含む古典的な植民地政策が展開される<帝国主義>の段階、④<コモンウェルス>の概念が導入された1931年のウェストミンスター憲章以後の、いわば帝国衰退期、の4期に区分することができる。1516世紀のカボット父子による探検をはじめとして、とくに16世紀後半にはR.ハクルートのキャンペーンを背景に、新世界を中心として探検航海がしきりに行われた。その結果、1607年には、北アメリカのジェームズタウン(現、バージニア州)に永続的な定住地がつくられ、やがてニューイングランド、バージニア、カロライナ、ニューファンドランドなどの北アメリカ植民地が成立した。カリブ海の西インド諸島でも、バルバドスなどに早くから拠点が築かれた。しかし<旧帝国>の枠組みが確立したのは、ピューリタン革命期で、クロムウェルによるアイルランド征服、ジャマイカ占領、東インド会社改組などがなされたうえ、重商主義的植民地政策の基礎をなす航海法の体系も整備された。王政復古(1660)後、3度にわたる対オランダ戦争に勝利したイギリスは、名誉革命以後、ファルツ(アウクスブルク同盟)戦争、スペイン継承戦争、オーストリア継承戦争、七年戦争という四つの対フランス戦争を通じて北アメリカの東半部、アイルランド全域等、からなる<旧帝国>を完成する。さらに、七年戦争でフランス勢力を駆逐したインドでは、ベンガル地方の徴税権を握るなど、領土的支配の確立をめざす動きを示した。しかし、まもなく北アメリカ13植民地が独立(1776)、<旧帝国>の構造が崩れたため、しだいに帝国の重心はインドに移る。重商主義時代に重要であったカリブ海の砂糖、バージニアのたばこ、それらの生産の前提となった奴隷などに代わって、産業革命の原料となる綿花の供給、綿布市場、生活様式の変化に伴う茶の供給などが重要になったことも、こうした変化の背景をなしていた。奴隷貿易の廃止(1807)、航海法の廃止(1849)などにみられる自由貿易政策がとられた19世紀前半には、チリ、アルゼンチンなどラテン・アメリカ諸国の経済を事実上支配下に置いた。しかし、1857年のインド大反乱(セポイの反乱)を契機として、再度政治的支配領域の拡大にのり出し、まずインド全域を直轄化、これと前後して中近東や中国にも進出、セシル・ローズの策動などによってアフリカでもケープとカイロを結ぶ縦断政策を展開、他の列強と激しく対立した。第1次大戦後は前記ウェストミンスター憲章で各自治領の事実上の独立が認められ、第2次大戦後はインドも独立し、帝国は急速に解体されつつある。」(川北稔「だいえいていこく」『平凡社大百科事典』1985年、第8巻、P.1163)。

イギリス植民地の例示(全領同時的に非ず):西インド諸島、北アメリカ、ギアナ、アイルランド、インド及びその周辺地、南アフリカ、北東アフリカ、南西アフリカ、イエメン、オーストラリア、ニュージーランド、マラヤ、ボルネオ、ニューギニア、フォークランド諸島、セントヘレナ(『平凡社大百科事典』
同上、1775年と1914年の大英帝国の主要領土地図)。

総河支配」:原語 「pempotamパンポタム(パンポタン)」 は、ギリシア語「パーンπ
ν (pān, 全て, all)」 と「ポタモスποταμός (potamos, , river) の合成で、n p の前でm に変化しており、且つpotamos が語末脱落 (apocope) によって単にpotam となったもので、「総河all-river」の意味。これは、川が必ず、そこを流れる土地・領土を伴うので、「大英帝国の地球的規模の領地支配」を表す。レオニは「potamosは稀に海seaの義あり」(Leoni, 1982, p.442-443)と注しているが、実際辞書にも「potamos は海洋 (Ocean) にさえも適用される」(Bailly) と説明されている。そこでレオニは pempotamを「総海 the all-seas」と訳している。そこで副次的にはpempotamという語は大英帝国の「海上支配権」をも意味していると解される。フォンブリュンヌ(父)はこれを la suprématie des mers (海上支配権、the supremacy of the seas) と解釈している (Fontbrune, 1939, p.257)

なお従来、大多数の研究者は、「pempotampanpotent という綴りに還元して、ギリシア語 pan とラテン語 potens の合成として全能 tout-puissant (omnipotent) の義」と解釈したル・ペルティエ (Le Pelletier, I, p.162) の説に追随して来た。しかし、VIII-97 (§699) 詩には「pempotans」という似た綴りながら異なる語が見られるし、「アンリ2世宛書簡」には本詩と全く同じ「Pempotam」という語が登場しているから*、この語尾の-am は安易に-ans, -ens, -ent等に還元できない固有のものを持っていると考えなければならず、その線からは、懐疑家 (a Skeptic) レオニがその懐疑の取り柄たる「追究思考 skepsis」を活かして、代替案として示しているに過ぎないながら、「potamos」に繋げる解釈は蓋然性が極めて高く、且つ貴重である。そして更にこの線でレオニに追随したのは、Hogue (1997, p.822), Ovason (1997, p.323) のみで、イオネスクも同趣旨を述べているが、彼の「pantamos」という語構成の説明(Ionescu, 1987, p.73)は文法的に不可解である。

他方、VIII-97 (§699) 詩の「pempotans」は、ル・ペルティエ式に、「pan + potent」として不可ではないながら、しかし、その真実は「potent」ではなくて、「フランス語のpotencegibet、処刑台」と解くべきなのである。実際、「フランス語potence」は、「英語potence = potency」と語源(ラテン語のpotentia)を同じくしつつ、中世ラテン語を介して、フランス語では「松葉杖
béquille」(支持力がある物)へ、更にそこから「処刑台 gibet」へと意味を展開した結果である (Bloch & Wartburg, s.v. POTENCE)。そこで、VIII-97 (§699) 詩は「1871年のパリ・コミューン」を主題としており (cf. Vignois, 1910, p.329)、到底「フランスの全能権力」を獲得するに程遠かったパリ・コミューンは、その忽ちの敗北の結果、「コミューン参加者の大部分が即刻処刑(銃殺)された(パリ市内だけで17、000人)」という事実 (cf. Seignobos, 1921b, p. 313) を、「全員が処刑台 tous au gibet (all to the scaffold)」という意味を秘めた「pempotans」という新造語によって預言しようとしたのである。

大軍隊が海上にも陸上にも進撃するであろう」:イオネスクはこの大軍隊は第一次、第二次両大戦時の米軍で、これが新たな覇権者となって、英国覇権を終わらせた (Ionescu, 1987, p.73; Takemoto, 2011, p.515) と解釈するが、それは不自然だろう。何故なら「大帝国イギリス」が主題の預言詩なのだから、それは当然イギリスの精強な陸上部隊が海上優位を梃子にして海外に進出して行き、多くの植民地を獲得していった事実の預言なのであり、且つ、米軍が英軍を直接戦って倒したわけでもない。そして「3行目が300年以上の終点、4行目がその始点を示す」とイオネスクが云うような
預言者の必要以上の老婆心を想定する解釈は無用である。何故なら既に初めから「300年以上」という大きな明示的期間が、しかも「イギリス大帝国」という固有名辞と共に提示されているのだから、その両端時を探し当てるのは解釈者の責務であろう。3,4行目はあくまでも「世界的植民国イギリスの実態描写預言」であって、それはイオネスクが説くような単なる「海洋覇権」と云った一面的なものではなく、「陸にも海にも」強大な軍事力を誇示するのであり、その結果ないし目的は、後で取り上げる予定の他の関連詩からも覗えるように、何かと云えば「植民地獲得・支配」である。

*
「アンリ2世宛書簡」に登場する本詩と同語の「le Pempotam」の意味も「大英帝国」である。「パンポタム(大英帝国)やヨーロッパのメソポタミア**(フランス・パリの中核・シテ島がセーヌ川の中島としてその二分流に挟まれていることから、ここではフランスを表す)を包含する巨大都市であったもの、且つ今もあるものが(一軒の)家にまで(縮小して)近付くであろう45
、余所では41に、42に、及び37に***、そしてこの時代に且つこれらの地域で地獄の勢力がイエス・キリストの教会に対して、その法の敵対者たちの力を対置するであろう。それは第二の反キリスト****であるだろう。その者は世俗的権力者たちの力を用いてその教会とその真の代理者を迫害するであろう。」(№3, Adresse à Henri II, p.18).

** Cf. §273, VIII-70; §474, VII-22; §820, III-99;
更に、就中、「本来の中東のメソポタミアとは別の極めて小さなメソポタミアの中に形成され定着した自由都市« la cité libre, constituee & assize dans une autre exigue mezopotamie (the free city, constituted and situated in another tiny Mesopotamia) » (№3, Adresse à Henri II, p.12) という表現は、明らかにパリのシテ島を指していると考えてよい。

***「45、41に、42に、及び37に」という表現は、その直後に「この時代に」という繋がりが来るので、「年代」を表していることが分かる。その上、後に続く文脈から、第二次大戦時におけるナチスドイツの電撃戦による英仏の苦戦が読み取れるので、「1945年、1941年、1942年、1937年」と解釈できる。

****
「第二の反キリスト」: = Un si faulx antechrist「或る非常に悪辣な反キリスト」(§796, X-66): = « An Antechrist so deceitful and so unfaithful – Hitler「或る非常に
詐欺的で信用出来ない反キリスト -ヒトラー」» (Ionescu, 1976, p.545);「我々の時代に関して、預言者(ノストラダムス)は三人の反キリストを考えている:スターリン(VI-49[§882], X-1[§884]及びX-65[§883]), ヒトラー (X-66[§796]) 及び毛沢東(VIII-77[§900])。これらの独裁者たちは幾つかの特徴を共有している:1.非常に残酷に全体主義的体制を押し付けた。2.彼らの犠牲となった人々の数は数千万人に達する(戦争や処刑や投獄により)。3.自国の宗教と伝統に反対して「文化革命」を行った。4.人種間、社会階層間に憎悪と抗争を引き起こした。5.自分自身を超人的存在として設定し、その個人崇拝を推し進めた。(Ionescu, 1987, p.451-452)。また、『アンリ2世への書簡』(№3, pp.3-23; №10, pp.153-173)の記述の中には、「反キリスト」という語が5回出て来るが、そのうちの2例(Le Pelletierの節分けによる44-46節)は、「アッチラ」という語を含み、そして更には「十月革命」という出来事に言及している節なので、スターリンを指していると見られる。93-95節はヨーロッパという地域と1937-1945年という年代を含むので、そこでの2例はヒトラーを意味する。最後に、107-109節はキリスト教諸国における激烈な戦闘での「地獄の帝王、反キリスト」によるムッソリーニ失脚後のローマ占領が説明されているので、そこの1例は矢張りヒトラーに該当する。

300年以上の年月」の始点:「その開始年次はスペイン王フェリペ2世の無敵艦隊が英国海軍に敗れた
1588年」(Le Pelletier, I, p.161-162)。この説は多くの論者に支持されているが、それは、pempotam という用語の意味を「海上優位」と捉えた「誤解」に基づくから、妥当ではない。肝心なのは、イギリス植民地帝国の開始と終焉の時期決定である。これについては、以下の簡明な歴史記述が参考になる:
イギリスの植民活動 
海外進出の開始 イギリスの海外進出の動機も、他国と同じく、アジア(インド)への道の発見にあった。英王ヘンリー7[1485-1509]は、コロンブスの計画の援助を拒否したが、コロンブスの発見に刺激されて、イタリア人カボットCabot父子に特許状を与えて北西航路を探検させた。北米のノヴァ=スコティアNova ScotiaラブラドルLabradorが発見された。その後16世紀前半にも北東航路による探検が行われ、ロシアとの通商に成功したが、アジアへの道は発見できなかった。エリザベス1の時代には、スペインやポルトガルの商船隊を襲撃して、その積み荷を略奪する海賊的方法(私掠船)をとった。ホーキンズHawkins [1532-95]ドレークDrake [1545-96]などはこの冒険的海賊商人の代表者で、かれらの手によってイギリス海上支配の基礎が築かれた。しかし、エリザベス1世の治世の晩年には、イギリス人はすでに世界の各地に進出していた。ドレークは太平洋へ、ジルバート[1539-83]は北洋へ至り、アフリカでは黒人を狩り、ロシアの草原から中央アジアに旅行し、トルコ人やギリシア人と交易し、東インド会社や北米植民地の基礎を作りつつあった。
東インド進出 アジア方面へは、1600年に設立された東インド会社を中心に進出を始めた。会社は1601年最初の商船隊をアジアに送った。しかし東インド貿易はすでにポルトガル人・オランダ人によってほとんど独占されていたので、これらの勢力と争ったが、結局、イギリスはインド本土との貿易に主力を置くことになり、しだいにインド西部・ペルシア・紅海方面に基地を獲得した。すなわち、スラットを中心に、マスリパタム・ホルムズを根拠地とし、更にのちにはマドラス1640)・ボンベイ1661)・カルカッタ1686)に拠点を築いた。
北アメリカ進出 北アメリカにおける植民活動は国王の特許状を得た会社企業の形式で行われ、17世紀初めにはニューファンドランドヴァージニアVirginia1607)・バミューダ島1612)に植民地が設立された。特にスチュアート朝下の国教強制を逃れ、信仰の自由を求めて清教徒やカトリック教徒が多く北米に移住したが、なかでも1620ピルグリム=ファーザーズと呼ばれる清教徒の一部が、メイ=フラワー Mayflowerでプリマスに上陸し、ニューイングランドNew England植民地を開き、1630年には多数の清教徒が移住してマサチュセッツ植民地を築いた。」(前川貞次郎・堀越孝一共編著『新世界史』数研出版、昭和59年、p.274)。


このうち、広大な北アメリカ植民地は早くも18世紀後半には独立して行ったのに対して、東インド会社はインド騒乱(1857-8)後、1858年のインド法を通して英国王冠自体に継承され、また「20世紀初めには大英帝国の «王冠の中の宝石»として知られた(Palmowski, p.313)インドの独立(1947)が大英帝国の現実的終焉を画期すると見做され得るので、1600年のイギリス東インド会社設立が、英国の世界規模の植民地化の開始を画期すると見ていいだろう。このタイム・スパン1600-1947 347は、「パンポタム300年以上」というノストラダムスの預言と上手く適合する。何故なら、「パンポタム」とは、「大英帝国の世界的植民地化」を意味するからであり、必ずしも「世界覇権」自体を含意しないからである。大英帝国の世界覇権はそれほど長期とは見られ得ない。その世界覇権のテーマについては、四行詩X-98(§862)II-78(§877)が扱っている。

因みに、アンリ2世宛て献辞の中で、「パンポタム(大英帝国)やヨーロッパのメソポタミア(即ちフランス)を包含する巨大都市であったもの、且つ今もあるものが(一軒の)家にまで(縮小して)近付くであろう」(3, Adresse à Henri II, p.18)という表現には、「第二次大戦を閲して英仏が広大な植民地を失い元々のホ-ムランドにまで縮小される」という意味が明らかに含まれている。この「非植民地化・植民地解放(
decolonization)」のテーマは、預言詩II-60, V-11, X-99 [§874, §875, §876]で扱われている。他方、フランスの植民地主義については、預言詩X-98(§862)が扱っている。

ここで更に、大英帝国のいわば「
終りの始まり」をマークする第二次大戦中の具体的出来事を尋ねるならば、「プリンス・オブ・ウェールズとリパルスを含む英フィリップ提督のZ艦隊を撃沈した後、英大要塞シンガポールを陥落させた日本軍の働き(19422月)」を挙げることが出来るであろう*****。「シンガポール陥落194228-15日)1941年にA.E.パーシヴァル指揮下凡そ8万人の英豪印兵員を擁したアジアとオーストラリアで英国最大の陸海軍基地たるシンガポールは、強靭な海岸防御を備えていた。しかしながら、矢張り英国支配下にあったそのマレー半島後背地からの攻撃に対しては要塞が全く建造されていなかった。山下将軍指揮下の日本軍は素早くマラヤを席巻した後、19422月初めにシンガポール島対岸に集結した。27/8日夜間、装甲上陸艇がジョホール海峡を渡り、続いて多数の日本兵が泳ぎ渡り、対抗するオーストラリア軍の守備隊に奇襲をかけた。守備兵達はシンガポールと後背地を結ぶ唯一のハイウェイを爆破して退却した。ハイウェイは日本兵達によって直ぐ修繕され、彼等は自軍の航空優位に支援されて島へ進攻した。215日、パーシヴァルは降伏した。長い間大英帝国の不落の要塞と見做されて来たシンガポールの陥落は、その広大な帝国を守り支配するというイギリスの矜持の現実的弱点をほかの何にも勝って象徴していた。これは第二次世界大戦後の植民地独立運動に対する重要な動因を提供し、1945年以後の植民地解放(decolonization)のプロセスの前兆になった。」(Palmowski, p.619)

***** Cf.
§805, V-62: Nefz parfondrées & prins le Tridental (Vessels sunk and the Tridental taken); 世界史の中の日本4(§863, V-85):「陣営は海の殿様バッタと家蚊ども」Camp marine locustes & cousins (A camp marine locusts and gnats).

ルシタニア人達」:= 植民地主義者達。原語Les Lusitains は確かに、字義通りには「ポルトガルの人々 Les Portugais, the Portuguese(Le Pelletier, id.) であるが、ここでは近代の植民地主義運動の先駆者たるポルトガル人達を歴史的比喩に設えて、その後続々と現れ出た「植民地主義者達」一般を意味させている。「クリストファー・コロンブスの1492年の大西洋横断旅行は世界の前例なき開鑿に火を付けた - 最初はポルトガル人達とスペイン人達による – 次にはオランダ人達、イギリス人達、及びフランス人達による。1700年迄には、ヨーロッパの探検家達と植民主義者達(colonizers)は地球規模で定着してしまっていた。」(DKHistory, p.172)。「… そして間もなく、探検旅行は植民地化(
colonization)の潮流となり、地球の大部分へ到達していった。」(Parker, 2010, p.216)

ルシタニア人達はそれに満足しないであろう」:= 植民地主義者達は一般に極めて貪欲である。「ヨーロッパの探検家達は栄光、キリスト教の熱意、そして – 何よりも黄金、スパイス、及び奴隷によって動機付けられていた。目的地は伝説的富の源泉たる東洋であった。“私及び私の仲間達は、黄金によってしか癒されない心の病に罹っているのです。”(アステカ人征服遠征に際してのスペイン探検家エルナン・コルテスの言葉)。」(DKHistory, id.)

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§862 第2次百年戦争を通しての英国覇権の確立 : X-98 (1689-1815)

世界史の中の日本3

§862  2次百年戦争を通しての英国覇権の確立 : X-98 (1689-1815)

前節 (§861)では、「イギリス植民地帝国」の長期の支配を扱った預言詩 X-100を検討した。そして本詩X-98 はその関連詩として、イギリスが、先行する世界覇権国フランスを凌駕することで新たな覇権国になる趨勢の預言詩である。

X-98 (§862):
喜びに満ちた乙女の澄明な輝きは、
もはや長い間輝く事はないだろう、無思慮となるだろう:
商売人ども、奴隷商人ども、武者どもと一緒になって厭わしい限り、
全てはごちゃ混ぜとなり、世界の様相は怪物。

The clear splendor of a merry maiden,
Shall shine no more for a long time, shall be unwise:
Odious with merchants, middlemen & wolves,
All pell-mell, a universal monster.

(La splendeur claire à pucelle joyeuse,
Ne luyra plus long temps sera sans sel:
Avec marchans, ruffiens loups odieuse,
Tous pesle mesle monstre universel.)

喜びに満ちた乙女」:Pucelle joyeuse (a joyful maiden) というこの表現は「la Pucelle d’Orléans (the Maid of Orléans) オルレアンの少女 フランスの乙女・ジャンヌ・ダルク Joan of Arc」を想起させるから、本詩の主題がフランス国である事を窺わせる。しかも『預言集』にこの一例しか用例が無いこの語は益々その意味を特殊的にフランスへと収斂して来る。

喜びに満ちた乙女の澄明な輝き」:原文La splendeur claire à pucelle joyeuse の前置詞 à は「所属(... の、... に属する)」(Suzuki)、「所有」(Ibuki) を表す機能を持ち、従って「澄明な輝きが喜びに満ちた乙女のもの」である事の表現である。換言すれば「喜びに満ちた乙女は澄んだ輝きを持っている」のであり、「預言者自身の母国フランス」を讃えた句である。と同時に、この「澄んだ輝き」という表現は更に具体的に、ジャンヌ・ダルクに勝るとも劣らないフランス国の代表的人物「太陽王・ルイ14世」を指し示していると解される。事実、ノストラダムス自身も、他の多くの預言四行詩(IX-38, IX-64, IX-93, X-7, X-58)でルイ14世を「エマチヤンAematien」と呼んでいるが、そのギリシア語源の意味は「太陽の光に属する者he who is of the solar light」である。

Sel (salt): = « 知恵の象徴 » (Torné-Chavigny, 1862, p.103)。ノストラダムス『預言集』に全部で7回登場するこの語の用例のうち、5回は「知恵」の意味で (II-21, VIII-32, IX-49, X-7, X-98)、残り2回は「糧食」の意味である (V-34, VII-34)。従って、sans sel (without salt) は「知恵のない、無思慮の」という意味になる。

喜びに満ちた乙女の澄明な輝きは、もはや長い間輝く事はないだろう、無思慮となるだろう:ルイ14世時代のフランスは世界の覇権の頂点にあったと言えるし、ナポレオン一世もまた世界覇権者であったと言えるだろう。それが失われて、フランスの代わりにイギリスが世界覇権を手にした、という世界史的変動がここに予言されていると見える。「1688年、フランスは世界の首席強国であった。当時、ルイ14世は、多分ナポレオンを除けば他の誰も比肩し得ないような絶対的支配権を完全に掌握していた。ナポレオンと同様、彼は自らの強化拡大計画によって全ヨーロッパを恐怖せしめ、彼に対抗する国家連合を次々と招き寄せた。ナポレオンと同様、彼はその栄光を崩壊点まで推し進め、その死に際しては国家的衰退が顕著に進行中であると気付いたのである。」(HH, XXIII, p.181)

Ruffiens: =
奴隷商人ども。« RUFIAN ou RUFFIAN. Entremetteur (Procurer, pander; Middleman; Go-between).» (Petit Robert). この語は、「女衒」「放蕩者」等の意味で用いられることが多いが、元来は「仲介者」という意味であって、植民地獲得・抗争という文脈では一般のmerchantsとは区別された仲介者・商売人としての「奴隷商人」と解するのが適切である。そして、wolves は比喩的に、「武人・兵隊」と取るのが矢張り文脈に適合する。

英仏の植民地抗争17世紀末から、イギリスとフランスは北アメリカ・インド・を初め、西インド諸島・アフリカ方面などの植民地で対立する形勢になり、ヨーロッパ本土における戦争と結びついて、ナポレオンの没落に至るまで100年以上(1689-1815)にわたる植民地戦争が展開された。これを第2次百年戦争と呼んでいる。
ウィリアム王の戦い1689-97)この戦争で英軍はアカディアにある仏の要塞を占領し、ケベックを攻撃した。仏軍はインディアンと結んで英の植民都市を焼き、ニューファンドランドを占領した。
アン女王戦争1702-13)仏軍はインディアンと結んで英軍を攻撃したが、英軍はアカディアを占領した。地中海でも英海軍は仏海軍を破ってジブラルタルを占領し、またフランス領西インド諸島を脅かした。ユトレヒト条約1713)によって、英は、①ハドソン湾内地方・ニューファンドランド・アカディアをフランスから、②ジブラルタルとミノルカ島をスペインから獲得し、③更にスペイン領アメリカとの奴隷貿易を承認させた。
対立の激化 ユトレヒト条約以後、英仏はそれぞれ植民地の強化に努め、戦争にはならなかったが、その利害はますます鋭く対立するようになった。たとえば、フランスは北米では、セント=ローレンス川沿いに要塞を築いて防衛を強化し、ミシシッピ川を完全に支配するに至った。またインドにおいても、有能な総督デュプレクスDupleix(1697-1763)の指導下に原住民の間にしだいに勢力を伸ばした。彼は西欧風に訓練した原住民の軍隊(セポイ)を編成して防衛を強化した。
ジョージ王の戦い1744-481739年スペインとイギリスの間に西インド諸島の奴隷貿易をめぐって戦争が起こった。この戦争は、ヨーロッパ本土におけるオーストリア継承戦争(1740-48)と合流して、イギリス対フランス・スペインの植民地戦争となった。フランスはデュプレクスが1746年インドでイギリスからマドラスを奪って優勢であったが、アーヘン(エクス==シャペル)条約では、植民地抗争に関して何の解決もなく問題はのちに残された。

七年戦争(1756-63): 英仏の植民地抗争のなかで最も重要なのは七年戦争である。この戦争は、ヨーロッパ本土においては、プロイセンとオーストリアのシュレジェン領有問題を中心に展開したが、ヨーロッパ外世界では、英仏の植民地争奪戦として展開した。
北米での抗争(フレンチ=インディアン戦争)北アメリカではヨーロッパ本土での戦争よりも2年早く、1754年からオハイオ川の支配をめぐって勃発した。戦況は最初の4年間英軍に不利であった。しかし本国で大ピットPitt the Elder(1708-78)が宰相となり、多数の軍隊を本国から送り、士気を鼓舞するやしだいに有利に展開し、ルイスバーク・ナイアガラ・デュケーヌなど仏軍の重要な要塞を陥れ、ついに仏領カナダの中心地ケベックを苦戦の末占領し(1759)、モントリオールをも占領した(1760)。北米の形勢はこれを機に完全にイギリス側に有利に展開した。また西インドのスペイン領もイギリス軍に占領されるに至った。
インドでの抗争 インドにおける英仏の抗争は、原住民君主との結合による政治支配権の確立を目的とするものであった。デュプレクスによってフランス勢力がしだいに大きくなっていったが、イギリス側は、クライヴCliveの力によってカルナティック地域に支配を樹立し、次いで原住民君主と結んで1757プラッシーPlassyの戦いでフランス軍を破り、ベンガル地方を確保した。フランス側の根拠地ポンディシェリもやがて英軍に占領され(1761)、こうしてインドにおける抗争も、イギリス側の勝利に終わり、英領インドの基礎が築かれた。
パリ条約 七年戦争の結末であるパリ条約(1763)では、①フランスはカナダを初め、ニューオルリーンズを除くミシシッピ川以東の北米における全領土と西インド諸島のグレナダ・トバゴ・ドミニカ・セント=ヴィンセントをイギリスに譲る。②スペインはフロリダをイギリスに譲り、キューバを回復する。③フランスはニューオルリーンズとミシシッピ川以西の地をスペインに譲る。④インドにおいて、フランス東インド会社は若干の地を保有するが、原住民君主とは政治的関係を結ばない、ことなどが定められた。
イギリス植民帝国の成立 こうして15世紀末以来の西ヨーロッパ諸国の海外進出・植民活動・植民地争奪戦は、ポルトガル・スペイン・オランダ・イギリス・フランスなどの諸国によって相次いで展開され、18世紀の中ごろイギリスの制覇によって一応の落着を見た。その結果,一島国に過ぎなかったイギリスは、150年ほどの間に世界の各地に領土を持つ一大植民帝国(1次帝国)となった。海洋支配の基礎が築かれ、本国における産業革命の進行とあいまって、19世紀におけるイギリスの繁栄、いわゆる「イギリスの平和」の基礎条件の一つができあがった。
(Maekawa and Horikoshi, 1984, p,276-278) 。」

なお、ノストラダムス『預言集』の中における本詩の位置も注目に値する。前節で見た X-100 詩に対してその前々詩に当るのがこのX-98 詩であり、更に両者の中間に置かれた X-99 (§876) もやはりテーマが共通しており、今度は「植民地の消滅と独立」を預言しているのである。『預言集』第十サンチュリ末尾に置かれたこれら3篇は世界の植民地問題に関する「三部作 Trio」を構成している。そして、第二次世界大戦時の日本関連の預言詩はその中に割って入る形で、西洋植民地主義の破壊という大きな意味で導入されているのである。
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§863 三国同盟 VS. 国際連盟

世界史の中の日本4

§863 
三国同盟VS. 国際連盟: V-85
日本の対米英蘭戦争突入を告げる預言詩は、日独伊3国同盟が国際連盟の枠から離反して戦争に向かったという趣旨のV-85詩である。

V-85
(§863): 三国同盟VS. 国際連盟 (1933-1941)
ドイツ人達とその近隣の地域によって、
雲が原因で戦争するだろう:
陣営は海の殿様バッタと家蚊ども、
レマン湖の誤りがハッキリ露顕してしまうだろう。

The triple alliance of Japan, Germany and Italy vs. the League of Nations (1933 – 1941):
By the Germans and surrounding regions,
Shall go into war because of clouds:
A camp marine locusts and gnats,
Of Leman the faults shall be fully disclosed.


( Par les Sueves & lieux circonvoisins,
Seront en guerre pour cause des nuees:
Camp marine locustes & cousins,
Du Leman faultes seront bien desnuees.)

ドイツ人達とその近隣の地域によって、戦争するだろうBy the Germans and surrounding regions,
Shall go into war
):
この文には、主動詞shall goに対する文法的主語が欠けているが、事実上の主語機能は、「ドイツ人達とその近隣の地域によってBy the Germans and surrounding regions」という副詞句が担っている。従って、意味上は、「ドイツ人達とその近隣の地域が戦争するだろうThe Germans and surrounding regions shall go into warという文章に変換可能である。この種の破格文型はノストラダムス『預言集』では幾つも見られる (e.g. IV-25, VIII-18, X-87)

Desnuees: = stripped naked(丸裸にされた); « dénuer. To deprive (of); Se dénuer, to strip oneself bare.» (Dubois).

イオネスク解 (Ionescu, 1976, p.487-489) がほぼ、本詩についてその趣旨を呈示している:「詩人ウェルギリウスは何処だったかで『奴は雲の中に頭を突っ込んだ』といった表現を使っているが、これは多分かなり人口に膾炙した言回しで、ルーマニア人の間にもあり、又フランス語の中にもある。それは、雲霞の如き、幻想的で理想郷的な観念を持った人物の事を云うのである。共産主義の出現と時を同じくして、どんなにユートピア的・幻想的であってもその理論は実践に移せるという考えが集団心性の奥深くに滑り込んだ。そして人々は仕事に取り掛かり、理論の応用によって社会革命を起こそうとし始めた。ムッソリーニは古代ローマの栄光を呼び覚まそうとした。それは大きな理想だった。何故それを現実のものにしないのだ?ドイツには最高度に進化した人種という理想が現れ出た。これも引けを取らない凄い理想だ。それは応用に持って行く努力だけの価値があった:国民を純化し、退廃した病気の人民を追放し、更にはそれらを優生的見地から絶滅することさえも。そして次には高等人種の為に出来るだけ広い領地を確保する...。ノストラダムスが上に触れた格言を示唆した時、戦争の奥深い原因となるような雲霞的理想の事を念頭に置いていたと思われる。何故なら、実際に、大戦争を惹起した人間達の頭は『雲の中に』在ったからである:彼等は、一見豪奢に見えるが、慢心の為に高くを目指し過ぎて、或る段階になるとその能力の限界を露呈してしまうような理想を掲げることによって、自らに幻想を与えていたのだった。注目すべきなのは、ノストラダムスがナチズム(ドイツ人達)とファシズム(近隣の地域 =イタリア)に対してこのユートピア的夢想の再燃を責めているに留まらず、国際連盟を創始した列強国に対しても、正義の精神の故ではなくて、他の諸国を支配下に置くことを可能ならしめるような一個の世界政府を念頭に置いていた点で責めているということである。『レマン湖の誤りがハッキリ露顕してしまうだろう』とノストラダムスは結論的に述べているが、これは彼がこの国際組織の隠れた裏側をとてもよく認識していて、結末がどうなるかも分っていたという事を示しているのである。」(id., p.488)

因みに、Sueves という語を「ドイツ人達」と読むイオネスクの説明は説得力がある:「ラテン語 Suevi = 5世紀にフランスに侵入し、更にはスペイン北部にまで浸透して、短命の王国を作ったことで知られるゲルマン民族。ノストラダムスはここで歴史的比喩により、ヒトラーによるフランス征服と、同様に短命な彼の帝国を指している」(id., p.488)

但し、3行目に関するイオネスクの説明:「なお又、飛行機(locustes)及び飛行艇(coussins)を用いた海上戦闘と航空戦闘が行われるだろう。」(id., p.489) は曖昧であり、不十分である。何故ならこの説明自体は確かに独伊の関わる戦争形態に当てはまるけれども、余りに一般的で特定不足の感じが残る。問題の鍵はlocustes, coussins という風変わりな用語に在ると思われる。

locuste」:「= locusta, 殿様バッタ」(Suzuki)。「cousin」:「家蚊」(Suzuki)

イオネスクはlocusta を「sauterelle いなご、ばった」と説明して「avion 飛行機」と解し、coussin = cousin を「水辺で生きる蚊」と説明して「hydroavion, hydroplane 飛行艇・水上機」と解した(id., p.489)。しかし後者が「水辺で生きる」という点で特徴があるというよりも(それなら他の飛行機も容易に超低空で水辺に寄れるだろう)、むしろ「一般に、蚊の方がイナゴやバッタよりも飛ぶ能力は高い」と見るべきで、その飛行能力の違いから両者を区別するならば、主として地上から強い脚力を助けにしてパッと飛び上がって直ぐ又地上に戻る習性のバッタやイナゴに似た飛行機は「艦載機、つまり航空母艦において発着する航続距離が比較的短い軽飛行機」であり、他方それよりも大型で航続距離も長い飛行機が「蚊」によって示唆されているだろう。そしてイオネスクが云うような飛行艇を載せた「水上機母艦」は第一次大戦中の軍備であって、同終戦後は航空母艦が取って代わって第二次大戦中に大きく発展して行く(cf. EH, IV, p.1038; V, p.345)

それに、イオネスクは3行目冒頭のテキストに関し、camp marins (marine camps, batailles sur mer 海上戦闘) と読んでいるが、正しいテキストは Camp marins locustes であり、marins という複数形形容詞は単数形のcamp ではなくて複数形のlocustes に係り、marins locustes (marine locusts 海の殿様バッタ達) となっている。従ってこの海のバッタ達ないし海のイナゴ達は、より一層、「海上船舶附属飛行機」たる「艦載機」のイメージに合致して来る。それに対して、陸上基地をベースとするもっと本格的な飛行機が cousins (gnats 家蚊達)という比喩で捉えられている。

 
そうなると、問題はこれらの艦載機がどの戦争当事国 (camp = a camp) のものかという点である。イオネスクが「戦闘 batailles」と訳した3行目冒頭語 campの意味は、フランス語でも英語でも「戦闘」という行為ではなくて「陣地、陣営、軍兵駐屯地」であり、従っていずれかの交戦国そのものを表現し得る。そして第二次大戦中の実戦的航空母艦保有国は極めて限られていた。それは事実上イギリス、日本、アメリカ合衆国の3国のみの特権的軍備であった (cf. EH, V, p.345)

そうすると、本詩テーマが、1、2、4行目で「反国際連盟派のドイツ(同連盟脱退1933年)とイタリア(同1937年)の戦争行為」を扱っている以上、それと同じ側に立ち同じ「反国際連盟派」である日本(1933年脱退)を同様に扱っている筈だ、との推測は十分な根拠を有するだろう。即ち、3行目は一転して「日本という戦争当事国」にライトが当てられていると読むべきで、このような詩中焦点遷移という技はノストラダムス預言詩の精彩発揮の常套手段であって、これに気付かないと、1-2行目を平板に3行目につないで「2行目で語られた戦争行為が3行目では飛行機を使った海上戦闘として説明されている」という単純過ぎる読みを抜け出せなくなるのである。

実際、日本の戦争行為を「艦載機」の指摘によって表現するという事は、航空母艦保有国の限定性のみならず、その実際の運用事実からも極めて合理的であり、適正な観点である。特にそれは、開戦当初の事態に直結する鋭利な観察である:「真珠湾攻撃 太平洋戦争開戦劈頭、日本海軍機動部隊(空母6隻基幹)は、飛行機353機をもって1941年12月8日(日本時間。アメリカ時間では7日)朝、ハワイのオアフ島にある真珠湾に在泊中のアメリカ太平洋艦隊主力及び同島の航空基地を奇襲し、大損害を与えた。アメリカ側の損害は戦艦4隻が沈没し、4隻が重大損傷を受けた外、多数の艦艇、飛行機、人員が失われた。日本側は飛行機29機、特殊潜航艇5隻、人員64名を失った。作戦は航空の水上艦艇に対する優位を立証し、以後の海上戦が航空主兵になる端緒を作った。(市来俊男)」(EH, VII, 940)

依って、詩中「marins locustes = 海の殿様バッタ = 艦載機」の2語は日本の航空母艦6隻を中心としたこの真珠湾攻撃作戦を示唆するものだろう。

他方、それに続く「cousins = 家蚊 = 陸上攻撃機」の一語は、それより2日後の同年12月10日に遂行された「マレー沖海戦」を表すと解される:「マレー沖海戦 太平洋戦争初頭の海戦。1941年12月10日午後、イギリス東洋艦隊司令長官フィリップ中将率いる新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、巡洋戦艦レパルス及び護衛駆逐艦3隻は、日本軍のマレー半島上陸を阻止するため、マレー半島東岸クアンタン沖を行動中、日本海軍基地航空部隊の陸上攻撃機66機による攻撃を受け、両戦艦は沈没した。日本軍は3機を失っただけであった。この海戦は、洋上航行中の戦艦を航空攻撃のみで撃沈し、真珠湾攻撃と共に航空主兵を裏付けた。この海戦の結果、イギリス海軍は制海権を失い、マレー、シンガポールの運命は決した。(市来俊男)」(EH, XIV, p.228)

即ち、マレー沖海戦では航空母艦搭載機ではなく、「日本海軍基地航空部隊の陸上攻撃機」が活躍した。それはそれ以前に日本が占領していたヴェトナムのサイゴン等南部仏印に所在する航空基地から飛び立った飛行部隊である。実際、その宗主国フランス本国はドイツの軍門に降り、ドイツの同盟国として日本は仏印を押さえたのである。当時英米はフランスが退いた後の仏印を狙っていて、その西洋の再植民地化に先んじて日本軍は1939年には「海南島」を占領し、ヴェトナム最北部(北部仏印)にも入り掛けていたが、1940年9月、「ドイツがフランスをノックアウトした時、日本はインドシナの飛行場を要求しそれらを手に入れた。このことから日本に対するアメリカの最初の経済制裁が発動された。この段階では戦争を本当に望んでいたのは軍のみであった。1941年、インドシナが占領され、7月28日アメリカは石油を含む全面制裁にした。これが、実際、事態を破局へと持って行ったのである。」(Johnson, 1991, p.391)

ノストラダムスはこの預言四行詩で日本を、少なくとも「雲に頭を突っ込んだ」点に関してはドイツ・イタリアと同列には扱っていないように見える。むしろ極めて客観的に日本の軍事行動の特徴を捉えようとしている。この事は、他の詩(VI-80, II-60, V-11)において、日本が果たした世界植民地主義の流れの打破という功績を見ている事と深く関連しているだろう。
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§864 WWII. 日本 VS. 英米蘭戦

世界史の中の日本5
§864  WWII
日本VS. 英米蘭戦: VI-80

第二次大戦における日本の軍事行動が西洋植民地主義勢力への対抗であることを次の預言詩 VI-80が詠っている。

VI-80
(§864): WWII 日本 VS. 英米蘭戦 (1941-1945)

フェーズ支配はやがてヨーロッパ諸地域支配へと到達するだろう。
彼等の都市は火となり、刃が断ち切るだろう:
アジアの御大は陸に海に大軍を以て、
青眼、碧眼、十字架の民を死地に追いやるだろう。

WWII: Japan vs. the Allies (1941 – 1945): VI-80.
The reign of Fez shall arrive at those of Europe,
The fire and the sword shall destroy their cities:
The great of Asia by land and sea with so huge troops,
Shall expel peoples with blue or green eyes and cross to death
.

(De Fez le regne parviendra à ceulx d’Europe,
Feu leur cité, & lame trenchera:
Le grand d’Asie terre & mer à grand troupe,
Que bleux, pers, croix, à mort deschassera.)

フェーズ支配はやがてヨーロッパ諸地域支配へと到達する」:フェーズはフランス領モロッコに在る都市で、ヴィシー政府の支配下にあったが、194211月の連合軍「トーチ作戦」で占領され、英領エジプトに本拠を置いたイギリス第8軍との東西からの挟撃でリビアなどに進出していたドイツ・イタリアの枢軸軍を打ち負かして、北アフリカ地域を連合軍が奪還して行き、それを足場に更にイタリア半島とフランス地中海岸へ上陸・反攻して行った。同時に北フランスのノルマンディー上陸作戦も行われた。その勢いで遂に枢軸国を打倒するに到る。

彼等の都市は火となり、刃が断ち切るだろう」:これはドイツ軍と連合軍が激突した第二次大戦末期のヨーロッパの諸都市の戦闘の激しさを表す。

アジアの御大は陸に海に大軍を以て、青眼、碧眼、十字架の民を死地に追いやる」:「アジアの御大」は大日本帝国のことであり、「青眼、碧眼、十字架の民」とは言うまでもなく白色人種のヨーロッパキリスト教徒達で、これは強大な日本軍が南方作戦によって、東南アジアのイギリス、フランス、オランダの植民地を占領して、事実上ヨーロッパ西洋人のアジア植民地支配を潰した、という事実を意味する。

この預言詩でもノストラダムスは矢張り、同じ3国同盟の中にあっても、ドイツ・イタリアと日本とでは、夫々全く異なる歴史的文脈の中で見ている事が分る。何故なら、ドイツ・イタリアに対しては連合諸国は正義発揮の立場を得ているが、日本はその連合諸国に対しては更にその背後から「アジアに対する積年の自己中心性の弊害」を指弾・打破する立場を与えられているからである。

なお、原語pers は「青が基調の種々の色を云い、特に眼の色に関して云う」(Petit Robert)。既に「青」が出ているから、それより緑の色調が濃い「碧」とするのが最適だろう。

又、3行目 à grand troupe の前置詞 à は「手段・様態」を示す (Suzuki)。そして、前置詞無しの terre & mer §861, X-100詩にあったような、前置詞附きの par terre & mer の省略形であろう(大団円としての幸福の科学9(続& 2/2)ノストラダムスの「発声的書記」(続)前置詞省略カテゴリー e 参照)。
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§865 アメリカ合衆国独立・発展と太平洋戦争

世界史の中の日本6

§865 
アメリカ合衆国独立・発展と太平洋戦争 (1776.7.4-1945.9.2): I-50

所謂太平洋戦争がアメリカ合衆国の発展と西漸(西方進出)の果てに起きたと預言するのが I-50詩である。

I-50
(§865): アメリカ合衆国の未曽有の発展と太平洋戦争 (1776.7.4—1945.9.2)

水の3宮から生れ出るであろうものは、
木曜日を自分の祝祭日とするであろう一者の国なり:
その風評、名声、政治力、その軍事力は増大するだろう。
陸でも海でも東洋には嵐。

Independence of U.S.A. toward world hegemony; War with Japan (1776.7.4 – 1945.9.2): I-50.

Of the aquatic triplicity shall be born
A country of a man who shall make Thursday his feast:
Its rumour, glory, reign, its power shall increase,
By land and sea in the oriental regions a tempest
.

( De l’aquatique triplicité naistra
D’un qui fera le jeudy sa feste:
Son bruit, loz, regne, sa puissance croistra,
Par terre & mer aux orients tempeste.)

本詩解釈に先鞭を付けたラモントは云う:「:水の3宮(うお座、さそり座、かに座)から木曜日を祝祭日と為すであろう者が誕生するだろう。その評判、称賛、覇気そして武力は増大して行くだろう。東洋では陸でも海でも嵐。解釈:アメリカ合衆国は、木曜日を祝祭日として持っている唯一の国である。177674日、合衆国はその独立を宣言した。これによってその出生はかに座という宮の中に置かれることになる。ところで、フランクリン・デラノ・ルーズヴェルトは、木曜日と結び付いている唯一の、現職の公務員である。何故なら、感謝祭の日にちに関する彼の決定は抗議の嵐を呼び起こしたから。また、疑いもなく、感謝祭はアメリカ人にとって非常に大切な法定休日である。何故なら、もしその日に彼等がインディアン達から受けた援助がなかったならば、アメリカの歴史は違ったものになっていたかも知れないのだ。東洋の一国である日本が、特に東洋において、いま合衆国を攻撃している最中である。」(Lamont, 1944, p.319)

また、レオニは云う:「この預言は候補となる他のどの国よりも確かにずっとうまくアメリカ合衆国にフィットする。合衆国は3つの海に囲まれていて、感謝祭という形で独自の木曜日祝祭日を持っており、そして最近、少なくとも1940年代に、3行目と4行目の預言を成就した。」(Leoni, 1961, p.578)。なお、3つの海とは、ロバーツが云うように「大西洋、太平洋、メキシコ湾」(Roberts, 1999, p.17)である。

但し、the aquatic triplicity については、「これは惑星布置の事かも知れない」ともレオニは註を付け(Leoni, id., p.147)、「ノストラダムスは合衆国が存在することになるより200年も前にその起源を預言している」とロバーツは説明している (Roberts, id.)。そして、この辺りの疑問を見事に解決したのがイオネスクであり、彼は「合衆国の独立宣言日1776年7月4日のホロスコープ」によって本詩解読を完成させた (Ionescu, 1987, p.186-190)。実際、「水の3宮, the aquatic triplicity」は占星術用語であり、うお座、かに座、さそり座の3宮が黄道12宮のチャート上に織りなす三角形である。

イオネスクによれば、1776年7月4日、独立宣言が発せられたフィラデルフィアのホロスコ-プを描いてみると、太陽がかに座(水の3宮の一つ)に在ると同時に、金星と木星という2つの吉星とかに座で合を成している。これはこの日正式に誕生した合衆国の誠に目出度い運命、幸運を告げるものである。

但し、3-4行目のイオネスク解釈:「詩の後半でノストラダムスは海陸の軍事強国としての合衆国の目を見張る成長、世界に轟く大きな噂、その民主的体制が受ける賞讃について語る。最終部は合衆国の力の重みを遙か遠方で望ましからざる形で感受する国家、日本を示唆する:第二次大戦中、大日本帝国にのしかかるであろう『嵐』。」は細部に関して文法的に疑問が残る。

何故なら、「その風評」「名声」「政治力」「その軍事力」は夫々独立した主語として夫々が「増大するだろう」と云う述語を持つと見るべきで、そうした場合、「風評」とは毀誉褒貶交々の評判であるのに対して、「名声」とは当然、良い評判であり、regne, reign とは単なる民主制と云うよりも、最後の「puissance, power 軍事力」に対して、「政治的・外交的力」と特定的に解されるべきである。なお、「名声」の原語 loz は「= los, louange, gloire (praise, glory)(Daele)Cf. X-68 (§337), X-71 (§340), II-78 (§877), V-83 (§879), III-1 (§885).

そして、4行目冒頭の「par terre & mer, by land & sea」は3行目末尾の「軍事力」に係るよりも(何故ならその掛かり方は常識的概念を出ないのみならず、航空戦力を度外視することになるから)、「嵐」に係り、「東洋で大嵐が陸でも海でも起こる」とする方が文法的に自然な読みで、且つ日米戦争の実態にも合う。何故なら、日米は多くの海戦を艦艇及び航空機で闘うと共に、多くの島嶼、フィリピン、沖縄等の陸地上でも死闘を演じたからである。

なお、2行目の D’un qui..., Of the one who... と云うのは省略形で、3行目の表現が示唆するような「ある国家 a country」が補完される筈である。そしてその国家に属する或る一者とは、『預言集』で「一者=君主的人物」と云う図式が多くの例で見られるから、これもそう解して合格になる。曰く、「1789年10月3日に、初代大統領、ジョージ・ワシントンは、その年の11月最後の週の「木曜日」(Jeudi)をもって「サンクスギヴィング・デイ」という国祭日たらしめるであろう」(Takemoto, 2011, p.555)。より正確に言うと、「ニューイングランド地方のピューリタンを中心に祝われていた感謝祭は、アメリカ独立後、17891126日にワシントン大統領により全国的祝祭日とされた。その後リンカーン大統領により11月最終木曜日と定められたが、ニューディール期にローズベルト大統領はクリスマス前の買物景気をあおるため1週間繰上げを行った。1941年以来11月第4木曜日となっている。- 岡田泰男」(EH, III, p.972)。つまり、ルーズヴェルトは、11月の木曜日が5回ある場合にかんがみ、最終ではなく、第4木曜日とした。従って、当の「一者」は、ワシントン、リンカーン、ルーズヴェルトという時代を異にする三人の合衆国大統領に該当すると見ていいだろう。

関連詩: X-71 (§340): アメリカ合衆国移民と未曽有の発展 (17世紀 - 20世紀)
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§866 米軍の沖縄上陸;日本の抗戦長引く

世界史の中の日本7

§866 
米軍の沖縄上陸;日本の抗戦長引く (1945.3.23-1945.8.15): I-30

本詩は太平洋戦争最終段階の沖縄戦と日本の遅ればせの降伏に関する預言詩である。


I-30
(§866): 米軍の沖縄上陸;日本の抗戦長引く (1945.3.23-1945.8.15)

外つ国の船が海の嵐の中を

見知らぬ港の近くに接近するであろう。
椰子の枝の印にも拘らず、
その後になって死と略奪:立派な意見は遅ればせにやって来た。

U.S. army landing Okinawa; Irresolute Japan to surrender (1945.3.23 – 1945.8.15): I-50.
The foreign ship in the marine storm
Shall approach near the unknown port.
Notwithstanding the signs of branches of palm,
Then death, pillage: a good opinion gotten late
.

( La nef estrange par le tourment marin
Abourdera pres de port incongneu,
Nonobstant signes de rameau palmerin
 
Apres mort pille: bon avis tard venu.)

外つ国の船が海の嵐の中を」:「海の嵐」(原語 tourment は現代語では「責め苦、拷問 tourment, torture」であるが、古フランス語では嵐tourmente,  雷雨 orage (Godefroy), gale, storm (Dubois)である)は、ノストラダムスが自然現象の猛威を大抵は「戦争」のメタファーとして用いていることからして、いかにも「海上を主たる戦場にした戦争」の感じがあり、従って前節 (§865, I-50) の「陸でも海でも東洋にはBy land and sea in the oriental regions a tempest, Par terre & mer aux orients tempeste」という日米戦争に関連する可能性が大きい。

Palmerin: = « Palmier 1, adj. De palmier (Of palm) [形容詞、ヤシの].» (Huguet).

そして、イオネスク (Ionescu, 1987, p.361-365; Takemoto, 2011, p.702-705) によれば、これは沖縄戦及び「イタリア、ドイツの降伏後の連合軍の日本への和平呼びかけ」(椰子の枝の印=平和の象徴)、それにも拘らず抗戦したため「遂に落とされた原子爆弾の被害」(その後になって死と略奪)、そして「漸くの降伏受け容れ」(立派な意見は遅ればせにやって来た)ということになる。

イオネスク解釈はほぼ本詩の全貌を明らかにしたもので、見事といってもよいが、但し余りに多くの内容を盛り込もうとして、詩句の正確な解釈と史実への対応が曖昧になってしまっているという恨みを残す。以下、その再解釈を呈示する。

先ず、彼は1-2行目を「米軍の沖縄上陸」として、且つ「戦艦大和の沖縄戦出撃」として、二重に解釈しているが、それは一つに絞るべきだろう、そもそもノストラダムスは「我が詩趣は一義に存して曖昧ならず」(№ 10, p.158) と宣言しているのだから。特に par le tourment marin と云う表現は、par と云う前置詞が「時を示す機能」を持ち、「海上の嵐の時に」と云う限定を表している。それを彼は「手段を表す前置詞」と取って、「巨大戦艦大和という怪異な手段を繰り出して」と云ったような「奥深い意味」を見ようとしているが、これは蛇足だろう。単純に、「アメリカという外国の艦隊が日米戦争という海の嵐の最中、いよいよ沖縄に上陸を開始した」という明確な戦局を読み取れば十分である。実際、「見知らぬ港の近くに接近する」という何げない表現も、イオネスクによれば、連合軍の大規模な水陸上陸作戦が「長大な浜辺」(ハグシ海岸***)を必要とするものであって、固有の代表的な港(那覇港)(ハグシ海岸は那覇港の北方にあり、比較的近いと云える) は度外視されるという事情を表しているのである(Ionescu, 1987, p.364)。

***
「ハグシ海岸:残波岬 [ざんぱみさき]と砂辺 [すなべ](読谷)の間の8マイル長の西岸の浜辺」(Bauer, 1979, p.640); 「昭和二十年三月二十三日、米機動部隊は沖縄方面に来襲し、翌二十四日艦砲射撃を開始した。翌二十五日には大輸送船団が慶良間列島に入った。四月一日には連合軍が圧倒的な兵力をもって沖縄本島西岸の北飛行場・中飛行場正面(通称ハグシ海岸)に上陸を開始した。」 (近藤新治『近代日本戦争史 第4編 大東亜戦争』同台経済懇話会、東京、1995, p.586)。

この「外つ国の estrange, foreign」と云う表現は、次節 (§866, VIII-10) に出て来る「外つ国の民 peuple estranger, foreign people」が敗戦を甘受した日本国民を表すのと対称的に、戦勝国たるべきアメリカを指しているのである。 なお、彼は見落としているが、「椰子palmerin = palmier (Brind’Amour, 1996, p.92)」という果樹は平和の象徴という意味に加えて、「沖縄という日本の最暖地」を示唆していると思われる。

この海の嵐は「日米戦争全体」を意味すると同時に、正にその終末段階としての激烈極まりない沖縄戦自体を指している:「ニューヨーク・タイムズ軍事記者ハンソン・W・ボールドウィンは『史上最大の海空戦』の中で、次のように書いている。「沖縄の攻略を目指して史上最大の艦隊 - 航空母艦40隻以上、戦艦18隻、駆逐艦200隻、輸送船、補給船、掃海艇、上陸用舟艇数百隻 -183,000の攻撃部隊を運ぶ合計1、321隻の艦船が、日本の領海深く進んでいる。沖縄作戦は、1カ月か或いはそれより短くて済む『短期戦』だと予想されていた。... 早期戦勝の望みは忽ち消えてしまった。日本の最高司令部があくまで沖縄を死守する決意を固め、残された帝国海空軍兵力の大部分を用いて、アメリカ艦隊を撃破しようとしていたからである。12日(4月)はルーズベルト大統領の死んだ日である。死亡のニュースは塹壕から滑走甲板、砲塔にまで電光のように伝わったが、弔う暇さえない。その日多くのアメリカ人が大統領と一緒に死ぬ。照り輝くその日の午後、敵機175機が17回襲う。... 急速な戦勝の望みは今は消え去った。アメリカ各軍は流血と鉄火の長い試練を覚悟して腰を据える。というのは、引き続く四十日間 - 悪天候の為に短い切れ目が来るまで- 毎日毎夜、空からの攻撃は止む時がないからである。... 沖縄より大きな陸戦、もっと長引いた空中戦はこれまでにもあった。しかし沖縄戦では、海と陸の上と下と上空で、少しの仮借も無い死闘が演じられ、大きさにおいても、規模においても、激しさにおいても比類のない総合戦であった。こんなに激烈な、飛行機に対する飛行機、或いは飛行機に対する船の果てしも無い苦闘は未だ嘗て無かった。...」」(鳥巣建之助『太平洋戦争終戦の研究』株式会社文芸春秋, 1996, p.191-195)。

次に、「椰子の枝の印=平和の象徴」と云う解釈は卓抜であるが、その場合それは「イタリア、ドイツの降伏後」という条件では無くて、もっと日本に対してのみ特殊的に関連する「椰子の繁る沖縄陥落」及び、連合軍の日本への無条件降伏呼びかけとしての「ポツダム宣言 (1945.7.26)」と解すべきだろう。

そうすると4行目の「その後になって死と略奪」がハッキリと「ポツダム宣言を初め黙殺した日本に対する8月6日と同9日の原爆投下」による人的・物的損害として一義に解釈出来る。

そして最後に、「立派な意見は遅ればせにやって来た」と云う句も極めて個別具体的な意味を得て、「天皇の御聖断立派な意見)によるポツダム宣言受諾=降伏受け容れ (1945.8.14-15)」と云う事に落着する。「7月28日軍部主戦派の圧力に屈した鈴木貫太郎首相が、この宣言を<黙殺>すると言明したため、アメリカはそれを口実に広島と長崎へ原子爆弾を投下し、ソ連の参戦を経たのちの8月14日、日本は御前会議における天皇の<聖断>によりポツダム宣言の受諾を決定した。(木坂順一郎)」(EH, XIII, p.1054) 「御前会議は8月14日午前、もう一度開かれた。この会議は最高戦争指導会議構成員と平沼枢府議長のほか全閣僚も加わって計23人が列席、「連合国回答のままだと国体の護持に不安がある」となお強硬に反対したのは阿南、梅津、豊田の3人で、これに同調する閣僚は少なく、大勢は決していたのだが、鈴木総理はまたしても決をとらず、聖断を求めた。天皇は再び、ポ宣言受諾の意志を明らかにし「自分の身はいかになろうとも国民の生命を守りたい。この際自分の出来る事は何でもする。マイクの前にも立とう」と述べられ、終戦は決した。」(岸田英夫『天皇と侍従長』朝日新聞社, 1986, p.94-95

「自分の身はいかになろうとも国民の生命を守りたい。」という昭和天皇の言葉は、連合国軍総司令官マッカーサー元帥との最初の会見(1945.9.27)において実証された。「天皇は一言も話されないが、マ元帥はのちに書いた『回想記』に、その時の事に触れた。「私は天皇が、戦争犯罪者として起訴されないよう、自分の立場を訴え始めるのではないか、という不安を感じた... しかし、この私の不安は根拠のないものだった。天皇の口から出たのは次のような言葉だった。『私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行なった全ての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決に委ねるためお訪ねした。』私は大きい感動に揺さぶられた。死を伴う程の責任、それも私の知り尽している諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまで揺り動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても日本の最上の紳士であることを感じ取ったのである。」」(岸田英夫『天皇と侍従長』p.153-154

「その時の会見の詳しい模様は、奥村勝蔵が文書にして一通を天皇のもとに届け、もう一通が外務省の記録書庫に収められているが、外交文書公開の今日でも明らかにされていない... 藤田の記憶も、これとほぼ符合する。会見の後、天皇の手元に奥村から届けられた文書は宮内省の用箋に5枚ほどあり、天皇はマ元帥に対し、「敗戦に至った戦争の、色々な責任が追及されているが、責任は全て私にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼等には責任はない。私の一身はどうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。この上はどうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」と述べられ、元帥はこう答えたという。「嘗て、戦い敗れた国の元首で、このような言葉を述べられた事は、世界の歴史にも前例のない事と思う。私は陛下に感謝申したい。占領軍の進駐が事なく終ったのも、日本軍の復員が順調に進行しているのも、これ総て陛下のお力添えである。これからの占領政策の遂行にも、陛下のお力を乞わねばならぬ事は多い。どうか、よろしくお願い致したい。」(岸田英夫『天皇と侍従長』p.152-154

「帰り際、マ元帥は天皇をいたわるように、抱えんばかりにして、半ば背をかがめつつ、玄関の外まで見送った。そこで腰をかがめて丁重に固い握手をしたかと思うと、身を翻すようにして扉の中に消えた。というのも、事前の打ち合わせでは、元帥は玄関先までの送迎を一切しない事になっていたのである。占領軍総司令官として背後にある連合国の目を意識してのこと。何が、こうもマ元帥の態度を変えさせたのだろうか... マ元帥との会見を終え皇居に帰る車中、天皇は大変朗らかな様子で、陪乗の藤田に珍しく色々と話しかけられたという。「陛下のマ元帥訪問は、成功のうちに終った」と藤田は感慨を込めて書いている。」(岸田英夫『天皇と侍従長』p.152-155
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§867 米国の原爆開発と対日実戦使用 (1941-1945): VIII-10

世界史の中の日本8

§867 米国の原爆開発と対日実戦使用 (1941-1945): VIII-10

本詩はアメリカ合衆国が原子爆弾を開発し、その実験に成功し、且つ日本に対して初めて実戦使用した史実に対応する預言詩である。

VIII-10
(§867): 米国の原爆開発と対日実戦使用 (1941-1945)

甚大な異臭がローザンヌから発生するだろう、
人々は事の理由が分らないだろうままにあれ!
全ての人々が外部へ遠く遣らるべし!
空に火が見られ、外つ国の人々は敗れて。

Nuclear weapons exploited by U.S.A. who employed them against Japan (1941 – 1945): VIII-10.

A grand stench shall come out of Lausanne,
That they shall not know the origin of the matter !
All the people shall be dislodged far away !
A fire seen in the sky, the foreign people defeated.


(Puanteur grande sortira de Lausanne,
Qu’on ne saura l’origine du fait,
Lon mettra hors toute la gent loingtaine
Feu veu au ciel, peuple estranger deffait.)

甚大な異臭がローザンヌから発生するだろうイオネスク (Ionescu, 1976, p.593-594) はこれを「アメリカ (Lausanne)」の「最初の原子爆弾の放射能効果 (radioactive effects of the first atomic bombs)」に関連付けた。何故なら、ローザンヌLausanne はスイス・レマン湖のほとりにある町を指すのではなくて、アナグラムとして、LAUSANNE = USA LANDE (USA或る場所) と読めるし、又 異臭 stench 即ち「嫌な臭いの嗅覚振動」は「放射線発出 radioactive emanation」の比喩と解されるからである。実際、彼が云うように、Lausanne と同様にUSA のアルファベットを含む語としての Ausonne (III-70, §338), Arethusa (I-87, §890) はいずれも「アメリカ合衆国」と解した場合に初めて文脈が通るし、「アメリカ合衆国の或る場所から発する甚大な異臭」と云う表現はどう見ても何かの「比喩」としか考えられない。

ただし彼は、この核現象を、直ちに「アメリカによる日本に対する核攻撃」と捉えているので、この点は同意できない。というのも彼は、Puanteur grande sortira de Lausanneという第一文を、「大規模な放射能効果が、アメリカによって、何処かで、惹き起こされるだろう。」と読むが、それは彼が自ら折角得たLausanneのアナグラムUSA LANDEを「USA SOMEWHERE」としか読まないからである。つまり、フランス語のlande(荒野、荒蕪地, moor, heathの意味しかない)を英語のlandと同一と見て、「a land, some land或る土地」と読む過ちに陥ってしまい、そのある土地を「日本」と付会してしまっているのである。その上、sortir de ~ (to come out of~ )という表現を、「~ によって惹起される」と読むのも文法的に成立せず、それは「~ から発出して来る」と読む以外に正解はない。そうすれば、語義と構文の自然な順守に従って、「アメリカのアラモゴード砂漠から発する異臭(放射線)」という解釈が難なく得られる。実際、まぎれもなく史上最初と言える核爆発は、日本の広島と長崎への原爆攻撃(つまり史上第二番と第三番の核爆発)に先行した合衆国国内過疎地での試験的核爆発に他ならなかった。イオネスクは合衆国ニューメキシコ州のアラモゴードの砂漠で行われたこの核爆発実験を完全に見落としている。

事の理由が分らない」:イオネスクはこれを核反応の機構の根本原理の未解明としているが、それは奇妙だ。何故ならその基本原理は初め既に理論的に解明済みであって、それを大前提にして、後は技術的応用の問題になっていたのだから。この句は2-3行目を一体として捉えて, 実験直後の放射能降下物の状況如何によっては、事の真相は伏せたまま、実験場近辺の全ての人々を外部へ遠く避難させるだろう」との趣旨で読むべきで、最初の核実験に際して、核開発は米政府の最高軍事機密故、実験直後の放射能降下物の危険な飛散が確認された場合には、毒ガス弾を含む弾薬庫が爆発したとの口実で近隣住民を危険区域外へ軍隊によって強制的に避難させる計画が予め詳細に立てられていた事実(実際には実験後危険が生じなかったと判断されたので、避難は行われなかった)を云うのである。

実際、純文法的に見ても、2行目冒頭の que と云う接続詞は、イオネスクのように読もうとする場合にはどういう機能を持つのか不明だが、「命令・願望の接続詞」(本詩は命令)と見ると、その後には独立節が続くので、本詩に当てはまる。ただし、本来のフランス語では、その場合、独立節の動詞は必ず「接続法」でなければならない(cf. Ibuku, s.v. QUE, p.2016)が、本詩では「直接法未来形」となっている。これは、ノストラダムス独自の「未来予言詩」作成上の破格特異点であろう。従って、又、3行目を「日本国民全体が戦意喪失した時に」と読むイオネスク解は完全な誤りである。これは「アメリカの最初の核爆発実験の時に、広大な実験場の敷地は完全に軍隊によって封鎖され、常時警備されており、その上で、実験後万一、降下放射物の危険が生じた場合には、敷地外の近隣一帯から住民全部を、毒ガス弾を含む弾薬庫が爆発したとの口実を設けて、真相を隠したまま当局の命令で遠くへ避難させる [人々は事の理由が分らないだろうままにあれ!全ての人々が外部へ遠く遣らるべし!] 計画があった」(Cf. U.S. Army, 2018, Beginnings of Trinity Site and Evacuation Report; Close, 2019, p.138) という事実の預言である。この計画は、実験後の安全が確認された為、実行されなかったから、その意味では「この2-3行の詩文は生起蓋然性の預言」となっているが、実際にそういう命令が準備されていた歴史的事実の真正の預言である。

「オッペンハイマー博士が、トリニティーと名付けた実験は、アメリカ独立記念日の七月四日に行う予定で準備が始まった。実験は二〇〇人あまりと、ごく少数の人々が行うことになっていた。当然のことながら準備は極秘のうちに進められ、実験に携わる人々は途轍もない重圧を感じていた。実験場まで三〇キロ以上の道路を造り、何キロにもわたって電線を敷き、FMラジオを設置して十分な通信体制が整えられた。最も心配されたのは、周辺に住む住人たちである。警備のために兵隊を配備し、人々を牧場や住居から強制的に避難させることになっていた。最も力を入れたのは、事故が起きた際の対応で、十分な準備を行った。原爆はおよそ一〇メートル[ママ]*の塔の上に設置された。七月十四日、爆破班が起爆装置を取り付け、実験班に爆破実験の準備が予定通り進んだと告げた。事故が起きた際の訓練が行われ、医療関係者が準備についた。最前線の見張り所は実験塔からおよそ九キロのところにつくられていたが、ベースキャンプは実験塔からおよそ一五キロの場所に設けられた。コントロールタワーは実験塔からおよそ一〇キロのところにつくられ、観測センターとは無線で結ばれて、常時、情報が流されていた。」(日高義樹『なぜアメリカは日本に二発の原爆を落としたのか』PHP研究所、東京、2012, p.62-64)。
*
2020/01/31 () …. 昨年お問い合わせを賜わりました箇所 「原爆はおよそ一〇メートルの塔の上に設置された」につきまして確認いたし、ご指摘のとおり、三〇メートル(一〇〇フィート)の誤りでした。 心よりお詫び申し上げ、訂正いたします。…… PHP研究所 第一制作部」。

そこから翻って、アメリカ合衆国を指すのにノストラダムスが何故わざわざ Lausanne と云う語を使ったかも明瞭になる。なるほど、上記アナグラム解も「LAUSANNE = USA LANDE USAの荒野 = 核実験場の砂漠」と更に突っ込めばいいのであるが、LA を直ちに ロス・アラモスLos Alamos (核開発研究所)又は アラモゴードAlamogordo (核爆発実験場) と読む方がスマートな解釈だろう。他方、スイス・ローザンヌの町を指す時ノストラダムスは「Losanne(IV-42, §235) と表記して、本詩の Lausanne と区別している。

空に火が見られ、外つ国の人々は敗れて」:「火の茸(キノコ)のように天まで広がって行く爆発の後、この異国の民は放射能の威力によって押し潰され殺害されるだろう」というイオネスクの解釈は、彼の通弊とも言うべき原文の粗雑な読みに堕している。何故なら、「空に火が見られ」る事と、「所謂原爆キノコ雲の立ち上がり」とは異なる現象であり、同一の核爆発の時間的に異なる段階の相である。

現実に広島、長崎で核爆発を目撃、体験した人々の証言を総合すると、最初に「空に火球が見られ」、「そして拡大する火球が地上に接すると見るや消えて猛烈な衝撃波と爆風が地上を掃いた後」「地上と地上付近の空気が激烈に熱せられて強力な上昇気流が発生してキノコ雲に成る」というプロセスが認められる(II-91, §868; VIII-16, §869参照)。

従って、「空に火が見られ」という詩の表現は「火球が見られた」(§868 II-91詩では「丸いものの中で死と叫びが聞かれ」と云われている)という事であり、最初の核爆発の兆候が見られたという事である。そして実は、この短い何気ない表現は、これが「アラモゴードでの最初の核爆発実験」ではなくて、広島ないし長崎に実戦使用された最初の原子爆弾の爆発を意味するという事が言えるのである。何故かと云えば、実験場では核爆弾は丘の上の30m (100ft) 程の高さの鉄塔上に置かれて爆発した**ので、そして観察者達は相当遠距離からほぼ水平角度で特別濃いサングラスを通して見ていたので、「天を仰いで空に異様な火球を見た」という状況では無かった。それに対して日本の被爆の場合は、「高層の米軍の飛行機から垂直に投下された核爆弾が地上5、600メートルの上空で爆発して火球と成った」ので、それを最初に気付いた人々は「自分の上空に太陽をも凌ぐ強烈な光球を見た」のである。これが日本に対する核の実戦使用****である事は、勿論、「外つ国の人々は敗れて」という、原爆使用国にとっての正に外つ国たる日本の敗北の直前に位置する表現である事からも確実に言えるのであるが。

**
[19]45716日午前530分、22億ドル以上を投入した世界初の原子爆発装置が、ニューメキシコ州アラモゴードの丘に設けられた高さ30mの鉄塔上で爆発した。その威力はTNT爆薬約19ktにあたり、<トリニティTrinity実験>と呼ばれている。翌月6日広島上空にリトルボーイと呼ばれる235U爆弾が、次いで同月9日長崎にファットマンと呼ばれる239Pu爆弾が投下された。- 劔持幹人」(EH, III, p.164); « … The next morning the entire bomb was raised to the top of the 100-foot steel tower and placed in a small shelter. A crew then attached all the detonators and by 5 p.m. it was complete.» (U.S. Army, 2018, 100-Ton Test on May 7); « … J. Robert Oppenheimer code-named the test Trinity. Hoisted atop a 100-foot tower, the plutonium device, or Gadget, detonated at precisely 5:30 a.m. over the New Mexico desert, releasing 18.6 kilotons of power, instantly vaporizing the tower and turning the surrounding asphalt and sand into green glass.» (U.S. Department of Energy, 2019, World's First Nuclear Explosion).

****
日本に対する核攻撃決定過程(『産經新聞』平成30年(2018)8月10日金曜日12版3頁筆頭記事に依る):①194110月、 英独自の原爆開発計画「チューブ・アロイズ」[Tube Alloys, 目的隠蔽の為の暗号名] が始動。②19428月、英国の慫慂下、米「マンハッタン計画」が始まる。③19438月、ケベック協定成る。ルーズベルト、チャーチルの米英首脳はカナダ・ケベック州で原爆の共同開発を密約。兵器(原爆)を互いに対し攻撃するため使用しない;第三国に使用する場合、互いの同意が必要(英側の事実上の拒否権);両国の同意がない限り、チューブ・アロイズに関する情報を流さない、など。④19449月、ハイドパーク協定成る。チャーチルが米国内のルーズベルトの別荘を訪れ、2人は「原爆が完成すれば、熟慮後、おそらく日本に使用される。日本が降伏するまでこのような爆撃が繰り返される旨の事前警告を与えるべきだ」などと合意した。原爆完成後はドイツではなく日本へ投下することが米英で密約され、翌10月、米国は原爆投下の最終準備に入った。⑤194571日、米国政府からの原爆使用同意要請を受け、英政府内での検討を経てチャーチルは容認を決断し、Operational use of Tube Alloys(米国が日本に原爆を使用する作戦)に署名。同月2日英首相官邸がそれを公式覚書とした。⑥194574日、米ワシントンで開かれた原爆開発協力の「合同政策委員会」の席上、英政府代表ウィルソン陸軍元帥が公式に「日本への原爆使用に同意」と表明。⑦1945716日、チャーチルはベルリンから外務省に、トルーマンの前任のルーズベルト大統領と密約した「ハイドパーク協定」の写しを送るよう要請。同24日、協定の写しを基にチャーチルは原爆使用の是非についてトルーマン大統領と協議。原爆投下を躊躇するトルーマンに、「日本は警告なしに真珠湾を攻撃し、多くの米国の若者を殺した」と警告なしの投下を迫り、トルーマンは決断した(米国務長官バーンズの補佐ウォルター・ブラウン回顧録抄)。⑧1945725日、トルーマンは原爆投下指令を承認、投下命令発出。その結果86日、人類史上初のウラン原爆が広島に、9日にはプルトニウム原爆が長崎に夫々投下された。

所で、イオネスクに依れば、ノストラダムスの「アンリ二世宛書簡」の次の一節は、日本の二都市の原爆被災に関連している:「彼等の海軍力 [日本海軍] は西洋人達 [アメリカ軍] によって弱体化されるだろう。そしてこの政府 [日本] に対して甚大な荒廃がもたらされるだろう。そして非常に大きな複数の都市 [広島と長崎] が人口を減らされるだろう。そしてそこに立ち入るだろう者達は、神の怒りの復讐に巻き込まれるだろう。」(№3, p.14) (cf. Ionescu, id., p.595).

イオネスクに依れば、この場合「神の怒りの復讐」という際どい表現は、道徳的な意味合いの神罰ではなくて、原爆被災における「放射線障害」を意味している。何故なら、これがイオネスク独自の功績であるのだが、「神の怒り」に相当するラテン語 IRA DEI を、IRADIÉ というフランス語風の形に変換し、これを更に同じ発音の本来のフランス語 IRRADIÉに変換するというアナグラム手法を通して、「神の怒り」とは実は「irradié (irradiated), 被爆した(者)」という現実的意味合いを持つことが理解されるのである。

因みに、前掲節の続きは、「そして世界中の人々の眼(
まなこ)によって夕刻にあまねく黙想され、長い長い間非常な崇敬を受ける墳墓として在り続けるでしょう。」(№3, p.14)となっている。これは、原爆被災都市たる広島と長崎が、いわば、Universal Memento Moriとして全世界、全人類の悠久の道徳的覚醒と平和希求のランドマークとなることの預言であったのだろうか。
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§868 安芸の地に米国の原爆炸裂

世界史の中の日本9
§868 
安芸の地に米国の原爆炸裂 (1945.8.6): II-91

本詩はアメリカ合衆国が原子爆弾を初めて「安芸(アキ)」の地(広島)に実戦使用した史実に対応する預言詩である。

II-91
(§868): 安芸の地に米国の原爆炸裂 (1945.8.6)

太陽が昇ってから大きな火が見られるだろう、
安芸路(アキロ)に狙いを定めた轟音と閃光:
丸いものの中では死、そして人は叫びを聞くだろう、
刃傷、火傷、飢餓故の死を待つ人々。

A nuclear weapon for the first time exploded in Aki district, Japan (1945.8.6): II-91.
The Sun rising, they shall see a grand fire,
Crash and clarity aiming at Akiro (Hiroshima):
Death inside the round and cries shall be heard,
Many a people are to be dying from sword, fire, and of famine
.

(Soleil levant un grand feu lon verra
Bruit & clarté vers Aquilon tendant:
Dedans le rond mort & cris lont orra
Par glaive, feu, faim, mort les attendants.)

太陽が昇ってから大きな火が見られる」:「太陽が昇ってから」という句は、現在分詞による時刻表現で「朝早く」と解されるので、「広島被爆時間午前8時15分頃」に合致する。しかし又「昇る太陽」とも読めるので、中村恵一とデュフレンヌは「日出づる国=日本」と解している (Nakamura, 1983, p.52; Dufresne, 1991, p.241)。但し、すぐ後で述べるように、二行目のフランス語単語 Aquilon (アキロン)が、日本語「安芸路(アキロ)」に通じ、「広島地域」を限定的に意味するとすれば、「昇る太陽」を態々漠然と「日本」と解する必要はない。

そして「大きな火が見られる」は前節のVIII-10 :空に火が見られ」と照応するもので、そこでは「空に」という点が特異性を成していたが、ここでは最初に「太陽が昇ってから」と言われて「空への関心」が求められた上でなお「太陽とは違う大きな火」に注目せよと言われるのである:「ピカッと強烈に光った物体が、満月位の大きさで透明なオレンジ色、その周りに輝く光の輪が次々と八つ程出来た。外側の輪が地上に接した瞬間、大きな火柱が立ち上る、それを中心に火災が拡がると見た瞬間光る物体は消え去った。そして爆発音が響き、熱風が襲っ来た。(山本稔「爆心地から東南東5.3キロ付近で目撃」『広島原爆戦災誌第三巻』所収)」(『日録20世紀 1945 昭和20年』講談社, 1997, p.6-7)。この「大きな火」は、専門用語で「火球(fireball)」と呼ばれるもので、原子爆弾の爆発劈頭の激甚空漠閃光 (いまだ形なき面的光膜)*** に次ぐ最初の可視的有体現象である。これは再度、3行目で明確に「丸いもの (the round)」と呼ばれている。これについては後で又触れたい。

***
「甚大な光の輝きが空を切り裂いた。それは一面の太陽 (a sheet of sun, 太陽の敷物) に見えた。」(Hersey, 1946; 1986, p.8)。「写真で使われるマグネシウム光に似た激烈な光が全眺望 (the whole vista) を満たした。」(Kelly, 2007, p.333)

安芸路(アキロ)に狙いを定めた轟音と閃光」:テキストのvers Aquilon tendant という句は、tendant vers Aquilon という形に代替可能であって、tendant versという現在分詞に対する動詞原形の tendre vers ~ (to aim at ~) は、「~を目標にする、~を狙う、~に狙いを定める」という意味で使われる(cf. Petit Robert, s.v. ‘TENDRE)。まさしく本詩前半は、安芸路(広島)に狙いを定めて米軍爆撃機エノラ・ゲイ号から投下された原子爆弾リトル・ボーイの爆発の効果たる火球(a grand fire)、閃光(clarity)、轟音(crash)を指し示している。即ち、二行目冒頭の「轟音と閃光」は、「閃光と轟音」という自然な順序を、預言者ノストラダムスが若干隠蔽的に入れ替えたもので、それを元に戻せば、「ピカッと強烈に光った。そして爆発音が響き」という光速と音速の明らかな相違を忠実に反映した上記体験者の実話に合致する。これが、いわゆる「ピカドン」という新しい言葉を生んだ原体験である。「ぴか-どん(「ぴか」は閃光、「どん」は爆発音)「原子爆弾」の俗称。被爆当時に広島の子供が使い始めた語。」(新村出編『広辞苑 第二版増補版』岩波書店、東京、昭和30年第1版、昭和56年第二版補訂版第6刷)。「ピカドン 広島・長崎に投下された原子爆弾の俗称。ピカリと光った瞬間、ドカンときたという体験的実感から出たことば。」(渡部ひろし()編『学研 新世紀百科辞典』学習研究社、東京、1978年第1刷、1981年第4刷)。この場合の「瞬間」は、爆心からの距離に応じた時間的長短が当然予想されている。

安芸路(アキロ)」の原語は Aquilon (アキロン)で、これは本義が「北風」という事で、多くの研究者は「北方」「ロシア」等と解釈する。そうすると詩の他の部分が果たして原爆災害を述べているようでも、どうしてもこの語が整合的に解釈出来ない恨みが従来残ったが、全く観点を変えて、「アキロン」という音声に注目した時、「アキロ 安芸路」という語呂合わせ的な解釈が浮かび出て来るのである()。「安芸 アキ」は正に「広島地方」の古称であり、「安芸路 アキロ」とすれば「安芸の地、安芸方面」という意味になりうる。フランス19世紀 (1835) の有名な地理事典 (MacCarthy) は「AKI, 北西を IVAMI (石見)、東をBINGO (備後)、南をSikoko [Sikoku] (四国) 水道、そして西南をSUVO (周防) の各国に囲まれた日本本島の西方の一国」として安芸を説明している。また、安芸を実際にAQUI, Aqui と表記した17世紀の古地図も存在するから、これなら、より一層、Aquilon というノストラダムスのテキストに近い(P.ブリエ作「日本図」1640年代刊、国際地学協会出版部編『総合 世界/日本地図』(株)国際地学協会、東京、1989, 見返し(下図)参照)。

AQUI

地図中央に、Aqui 及び AQUI の文字が見える。底辺に、Firoxima ( = Hirosima = Hiroshima = 広島) の文字が見える(hi音はかつてfi音であった; , フランス語xiの発音は、gzi, ksi, zi, siのいずれも可能だが、siと読めば日本語のshiと容易に同一視できる)。右上(東北方向)に、Bingo (= びんご = 備後) の文字が見える。

 デュフレンヌはこの語の解釈を飛ばしており、他方中村恵一は「vers Aquilon tendant」を「傾く鷲の近くで」と読み、「米軍の原爆搭載機が急旋回する」描写だと云う(Nakamura, id., p.51-52)。しかし、Aquilonに本来「鷲」という意味はなく、『預言集』に都合8回登場するAquilon, aquilonaireは、本詩の「語呂合わせ」1回を除くと、他の7回全てが「北方、北方の」という意味で使われている。なるほどラテン語には aquila アクィラ 鷲」という語があるが、それはフランス語に入ってからは aigle エグル」に成ったのに対して、ラテン語の「Aquilo アクィロー 北風の神aquilo アクィロー 北風、北、北方」はフランス語でもほぼそのまま「Aquilon アキロンaquilon アキロン」とされた(ここから翻って、フランス語Aquilon アキロンは元のラテン語に戻せば、Aquilo アクィローとなり、アキロ = 安芸路に音声上最も接近する)。しかも、仮にこれを「鷲」と解し得るとした所で、それに tendant という動詞形容詞ないし現在分詞が附いても「急旋回する、傾く」と云った意味には成り得ない。せいぜいそれは「「[ 何かを目指して] 進み行く鷲」と云った意味にはなるのだろうが。

なお、「ノストラダムスの語呂合わせ手法」については、X-74 (§940) にも代表的な実例がみられる。そこでは、フランス語原文Hacatombe (アカトンブ) [これは本来の仏語hécatombe (エカトンブ、英語のhecatombに当る) の不規則な変形である] が、日本語の「あかとんぼ」(Akatombo)として解釈した場合に, 最高度の意味充実を達成する状況にある。

lon verra: = l’on verra (One shall see).

lont orra: = l’on orra = He shall hear, the 3rd person of the indicative future singular of the verb ouïr (to hear, to listen); « orrai, orra, V. oïr(Daele); « oïr < odir (audire), ouïr ouyr; va.: ouïr, entendre, - écouter, exaucer. ‖ Conjug.: Ind. Fut.: odrai, orrai [orras, orra, orrons, orrez, orront].» (Daele).

轟音と閃光... 丸いものの中... 刃傷、火傷」:これは原爆炸裂の効果の要約された表現であるが、上記の山本稔氏の体験談をよりよく理解する上でも、少し科学的な説明を借りて置きたい。

核爆発の火の玉 (火球 fireball): 「核爆発後 1 x 10-6 (10のマイナス6乗)秒以内に、超高温(数千万K)となった核兵器の残滓は、主としてX線の形で大量のエネルギーを放出するが、空中爆発ではこのX線は1m内外の空気に吸収され、極度に高温となった空気と気化した残滓が火の玉もしくは火球 fireballと呼ばれる光り輝く球状の塊 [丸いもの] を形成する。火の玉は放射線と熱戦を放出しつつ、急速に膨張を続けると共に、次第に冷却され、上昇によって空気の抵抗を受けてドーナツ形に変化し、放射能雲のきのこ雲mushroom cloud を形成する。火の玉内部では、高温によって生じた気体の急膨張から衝撃波が発生し外方へ進行する。しばらくの間火の玉は衝撃波面の進行と同じ速さで膨張するが、火の玉の温度が3000°C ほどに低下する頃、衝撃波面は火の球から離脱して外方へ強力な爆風として拡がって行く。離脱の直前、衝撃波は周囲の空気を衝撃加熱によって8000°C 以上の高温にする。この高温の空気層は可視光線を透過しないため、火の玉は一時外部から見えなくなる。- 剱持幹人」(EH, III, p.165 「核兵器」)。「194586日午前815分、米軍は、人口32万の広島市上空、高度9300メートルから核爆弾を投下した。上空600メートルでの威力16キロトンの核爆発は、直径およそ200メートルの火球となった。核爆発の中心は爆弾の材料すべてが蒸発し、100万度Cの高温気体となって太陽のように発光する。」(高田純『核爆発災害 そのとき何が起こるのか』中央公論新社、東京、2007, p.3-6)。

熱線: 「火の玉は紫外、可視、赤外の波長領域の電磁波を放出する。これが熱線と呼ばれ広範な地域に焼夷効果を及ぼすこととなり、特に威力の大きい核爆発ではこの熱線による被害範囲が他の効果を引き離して大きくなる。熱線として放出されるエネルギーは核爆発の全エネルギーの凡そ35% 程度である。火の玉が一時外部から見えなくなる現象に関連して熱線に二つのパルスが生ずる。第一のパルスは1Mt の爆発で0.1 秒と短く、熱線の多くは紫外線領域にあって全熱線の1% 程度のエネルギーを占める。従って火傷という点から言えば放出エネルギーが小さいことと空気層に吸収され易い紫外線成分であることにより眼球には障害を及ぼす事はあっても皮膚の火傷を起すことは少ない。第二の熱線パルスは数秒間続き(例えば1Mt 10秒、10Mt20秒以上)全熱線エネルギーの99% を放出する。地表に到達する熱線の波長は可視か赤外領域にある。この第二の熱線パルスが人体皮膚の火傷を引起し、木材、繊維製品、紙のような可燃性有機物を焦がして炭化し時には発火させることとなる[火傷]- 剱持幹人」(EH, III, p.165 「核兵器」)。「中島本町 [なかじまほんまち] は、閃光直後の衝撃波で全戸がなぎ倒された。熱線を浴びた木造家屋は高温になり、そして衝撃波の通過で一瞬真空となった町へ空気が逆流して一気に燃え出したと考えられる。火勢は次第に広がり大きくなって街は大火災 [火事]となった。」(高田純『核爆発災害 そのとき何が起こるのか』中央公論新社、東京、2007, p.20-22)。

爆風: 「空中、地表爆発による物的被害の大部分は爆風に起因する。火の玉の表面から離脱した衝撃波は急速に広がって進み、高度に圧縮された空気の壁のように作用する。爆風波が地表面にぶつかると反射波が生じ直接波と反射波とが重なり合うマッハ効果を生じ一般に直接波の2倍の過圧を示すマッハ軸を形成する。マッハ軸の通過に伴い地上の物件は地面と平行の爆風を受けることとなる。その後火の玉の急速な上昇に伴って強い上昇気流が生じるため爆風と逆方向に吹戻しと呼ばれる地上風を受けることとなる。吹戻しは爆心地点では100 m/ にもなるため被害を更に大きくする。- 剱持幹人」(EH, III, p.165-166 「核兵器」)。「広島のゼロ地点から距離別の初期被害は、1キロメートル以内は高度に壊滅的、1-2キロメートルは中度、2キロメートル以遠は軽度であった。人的被害では屋内と屋外とで差がある。屋外ではまともに衝撃波を受ける。人体が吹き飛ばされる以外にも、粉砕され弾丸のように飛ぶガラス片が突き刺さり、致命傷となった [刃傷]。木造家屋は衝撃波で倒壊した。その下敷きになって、逃げ出せない人たちは、間もなく火災で焼かれてしまった [焼死]。」(高田純『核爆発災害 そのとき何が起こるのか』中央公論新社、東京、2007, p.31-32)。

飢餓: これは、被爆後、全て灰燼に帰した中での糧食欠乏と救援未到による本来的意味での飢餓とは考えられない。何故なら、大きいとはいえ、被爆地は広島市という個別一市街であって、被爆生存者に対する外部からの各種の救援と支援は遅かれ早かれ期待されるからである。この場合の「飢餓」は、放射能障害、原爆症と言われる中の一種で、「腸死」に至るような「消化管粘膜の障害(腸管症候群)」における「死に至る飢餓に等しい栄養的欠乏状態」を指していると見るべきだろう。「原子爆弾被爆による障害が他の爆弾被爆と最も様相を異にするのは、放射線による障害が熱傷、外傷に組み合わさっている点にある。急性放射線障害の症状は、[広島] 爆心地から1.0km以内にいた人々に著しく出現した。爆心地に近かった人、すなわち被曝線量の大きかった人は、被曝直後から全身脱力感、嘔吐、悪心などの症状が出現し、数日後から発熱、下痢、脱水症状を起こして死亡した。この場合の障害は数百ラド以上全身被曝による消化管粘膜の障害(腸管症候群)による<腸死>がその病因である。<腸死>を免れ、また被曝線量のやや少なかった人々も、被曝後4週を極期とする白血球減少、血小板減少に基づく感染、出血症状を示した。およそ被曝線量350ラド以上受けた人々(爆心地から1.0km以内)の約半数が、<腸死>や<造血器障害死>によって死亡している。- 平島邦猛」(EH, V, p.94「原子爆弾症」)

«「背中に火がついて燃えているのに一生懸命走って逃げる10歳位の生徒、〝背中が燃えているよ〟と注意してやったが、振り向きもしないで形相(ぎょうそう)きびしく去った。(略)片足はハダシ、ゲートルを引きずりながらのご主人、水ぶくれになった片目、しるが出ている。奥さん、破れた真黒のモンペ姿。子供はどうしただろうか、助かったろうか、後をふりむきふりむき逃げてきた。誰の口からも、これは大変だ、早く市外へ逃げよう。連れていってくれと足の不自由な老人の叫び。顔全部がやけどして水ぶくれのように腫れて、目が見えないようになった兵隊さんが、水をくれ水をくれと叫んでいた。座ったまま片手に空の水筒をもっていた」これは爆心地から2キロ離れた場所で被爆した当時18歳の少年の手記である。熱線と爆風により、広島は7時間にもおよんで火の海と化した。午後4時、火災は弱まり、市中では硝煙と熱気が立ちこめる中、本格的な救援活動が始まった。しかし、死体や重傷者を学校や病院などの救護所に収容することがやっとだった。»(『日録20世紀 1945 昭和20年』講談社, 1997, p.7-8)。

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§869 Hiroshima に米国の原爆炸裂

世界史の中の日本10

§869  Hiroshima に米国の原爆炸裂 (1945.8.6): VIII-16


本詩はアメリカ合衆国が原子爆弾を初めてHiroshima(広島)の地に実戦使用した史実に対応する預言詩である。

VIII-16
(§869): Hiroshimaに米国の原爆炸裂 (1945.8.6)

ヒエロンが造船させている場所で、
甚だしく大きなそして突然の洪水があるだろう。
人々が手を取り掛けられる個所も地面もないだろう、
波浪がオリンピアのフィエーゾレを登って行くだろう。

A nuclear weapon for the first time employed in Hiroshima (1945.8.6): VIII-16 (§869).
At the place where HIERON has his vessel fabricated,
Such a grand deluge shall be and so sudden,
That they shall have no place nor ground to attach themselves to,
The wave shall climb Olympic Fesulan
.

( Au lieu que HIERON feit sa nef fabriquer,
Si grand deluge sera & si subite,
Qu’on n’aura lieu ne terre satacquer
L’onde monter Fesulan Olympique.)

ヒエロン HIERON」:この語はギリシア語の普通形容詞 ヒエロン(中性) hieron (holy, saint) から来た「ヒエロン Hieron」という固有名詞を思わせるが、その意味は「聖所」であり、又個別の固有名詞として「聖岡、聖岬、聖山」としてギリシア世界に幾つか実在した (cf. Pillon)。従って本詩の場合も、「広くありふれた場所名でありながら、同時に何か特別な意味を持つ場所」であろうと思われる(結論の「広島」を見れば、広い島という普通名であって、且つ、被爆都市という世界史的刻銘を負う)。そして本詩の中で初めて合理的にこれを解釈したのはイオネスク (Ionescu, 1976, p.596-599) の功績である。彼は先ず、HIERON を「聖ヒエロニモス Saint Jérôme, Hieronymos (ラテン名Hieronymus のギリシア形) 」の語末脱落 (アポコープapocope) と看做したが、至当だろう。特にフランス語はギリシア、ラテンの長い人名をアポコープ的に短縮する傾向が強い (e.g. Aristoteles → Aristote, Ovidius → Ovide, etc.) から、Hieronymos Hieron とするのは肯ける。その上で、なおそれが全て大文字で HIERON と書かれている点に着目したイオネスクは、アナグラムが隠されていると見て、HIERONYMOS = HIROSHIME  HIROSHIMAと変換した (多分Hを2度使わない HIROSIME, HIROSIMA の方が適切かも。日本語ローマ字としては SHI SI もシと発音するから)。そして、当時広島には「三菱造船所」があったから、1行目後半の意味も整う(「させmakes」の原語 feit は、faitのヴァリアント[cf. Daele, faire (p.190)]IX-17詩にも同じfeitの用例がある)。「古来の伝統を尊重して画家達は死の省察へと誘うように髑髏を指さす姿の聖ヒエロニモスを描いてきた。原爆による死の象徴として在り続けるこの町を指し示すのにこの聖人を選んだのは同時に、『死を銘せよ memento mori』という未来人類への警鐘であり、正にピッタリだ。」(Ionescu, id., p.597) 

なお、X-63詩に「キドニア、ラグーサ、聖ヒエロンの町 la cité au saint Hieron (the city belonging to the saint Hieron)」という表現が出ており、この聖ヒエロンを聖ヒエロニモスと解する事が出来る。何故なら彼の出身地はダルマチアのストリドンStridonで、ラグーサに近い。この詩は第一次大戦の発生地バルカンに関係するから、ストリドンもそこに含まれる。従って、イオネスクがヒエロンをヒエロニモスと解したのはこの方面からも妥当性を持つ。Hieron の用例は『預言集』では以上2例に限られる。

Satacquer : [前置詞 à の省略] = « S’attaquer à, To tackle (~をつかむ), to grapple with (~を握る、捕える).» (Dubois; Obunsha).

甚だしく大きなそして突然の洪水。人々が手を取り掛けられる個所も地面もない」:「洪水」についてのイオネスク解釈は、それが原子爆弾炸裂の結果という一般的イメージで説明しているだけで、具体性に乏しい。これは前節で詳しく見た我々の観点からは、「衝撃波・爆風」を指している事が確実に言える:「爆風: 空中、地表爆発による物的被害の大部分は爆風に起因する。マッハ軸の通過に伴い地上の物件は地面と平行の爆風を受ける。その後火の玉の急速な上昇に伴って強い上昇気流が生じるため爆風と逆方向に吹戻しと呼ばれる地上風を受ける。吹戻しは爆心地点では100 m/ にもなるため被害を更に大きくする。」( 剱持幹人「核兵器」EH, III, p.165-166 ) 実際、秒速100m の暴風なら「人々が手を取り掛けられる個所も地面もない」のは当然だろう; 「標高70m程度の江波山気象台の被害状況:熱線は3秒で衰え、衝撃波が残ります。衝撃波は猛烈なスピードで [甚だしく大きなそして突然の] 町全体を呑込んで行きます。広島原爆の衝撃波を東北大学衝撃波研究センターがシミュレーションしました。50m毎に区切った当時の地形データを入力します。更に爆発の出力15kt、炸裂点の高度567m等を入力し、核実験のデータも参考にしました。計算はスーパーコンピュータで行なわれました。衝撃波は爆発から3秒で1.5km、7.2秒で3キロ、10.1秒で4キロまで到達することが分りました。広島地方気象台は爆心地から3.7キロの距離です。江波山、ここに当時の気象台の建物が今も残っています。北勲さんはこの窓から原爆の閃光を見ました。机の陰に伏せてから衝撃を感じるまでしばらく時間があったことを記憶しています。この地点に衝撃波が来たのは爆発から9.1秒後のことでした。衝撃波は気象台の窓を破り壁一面にガラスが突き刺さりました。広島上空の火球は爆発から10秒後には光を失い徐々に形を変えてゆきます。熱せられた地表の上に上昇気流が発生し巨大なきのこ雲が形作られました。3分後の映像です(米軍機エノラ・ゲイから撮影したきのこ雲の映像)。人々が立ち昇るきのこ雲を見た時、広島の町は壊滅していました。部屋の中が爆風でガラスを巻き上げて舞上がっていた... 頑丈なビルの中に居た人達でさえ衝撃波が作り出した渦 [洪水] で命を奪われました。」(日本放送協会『NHKスペシャル 原爆投下・10秒の衝撃』NHK総合テレビ, 199886日放送); 「映画監督蔵原惟繕氏の目撃談:(郷原で原爆雲を見た後) 復員列車に乗って広島に着いた時、地球のハラワタを掘り返したような、赤茶けた、なんにもない、無言の世界が、石炭列車の上から拡がったショックは、未だに鮮明に私の記憶の中から蘇ります。広島の山の、山あいの枯れ木だけがですね、非常に印象に残っています。ほとんどガレキと化した街が音も無く眼前に拡がっている風景を私はただ茫然と眺めていた記憶があります。」(日本放送協会『ドラマ ヒロシマHiroshima原爆投下までの4か月 第一部』総合テレビ, 1996年8月6日放送 )。

実際、ノストラダムスの『預言集』の中で、deluge(洪水)という用語は都合10回出てくるが、そのすべてが本義ではなくて、比喩的に「大洪水に依る如き戦災、革命、内戦、大量出版、本詩の場合の大爆風」等の意味で用いられている; 「人的被害では屋内と屋外とで差がある。屋外ではまともに衝撃波を受ける。人体が吹き飛ばされる[人々が手を取り掛けられる個所も地面もない] 以外にも、粉砕され弾丸のように飛ぶガラス片が突き刺さり、致命傷となった。屋外であっても、建造物の陰では被害は減じられた。屋内では、木造と鉄筋コンクリートで大きい差となった。木造家屋は衝撃波で倒壊した。その下敷きになって、逃げ出せない人たちは、間もなく火災で焼かれてしまった。北北西1.5キロメートルの逓信病院の職員によれば、閃光を感じ、外を指差したとたんに、1メートル離れた暗室へ吹き飛ばされた。ほぼ全員がガラスの破片で負傷した。室内の南側の者たちは火傷を負った。」(高田純『核爆発災害 そのとき何が起こるのか』中央公論新社、東京、2007, p.32-33)。

波浪がオリンピアのフィエーゾレを登って行く」:」:「Fesulan Olympique オリンピアのフィエーゾレ」についてのイオネスク解釈は、文法を無視してFesulanという名詞形を形容詞的現在分詞と誤認してOndeという名詞に懸け、その上その分詞に余りに恣意的な語形操作を施して多面的な意味を込め、更にOlympiqueという形容詞を今度はオリンポス山という名詞と同一と捉えるという無理筋を通して、結局核心点が摑めていない (Ionescu, id.; 1987, p.377-380)Fesulan はイオネスクが退けた「従来の多くの論者の説たるフィエーゾレ Fiésole (ラテン名 Faesulae) というイアタリアのフィレンツェ近郊の町」であり、VII-8詩にも同じFesulan という形でフィレンツェ及びトスカナ地方の代表として登場する。他方、Olympique は従来誰も思い至らなかったが、「オリンポス山」ではなくて、「ギリシアのオリンピック発祥の地として有名なオリンピアという町に関する」という意味である。実際、「オリンポス山 Olympe」の形容詞形は olympien であるのに対して、「オリンピアの町 Olympie」の形容詞形はolympique である。そこで、「Fesulan Olympique オリンピアのフィエーゾレ」とは、フィエーゾレでもなくオリンピアでもない第三の町を指すだろう。それが「広島」なのだ。

事実、「広島」「フィエーゾレ」「オリンピア」3者に共通するのは「川が流れていて周囲の山々が比較的低層な地形に立地する町」という点である。これは「ヒエロン」が、ギリシア世界で「聖所」という名の山や岬や岡を指したのと類比的に、三都市には「何か共通のものがある」というヒントとなっているのである。

オリンピアはアルフェイオス川のほとりにあり、ちょっとした高台に建つに過ぎず、その川の氾濫の為に埋没し、長い間忘れられていた :「オリュンピア Olympia: ... 競技はヘレニズム、ローマ時代にも続いたが、次第に宗教と民族の純粋性を失って衰微し、394年のテオドシウス帝の禁止令によって終りを告げた。以来、オリュンピアは度重なる地震や洪水、山崩れなどの為に破壊され、数mの土砂の下に埋まって、人々の記憶から全く消え去った。オリュンピアの最初の大規模な発掘は1875-81年、E. クルティウスの指揮するドイツ考古学者達によって行われ、ゼウス神殿とその装飾彫刻、ヘラ神殿、評議会場... 体育練習場... 柱廊、走路約192mのスタディオン...などが出土した。(松島道也)」(EH, II, p.1180)

フィエーゾレはアルノ川の要の町フィレンツェからは東北に距離7-8キロの、フィレンツェ比高数百メートルの丘に建てられて、周囲の山々は標高1000m以下である。この町は古代からエトルリアの代表的な町の一つで、ゴート人に占拠され、その後シャルルマーニュ支配下に入って、ローマ人の町フィレンツェの方が一時フィエーゾレの付属街のように扱われた後、今度はフィレンツェが重要視されて発展し、フィエーゾレの富裕層もそこに移住した為、フィエーゾレは廃れ、山賊の巣窟と化してしまった。その結果安全を確保するべくフィレンツェによってフィエーゾレは誇らしかった城塞を徹底的に破壊され一時廃墟となり、その後キリスト教会を中心にキリスト教文明都市が再建される事になって行く(cf. Rosso, 1846, p.xxiii-xxv)

そして広島の町も太田川を擁し、直接の周囲の山々はやはり1000mに届かない。そこでもう少し詳しく検討すると、「広島の町の中心部は太田川の広大な三角州(デルタ)の上に発達した町としては川のほとりに開けたオリンピアの町に類似し、その周囲の低層山地はフィエーゾレに似ている。」結局、「オリンピア」が提示されたのは、それが「洪水等で埋没した履歴を持つ」故であり、フィエーゾレも矢張り「一度徹底的に破壊された事がある」からである。その事が「原爆による広島の町の徹底的破壊」の伏線となっている。事実、被爆後の広島の一面の茫漠たる焼け野が原の光景は、かつて数mの土砂に埋もれていたほぼ平坦な地形のオリンピアの情景に瓜二つであるだろう。なお、フィエーゾレはローマ時代に円形劇場や神殿等のギリシア的建築を多数擁していたので、オリンピアとの表面的相性は良い。そこで、結局、広島の爆心地を中心に半径2-3kmに及ぶ瓦礫と化した荒涼たる広がり(cf. Ham, 2013, Chart between pp.480481: Hiroshima Atomic Bomb Damage)が「埋没都市オリンピア」によって表象されており、その上で、それを取り巻く東・北・西の三方を囲む低層山地(但し、爆心地から 3.7km 南の市街地に江波山、同 2km 東南に比治山がある)が「フィエーゾレ」によって象徴されていることが分かる。実は、市街地周縁部の多くの生存者は、強力爆弾の更なる爆撃を恐れて、これら周囲の山々に大挙して避難したので、その様子を慧眼のノストラダムスは、「波浪がオリンピアのフィエーゾレを登って行く」と表現したのである。実際、テキストの「onde波浪」という用語 (ヴァリアント unde を含む) は、ノストラダムスの『預言集』の中で都合13回出現しているが、そのうち6回は「水」を本質とする本義に沿う「海、川、筆記用インキ」等を表し(I-2, I-63, II-86, V-27, V-95 & VI-79)、それより多くの7回(III-6, IV-77, V-31, VI-5, VII-36, VIII-16 & IX-33)は比喩的に、「多数の人々、又は事物」という核心をもった「何か革命的・大変動的動き・新思潮」を意味している。本誌の場合は、極めて特異的ではあるが、「前代未聞の大災難を逃れ行く被災大衆」といった意味合いで使われている。

「ヒロシマ―194586by Father John A. Siemes, 東京カトリック大学近代哲学教授 86日は明るく晴れた夏の朝に始まった。私は、長束 [現広島市安佐南区長束西] のイエズス会修練院の自室に腰かけていた。過去半年間、私達の大学の哲学・神学部門は東京からこの地に疎開していた。この修練院は広島から凡そ2km の位置にあり、海面水準の市街地からこの山がちの後背地へと延びる川の流れる広い谷筋を上った中途になっている。私の部屋の窓からは、その谷が市街地辺縁まで下っている素晴らしい光景が見られる。突如―時刻は大体814分である―谷全体が、写真で使われるマグネシウム光線に似たギラギラした光で満たされ、そして私は熱線を感じた。私は窓辺へ跳んで行き、この著しい現象の原因を探そうとしたが、私にはあの輝かしい黄色の光しか見えなかった。….. 谷の下方で、我々から多分1km ほど町の方へ下りた辺りで、数軒の農家が炎上し、谷の向かい側の斜面の森も火が着いていた。….. 爆発のおよそ30分後になると、人々の行列が市街地から谷を続々と上り始めた。群衆は絶えず厚みを増していった。数人が道路を上って我々の家にやって来た。我々は彼等に応急処置を施して、礼拝堂に連れて行った。益々多くの負傷者達が我々の所に来た。軽傷者達が重傷者達を引いて来た。負傷兵等や、火傷した子等を腕に抱えた母親等が居た。谷筋の農夫等の家々から聞こえるのは、『自分等の家は負傷者達と瀕死の人達で一杯です。助力を下さい、せめて一番ひどい傷の人達をお願い出来ませんか?』負傷者等は市街の辺縁の地区から来ている。彼等は強い光を見た、彼等の家は倒壊した、そして部屋の中にいた居住者達を埋めたのである。多数の火事が起きて、区域一帯を燃やし尽くした。…. 正午頃、我々の広い礼拝堂と図書館は重傷者達で満員になった。市街地からの避難者達の行列は続いていた。」(Brown and Mac Donald, 1977, p.540-542; 「市の中心から約3マイル [4.8km] の、長束にあるイエズス会修練院」(Hersey, 1986, p.53;「彼女 [Tomiko Nakamura, 13] は鶴見橋に着いた。そこでは大人達が川の中へ飛び込んで行っているのだった。彼女は 黒くて赤い顔をした人々を遣り過ごした。私はその人達が男か女か見分けがつかなかった彼女は比治山に上ろうとしたが地面は負傷者達で覆われていた。文字通り、足を踏み入れる場所も無かった。 幾人かは自分達の内臓を手で保持し、ぞっとしたような奇異の目でそれらを見つめているのだった。」(Ham, 2013, p.363;「目撃者達が記憶するように、市中から縦列を成して脱出して行く徒歩の負傷者達は沈黙した長蛇の列になって、各自が互いにその火傷を擦り合せないように注意深く進んで行った。…… 周囲の丘や山の上から逃避者達は クラゲ雲を振り返り見た。それは東へ西へと張り出しながら、赤、紫、青、緑の 絶えず変化する色合いの光を発していた。その頭部は あたかも襲い掛かる直前のように市街地の上に巨大な姿を見せていた。」(Ham, id., p.369-371; 「江波の山々から、比治山から、生存者達は核時代の最初の夜、眼下を見下ろした;広島盆地は活火山の噴火口のように、市街の衰え行く残り火を抱えていた。空には、きのこ雲の主幹が生き永らえていたが、その頭部は発散してしまっている事に若い Iwao Nakanishiは気付いた。彼は、嬉しい事に自分の家族と再会して、山上へ向ったのだった。」(Ham, id., p.375)。

従って、「波浪がオリンピアのフィエーゾレを登って行く」というのは、イオネスクや竹本 (Takemoto, 2011, p.724, p.726) 等が解説しているような「オリンポス山のような高みにまで原爆きのこ雲が垂直に上昇する」という衆人熟知の光景を描写しているのではない。実際、柱と傘から成るキノコ雲が高く昇り上がるのは一定時間経過後であり、その時その下では既に秒足らずないし数秒数十秒単位といった効果の素早い放射線・熱線・爆風による原爆の人的・物的破壊が大部分終ってしまっているのである。この最後の行は、辛くも生存を得た大都市の多数の被災者達の燃え盛る大火災の中での逃避行という核爆撃当日の終わりの段階を描いている。
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§870 広島に原爆、敗戦、東京裁判

世界史の中の日本11

§870
広島に原爆、敗戦、東京裁判 (1945.8.6-1948.12.23): II-70.

本詩は日本の原子爆弾被爆、その直後の敗戦、及びそれに伴う連合国による戦犯追放・処刑を預言している。


II-70 (§870): 広島に原爆、敗戦、東京裁判
(1945.8.6-1948.12.23)

天からの投槍がその拡がりを作るだろう、

会話中の死屍累々:大規模な死刑執行。
その石はその木に変じ、猛き人々は降参、
野蛮な怪物的人間の追放と贖罪。

Atomic bombardment on Japan; Purge & expiation of the accused (1945.8.6-1948.12.23): II-70 (§870).

The dart from the sky shall make its extent,
Deaths in speaking: a grand execution.
The stone to the tree, the fierce people surrendered,
Purge & expiation of the brutal, human monster
.

( Le dard du ciel fera son extendue
Mors en parlant: grande execution.
La pierre en l’arbre, la fiere gent rendue,
Brut, humain monstre, purge expiation.)

天からの投槍」:「投槍」は通常、地上の戦士が手で投擲するから、放物線を描いたとしても基本的には水平運動に収まり、「端的な天からの方向性」は無い。従ってこれは「上空から射出された特殊な投槍」であって、あたかも「米軍機上から広島の町へ投下された細長い形をした原子爆弾リトル・ボーイ」を思わせる :「映画監督蔵原惟繕氏の目撃談:51年前の8月6日私は賀茂郡の郷原という海軍の陸戦の演習場に居ました。木陰で一息入れていた時に、広島の上空に今日のように真青に晴れた日でしたけれども、B29が一機旋回していました。私は気象観測の飛行機だと思ってしばらく見ていたんですけれども、落下傘が降りて来まして、その落下傘をずーっと追っていたら、広島の丁度山の陰に隠れた時に稲妻の数百倍の、紫色だったという記憶があるんですけれども、閃光の中でしばらく目が見えなくなりました。それからどの位経ちましたか、目が見え始めた時にはあの原子雲が湧き起って広島の空を覆って行くのを茫然と眺めておりました。」(日本放送協会『ドラマ ヒロシマHiroshima原爆投下までの4か月 第一部』総合テレビ, 1996年8月6日放送 )。

この目撃談では、「落下傘」に最初に気付いているが、そもそも原子爆弾は高空から直下の攻撃目標に出来るだけ逸れないで命中するようにテイルフィン (tail fin) を持っていたから、それには落下傘は付いていなかった。落下傘が付いていたら気まぐれな気流に乗って恐ろしい爆弾がどこへ漂流して行くか保証の限りではない(故に、パラシュートによる広島原子爆弾投下を説くGround Zero Fund, Inc.著、高橋正訳『核戦争』サイマル出版会, 1982, p.112 [原著Nuclear War, Pocket Books, New York, 1982, p.92]の記述は誤り)。この落下傘はエノラ・ゲイ号に随伴飛行していた「爆発効果観測任務機グレート・アーティスト号」(cf. Kelly, 2007, p.329) から投下された観測機器を担った落下傘であったに違いない:「広島の人の中には、エノラ・ゲイ号から落ちて来るリトル・ボーイを自分は見たと信じている者もいるし、他の者達は、グレート・アーティスト号からパラシュートで落とされた観測機器を眼にしていた。」(Ham, 2013, p.357 )。

実際、原子爆弾リトル・ボーイは、31,600 フィート(約9,630m)上空の機体から8月6日午前81517秒に放たれて、その43秒後に爆発した(Kelly, 2007, p.329)。即ち、実際の爆発時刻は816分であったが、いま、自由落下の計算式からこの43秒間の落下距離を算出すると、およそ9,060mとなり、従って爆心は地上高度約570mとなる。但し、実際の自由落下は空気抵抗により若干減速を受けるから、この高度はもう少し増す。なお、事前の計画上の爆発高度は、近接信管 (proximity fuze) により、およそ564mに設定されていた(Rotter, 2008, p.192)。他方、最近の日米合同調査で明らかにされた最新の信頼できる値としての爆心は地上600mである(Radiation Effects Research Foundation [放射線影響研究所], as of Jan. 2020, DS02)。従って、空気抵抗は爆発高度を600-570 = 30m だけ増加したと見られる。因みにこの場合の空気抵抗係数は、0.0058kg/m程度である(CASIO COMPUTER CO., LTD., “keisan”, 空気抵抵抗を有する自由落下(時間から計算)[https://www.keisan.casio.jp/exec/system/1164007737] による計算結果)。

故に、この43秒間のリトル・ボーイの落下の様子を現実に伝える目撃記録は無いに等しいとしても**、その間、直径71cm、長さ305cm、重さ4.4tのウラニウム原子爆弾「リトル・ボーイ」は丸で「投槍のように突き刺さるように落下して行った」様子が、預言者の驚異の詩作と共鳴し合って、ありありと想像出来る***。なお、その3日後長崎に投下されたプルトニウム原爆「ファットマン」は直径152cm、長さ325cmc、重さ4.65tと、その名の通りの姿で、「投槍」には似ていなかった(cf. Kelly, 2007, p.406)。実際、「ファットマン」は中心に置かれた球形のプルトニウム塊を周囲から爆縮により高密度にして超臨界にさせる構造上、球形に近い形になったのに対して、「リトル・ボーイ」は二つのウラニウム塊を細長の砲身の両端に置いて、一方を他方に嵌め込むことで超臨界にする構造上、細長い形となった。従って本詩は完全に、広島を襲ったウラニウム原子爆弾「リトル・ボーイ」を扱ったものである。

**
「寺前妙子さん(爆心地から東南540mの広島中央電話局内部で動員学徒として勤務中に被爆)の目撃証言:私は女学校3年生の時、ちょうど15歳になった時、原爆に遭いました。雲一つない真っ青な空に、何か、キラッと光るものを、眼にしました。一体何だろうかと思って見上げていると、グングン光が大きくなると同時に、その物も大きくなって、そして友達に、あれは??と問いかけた時に、ピカーッと、本当に写真を撮るあのフラッシュのような、それ以上の大きな、キラッと光るものが目の前で炸裂致しました。辺りはガラガラガラガラ、建物の崩れる音がし出して、それと同時に、お母さん痛いよ、助けて、お母さん、という声があちこちから致しました。私は何かの下敷きになったようで、なかなか思うように動けなくなりました。でも一体どうしたんだろうか、夢でも見ているんではなかろうかと、一生懸命体を動かしながら、自分の体を抓ったり、叩いてみると、痛い!! ああこれは夢ではない、だったら電話局に爆弾が落ちたんだと思いました。、、、」(広島被爆者証言ビデオ: https://www.youtube.com/watch?v=r_s00tyDIgY&t=84s as of Jan. 2020)。「キラッと光る物」という目撃者の知覚は、「原爆リトルボーイ先端部の丸味を持つ鉄製金属部分が凸面鏡のように朝の強い太陽光線を反射したもの」と思われる。鉄自体は黒色でも、太陽光を反射した場合は、その眩しい光が目に入って来るのは我々の日常経験からも首肯できる。また、午前8時過ぎの広島市の太陽高度は東方34度、目撃地点は爆心地から東南540mであれば、原爆炸裂前10秒前後、即ち原爆投下後約33秒(高度約4300m)から、炸裂時点(高度600m)まで、太陽光の反射が見えることに矛盾はない。

***
次のような記事が時事通信社時事ドットコムのarchive.today に掲載された。【ニューヨーク時事】広島に原爆を投下した米軍B29爆撃機「エノラ・ゲイ」の副操縦士だった故ロバート・ルイス氏が出撃前に描いた「爆撃計画図」が29日、ニューヨークで競売商ボナムズのオークションに付され、3万7500ドル(約450万円)で落札された。落札者は非公開。計画図は縦41センチ横56センチの方眼紙に、鉛筆と色ペンで手書きされている。約9100メートルの高度から目標の約3.2キロ手前で原爆を投下し、旋回離脱する手順を記載。爆発による衝撃波の範囲も記されている。ボナムズによると、ルイス氏は爆撃3日前の1945年8月3日に北マリアナ諸島テニアン島で最終作戦会議に出た後、図を描いたとみられる。息子のスティーブンさんが、ルイス氏から譲り受けて保管。同氏の手記が近く出版されるのを機に競売に出した。(2015/04/30-10:21[https://archive.is/20150619144756/http://www.jiji.com/jc/zc?k=201504/2015043000224] 。これに依れば、爆弾は実際の機体高度9630mから離脱し、爆発までの43秒間の間に3.2km程度水平移動したから、この実際の落下は垂直に近い緩徐な放物線である。現実の投げ槍も水平移動が主とはいえ、自由落下を合成して、矢張り放物線を描くことになる。

その拡がりを作る」:これは原爆が炸裂して火の玉となり、それが急速に膨張拡大して行き、最後地上で衝撃波が拡がって行き破壊の限りを尽くす同心円球的プロセスを最少の言葉で描写している :「炸裂前の100万分の1秒までに原爆内部の温度は250万度に上昇しています。100万分の1秒後原爆が炸裂、火球が出現します。周辺では放射線が空気とぶつかり青白く発光します。100万分の15秒後温度は40万度、太陽表面温度の70倍近い高温です。直径は20mになります。0.2秒後火球は直径310mに膨張します。最も大きく明るく見える瞬間です。この時から地上での熱線の影響が出始めます。火球の恐ろしさは、熱線と衝撃波です。」(日本放送協会『NHKスペシャル 原爆投下・10秒の衝撃』総合テレビ, 199886日放送)

会話中の死屍累々」:これは戦時中とは言え、それなりに継続していた広島市民の日常的生活風景(会話中)が、全く突然、死と化した、原爆被災の急激性と猛烈性を意味する:「広島で被爆した斎藤敏祐氏の話:表の方に出て、電車が3両くらい、瓦礫のようになった電車が止まっているから、見に行ったら、座った人は座ったままバーベキューにされているし、立った人は吊皮を持ったまま死んでいる、ズラーッと、丸で生きている人間が立っているんだと思ったらそれは全部死んでいました。」(日本放送協会『ドラマ ヒロシマHiroshima原爆投下までの4か月 第四部』総合テレビ, 1996年8月8日放送 )。

大規模な死刑執行」:これは、太平洋日米戦争において、一方の当事国たる日本の10余万人規模の広島市民が、一瞬時に、他方の当事国たる米国の敵性攻撃による原爆で殺害された事態の深刻な表現である。

その石はその木に変じ」:これは「原爆ドーム [広島平和記念館] として広島原爆被災の象徴的遺構」となった「爆心地直近の広島県産業奨励館のドームの屋根が破砕されて鉄骨が剥き出しになって樹木の枝のように絡まっている様子」であろう。即ち、いずれも定冠詞が付いた「その石 (la pierre, the stone)」とは「鉄骨煉瓦・石作り(一部コンクリート)の3階建ビルディングとしての広島県産業奨励館の被爆前の姿」であり、「その木 ( l’arbre, the tree)」とは「ドームの銅板屋根が破砕(強い熱線で熔融)されて鉄骨が剥き出しになって樹木の枝のように絡まっている様子が印象的な被爆後の姿」****であって、A en B (A to B) という用法において「AからBへの変化・変形・推移を意味する前置詞en (to) が、ここでは「その石からその木への変化・変形・推移」を表しているのである。そして又、この句は同時に、これを象徴として、上記の人的な大被災(大規模な死刑執行)とは別に、建物・施設等の「広島の繁華な街並み全体が瞬時に灰燼に帰したという物的な大被害」をも表している。

****「火球が発した熱線と衝撃波が建物をどう破壊したのか、科学者達は原爆ドームを詳しく調べることにしました。科学者達が先ず着目したのは屋根の材質でした。調査の中心はアメリカのセオドア・クラウトハマー博士(ペンシルヴァニア大学教授)、核爆発による構造物の破壊現象を研究しています。そして東京工業大学の和田章教授、耐震建築の専門家です。住民達の復元調査から、建物の円屋根は緑青を噴いた銅板で覆われていたことが分かりました。 « ここには強い熱線が瞬時にやって来ます。温度はおよそ摂氏1,900度から2,200度以上にもなり、当然ながらこのような高温のもとでは銅は固体の状態を保つことが出来ず熔け出してしまいます »(クラウトハマー教授)。 瓦礫の中からは薄い石の板、スレートの破片が幾つも見つかりました。スレートは円屋根以外の屋根の部分を覆っていました。銅とスレート、二つの材質の違いが今のドームの姿を決めたのだと科学者達は仮説を立てました。世界最大級のレーザー装置(近畿高エネルギー加工技術研究所)を使って検証します。原爆と同じ熱量を瞬時に与えることが出来ます。実験を監修するのは大阪大学の松縄朗教授、レーザーを使った熔接の研究をしています。当時使われていたものと同じ天然のスレートです。原爆の熱線を再現して影響を見ます。レーザーの出力を徐々に上げてゆきます。1cm2当り83カロリー、ドームを襲った熱線の熱量です。炎のように見えるのはスレートが蒸発したものです。スレートの表面は泡立ったようになりました。しかし影響は表面だけでスレートそのものは形を留めました。次に銅板です。当時の屋根とほぼ同じ0.3mmの厚さです。表面に緑青の有るものを用います。銅板は一瞬にして熔け、穴が開きました。銅が熔けるまでに要した時間は0.04秒。温度は摂氏1,100度以上に達しています。これと同じ現象がドームで起きていたと考えられます。原爆の爆発から0.2秒後、熱線が円屋根の銅を熔かします。スレート屋根の部分は熱に耐え、この時まだ残っています。続いて建物を衝撃波が襲いました。爆発から0.8秒後のことです。銅よりも強い鉄の骨組みは残ります。残った鉄の骨組みを衝撃波がすり抜け、真下の階段を直撃します。一方、熱線に耐えたスレート屋根は衝撃波をまともに受けてしまいました。建物の大部分はこうしてほぼ垂直に崩れたのです。銅の屋根が熔け建物が崩れ落ちるまで爆発からわずか一秒間の出来事でした。」(NHK, NHKスペシャル 原爆投下・10秒の衝撃 [原爆炸裂の瞬間を秒刻みで再現]NHK総合TV, 199886日放送)。

Rendue: = [La fiere gent] se sera rendue (rendre for se rendre, to surrender), Nostradamus often omitting the personal pronoun of a pronominal verb: porter for se porter (VIII-45, IX-18), joindre for se joindre (IV-90), prosterner for se prosterner (VIII-45, IX-18), estaindre for s’estaindre (IV-82), etc.

猛き人々は降参」:「猛き人々」という云い方は「戦士・兵士・軍人・軍隊」を主として指すノストラダムス用語になっている (cf. II-79: 16世紀フランス・スペイン戦争における仏軍; IX-69: フランス革命時の革命軍) から、この場合は「無条件降伏した日本軍」と解するのが最適だろう。

Brut: « brut adj. Brute, natural, rough, raw, unrefined.» (Dubois).

野蛮な怪物的人間の粛清と贖罪」:これは戦勝者・連合国が設定した「極東軍事裁判所」による敗戦者・日本の戦犯と称された人々の追放と処刑を意味する。「野蛮な怪物的人間」という表現は、ノストラダムスがあたかも「ポツダム宣言」から直接引用して来たような印象を受ける:「無分別なる打算により日本帝国を滅亡の淵に陥れたる我儘なる軍国主義的助言者」(ポツダム宣言第4項)。「日本国国民を欺瞞し之をして世界征服の挙に出づるの過誤を犯さしめたる者」(ポツダム宣言第6項)。

戦犯 戦争犯罪人 war criminal の略。第2次世界大戦後、連合国の軍事裁判で戦争犯罪について訴追、処罰された者。[A級戦犯]1943年10月、米英ソ3国首脳は<モスクワ宣言>を発し、従来の戦時国際法が示す<通例の戦争犯罪>に加え、犯罪に特定の地理的制限を持たない<主要犯罪人>については連合国間の共同決定によって処罰する事を規定した。1945年8月のロンドン協定に付属した国際軍事裁判所条例は、<通例の戦争犯罪>B)に加え、侵略戦争の計画、開始、遂行等を犯罪とする<平和に対する罪>A)、戦前又は戦時中に為された殺害、虐待などの非人道的行為を犯罪とする<人道に対する罪>C)を新たに国際法上の犯罪と規定した。この条例によりニュルンベルク裁判が開かれてドイツの戦争指導者が訴追されると共に、同条例に準拠してマッカーサーが極東国際軍事裁判所条例を公布して、日本の戦争指導者を裁く<東京裁判>が開廷される。(粟屋憲太郎)」(EH, VIII, p.818)。「 [BC級戦犯] ニュルンベルクと東京に設置された国際軍事裁判所で裁かれたいわゆるA級戦犯に対し、先述のB, Cの事由により各国別の軍事裁判所で裁かれた人々がいわゆるB, C級戦犯である。日本に関するB, C級戦犯に対する裁判は、アメリカ、オーストラリア、オランダ、イギリス、中華民国、フィリピン、フランスの7ヵ国毎に行われた。B, C級戦犯5163名の内、927名が死刑を宣告された。(作田啓一)」(EH, VIII, p.818)

東京裁判 正式の名称は極東国際軍事裁判 International Military Tribunal for the Far East。日本の戦前・戦中の指導者28名の被告を<主要戦争犯罪人>A級戦犯として、彼等の戦争犯罪を審理した国際軍事裁判。日本敗戦後、連合国最高司令官 (SCAP) のマッカーサーは、アメリカ本国の司令を受けて、対日占領政策の第一弾として、日本の戦犯容疑者の逮捕を行い、1945年9月11日の東條英機らの逮捕令を皮切りに、12月6日まで100名を超える日本の戦争指導者を逮捕・拘禁した。アメリカは日本の敗戦直後から、既に準備が為されていたニュルンベルク裁判の経験から、日本の裁判もドイツの場合に準拠する事が望ましいが、裁判所の設置と施行規則、戦争犯罪概念の規定は、連合国間の協定によるよりは、SCAP のマッカーサーが決定すべきだとの方針を固めていた。これに対し連合国、特にオーストラリア、ソ連は強く反発したが、アメリカは戦犯容疑者の逮捕など既成事実を積み重ね、結局、日本占領におけるアメリカの圧倒的優位性からもその意図は基本的に貫徹された。1945年12月6日に来日したキーナン Joseph Berry Keenan 首席検事をキャップとするGHQ の国際検察局 (IPS) のメンバーによって準備され、IPS が起草した極東国際軍事裁判所憲章 (条例)が1946年1月19日、マッカーサーによって布告されて、東京裁判の基本的枠組みが設定された。裁判はアメリカの占領政策の一環という色彩を強めた。取り分け唯一人のアメリカ人の首席検察官の指令に基づく統一的検察団の設置は、アメリカがオーストラリアの反対を押し切って、天皇の不訴追を決定する際に強力な武器となった。(粟屋憲太郎)」(EH, X, p.553)。「25人の被告(28被告の内3人が病死などで欠けた)に対する判決が読み上げられたのは、昭和23年11月12日。ウェッブ裁判長の言い渡した判決は、25人全員が有罪。そのうち絞首刑を宣告された7人は、文官で元首相の広田弘毅を除いて全員が陸軍軍人という意外な内容だった。」(『日録20世紀 1946 昭和21年』講談社、東京、1997, p.3)「東條らに絞首刑(11月12日)極東軍事裁判の東京法廷は、A級戦犯25人のうち東條英機ら7人に絞首刑、18人に、終身・禁固刑の判決を下し、12月23日に執行した。」(『日録20世紀 1948 昭和23年』講談社、東京、1997, p.34)。

占領期日本の公職追放 第2次大戦後、占領政策の一環として連合国が日本で行なった。ポツダム宣言第6項<日本国国民を欺瞞し之をして世界征服の挙に出づるの過誤を犯さしめたる者の権力及び勢力は永久に除去せられざるべからず>が追放政策の根拠とされた。1948年5月現在で約20万名が追放処分を受けている。(高橋彦博)」(EH, V, p.439)

検証:本詩については、ユタン (Hutin, 1972, p.153) がこれを「レーザー光を用いた恐怖の航空兵器」と推測した後、 ハレー(Halley, 1999, p.176)が正解の基礎を示した:「1945年8月6日。広島。アメリカ兵等の投下した原子爆弾が129,558人の人々を殺害し、広島の建物の68%を全壊した。その上に24%の建物が損傷した。」但しその後の説明は首肯できない:「木の中の石とは、町を呑込んだきのこ雲の形を描写するものであって、何か大地に生来的に縛られた或る物(爆弾)が期せずして空の上から降って来るというパラドクシカルなイメージを、少なくともノストラダムスの同時代人達に説明する効果的な方法である。」この説明だと、「きのこ雲が最初に出来て、その中から破壊力のある爆弾(石)が落ちて来る」という過程が前提される事になると思われるが、それは事実とは逆のプロセスになってしまうし、彼も既に冒頭の句を「the heavenly dart 天の投槍」と訳し、それをこそ「原子爆弾」と見ているのである以上、その上さらに原爆を「石」と表現する必要性は全くない筈なのだ。又、ノストラダムスは常に自分の同時代人を読者に想定していた訳でもない。むしろ逆に「後世の人々が出来事の起った後に預言詩を理解するようになるだろう」 (№1, p.44)) と言っている。ハレーは「建物の損壊」について語った以上、「the tree」を「原爆ドーム」のイメージに重ねるチャンスは多分にあったのだが。

他方、イオネスク(及び竹本)はこの詩を「ナポレオンのワーテルロー敗北」に関連付けている。しかし彼等は各行毎にテキストの粗雑な読みに頼っており、その誤った基礎と土台の上に、膨大な論証の試みを展開する (Ionescu, 1976, p.336-342) (Takemoto, 2011, p.475-499) が、基礎と土台が歪み、齟齬を来たしている以上、その上部の論はどんなに精細に見えても空中楼閣と異なる所が無い。

先ず第一に、イオネスクは「天の投槍」という初句を「雷 foudre, thunder」と解すが、これは「表現の論理」から見て常軌を逸した理解方法である。何故なら、実際に「雷」を意味させる場合、比喩的に「天の投槍」という句を使うのは文学的に自然であるが、しかしノストラダムスの『預言集』では「雷」という語が用いられても、それはそれ自体が「比喩として他の何かを意味する」用例となっているから、それに対してもう一つ別の「天の投槍」という句を持ってくれば、それは結局「二重比喩に陥る」事になるが、これは最も一般的な文学表現の世界では「市民権を持たない奇策」として排除されていると思われる。それが通用するのは、「単なる遊戯としての言語パズル」の世界のみであり、ノストラダムスの預言詩が晦渋化表現に満ちていると言っても、そのような「奇策」を許容している訳ではない。このような場合は端的に「雷 foudre」という語を用いるのがノストラダムスの流儀である。事実、この語は『預言集』で都合15回使用され、そのうち10回は「戦火、銃火、強軍、暗殺剣」を意味し、4回 (I-65, II-76, III-6, IV-54) はまさしく「ナポレオン・ボナパルトその人」を指し、残り1回 (II-51) は「火災」を表す。このようにノストラダムスの用例内でも意味が分れるのだから、本詩に「雷 foudre」の語を使っても十分に読者はその理解に知恵を絞らざるを得ないので、読者をそれなりに惑わせるというノストラダムスの意図は貫徹される。

むしろ、『預言集』に都合4回登場する「投槍 dard, dart」という語は、それ自体独自のノストラダムス用語と見るべきで、非常にプリミティヴに「武器」を意味する語であり、その中身は時代と状況に依る。本詩以外の3回は、「ナポレオン戦争時の武器」(I-20)、「第二次大戦時の武器」(II-59)、「1858年にナポレオン3世を襲った暗殺者の投擲弾」(VIII-43)となっている。従って、本詩の場合も「先ずそれは武器だ」と解するのが定石で、問題は「具体的にどのような武器か」という点に係るが、ここまで来れば、その解答は上に見られる如く比較的容易だ。何故なら「広島への原子爆弾」という稀有な武器をハレーに従って仮定すればたちどころに、詩の表現と現実との顕著な合致、即ち、「細長い形の原子爆弾リトル・ボーイ」に達してしまうからである。

第二に、イオネスクは「Mors en parlant, Deaths in speaking, 会話中の死」を「ナポレオンの近衛師団の古参擲弾兵師団長ピエール・カンブロンヌが連合国ウエリントン将軍の『擲弾兵よ、投降せよ! Grenadiers, rendez-vous !』という呼び掛けに対して、『近衛兵、死すとも、屈せず La garde meurt mais ne se rend pas !』」と答えて敵の砲撃に向かって散って行った、というワーテルロー戦の土壇場のフランス兵の死闘と解している。しかし、全く皮肉な事に、直後の3行目では「猛き人々は降参 la fiere gent rendue」と明確に「彼等(近衛兵を含む仏軍)は屈した」と預言者は結論づけているのだから、『近衛兵、死すとも、屈せず!』という言葉を「その言や良し」として賞讃するのは支離滅裂の解読に堕していると言わざるを得ない。しかも「Mors, deaths 死屍累々」は複数であるから、イオネスクの解に従うなら、カンブロンヌ以外の多数の兵も彼と同様の言葉を発しながら戦死したことになるが、その点を明確に証拠立てる記録は存在しない。

大体、カンブロンヌがこういう言葉を発したという事実についても異論がある。「フランス軍はパニックに陥った。19時45分の事であった。しかし、古参親衛隊だけは方陣を組んで踏み止まった。彼らは、至近距離から滅多撃ちにされた。イギリス軍は、この勇士達の最後の方陣に向かって投降を呼びかけた。その中には女性が一人だけ混じっていた。擲弾兵の妻で、兵士の母であった石頭のマリ Marie Tête-de-Boisである。第一猟兵連隊長のカンブロヌ将軍が、イギリス軍に向かって、『糞食らえ Merde』と叫んだ瞬間、敵に向かって引き金を引いたのは彼女であった。」(Bertaud, 1992, p.251; ベルト著、瓜生洋一他訳『ナポレオン年代記』日本評論社、東京, 2001, p.227) 「『近衛兵、死すとも、屈せず』というこの言葉は、カンブロンヌ自身は否認しており、この歴史的戦闘で戦死したミシェル将軍の息子達が彼等の父親の言葉だったと主張している。カンブロンヌは、兵士等の真ん中に倒れているのを発見されて捕虜になり、イギリスに連行された。」(Feller, cité Torné-Chavigny, 1861, p.245-246)

その上、そもそも「en parlant, in speaking 話をしながら」という言い回しは、切羽詰まった状況でカンブロンヌが言葉を発したと仮定した場合の表現(その場合むしろ彼は『叫んだ、絶叫した、答えを突き返した』のではないか)としては全く相応しくないし、「その言が良い悪い」という評価には関与しない言回しである。それに対して原爆被災直前時の広島市民の中には、「ごく普通のいろんな話をしている最中」の人達が大勢いたと想定するのは、上記「被爆電車内の乗客の全く日常的な姿態での死亡状態」に鑑み、全く自然である。

第三に、「La pierre en l’arbre, the stone to the tree」をイオネスクは「火打石の斧がボナパルト王朝という樹を打ち倒す」と解しているが、この句がこんな複雑な意味を蔵し得るだろうか。しかも、「en, to (or into)」という前置詞がこの場合「打ち倒す」といった意味機能を有し得るとは思われない。せいぜいそれは「石が樹に吸い込まれる」といったイメージだろう。この「pierre ピエール」がカンブロンヌのファーストネーム「ピエール」をも表す、というイオネスクの付帯的説明は、第一次的意味解釈が正しくない以上、何の効果も生じ得ない。もしそうなら彼等の主張とは正反対に、「ナポレオン麾下の兵士カンブロンヌがナポレオン王朝を打倒した」という逆説に陥るだろう。

最後に、「Brut, humain monstre, purge expiation」について、イオネスクは「Bruit humain monstre purge expiation」というテキストを採用し、それを「諸国民 (humain) の間でこんなにも毀誉褒貶の多かった (bruit) 奇跡的英雄 (monstrum) は自分の過誤を償うべく (purge expiation) セントヘレナへ送られるだろう」と解釈する。だが、「 POW 戦時捕虜 prisonnier de guerre, prisoner of war」として連合国によりセントヘレナに流されたナポレオン (cf. Bertaud, 1992, p.253; ベルト著、瓜生洋一他訳『ナポレオン年代記』p.230) は、そのまま朽ちるに任され、「最終的処遇は未決定」であったから、本詩が云う「purge 追放」と「expiation 償い」という二つの明確な概念は正確に言えば彼には妥当しない。有体に言えば彼は「未決囚」に過ぎないし、未決囚のまま死んだのである。他方、第二次大戦敗戦における日本の戦争指導者達の場合は、両概念が過不足なく妥当する。
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§871 原爆の惨禍; 敗戦; 東京裁判; 天皇免責

世界史の中の日本12

§871 原爆の惨禍; 敗戦; 東京裁判; 天皇免責 (1945.8.6-1948.12.23): II-92

本詩は日本の原子爆弾被爆、その直後の敗戦、占領下の東京裁判と天皇免責を預言している。

II-92詩(§871): 原爆の惨禍; 敗戦; 東京裁判; 天皇免責 (1945.8.6-1948.12.23)
黄金色の火が空から地上へと見られ:
高空から撃ち出され、驚異の事象を初めて産み、成就する:
人命の大量殺戮:皇孫は御大に押さえられ、
大芝居の数多の死、誇り高き人は免れむ。


Atomic bombing on Japan; Tokyo tribunal (1945.8.6-1948.12.23): II-92 (§871).
A fire of golden color seen from the sky down to the earth:
Struck from high above, generating and accomplishing a marvelous case:
A grand human murder: the nephew taken by the great,
The spectacular deaths which shall have escaped the proud person.


( Feu couleur d’or du ciel en terre veu:
Frappé du hault, nay, fait cas merveilleuz :
Grand meurtre humain: prins du grand le nepveu,
Morts d’expectacles eschappé l’orguilleux.)

黄金色の火が空から地上へと見られ」:「松本鞆子さんは爆心地から南に1.7キロ離れた山中高等女学校に居ました。その時丁度朝礼が終った所でした。松本さんは水飲場で水を飲み終わった途端、突然目の前に真っ黄色の激しい閃光を見ました。原爆の熱線を受けて松本さんのお下げ髪が燃え出しました。慌てて火を消そうと校庭の隅の池に向って走りました。シミュレーションによれば、衝撃波が来たのは爆発から3.5秒前後、最大圧力は1平方メートル当り3.3トンでした。『走ろうと思って飛び出して何mか走ったと思うんですけど、何か物凄い力が背中をワーッと、こう押されたような気がしましたら、体が宙に舞い上がってしまったんですね。ああいう経験は初めてなんですけど、舞い上がったと思ったら叩きつけられて、間もなくしたら校舎がガラガラッと崩れて来て、その下敷きになってしまったんですね。』」(日本放送協会『NHKスペシャル 原爆投下・10秒の衝撃』総合テレビ, 1998年8月6日放送)

原爆炸裂の閃光は時間経過の各段階で微妙にその色が変化する。大まかに言えば、最初は強いX線の影響で周囲の空気が染まる紫色 (i)、次いで太陽の表面より高温で白光に輝く段階 (ii)、そして火球が急速に膨張して温度が低下して黄色から橙色 (iii)、最後は火球が消えて「濛々たる灰色の上昇雲が地上の火事嵐の紅蓮と黒煙を交えて複雑に染まる (iv)。

(i) :「映画監督蔵原惟繕氏の目撃談:51年前の8月6日私は賀茂郡の郷原という海軍の陸戦の演習場に居ました。木陰で一息入れていた時に、広島の上空に今日のように真青に晴れた日でしたけれども、B29が一機旋回していました。私は気象観測の飛行機だと思ってしばらく見ていたんですけれども、落下傘が降りて来まして、その落下傘をずーっと追っていたら、広島の丁度山の陰に隠れた時に稲妻の数百倍の、紫色だったという記憶があるんですけれども、閃光の中でしばらく目が見えなくなりました。それからどの位経ちましたか、目が見え始めた時にはあの原子雲が湧き起って広島の空を覆って行くのを茫然と眺めておりました。」(日本放送協会『ドラマ ヒロシマHiroshima原爆投下までの4か月 第一部』総合テレビ, 1996年8月6日放送 )

(iii) :「ピカッと強烈に光った (ii) 物体が、満月位の大きさで透明なオレンジ色、その周りに輝く光の輪が次々と八つ程出来た。外側の輪が地上に接した瞬間、大きな火柱が立ち上る、それを中心に火災が拡がると見た瞬間光る物体は消え去った。そして爆発音が響き、熱風が襲っ来た。(山本稔「爆心地から東南東5.3キロ付近で目撃」『広島原爆戦災誌第三巻』所収)」(『日録20世紀1945』講談社, 1997, p.6-7)

(iv) :「1945年8月9日、私は長崎とは有明海を隔てた対岸の町で学徒動員の仕事に就いていた。午前11時過ぎ、眼底まで貫くような黄色とも白色とも紫色ともつかぬ強い光が飛び込んできた。飛び出して見回したが、光がどこから来たのか分からなかった。ほどなく「ドーン」という爆発音が腹に響いた。雲仙岳を突き抜けて原子雲が上へ上へと伸びていく姿が見えた。その色は見るからに毒々しいピンクに黒色や紫色を混ぜたような、生理的に嫌悪感を抱かせる色だった。(城 順一)」(『朝日新聞』2010年8月5日号投書欄)

高空から撃ち出され」:これは前節(§870) II-70詩の「天からの投槍」と同じ意味で、10000メートル上空の米軍爆撃機「エノラ・ゲイ」からの原子爆弾の投下を云う。この点は「やられることのない高みからうち落とされて」という中村恵一訳が正解だろう:「2行目は、原爆搭載機は3万フィート (約9150メートル) の上空を飛んで広島の上空に現われたわけだから、当時の日本軍の力ではこの飛行機を撃ち落とすことはできなかった、という意味を含んでいる」(Nakamura, 1983, p.53)。

驚異の事象を初めて産み、成就する:人命の大量殺戮」:人類最初の原子爆弾の実戦使用とその甚大な破壊力を意味するのは言うまでもない。「人命の大量殺戮」という表現は、前節の「大規模な死刑執行」という句と完全に重なる。

皇孫は御大に押さえられ」:「皇孫」の原語は単に「その甥 le nepveu, the nephew」であるが、この語は「狭義の甥」のみでなく、「子孫一般」をも意味する語であるから、いわゆる「天孫ニニギノミコト」が日本の天皇の祖であるという伝承に鑑み、そして「定冠詞 le, the, その」が付いている事と併せ、「特定の天皇」として、日本の敗戦時に在位していた「天皇裕仁」その人であると解される。そして、「御大 le grand, the great」という語は『預言集』の中で「君主、もしくは君主に準じ得る高位高官」を意味する場合が多いから、「日本占領時に日本の天皇をも従える最高統治者の権能を連合国から付与されていたマッカーサー連合国最高司令官 (SCAP: the Supreme Commander for the Allied Powers)」を指すと思われる。事実、天皇とSCAPの関係は、「天皇は最高司令官に従属する subject to 」(cf. 岸田英夫『天皇と侍従長』朝日新聞社, 1986年, p.94)とされていた。その基本的権力関係の中で、SCAP が発した諸命令に基づいて天皇の発する命令(勅令)が出され(ポツダム勅令)、又日本国憲法が施行されてからは日本政府の命令(ポツダム政令)の形で出されたが、このように日本占領の最高指導権者SCAPによる日本統治は、天皇又は日本政府を自己の従属的行政機関として介在させる間接統治であった。正しく、天皇は「御大によって押さえられていた」のである。Prendre (to take) という動詞には「握る、摑む、採用する、用いる、雇う、(協力者・配偶者などを)得る、奪う、捕える、襲う、(現場を)おさえる、(人を)うまく扱う、御する」(Suzuki)等々、実に多彩な意味があり得るが、本詩の場合は「その役職・機能を完全に支配下に捕捉してうまく用いる」といった意味が相応しく、要するに「押さえる」という言い方で間に合う用例である。

大芝居の数多の死」:これは「見世物的要素を含む多くの死」という事で、「東京裁判という国際的に耳目を集めた軍事裁判で日本の主要な戦争指導者達が裁かれ、最終判決において7人に対して絞首刑が下された」という事だろう。。

誇り高き人は免れむ」:これは、上記東京裁判では、天皇(昭和天皇裕仁)は不起訴の扱いとなって、裁かれる事が無く終ったという史実に対応する預言である。「誇り高き人」を天皇と解するのは、上に見たように「天皇は天照大神の孫に当るニニギノミコト」の直系の子孫で、大日本帝国憲法では「神聖性」を付与され、自らもそれに適う矜持の人であった、という事実に基づく。

検証本詩については、イオネスクが正しい解釈の先鞭を付けた (Ionescu, 1976, p.591-592) (cf. Takemoto, 1993, p.203; 2011, p.730-733) が、相変わらずテキストの細部の文法的、意味論的把握が粗雑に過ぎて、遺憾ながら完全な解答には達していない。一行目は特に問題は無いが、2行目を「その伝承によれば天の高みから産れた (du haut nay) 日本国民が全世界を驚嘆させる仕方で撃たれる (frappé) だろう」と訳している。その竹本訳は「高き生まれの民は斃れ 世界はこれに驚倒しよう」となっている。だが、frappé (struck) の主語として彼等が設定した「日本国民 (le peuple Nippon); 民」という語は詩の中に存在しない。テキストの忠実な読みが提示する主語は冒頭の「feu, fire 火」以外には無い。即ちそれは「火が高所から撃発される」という意味を構成する。1万mの高空を飛ぶ飛行機から,「存在し始めたばかりの (nay = né, having begun to exist 実戦で世界初の)、驚異的事象を成し終る (fait cas merveilleuz, having to accomplish a marvelous case)」火=原子爆弾が放出された事実を正確に預言している。

それから、3行目後半を彼等は「大太陽神の子孫たる日本人(le neveu du grand) は無条件降伏をするだろう (prinse); 「天孫」の民 敗れて」と訳した。しかし、この訳は、最終行の「天皇免責」という事柄と抱き合わせて見た時、重大な破綻に直面する。何故なら、「敗戦したが、その最高統治者は免責された」という単純事であれば、事実として、戦前と戦後の日本の統治体制には何らの変化・変更も無かった事になってしまうからであるが、他方、我々のやったように、「le grand」を天皇や日本国民から切り離して、逆に「戦勝者・占領者の代表 SCAPマッカーサー元帥」と看做すならば、戦後の統治体制における日本人の基本的自主権の剥奪という事実が明確に浮かび上がって来て、「その免責された天皇は実はSCAPが使用し得る最高の支配機構とされた」という全くパラドクシカルな歴史の現実が説明できるのである。

最後に、4行目についての彼等の読みは平板極まりない。何故なら、「大量殺戮は目を見張らせるものだろう。誇りある天皇は難を逃れて、退位させられることも無いだろう; 死屍累々のなか、矜持の人、虎口を脱す」と訳した場合、天皇が eschappé, escaped したものは何かと云えば「天皇自らは大量殺戮の数には含まれなかった」という事態、最も単純に言えば「天皇は命拾いをした」ということでしかなくなってしまうが、そもそも彼等が4行目初句のMorts d’expectacles, The spectacular deathsを3行目のGrand meurtre humain, A grand human murder の単なる繰り返しとしか見ない所に根本的錯誤がある。3行目の句は全く誤解の余地が無いほど明瞭な表現である。それを又どうして次の行で別の表現を以て反復する必要があるのか。しかも、注意深くあれば、スペクタクルという語義には何ほどかの「見世物的要素、パーフォーマンスの色調」が浸透していて、「大戦争における新型爆弾による人命の大殺戮」という厳粛性を帯びた悲劇的事態を表すには不適当であるとナイーヴな言語感覚は感じるのではないか。そういう点で、そして「天皇が免れた当のものとは何か」という課題の答えに相応しく、「世界に対する見せしめとしての意味合いを持っていなくは無かった東京裁判における日本の戦争指導者達の重い裁き」が答えとして出て来るのである。なるほど、竹本は一応、「虎口を脱す」とは「天皇が極東国際軍事法廷で起訴を免れた事」と説明しているが、その肝心の「極東国際軍事裁判」そのものを、ノストラダムスが正確に本詩で「大芝居の数多の死」と表現している事には気付いていない。
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