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日付のある預言詩1( 1999年)

日付のある預言詩1(1999年): その前後マルス(軍神)は幸運に統治するだろう(X-72)

大団円 (The grand finale = The final answer of the Prophecies of Nostradamus)とは、普通には、作品の最後を飾るものだから、作品の巻末を捲れば、大抵見つかる。

しかし、ノストラダムスの『予言集』(Les Prophéties) なる作品の記述順序こそ問題であって、今に至るまで、いかなる一貫した系列も見つかってはいないと言われる。しかし我々は既に、全詩編の内容の研究から、1555 年より2000年に至る時間軸上の各詩のプロッティングを持っているので、その最終部分についても指定することができる。それは、特に新発見ではなく、過去幾多の解釈研究家たちが指摘して来ているように、「1999年7カ月」という明確な語句を含む第十サンチュリ72詩に外ならない。そしてこれとのつながりで、ノストラダムス自身が第一サンチュリ48詩で「私の予言が終わる」(mine ma prophetie)としている「月の支配の20年が経過し」た時、即ち、おそらく「20 x 100 = 」西暦2000年が1999年に続く予言最終年ということになるのであろう (mine という動詞は、ノストラダムスに幾つか例があるように代名動詞 se mine の省略形であり、Godefroy によれば、se miner = finir である )。

ただし、多くの論者は21世紀も更にはそれ以降もノストラダムス予言は継続されるものと見ている。それは、ノストラダムス自身が息子セザールに宛てた序文で「これらの予言は今から3797年に亘る恒久的な占断 (perpetuelles vaticinations)である」と明確に述べているからだ。「今」というのは序文の日付1555年3月1日であろうから、3797-1554=2243 年間の主要な出来事が僅か1000編にも満たない予言詩で扱われるとは常識的には考えられないのだが。この点、従来のノストラダムス解読者は、一方では文法を無視して勝手な解釈をするが、他方では全く無批判に託宣者の言葉を鵜呑みにする。

実は、「恒久的な」という用語によって、ノストラダムスは、「その用語に忠実であれば、3797という数は盲信してはいけないよ!」と読者に警告していると思われる。何故なら、恒久的な (perpétuel) というフランス語形容詞の実際的な意味は「中断 (interruption) を含むことのない」(Petit Robert)ということであるから、仮に「中断が無いとは各年一篇は予言詩が当てられていること」とかなり弱めの基準を置いても、1554 + 958 = 2512 年にしか届かないからである。

そして、ノストラダムスは、予言詩は各々その明確な唯一の意味が、出来事の生じた後に人々に分かって来る、と述べている。従って、何よりも、我々は「著者が予言集を世に放ってから今までに起こった事柄」の中に各予言詩の意味を探求する地道な知的作業を実行するのが先決なのである。そういう作業を実際にして見て、そして諸先輩の奮闘努力の成果を盲信することなく堅実に批判的にレヴューして見て、その予言は20世紀の終わりを以って終わるものと言えることが分かった。後で見るように、数編の予言詩の内容自体に明確にそのことが出ているのである。そうすると、各年平均2編強となるが、これは正に、1555年から2000年に亘る「中断なき占断」ということになる(厳密には粗密があり、予言詩が扱わない年々もある)。

さて、X-72 詩の最後の行は、よく知られているように、「その前後、軍神(マルス)は幸運に統治する。」となっているので、少なくとも、「1999年とその前後」という形で、1999年の後の時期も間接的に意味されている。では、それは何時までのことか? 又、「軍神が幸運に統治する」とは何の意味か?

そこで、第一に気付くのは、「軍神が幸運に統治する」という同一の表現が、1999年の前と後とで同様に妥当している、という見方が出来るということである。

つまり、それら両時期には、或る「対称的な(シンメトリーな)事態」が見られる、ということである。そうすると誰でも思い浮かぶのは、1991年と2003年の二度の「湾岸戦争」であろう。両者は、最も関わりの深い当事者が、「合衆国のブッシュ大統領とイラクのフセイン大統領」ということで基本的に同じである。その場合、父ブッシュと子ブッシュの相違は、政策的継続性を勘案すれば、捨象してもいいだろう。

では、「軍神が幸運に統治する」というのはどういう意味なのか。

「軍神」というものが居るならば、その使命は、多分、一方では戦争遂行と勝利、他方では根源的な正義に基づく国家政策への寄与、ということに違いない。その両方の任務が達成出来れば彼は「幸運に仕事ができた」ので、幸福だろう。反対に、世界的視野に叶うような国家政策に対して否定的でそれを無視した単なる軍事的冒険や、逆の軍事的怠慢は、軍神には「不運」と感じられるに違いない。

ということは、この詩句は、どう見ても「勝利者」の視点に立った表現であることにならざるを得ない。何故なら、「軍神」にとっては、「敗戦が幸運と幸福に結び付く」という選択肢は無いだろうからである。そのような「幸福」は彼には「降伏」としか映らないだろう。

従って、湾岸戦争が2度とも合衆国の勝利に帰したことが現時点で認められるのであれば、ここに述べられているのは「合衆国に味方する軍神」である。もっとも、必ずしもそれに限定される訳ではない。もし、なお継続中のイラクの戦時的情勢が経年して、ついに合衆国の敗北として世界的に認められるようになる可能性も皆無ではない。
その場合は「イラクに味方する軍神」を読み込むことになる。ただし、予言はやはり、「年代限定性」を身上とするから、2003年の当初の戦闘における合衆国側の圧倒的優勢と勝利宣言を以って、シンメトリー的内容を持つこの詩の予言範囲とするのが自然であろう。このように理解すると、「1999年とその前後」という年代は確かに明確になった。

しかし、解釈者の中には、意外にも、X-72 詩を主題的に「September 11」に関連付ける試みが現れている。

「1999年」という詩中の明言が、何故「2001年」に関係付けられるのか、我々からすれば、理解に苦しむ所だ。これは、一つには「1999年に恐怖の大王が空からやって来るだろう」とテクストの浅薄な読みから、半ば恐れつつ、半ば「期待」していた連中が、当てが外れたため、2001年のWTC惨事に無理矢理結びつけようとしたのだろう。

それにしても、我々の解釈では、2003年の湾岸戦争が「September 11」を原因とする、という極めて言外的な位置にしかそれは立っていないし、その軽すぎるような間接的言及はノストラダムスの真意を忖度すれば、21世紀は私の本来のテーマにあらず、ということだろう。

そこで次回は、「September 11」説の内容を考察して、その根本的錯誤を指摘してみよう。
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© Koji Nihei Daijyo, 2010. All rights reserved.
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日付のある預言詩1(続) 1999年 (2)

日付のある預言詩1(続) 1999年(2): X-72 をSeptember 11に関連付ける解釈の根本的錯誤

X-72 詩をSeptember 11 に関係づける代表者として、フランスの最もポプュラーな解釈者フォンブリュンヌ (J.-Ch. de Fontbrune,2003, p.50 ) を取り上げてみよう。

氏によれば、「1999年」( l'an mil neuf cens nonante neuf = in the year of 1000 and 900 and 90 and 9) が何故「2001年」の意味に取れるかと言うと、フランス語で「数詞の9 neuf」と「新しいという形容詞  neuf」が全く同形という前提が先ずある。

そこから、 l'an mil neuf  を l'an mil neuf  と見て、le nouvel an mil (新たな千年)と解釈する。nouvel は neuf と同義である(「新しい」と「新たな」の関係に似ている)。

そして更に、彼はle nouvel an mil (新たな千年)= le nouveau millénaire(新たな千年紀)=2001年と主張する。

フォンブルュンヌはいともスラスラとこれら三者を等号で結び付けているが、実は三者は厳密に考察すると、全く異なる概念であって、決して同値、等価ではないのである。

何故ならば三者は次のように相違しているからである。

イ. le nouvel an mil (新たな千年)とは、999年の翌年に当たる新年としての1000年である。

ロ. le nouveau millénaire(新たな千年紀)とは、2001年から3000年の間の1000年間を意味する。

ハ. 2001年は上記ロの中の最初の一年に限定される。

従って、彼が勝手に原文から切り出した「l'an mil neuf 」は、彼の提案した読み方に従えば、イの意味にしかならないのである。

そこから、更に勝手に「ロ」に飛躍することはフランス語のみならず、日本語を通常合理的に使用する知的生命体には可能ではないし、更に勝手に「ハ」まで通関する事は重大な論理的意味論的過誤を犯すことなしには許されないのである。

氏の解釈には、間々、こういう大きな知的錯誤が見られる。その代表的例の一つを挙げると、I-16 詩の解釈で、「土星がさそり座にあって、いて座と合の時」という説明を平気でしている(J.-Ch. de Fontbrune,1999, p.219)。

ここまで指摘すれば、もはやそれ以上氏の論を「月」や「日」の細部に関してまで検証することは無駄になる。大前提の「年」の解釈が成り立っていないからである。

さて、ノストラダムスが詩中に、このX-72 詩のように「年」を明記したものが他に、6編(I-49, III-77, VI-2, VI-54, VIII-71, X-91)ある。都合7編ある訳だ。

そこでしばらく、X-72 に取り掛かる前に、助走として、それらの解釈を徹底的に実行して、ノストタダムスの年月記載が詩の中でいかに正確であるかを検証して、X-72詩も例外ではなく、ありのままに1999年7カ月として理解すべきことを結論付けてみよう。
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日付のある預言詩2: VI-2 (その1)

日付のある預言詩2: VI-2 (その1)

第六サンチュリ2詩(§164):
580年代に、
待っているのは全く奇妙な時代だ。
703年には空に徴があろう、
幾つかの政体が「一」を「五」に変えるだろうことの。


さて、ノストラダムスの予言集が1555年以降の時代の予言で、且つ、幾つかの詩編の内在的証拠から見て、2000年に終了すると考えられるので、580年は1580年、703年は1703年と読むのが良識に叶っている。

そして、ここで「代」と訳した原文は「plus et moins」(more and less)であり、フランス語の年代表記の慣例から、580または1580の次に来るのは1ないし9のどれか一桁の年次である。

逆に言うと、moins が算術的にはマイナス記号(minus)であっても、年代に関しては580以前の570年代とか、1580以前の1570年代を指すことは考えられない。故に「1580 plus et moins」は、総体的には1581年乃至1589年を意味する。

他方、日本語で「1580年代」というと、1580年乃至1589年を指すから、このうち1580年を除いたものが「1580 plus et moins」というフランス語表現の意味だと言える。

では、1581年から1589年の期間は、「全く奇妙な時代」( le siècle bien étrange )と言われるような時代であったろうか(siècle というフランス語は元来、世代generation というラテン語の意味から、100年としての世紀という意味に限定されず、長短の幅が大きい一定のまとまりを有つ期間を指す)。

ここで、場所については、第一にフランスの事として想定するのがノストラダムス予言解釈の基本であるから、そう見ると、この時代はいわゆる「リーグ」というカトリック純粋王権主張者達の結社(ギーズ公を首領とする神聖同盟又は旧教同盟)が勢力を奮って、従来の王家たるヴァロア朝と王位継承権者たるブルボン家の動向を大きく揺さぶった。

時はアンリ三世の治世であり、とりわけ、王弟アンジュ公が1584年6月10日に死去して王妹マルグリット以外にヴァロア家の継承者が絶えて以降は、男子のみが王位に就くというフランスの深い伝統をもつサリカ法に従って、俄然、ブルボン家のアンリ・ド・ナヴァール(王妹マルグリットの夫君)が王位推定継承者に浮かび上がった。

そして、このアンリ(のちのアンリ四世)が改革派宗教の信者(ユグノー)であることから、リーグはこの王権移譲の方向に対して徹底的に歯向い、王が「先ずカトリックの候補者を選ぶ」ことをしないで、「サリカ法に盲目的に従う如く先ずアンリ・ド・ナヴァールを候補者として容認する」という言動を見せるのに対して、決定的に反体制の運動を推進した。

ローマ教皇から「篤信のキリスト教徒なる王」( Roi très chrétien) という称号を授かっているフランス君主が「異教の改革派」であることは許されない、というのがカトリック国民の共通の意識であった。フランス国民はフランス国王に「忠誠」の義務を負うものとされるが、それが出来ない状況が生まれ、国王はリーグがバリケードを張った都から追い出され(1588年5月)、逆に国王はブロア三部会に集ったリーグの首魁ギーズ公とその弟の枢機卿を45人組という腹心屈強の親衛隊員に暗殺させる(1588年12月)という極限的事態に至り、Mainbourg等歴史家も

「リーグは恐らく、嘗て史上見られたことの中で最も特異 ( singulier ) な出来事である。」(Hénault, 1749, p.376);

「ギーズ兄弟の死に復讐するため嘗てない熱意を以ってパリにリーグが再来した。その驚くべきニュースを知った時この大都に生じた事よりももっと奇怪( étrange )な事は歴史にあった験しがない。」(Maimbourg, 1683, p.294) と述べている (cf. Torné-Chavigny, 1862, p.43)。

更にリーグは、故ギーズ公の実弟マイエンヌ公がリーダーとなって激越な弔い合戦を展開して行く。それに対応すべくアンリ三世は臨終間際の王母カトリーヌ・ド・メディシスの最後の忠言に従い、ナヴァール王を正式に後継者に指名し(1588年末)、遂には軍事同盟まで結んで(1589年4月)首都奪還の作戦に取り掛かる。パリを攻め落とすチャンスを得つつあったその時、サン・クルーで王はしかし、改革派宗教を唾棄する一修道僧の陳情拝謁の寝起きの僅かの隙に凶刃を浴びて斃れる(1589年8月)。このフランスの絶望的状況が変わって行くのは、ようやく1590年代に入ってからであるから、1580年代はまさにノストラダムスの予言の通り、「全く奇妙な時代」に終始した。(以下次回)
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日付のある預言詩2(続): VI-2 (その2)

日付のある預言詩2(続):VI-2 (その2)

第六サンチュリ2詩  (§164) 後半:
703年には空に徴があろう、
幾つかの政体が「一」を「五」に変えるだろうことの

ノストラダムスが「空に徴がある」という時、その殆ど全ての場合、彗星か、又は伝統的な「七惑星」(太陽、月、水星、金星、火星、木星、土星)の配置が織り成す時間軸上の一定点への言及である(占星術では太陽と月も惑星と見なす)。

しかしここには必須であるべき惑星の名が一つもない。ノストラダムスは、その唯一のラテン詩で「全ての占星術者は我が予言集に近寄ってはならない」と警告しているが、その場合の「占星術者」は古来より世に行われている星占いのことで、他方には「諸惑星の独自の配置から言わば世界時間を規定する天文計算」があり、これは今日の天文暦表(ephemerides)に相当し、ノストラダムス自身も重視したものである。そしてこの部分に関する参考上、占星術関連の文献も必要である。その方面の大家の一人、ブランダムールの見解を徴してみよう。

ブランダムールによれば、1580年代と1703年という本詩の二つの時間規定に共通するのは、「おひつじ座における土星と木星の合」である。そして、「特に土星と木星という外惑星の黄経上の合は歴史の流れの中に深刻な波乱要素を誘因する」という伝統的な占星術の基本的見方を紹介している (Brind' Amour,P., 1993, p. 211; 199)

しかし、ブランダムールは正確には語っていない。何故なら、「おひつじ座における土星と木星の合」は1703年には確かにある(17031100:00 黄経差2°54')が、1580年代には皆無だからである。その期間、最も両惑星が接近するのは158441800:35黄経差15°38'で、この離れ方はどんなに緩い基準を持ってきても「合」とは言えない。従って、1580年代と1703年という本詩の二つの時間規定に共通するのは、「おひつじ座における土星と木星の単なる共在」である。

ところで、「おひつじ座(白羊宮)における土星と木星」については、第一サンチュリ51詩 (§947,I-51) が主題的に扱っているので、それを先に考察しよう。

第一サンチュリ51詩:
天の頭(かしら)たる白羊宮、木星そして土星、
永遠なる神のもと、何という変異よ!
次に長い時を経てかの凶時が再来す。
ガリアとイタリアでは何という変動よ!

一行目の、「天の頭(かしら)たる白羊宮、木星そして土星」という単なる羅列表現は、接続詞「そして」という僅かな手掛かりを掴んで、「白羊宮に木星と土星が揃って見える時」を意味すると推定してよいだろう。「合」であればノストラダムスはそれを表す適切な言葉 (joint, etc.) を用いるはずだ。ここでは厳密な「合」ではなくて、「土星と木星が共に白羊宮に在る事態」を想定する。この想定は、1580年代と1703年というVI-2詩の二つの時間規定に共通する「おひつじ座における土星と木星の単なる共在」と見事に符合する。

そして何故、白羊宮が取り分け重視されるのかと言うと、白羊宮が黄道12宮の第一番目に位置することによる。有名な占星家マクロビウスによれば、白羊宮が第一位に来るのは次のような事情があったからである:「何よりも初めの日、従って世界の誕生日と呼ばれる日が始まった時、おひつじ宮は天の中央にあったと言われる。中天はいわば世界の頂点なので、おひつじ宮がすべての中の最初のものと考えられた。それは光が生じた時に世界の頭のように現れたものである。」(S.J.Tester 著、山本啓二訳『西洋占星術の歴史』恒星社厚生閣, 東京、1997,p.160

では、「白羊宮における木星と土星の共在」の出現・再来を、1555-2000 年の期間で全て枚挙して見よう。(使用天文ソフト:AstroArts, 1993, StellaNavigator, 観測地設定:Paris, 2°.4E, 48°.9N, LMT, J2000.0

1° 1584
418- 同年625日。
2° 1584
1026- 同年112日。
3° 1584
1231- 1585211日。
4° 1643
45- 1644324日。
5° 1702 
420- 1703428日。
6° 1761
63- 同年913日。
7° 1762
120- 同年62日。
8° 1821
31- 同年87日。
9°1821
91- 182237日。
10° 1880
42- 188145日。
11° 1939
511- 同年76日。
12° 1939
922- 同年1029日。
13° 1939
1220- 1940320日。
14° 1999
213- 同年31日。
(15° 2320
35- 同年310)

これを見るとこの「天の徴」は1555-2000 年の間に凡そ59年毎に起こっているように見えたが、1999年を限りに、それ以降は2320年まで、320年間も「白羊宮での土星と木星の共在」は生じないということが分かる。従って、第一サンチュリ51詩を書き残したノストラダムスにとって、1999年が彼の予言全体の締めの大きな目印となっていることが改めて確認されるのである。換言すれば、第一にフランス、第二にイタリアの社会的政治的「変動」を予言しようという彼の目論見の中には、21世紀及びそれ以降の時代は入っていないということであろう。

では、「ガリアとイタリアでは何という変動よ!」と予言されているその内容は、から14°まで について、一体何だろうか?ガリアとは、勿論、フランスを指すノストラダムス愛用の用語である。但し、彼の予言テーマはフランスとイタリアには局限されず、世界史(ヨーロッパ中心)全体に及ぶ:「全ヨーロッパの諸地域、諸地方、大部分の都市、アフリカ、及びアジアの一部も含む、、、」(
№ 3, Adresse à Henri II, p.4)。その観点から、以下のような出来事が思い浮かぶ。

1° 1584 418- 同年625日。アンリ三世の実弟アンジュ公の死(1584610)により、王権がヴァロア家からブルボン家に移る可能性が生じ,「リーグ」の運動が激化した。

2° 1584 1026- 同年112日。フェリペ二世の支援を受けたイギリス・カトリック勢力のエリザベス一世打倒・メアリースチュアート擁立の陰謀発覚(1584)

3° 1584 1231- 1585211日。フェリペ二世、「リーグ」と協定し財政援助を約す(15841231)

4° 1643 45- 1644324日。ルイ13世が死去(1643514)し、幼君ルイ14世の即位で政権が不安定化。新税(家屋税)賦課に対するパリ市民始め各地の反乱相次ぐ(1644)

5° 1702  420- 1703428日。スペインにルイ14世の孫のフェリペ5世が在りて、前年にハーグ条約で対仏大同盟を結んだイギリス・オーストリア・オランダ三国がフランスに宣戦(170254)。同盟国側はオーストリア大公をカルロス三世としてスペイン王に擁立し、ポルトガルとサヴォア公も大同盟に参加(1703)

6° 1761 63- 同年913日。ポンディシェリ開城 (1761116) により、インドのフランス勢力壊滅す。

7° 1762 120- 同年62日。フランス革命に多大の思想的影響を与えたJ.J. ルソーの『社会契約論』出版。

8° 1821 31- 同年87日。ノストラダムス予言の第一の焦点的人物、ナポレオン・ボナパルトがセントヘレナ島で死去(182155)

9° 1821
91- 182237日。182136日に開始したギリシア独立戦争において、ギリシアは1822113日自由主義共和国憲法を採択し、127日独立を正式に宣言した。

10° 1880 42- 188145日。フランス、インドシナと北アフリカの植民地問題で内閣交代相次ぐ(1880-1881)

11° 1939 511- 同年76日。第二次世界大戦勃発の直前布石たる独伊鋼鉄協約成る(1939522)

12° 1939
922- 同年1029日。193991日ドイツ軍がポーランド領内に侵攻した後、930日には独ソ不可侵条約(1939823日締結)に従い、独・ソ間でポーランドの分割境界条約に調印。108日ドイツ、ポーランド北西部をドイツ本国に編入。1025日残部ポーランドに総督府設置。

13° 1939
1220- 1940320日。1940212日ドイツ本国からポーランド総督府へ最初のユダヤ人移送(-13)。312日フィンランド、ガレリア地方をソ連に割譲。318日ヒトラー・ムッソリーニ、ブレンナーで会談。

14° 1999
213- 同年31日。ノストラダムス大予言詩「第十サンチュリ72詩」該当年。

歴史はまさに「主要な出来事の連鎖」であろうから、これだけを見てその意味を全て汲み取ることは出来ないが、相当重大な出来事が並んでいるのは事実だろう。敢えてイタリア関係の事項が少ない点について言えば、ノストラダムスが多数の予言詩で集中的に取り上げているイタリア統一運動及び第二次大戦中の経緯は、このリストの10°の間、及び11°以降の時期に位置する訳だから、リストが1999年で終わっている事との関連も入れれば、本詩はごく少数の事例を取り上げつつ、「我が予言は16世紀から始まって20世紀にまで及ぶものなり」という予言者の時代規定宣言と見るならば、一層の興趣が加わるであろう。つまり、白羊宮は「一番目のサイン」であるから、どちらかと言うと、これから起こるであろう事態への先触れ的兆候が語られているという特徴が上記各事項に認められるのではあるまいか。

要するに、これらの年は、les ans annonciateurs (= the announcing years、予告年または告知年)として性格付ける事が出来よう。

は、予言者と歴史家が期せずして同じ表現で「奇妙な・奇怪な」(étrange = strange) と形容する王権と宗教の交錯するフランスの内戦の最終局面へのプレリュードと言えるものである。

は、メアリースチュアート処刑へとつながって行く。

はその直後に起こるフロンドの乱を告げ、ルイ大王の多難な出発を暗示すると共に、

はルイ大王の最後の仕事と言ってよいユトレヒト条約による国際的最終決着までもつれ長引くスペイン継承戦争の国際的広がりを予兆している。

は西欧先進諸国の植民地獲得競争の熾烈を告げており、

は新政治思想がやがてフランス大革命で現実化する先触れである(cf.§392, I-47; §395, III-46)。

はナポレオンの死後、彼が一身に持っていた「国家統治に関する多面的要素」が分解されつつ、相対的に個別化された形態で、即ち、ブルボン王政復古、王政と共和的大統領制の混血に似た七月王政、二月革命による第二共和政、ルイ・ナポレオンの第二帝政、そして第三共和政の議会・大統領制の定着という流れで展開するフランス政治の展望である。

はオスマン大帝国解体の端緒であり、且つナポレオン大帝国の解体後の諸々の国民国家の形成・独立の先蹤でもある。

10° は植民地問題で苦悩するフランスを取り上げつつ、やがて「民族問題と絡みあった植民地・領土問題」が世界的な第一次大戦を誘発すると読める。

11° 12°13°に直結し、紛れもなく既に第二次大戦の開始そのものであると言ってもよい。

14° は、ノストラダムス自身の予言が終わると共に、「月の支配の20年(太陽の光を受けて初めて輝く月に似て、神の絶対的恩寵にすがる原罪者の他力的信仰の微光の時代の2000年)が過ぎて、太陽のように内なる仏性の自力的発揚を信仰生活の眼目に据える別の啓示宗教」(I-48)、即ち「大メシアの法としての太陽の法」(V-53)を掲げる「天の大王(精神の指導者)」(X-72)が登場し、「ヨーロッパに決して戻って来ることのない待ち人」(X-75)イエス・キリストの再臨の約束を「代わりに実費を支払う者DEFFRAIEUR(=defrayer:支払人。最も信頼できる初期の版では " d'effraieur " 「恐怖の」とはなっていない)」(X-72)として債務履行し、「大ヘルメスの系譜の一人、東洋諸国の全ての王を超える」(X-75)ブッダ的指導者としてその存在を顕わし、21世紀及びそれ以降の世界を導くだろうという託宣である(これは後に詳しく見るように、宗教法人「幸福の科学」の総裁
大川隆法氏の登場とその根本思想に明確に該当する)。

 では、VI-2詩に戻って、「703年には空に徴があろう」と言われた「徴」の意味は分かったとして、それが、「幾つかの政体が「一」を「五」に変えるだろうことの」徴だと言うが、「幾つかの政体が「一」を「五」に変える」とはどういう事であろうか。

それは、「1703年」がスペイン継承戦争を象徴的に表していることから見えてくる。つまりそれは、その戦争の帰結として生じた事柄である。これら二行の詩文の関係は、先に見た詩内容全体の概観と同様、「先触れとその後の経過」という関係である。逆にいえば「幾つかの政体が「一」を「五」に変える」という事態は、1703年に直ちに生じるのではない。1703年には「天の徴」が見えるだけである。

そして、スペイン継承戦争の帰結は、1713年のユトレヒト条約による和平である。これに調印した国々(フランス・イギリス・オランダ・プロシア・ポルトガル・サヴォア)は、戦争の争点となっていたスペイン王位について、ルイ14世の孫に当たるフェリペ5世の在位を正式に承認した。詩文の「五」は、多くの論者が指摘するように、確かに「フェリペ五世」の「五」だろう。しからば「一」についても同様の論法が貫徹されなければならない筈だが、その試みを敢行した人は今まで皆無である。それは「一」に該当するような「一世」と称する君主が、フェリペ五世に引き継ぐ形では見当たらないという観察ないし「知識」に基づくのだろう。しかし本当にそうだろうか。

ノストラダムスの表現は奥深い。その奥が探索出来ない時、人はそれを「曖昧」と難じる。その奥が見通せた時、人はそこに「正確な予言」を確認する。事実、フェリペ5世が1700年に後を引き継いだ前王はカルロス2世(在位1665-1700)であり、その先代はフェリペ四世(在位1621-1665)、その先代はフェリペ三世(在位1598-1621)、その先代はフェリペ二世(在位1556-1598)、そしてその先代は皇帝カルロス五世(シャルルカン)であるが、この人はスペイン・ハプスブルグ朝の祖としてカルロス一世(在位1516-1556)と称された。この王の前は「アラゴン・カスティリャ朝」と呼ばれ、従ってカルロス一世はカルロス二世で終焉する王朝の正真正銘の淵源である。終り行くこの王朝の後継問題から正にスペイン継承戦争は起こった。そして、新たにフランス・ブルボン家のアンジュ公が「フェリペ五世」として継ぐ事が国際条約で承認された。故に、詩文の「一」は「カルロス一世」を象徴し、延いては「カルロス一世からカルロス二世に至るスペイン・ハプスブルグ朝」全体を表す(石橋秀雄・松浦高嶺他編『世界史大年表』、山川出版社、東京、2001、付録p.13参照)。

依って、「幾つかの政体が「一」を「五」に変えるだろう」とは、「1713年のユトレヒト条約に調印した国々(フランス・イギリス・オランダ・プロシア・ポルトガル・サヴォア)は、スペイン・ハプスブルグ家からフランス・ブルボン家へのスペイン王朝交代を承認するだろう」ということになる。
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日付のある預言詩3: VIII-71

日付のある預言詩:VIII-71

第八サンチュリ71詩 (§242) :
天文学者たちの数が非常に大きくなるだろう。
そして著作が検閲されて、社会から排除され、禁書扱いにされる本もあるだろう。
暗号「1607年」の者(ガリレオ・ガリレイ)が「神聖委員会」によって召喚され、
その結果誰も神聖委員達に対し保障されることはないだろう。


この詩は、多くの論者が正当にも「ガリレイ宗教裁判」に関係付けているが、しかし、史実と詩文との合理的な合致を見るまでには至っていない。それは、詩文フランス語の「文法的に可能な読み方」の全てを検討しようとしないために、非常に表面的な読み方に拘泥して、史実との符合が把握できない、という状況なのである。

例えば、私の上記の読み方「そして著作が検閲されて、社会から排除され、禁書扱いにされる本もあるだろう。」という2行目の読み方は従来は無かったものである。従来のものは最も古い英訳であるガランシエール(Garencières, 1672, p.341)の次の例を殆ど出ていない。

The number of Astronomers shall grow so great,
Driven away, bannished, Books censured,
The year one thousand six hundred and seven by sacred glomes,
That none shall be secure in the sacred places.

ガランシエールは、The number of Astronomers shall grow very great, of which some shall be expelled and banishedと説明している。或いは最近のチータム(Cheetham, 1981,p.34)は、The number of astronomers will grow so great, that they will be driven out, bannedとしている。或いはフランス語原文だと、「追放され放逐される天文学者の数が益々多くなる」という読み方が表面上最も普通に見える。いずれにしても、「追放され放逐される」のが「天文学者」の事なのだと理解しようとする。しかしながらそのような歴史的事実は見当たらないから、この日付つき予言詩は「外れた」と見る論者が極めて多い (e.g. Leoni, 1982, p.710)。しかし、むしろ「外れた」のは、彼らの単純過ぎる皮相な読み方ではないかを私は恐れる。

むしろ一行目は、16-18世紀に科学的な天文研究者が増大したという事実として読めば妥当する。この場合、注目すべきは、astronomersという語をノストラダムスは、意識的に、astrologersという語と区別して使用している。古代以来の「天文学と占星術の未分化」状態ではastronomes (astronomers)が通用していて、プトレマイオスは天文学の大家であり同時に占星術の大家と言える学者であった。やがてコペルニクス以降の科学的天文学の発達の中で、本来の天文学的素養を持たない単なる占星術者をastrologiens と称し、これがastrologues (astrologers) に変わっていったようだ(Littré)。

この使い分けの最も早い、明確に意識された著者がノストラダムスその人であると言えよう (彼は、一方でAstrologi「占星術者達」には私の予言集に触ってはならないと言い、他方で私の予言詩の大部分はCalculations Astronomiques「天文学的計算」に基づいて作成したと述べている)。

コペルニクス(1473-1543)は予言集刊行前に亡くなっているが、地動説を核心とするその新天文学はティコ・ブラーエ(1546-1601)の精細な星観測と、それに基づくケプラー(1571-1630)の帰納的理論構成、及びガリレイ(1564-1642)の望遠鏡を利用した実証的考察を経て、ニュートン(1642-1727)の『プリンキピア』(1687)によって力学的天文学として古典的完成を見た。

そして、これら大殊勲者の周囲には、学問の発展の中で常に見られるように、影の形に添う如く、多数の同好科学者たちが活躍していた。「ガリレイは1638年頃から全く失明し、42年死ぬのであるが、この頃新たな有能な学者たちが彼の身辺にいた。カヴァリエリ、ヴィヴィアニ、トリチェルリ等、いずれも学問の歴史に名を留めた人々である。」(野田又夫『ルネサンスの思想家たち』岩波書店、東京、1982, p.310)カヴァリエリは天文学者で、ヴィヴィアニとトリチェルリは物理・数学者だから、ガリレイの新天文学の十分な理解者として、既にastronomerの名に値するだろう。この状況は詩の背景を成すものであるが、2-4行目を完全に限定するとまでは言えない。

何故なら、2―4行目は一般的にローマ教会のいわゆる「異端審問」がテーマであり、その審問は詩文中の「1607年」という年代が関係する時期には、「神聖尋問委員会」(the Sacred Congregation of Inquisition)と「神聖禁書目録委員会」(the Sacred Congregation of the Index of the prohibited books)という二つの機関が担当していた。前者は特定の個人の意識・思想・信仰状態の審査を行い、後者は著作物の内容審査を行う。いずれも一定の手続きを踏んで行われる。そして、詩の2行目は「禁書目録委員会」の作業を述べており、3-4行目は「尋問委員会」の様子を述べている。何故なら、前者には「書物が検閲される」(censuredという英訳は原文フランス語censurezの直訳だろう。このフランス語には英語が区別するcensor とcensureの両方が含まれている)という表現が見え、後者には「神聖委員会」と「神聖委員達」という表現が出ているからである(glome とcongregationは全く同義であり、 Sacred Congregation という呼称を単に、sacred glomeと言い換えたのであり、glomes の sは原文での押韻上の形式的付加に過ぎない。又、the sacred placesというガランシエール訳は間違っており、原文のles sacresはles sacrés と見てthe sacredsと訳すのが適切で、これはthe sacred ones = menbers of the congregationの意味である)。

そこで、前半を更に詳しく分析すると、書物の検閲に関して、「一方で直ちに追放と放逐という実処分」があり、「他方には著作の検閲がある」という不条理な理解を内包するガランシエール的読み方は検閲の実態を無視した空想の産物でしかない。実態は、「最初に著作の検閲」があり、その審査結果の一つとして初めて「禁書と当該書物の排除」という実処分がある。他方で、問題的著者の身柄自体を「追放・放逐」するというような処分は存在しなかった。

そしてこの実態に合うように詩の原文は文法的に読めるのである。それは、ガランシエールは訳し損っているが、本来は、books の前に接続詞and があり、and books censuredとなっていて、このandを活かすには、二行目を、And books censured, driven away, bannished,と読み直すべきだろう。こうすると、一行目から独立した文章を構成し、専ら「著作の検閲とその後の処分」を述べており、「天文学者たちの追放と放逐」として直ちに読む必要はなくなる。ノストラダムスが、Driven away,bannishedを先頭に持ってきたのは、「強調のための倒置法」というよく知られたレトリックの応用にすぎない。又、本来は And books shall be censured, some shall be driven away, bannishedという十全な文章を想定すると、その赤字(下線)部分を除いて原詩文の形にする事は、詩作に要求される「圧縮による高貴感と余韻感を生む省略法」という手法として正当化される。

そしてdrive awayと banishの原文フランス語chasserとbannirにはその意味として、「排除するexclure」と「禁制とするproscrire」という極めてピッタリ、禁書処分に適合するものがある。proscrireそのものは既に「禁書にする」という意味を持っている。両者の関係は、「禁書処分( banished)」となった本は「一般の市場、図書館、個人宅等、あらゆる閲覧可能な保持の停止、即ち放逐(driven away)」ということになる。「禁書」は「禁書目録」に載せられるが、その改定はある程度の年数を隔てるから、他方では「禁書処分の実際的執行」としての「追放」がある訳で、ノストラダムスの表現はその両面を正確に捉えており、単なる同語反復ではない。

要するに、1-2行目は、天文学者の数が増大するという事実と、それを一つの背景にしたローマ教会の「禁書目録委員会」の活動を予言したものである。但し、2行目のbooksはtheir等の所有代名詞を伴わないから、1行目のastronomersの著作に限定されるものではない。その限り、この予言は、16世紀後半から17世紀前半について「よく当たっている」と言わざるを得ないのである。

事実、コペルニクスの主著『天球の回転について』はその死と同じ1543年の刊行であったが、禁書に指定されたのはガリレイが教皇庁から初めて問題人物視された1616年である。確かにそれが「当該書物のDriven away,bannished」であって、著者は追放しようにももはやこの世に居ない。他方、人文主義者エラスムス(1466-1536)の著書は、トリエント公会議の決定に従い、一定の基準に従った組織的な検閲が開始された初回(1564年)の禁書目録に載せられた。彼も既に亡くなっている。「1576年になると、ブルーノは異端思想に毒された危険人物として注視されるようになり、やがて異端審問所から召喚命令を受け、身の危険を感じた彼は、禁を犯して匿し持っていたエラスムスなどの禁書類を部屋に残したまま、修道院を脱出した。」(ジョルダーノ・ブルーノ著、清水純一訳『無限、宇宙および諸世界について』岩波書店、東京、1995, 訳者解説、p.284)

次に、3-4行目は先に述べたように、書物の検閲ではなく、個人の思想・言動の検査を任とする「尋問委員会」を扱っている。その一般的プロセスは、「自主的出頭と告白悔悟を勧める猶予期間(二週間から一カ月)」が過ぎると、「喚問状の交付による召喚」「尋問」「供述」「判決とその宣告」であった。そして、一旦喚問状が発せられたら、判決で「無罪」は殆どあり得なかった(cf. G.テスタス、J.テスタス著、安斎和雄訳『異端審問』白水社、東京、2005, 第三章)から、「その結果誰も神聖委員達に対し保障されることはないだろう。」という最終行の表現も妥当する。

その際、英訳では不明だが、フランス語原文では「保障されることはないだろう」という動詞が複数形であるから、少なくともそういう例、しかも最も代表的な例を二つ挙げれば詩文は史実に保証されるだろう。

i) 「ブルーノの身柄はヴェネツィア審問所からロ-マへ移され、八年間にわたる幽閉の日々が続く。そしてついに1600年2月17日、花の広場カムポ・ディ・フィオーリで、裸のまま縛られて、生きながら焚き殺されたのである。ブルーノにかけられた異端の疑いは夥しい数に上る。しかしそのうちで最後まで追及され、ブルーノ自身も最後まで撤回を肯んじなかったものは、次の二つの哲学的見解であった。すなわち、一、宇宙は無限であること。二、万物はその中で合成解体を繰り返し、従って生命の輪廻もありうること。」(ブルーノ著、清水訳『無限、宇宙および諸世界について』 訳者解説、p.288-289)

ii) 「ガリレイは1633年、ミネルヴァ修道院で行われた異端審問に出頭した。厳格な尋問の後自らの「誤り」を認めたガリレイは終身刑、のちには自宅軟禁に減刑となった。」(F.トレモリエール、C.リシ編、樺山紘一監修、加藤正ほか訳『ラルース図説世界史人物百科II ルネサンス- 啓蒙時代[1492-1789],原書房, 東京, 2006, p.256)「十人の審問官中三人は、明らかにこの判決を権威の誤用と認めて、署名をしていない。」(野田又夫『ルネサンスの思想家たち』 p.310)

そして3行目のby sacred glomesという、行為者を表す前置詞byを伴う副詞句が、尋問委員会による「召喚行為」であるとすれば、それの対象たる「被召喚者」は誰か、またそれは詩文の中に表現されているのか、が問われる。The year one thousand six hundred and sevenというガランシエールの訳はこの点に関し示唆に富む。何故なら英文におけるこの表現はそれがフランス語におけるように「時の副詞句」であるというよりも、「名詞句=名詞」として文法上は読むべきだからである。つまりフランス語でL'an mil six cens & septなら、名詞句(1607年= the year one thousand six hundred and seven)とも副詞句(1607年に=In the year one thousand six hundred and seven)とも読めるが、英文で単にthe year one thousand six hundred and sevenという場合は副詞句にはならず、単に名詞句である。そのため、英訳者は、名詞句に訳すグループ(Garencières, Leoni, Roberts)と副詞句に訳すグループ(Cheetham, Lemesurier)の二つに分かれる。

この場合は名詞句として解釈するのが適当だろう。何故なら、それは「召喚された人物を指し示す暗号としての年号1607年」としてノストラダムスは使用したと考えられるからである。事実、副詞句と取った場合には、「1607年に尋問委員会に呼ばれた人物の事案」がテーマになるが、歴史にはそういう事件は見当たらない。他方、暗号と見れば、多くの論者が指摘するように、望遠鏡が1608年に発明され1609年には自分で試作しそれ以降それを使って天体観測をして地動説を確信し1632-3年に教皇庁で裁判されたガリレイのイメージが焦点化される。そして、何故「1607年」なのか、と言えば、こういう初歩的暗号は、「半ば隠し半ば示唆する」性質を求められるから、「望遠鏡の発明年として遍く知られている1608年」の前年が選ばれたと説明できる。

又、フランス語のchiffre (数) には「暗号」という意味が普通にあり、「1607」という数を暗号と見る誘因がそこにもある。

のみならず、実は「1607年」という表現は、VI-54詩にも、「1607年、典礼の」(L'an mil six cens & sept, de Liturgie = The year one thousand six hundred and seven, of Liturgy)という表現で出て来る。「典礼」とは、一般的に教会の儀式と解しうるが、「尋問委員会」の活動も広く解せば「典礼」の中に含まれ、「典礼の1607年」とは、「ガリレイの宗教裁判を扱ったVIII-71詩の1607年」を指すと見られる。VI-54詩は19世紀後半のフランスの政治状況を扱っているようだが、そこでの「或る人物」(詩文中には表されず、その代りのように「1607年、典礼の」という正に暗号が置かれている)の運命が、あたかも「1607年という暗号で示された人物」つまりガリレイにそっくりである、という解釈が通ると思われる。そこで、次回はVI-54詩の分析に挑戦してみよう。
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日付のある預言詩4:VI-54 

日付のある預言詩4:VI-54

第六サンチュリ54詩(§712):
夜明けに雄鶏の二番鳴きがある時刻に、
チュニス、フェズやビュジーの人々、
かのモロッコ王が、アラブ人たちによる捕囚になるだろう。
教会典礼の、「1607年」。


この詩を"A nice, clear failure"と一蹴した懐疑主義的傾向の強い英語圏の著名な解釈者(Leoni, 1982, p.665)に対して、ノストラダムス予言詩への確固たる信念を有するフランスの20世紀初頭の研究者エリゼ・デュ・ヴィニュワは次のような貴重な考察を残してくれた 。

「大統領七年任期制票決(1873年11月20日) 史実: 国民議会の夜間開催中に提案された大統領七年任期制の票決は、ペトロに対するイエスの次のような言葉を思い起こさせた: 『明け方、雄鶏が二度目に鳴く時、君は私を三度知らないと言ってしまっているだろう。』(マルコ伝、14章30節)ユダの忘恩行為によって武装した軍団に渡された大聖師のように、シャンボール伯(1820-1883)は、自分の先祖たちが為した功績に含まれるアフリカの門戸開放で裨益した人々が自分に反対するのを眼にした。彼は、アラブの人々と関わりがある故に『アフリカ人達』と呼ばれていた人々によって、『白百合の王』(フランス王)たるを否認された。注記: チュニス: チュニジアの首都;フェズ: モロッコの町;ビュジー: ブジー、アルジェリアの町。アラブ人たちによる: オルレアン家の人たちはアフリカで戦ったことがあり、イギリスの血を引くマクマオンは、兵士としてアルジェリアで勤務し、アラブ人達の知事を務めたこともあり、ロシア人達に勝利したこともあり、本詩の地名の全てを以って語られる彼独自の冒険譚の主人公である。」(Vignois, 1910, p.355)

4行目の氏の解釈は混乱を招くだけなので省くが、1行目の新約聖書の故事に拠り、2-3行目の地名との深いゆかりをバックに、マクマオン大統領とシャンボール伯という二人の主要人物を登場させ、大統領任期七年制(Septennat)の導入とブルボン王政復古の最終的挫折という1873年11月のフランス政治史上の一大事件を本詩に比定したヴィニュワの発想は「慧眼」と言うべきだろう。

新約の故事が、「大いなる人が敵に渡される弟子の裏切り行為」を意味するとして、1873年の構図は、「大いなる人= 正統王位要求権を有つブルボン家当主たるシャンボール伯」が「敵に渡される=立憲共和主義派が目論む王政復古挫折へと追い詰められる」「弟子の裏切り行為=元々の正統王政主義者マクマオン元帥・大統領が筆頭大臣ブログリ公初め側近のオルレアン派=反シャンボール派の有効な工作に巻き込まれ、王政復古推進に傾注しないで結果的に自らが任期七年の大統領に成る」という事になるだろう。

つまり、詩文の「かのモロッコ王」とは、ノストラダムスの「王」という用語が常に、「王もしくは王に似た政権担当者、大統領・首相等、もしくはそれに匹敵するような指導者」を指すことに合致して、ここでも「時のフランス政権元首たるマクマオン大統領」を表す。何故「モロッコ王」かと言えば、ヴィニュワの言うように、彼が軍人として、また軍人行政官として、アフリカのフランス植民地に長く勤務した経歴から理解出来る。更に、「モロッコの」という原文フランス語はMaroqであるが、その先頭2文字Maは、マクマオンMac-Mahonの二重のMaを暗示するだろう。

歴史年表によってこの出来事の概略を示そう。
「1871年2月8日 国民議会議員選挙:王党派圧勝。
1871年2月12日 国民議会、ボルドーで開会される(~3月11日)。
1871年2月17日 ルイ・アドルフ・ティエール、国民議会で行政府長官に選出される。
1871年2月19日 国民議会、ボルドー協約を承認し、政体の決定を平和回復後に持ち越すことに同意。
1871年3月10日 国民議会、ヴェルサイユへの移転を決定。
1871年5月10日 ドイツとフランクフルト講和条約を締結:賠償金の支払完了までの独軍の駐留を規定。
1871年8月31日 国民議会、リヴェ法を制定:政体確定の権限を議会に帰属させる。
1871年8月31日 国民議会、ティエールを共和国大統領に指名。
1873年9月16日 ドイツ軍のフランス撤退完了。
1873年      補欠選挙:共和派進出し、反ティエール派議員が多数を占める。
1873年5月24日 ティエール大統領、王党派の攻撃を受けて辞任(1871~)。王党派のモーリス・マクマオン元帥、後任に選出される(~79.1)。
1873年8月    ブルボン正統派のシャンボール伯とオルレアン派のパリ伯、和解して王政復古を企てる。
1873年10月27日 シャンボール伯、三色旗を拒否したためオルレアン派との合同が破れ、王政復古運動失敗。
1873年11月20日 議会、マクマオン大統領の任期を7年に延長する七年制法を可決。」
(石橋秀雄・松浦高嶺他編『世界史大年表』、山川出版社)

この詩で注意すべきは、地名と固有名詞から、テーマはアフリカと見られがちだが、最初の「聖書故事」と最後の「教会典礼Liturgy」という用語は、明らかに「キリスト教圏」を示唆する。それとアフリカ、具体的にはアルジェリア、チュニジア、モロッコの人々との関わりが含意されている。北アフリカのこれらの地は、フランスの植民地政策の対象になった。その点、ヴィニュワの読みは当っており、「かのモロッコ王」=「フランスの北アフリカ植民地で兵士として勤務し、行政経験もあるマクマオン大統領」という意表を突く見事な解読も、その設定者ノストラダムスの巧みな腕前と併せて肯ける。

但し、アルジェリアは1830年代からフランスが浸透して行ったが、チュニジアは1870年代から、そしてモロッコは20世紀初めからであったから (cf. Palmer, 1962, p.10, p.289, p.190)、そこに当該地に対するフランスの浸透度に差異が見られる。そしてマクマオンが関与したのはアルジェリアだけで、従ってヴィニュワの解釈は正確ではない。しかし、これら北アフリカの3地名は、フランス国民議会の諸派の色合いを象徴していると考えられる。即ち、1873年11月19日 - 20日の夜の議会で可決された大統領七年任期制法については、その反対票317に対する賛成票383のうち、政府を全的に支持するオルレアン派を中核にした右派勢力が大部分であり(a)、共和派の一部(b)と最右翼たるシャンボール支持派の一部(c)が加わっていた (Seignobos, 1921b, p.377)。従って、それらのマクマオン政権に対する親疎の度合いは、北アフリカ3地域に対するフランス勢力の浸透度の差異に対応するものであって、その意味において預言者は、これら北アフリカの地名をフランス政治の画期的な基本法制の確立に関する預言詩の中に嵌め込んだのであろう。

では、「アラブ人たち」=「オルレアン家の人たち」という読み方はどうか。確かに、シャンボール伯の祖父シャルル10世が開始したアルジェリア出兵(1830年)を、その王を七月革命で放逐して王位に就いたオルレアン家のルイ・フィリップは引き継ぐ形で1834年にはアルジェリア併合を成し遂げた。彼の治世下(1830-1848)、北アフリカ植民地化と共にその一族のその地への関連が深まったのは疑いない。又、「アフリカ人たち」という語は、「モロッコ王たるマクマオン大統領」に対しては「その臣下たち」というニュアンスを有っているはずだ。事実、偉大な軍人ではあっても政治に疎いマクマオンから政府の実権を委ねられていたブログリ公はオルレアン派リーダーであったから、「アフリカと関わりのある」「臣下」という2条件を満たした人物である。

「オルレアン派リーダー達は、自分たちを敵と見なす習いがあり不可抗力的に自分たちを政権から遠ざけ自分たちよりも自陣正統派の者を優先させる資質の王が即位するのを望むことは出来なかった。彼らは議会制度と三色旗にあくまで固執したのであり、個人政治と白色旗に公然と身を捧げるという君主を恐れていたのである。彼らは、政体と旗に関する公式の保証を担保することなしにアンリ五世(シャンボール伯)を復古させる事が無いよう動いた。それが失敗した場合の策をオルレアン派の者たちは用意していた:将来的留保を伴った暫定政体の下での、元帥(マクマオン)の政権延長。」(Lavisse, CVII, p.366)

「その下でキャリアを開始した正統王政に尊敬の念を持っていたマクマオンは、議会から一個のポストを守るよう任務を負わされ、議会の命令があればそれを正統の王に返却する心積りがある一兵卒として自分を見ていた。しかしながら、オルレアン派の側近達に囲まれ、自らは三色旗に深い愛着を感じていた彼は、王政復古を促進するような策は何も取らなかった。」(id.)

これは正に、「かのモロッコ王(マクマオン)が、アラブ人たち(オルレアン派)による捕囚になる」図に外ならない。

では、そういう状況だとして、本詩の主役と言うべき「シャンボール伯」は詩文中のどこに示されているのだろうか。それは、教会典礼の、「1607年」という最終行以外にはない。幸いにも、我々は既に、「ガリレイの宗教裁判を扱ったVIII-71詩の1607年」が、「1607年という暗号で示された人物」つまりガリレオ・ガリレイを意味することを明らかにした。従ってここでもそれは暗号として機能していることが推測される。つまりVI-54詩は19世紀後半のフランスの政治状況を扱っているが、ここでの「或る人物」(詩文中には表されず、その代りのように「1607年、典礼の」という正に暗号が置かれている)の運命が、あたかもVIII-71詩で「1607年という暗号で示された人物」つまりガリレイにそっくりである、という解釈が通るのではないか。その際、「1607」の「7」という数は、ここでは「大統領任期7年制 Septennat = Septennate」の「7」を示唆している筈だ。
事実、マクマオン大統領とシャンボール伯、及びそこにオルレアン派の人々を介在させた関係は、時の教皇ウルバヌス八世とガリレイ、及びそこにドミニコ会とイエズス会の修道士たちを介在させた関係に重なるのである。

「初めはフィレンツェでもローマでもガリレイは優れた学者として歓迎され支持された。1610年末から翌年にかけてのローマ滞在では、法王以下望遠鏡に興じ、ガリレイはローマの少数の優れた自然研究者の集まりであるアカデミア・デイ・リンチェイの六人目の会員に選ばれた。しかし次第にアリストテレス学者・神学者の間に敵が出来て行く。1613年には『太陽黒点についての手紙』が出版される。黒点の運動は太陽そのものの自転であり、黒点は太陽自身に属すること、従って太陽は地上の物質とは全く異なる物質から成ると考えるべき理由がないことを示した。そしてこの手紙でコペルニクス説の正しい事を初めて明言した。そして既にその前年から一、二のドミニコ会士により、説教壇から、コペルニクス説が聖書の所説に反するという非難が始まっていた。ガリレイは聖書と自然学との関係についての所見をカステルリ宛の手紙で述べた。この手紙は写しによって流布した。二年後ガリレイはこれをもっと詳しく書き直し、これは『大公妃クリスチナへの手紙』として広く読まれる。

しかしコペルニクス説を是とするのみならず聖書解釈にまで立ち至った事がドミニコ会士を刺激した。秘密にローマの審問官への告発が行われる。ローマではブルーノを処刑した枢機官ベラルミーノがまだ生きており、コペルニクス説は教会のドグマにとって有害であると考えていた。秘密に行われた審理(1616年)の結果は大体次の如きものであった。第一、コペルニクス説は哲学的には不合理であり、神学的には誤謬である。第二、しかしガリレイ自身には教会の信仰に反する主張は認められず、咎める事は必要でない。

ガリレイは、古いアリストテレスの自然学を批判しうる機会を逃さなかった。その機会の一つは1618年に出現した三つの彗星についてローマのジェスイット学院教授グラッシが書いた論文によって与えられた。グラッシに対する批評は穏やかであって、グラッシが採っていたティコ・ブラーエの遊星理論の批評という形になっていた。しかしこのジェスイットの教授は激しい反撃の論を書き、結局ガリレイは長い駁論を書く(『試金天秤』1623)。ここにガリレイの自然学の立場が論争の間に明確に表明された。この著が刷り上った時、ガリレイの旧知の枢機官マフェオ・バルベリニが法王に選ばれ、ウルバン八世となった。この人はガリレイの旧い友人であり、いつも彼に好意を寄せ、先の1616年の審議においても、コペルニクス説を「異端」とせず「誤謬」とするに止むべし、と主張した人であった。ガリレイは大いに喜んでこの著に新法王への献辞を添えて出版する。

次いでガリレイはローマに行って法王にまみえ、度々親しい談話を交わした。そして彼は新法王にコペルニクス説の禁止を解いて貰おうと何度も試みた。しかし法王はそれを聴かなかった。ただ最後に、コペルニクス説を仮説として扱うべきこと、及び自然学の真理を超えた神の全能の意志があることを最後に結論として認むべきこと、この二つの条件を満たすならば、対話の出版は許されるであろう、と個人的にガリレイに告げた。ガリレイはこの示唆に力を得て1625年に稿を起し、ほかの仕事や病気に中断されながらも書き続け、30年初めになって一書を完成する。これがいわゆる『天文学対話』詳しくは『プトレマイオスとコペルニクスとの二大世界体系についての対話』である。ガリレイは原稿を携えてローマに行き出版の許可を求めた。検閲官は彼の知人であったが、法王の意向を忖度しながらの検閲は遅々として進まなかった。1631年、ようやく出版許可が与えられ、翌年二月に公刊される。ガリレイのこの書が忽ち多くの読者を魅了したのに不思議はない。

しかし俄然ローマの雲行きは怪しくなった。二月に出たこの本は八月に法王庁から販売停止を命ぜられる。ジェスイット達の告発があり、法王はガリレイを罰して世のみせしめにする決心をする。学芸を愛し豪奢を好んだこの法王は人を許さぬ権力人でもあって、ガリレイに籠絡されたと感じたらしい。ガリレイは宗教裁判所に出頭を命ぜれられ、病中延期を乞うて許されず、1633年初めローマに行く。ガリレイの書の検閲官は免職される。

審問は1632年4月初旬に始められた。数回の審問の後、裁判長は夜ひそかにガリレイに利害を説き、ガリレイが自ら進んで、今度の書物は不謹慎であったと認めるように勧め、ガリレイも致し方ないとして、事実上、自らの非を言明することを約束した。次の審問の席で彼は、自著を再読して、自分の心得違いからコペルニクス説の弁護と読める議論をしている事を見出したことを認めた。こうして五月初旬、ガリレイは拘留を解かれて、宿所であるフィレンツェ大使館へ帰った。人々はこれでもう大事は去ったと喜んだ。

しかるに六月に入って、法王司会の下に秘密会議が開かれ、ガリレイをもう一度「厳格な審理」にかけてその意図を訊し、異端者として罰する事に決まったのである。「厳格な審理」とは、真実を言わぬ時は拷問に掛けると言う意味である。情勢のこの急変は、先の裁判長がガリレイを欺いて罠に掛けたのでなく、また法王が特に命じて厳刑に変えさせたのでなく、ジェスイットの策謀により、ガリレイの申し開きを無視した報告が秘密会議に提出されていた為であった。6月21日ガリレイは呼び出され厳しく追及される。翌日ガリレイは、異端の囚人の服である白衣を着せられ、多くの役人の集まる場所で判決を受け、誓絶文を読まされた。判決は終身禁錮であった。しかし判決文は、ジェスイットの策謀通りに書かれず、また十人の審問官中三人は、明らかにこの判決を権威の誤用と認めて、署名をしていない。法王の意もガリレイを土牢に入れることにはなく、終身禁錮も直ちに監視付きの軟禁に改められる。判決後ガリレイの身柄をしばらく預かったシエナの大司教ピコロミーニはガリレイを賓客として扱い、ローマの裁判は誤りで無効だと公言し、ガリレイを諸国の学者や文人に自由に会わせた。『天文学対話』は、禁書となったが広く読まれ、1637年にはドイツでラテン語に訳される。」((野田又夫『ルネサンスの思想家たち』岩波書店、東京, 1982, p.303-311)

以上のように、ガリレイ裁判を仔細に検討すると、

かのモロッコ王(マクマオン大統領=教皇ウルバヌス八世)

アラブ人たち(ブルボン本家に反対のオルレアン派の人々=宗教裁判創始時の裁判を委任された伝統のあるドミニコ会士達と狭量過激なイエズス会士達)

による捕囚になるだろう
(マクマオンは側近である彼らの策謀に乗せられて尊敬するシャンボール伯をフランスから追放する結果に等しい大統領七年任期制法を議会で通した=教皇ウルバヌス八世は部下である彼らの策謀に乗せられて旧友たるガリレイを宗教裁判で有罪にした)

という予言が時を超越した如く互いに重なるのである。

最後に参考のため、ガランシエールの英訳を掲げておく。彼はここでは年を副詞句にしている。
At the break of day, at the second crowing of the Cock,
Those of Tunis, and Fez, and Bugia,
By means of the Arabians, shall take Prisoner the King of Morocco
In the year 1607. by Liturgie.
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日付のある預言詩5: X-91

日付のある預言詩5:X-91

第十サンチュリ91詩 (§244):
ローマ教会の聖職者達、1609年、
『君は年頭に選出するだろう、
かの修道会出身の黒味がかった灰色の服を着た一人の者を、』
その者はそれ程悪意ある人物では決してなかった


The Roman Clergy in the year a thousand six hundred and nine,
" In the beginning of the year you shall make choice
Of a gray and black one issuing from the Company ",
Who was never so malicious as expected.


”This failure”(Leoni, 1982, p.753), " Nostradamus misses completely ”(Hogue, 1997, p.815)という評価が罷り通るのは、言うまでもなく、「1609年年頭の教皇選挙」が本詩のテーマであれば、その年にはそもそも教皇パウロ五世が健在(在位1605-1621)であったから、全くのナンセンスを述べた予言詩ということになるからである。

しかし、私の経験から言うと、「ノストラダムスは間違えた」と言う解釈者のその解釈自体の中に、文法的その他の間違いが犯されているのが常である。丁度ラビリンスの迷路の中で唯一頼りになるのがアリアドネの糸である如く、ノストラダムス予言の研究に欠くべからざるものの第一は「語学研究、なかんずく文法」(Le Roux,1710, p.4)であると警告した18世紀初頭の研究家は今もなお十分に傾聴されていないのは遺憾である。

いつもの事ながら、ノストラダムスの表現は一筋縄では読み取れないし、だからと言ってフランス語文法を破る非合理的用語・語用がそこで大手を振っている訳でもない。つまり、普通の文法に従っても、幾通りかの読み方が可能だということであり、研究者はその全てをチェックすべきだという事である。その観点からは、1行目の「1609年」と2行目の「年頭」とは、必ずしも結合していないのではないか。つまり、この「年頭」は、4行目の動詞時制が「単純過去」という明確な過去形であることから翻って、1609年以前の年の事と読んで見る可能性、従って、2行目の動詞未来形 (You shall) は予言者の本詩作成時での未来であるが、1609年時点では過去になっている、従って又4行目の「単純過去」は予言作成時から見たら1609年と同じ未来のことであろう、という読み方が排除されていないのである。

先ず、「君」という予言者の親しい呼び掛けの形式 (tutoyer) に注目したい。それ自体は省略されている代名詞「君 tu」を内容的に表すここでの動詞原文 「feras 君は行うだろう」は『予言集』にこれ一度きりしか用例が無い。しかし他の動詞の二人称単数形 (tutoyer) を全てチェックすると、計13例が数えられる。

そこで「君」と親しく呼び掛けられている相手は誰々かというと、首都パリと解し得る「太陽の町」(§209, I-8) 、ナポレオン1世とその軍隊を内容とする「フランス」(§426, III-23)、ナポレオン1世に関する「フランス政権」(§572, III-49)、17世紀の「フランス艦隊」及びその「一人の船員」(§279, III-87)、南仏オランジュの町を指すと思われる「オーラの娘」(§64, VI-100)、ルイ16世に該当する「盗まれる王」(§364, X-16)となっている。

これらに共通するのは予言者と同郷の「フランス」であり、「君」という用語に良くマッチしている。そして「一人の船員」と「ルイ16世」は個人であるが、「パリ」、「フランス」、「フランス政権」、「フランス艦隊」、「オランジュ」は一個人ではなく「多数性を単一性の中に包含する集合名詞」であり、そういう「普遍的な虚構の君」に対して予言者は語り掛けている。これは公的場面への登場を自負するノストラダムスの予言にとっては本来的なことであろう。

では、本詩の「君」は誰なのか。問題になっているのはどう見ても「教皇の選出を実施する枢機卿会議 conclave」であろうから、その選出母体はいわゆる「枢機卿会 Sacré Collège (Sacred College, College of Cardinals)」である。至高の神に由来する世界史的大予言を預り、『予言集』の中でローマカトリックの立場を貫徹するノストラダムスにとっては、ローマ教皇を頂点に戴く「枢機卿達の一団」は、祖国「フランス」と並んで「君」という呼び方で語り掛け得る相手であるに違いない。

そして、冒頭の「ローマ教会の聖職者達 The Roman Clergy」は必ずしも枢機卿に限定されないもっと広い概念であり、事実上この「枢機卿会」成員を包含する。原文で「君という代名詞 tu」自体は省略されている。それは、「文脈上で推定せよ」という預言者の課題の一つなのだろう。

そこで、状況を理解可能な形で受け取るとすれば、一般の読者は、少なくともノストラダムス予言集が1568年までには若干の例外を除いて全て世に出ていた事を認めるのであれば、本詩の「君」に自分を同一視出来るという読み方が可能になっている。実際、本詩を含む第八、九、十サンチュリの刊行は1558年、ないし遅くとも1568年であり、他方で予言の公的開始は初版刊行の1555年とすべきだろうから、それ以降の教皇選挙であれば、本詩との関連性が出て来る。そして、当該教皇選挙は1609年の時点では既に過去の出来事であり、その過去のある年の「年頭に為された選挙」の結果選ばれた教皇について、現時点の1609年に総括的に評価して「それ程悪意ある人物では決してなかった」(この文の動詞は単純過去である)と言われている、という構図なのである。

この場合、純形式的に見ると、未来動詞を持つ主節に対して、従節が単純過去ということ、又は逆にその単純過去が本来の主節で従節が未来形という風に内容的に読める文型は、通常のシンタクスでは認められない。そういう場合、通常は単純過去ではなくて「前未来」(英文法の未来完了にあたる)を用いる。しかし、ノストラダムスの「前未来」の実例 (e.g.VIII-39)を見ると、これこそ「単純過去」で良いと思われる事例が却って「前未来」になっているのである。そして、語用にうるさいタイプの研究者クレベール(Clébert, 2003)などは、ノストラダムスの使った「単純過去」を、時には「未来完了」として(IV-54)、時にはそのまま「単純過去」として(VI-23)、そして時には「現在・未来」としてさえ(VIII-53)解釈している。

このように、ノストラダムスは明らかに、彼の予言詩の「目晦まし」の技の一つとして「テンスの混乱」を我々に強いたのである。ただし、ノストラダムスの予言詩が「紛う方なき真正の予言の世界」であると認められる限り、本詩のように、史実に依拠すべき詩表現の時間的構図が意味あるものとして成立していると考えられる。事実、ノストラダムスは、この例と同じêtre (to be) の単純過去fut ( 又はfeut ), furent を予言集の中で他に14回使用している(IV-54: twice, VI-23, VIII-53, VIII-94, IX-52, IX-68, X-9, X-19, X-20, X-57, X-71; VIII-28, XII-65)。

そこで具体的に見て行くと、1° 年頭に選出。 2° かの修道会出身の黒味がかった灰色の服を着た一人の者。という二点から、何時の選挙かが判明する。

先ず、大前提は、予言集刊行(1555)以降、パウロ五世選出(1605)以前の期間の教皇選出であるという事。次に、「修道会出身者」であるという事。

この要件から浮かび出る候補は二人しかいない。ドミニコ会士だったピウス五世(1566年1月7日選出 - † 1572.5.1 )と、フランチェスコ会士だったシクストゥス五世(1585年4月24日選出 - † 1590.8.27 )である(P.G. マックスウェル・スチュアート著、高橋正雄監修、月森左知・菅沼裕乃訳『ローマ教皇歴代誌』創元社、大阪、1999, p.231-232; p.236)。

さて、「年頭選出」という条件は1566年1月7日選出のピウス五世に妥当するように見え、他方、「黒味がかった灰色の服」という記述はフランチェスコ会士だったシクストゥス五世に当てはまるのではないか。事実、1月7日は「年頭」と言えるし、「白衣に黒い上着のドミニコ会の修道士服」に対してフランチェスコ会のは「灰色の頭巾つき修道服」「灰色、又は焦げ茶色」とされているからである(山折哲雄監修『世界宗教大事典』平凡社、東京、1991,p.1378,1692,1694)。

A gray and black oneと言う表現は、フランス語原文から見ると、「灰色で、しかも黒味を帯びた服装の一人の男」と読める。フランス語でも英語でもBlackは何時も「真黒色」しか意味しないというのは誤った固定観念であり、「薄汚れた」「暗い」「黒味を帯びた」といった意味も当然ある。つまり、基調はあくまで「灰色」である。従って、「白服の上に黒衣を重ね着する」形のドミニコ会士には当てはまらない。だから、服の色に関してはどうしても「灰色の修道士服」を着ける「フランチェスコ会士」だったシクストゥス五世の可能性が極めて高い。そして、更に好都合なのは、多くの解釈者も指摘しているように、「年頭」ということ関して、ノストラダムス当時、「一月一日ではなく、復活祭を以って新年とする」というキリスト教的慣習が古くからあったという事実である。これだと、年頭は当然、春分の日よりも後に来る。つまり「春分の日以後の満月後の日曜日」ということである。そして、問題の年、1585年の復活祭日(Easter Sunday)は4月21日であった。故に、シクストゥス五世選出の1585年4月24日は正に「1585年の年頭」なのである。ちなみに、シクストゥス五世以後2000年迄のフランチェスコ会士教皇としては、1769年5月19日選出のクレメンス14世しかいない。ところで、この年のEaster Sundayは、3月26日であったから、5月19日は大きく「年頭」の限界を越えているのは疑いない。従って、ノストラダムス予言の対象年代範囲と目される1555-2000の期間全体で見ても、該当人物はシクストゥス五世一人に限定されるほどにもこの予言詩は正確であったと言わざるを得ない。 

シクストゥス五世の人柄はどんなであったか。

「シクストゥス五世は温和な人物というには程遠く、教皇権を刀のように振りかざし、イタリア全土の盗賊や無法者たちを、彼等のパトロンとともに処刑した。教皇はそのほか山積みになっていた問題に積極的に取り組み、金融、経済、産業、教会行政、トレント公会議決議の実行などの難題を次々と片付けていった。その結果、国内には秩序が戻り、新しい仕事も生まれ、教皇庁の財政も豊かになった。又、この時再編された聖庁組織は1962~65年の第二ヴァティカン公会議まで変更されていない。」( マックスウェル・スチュアート『ローマ教皇歴代誌』 p.236)

要するに辣腕を揮った有能な教皇として評価されこそすれ、「悪意の人」として謗られるいわれはないと思われる。

このように、本詩の中心日付は1585年であるが、『アンリ二世宛書簡』の中にノストラダムスが記した「1585という年と1606という年」のうち、「1585年」というのは、多分、本詩X-91 の中心日付を示唆したものであろう。他方、「1606年」というのは、本詩の「1609年」や既述のVIII-71及びVI-54の「1607年」に関連付ける人もいるが、本格的な意味では、同じく『アンリ二世宛書簡』の中に出て来る「1792年」という大変革の年と関連している。これについては、「大革命とナポレオン」の解説の初めに取り扱うことにしよう。

最後に、補足を入れた和訳を掲げておこう。

ローマ教会の聖職者達よ、[今は]1609年だ。
[私は以前、枢機卿団に予言していた筈だ:]
『君は年頭に選出するだろう、
かの修道会出身の黒味がかった灰色の服を着た一人の者を、』
その者はそれ程悪意ある人物では決してなかった [と今は分ったよね]。


一般の詩作品の解釈でも、この程度の補足は普通に行われるから、ノストラダムスについてだけ我々が特別の事をしているとは言えないのである。むしろ、極限まで圧縮された言語表現ではあっても、文法の原理的規範からそれを解読して行けばこうなる筈だ、という形で、詩文に含蓄されていた意味を開顕してゆくという文学読解の正統的手法を堅持しているのである。
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日付のある預言詩6: I-49

日付のある預言詩6:I-49

第一サンチュリ49詩 (§311):
遥か、遥か以前に、このような企み。
月の霊験を受けるオリエントの人々が、
1700年、大いにやられてしまうだろう、
北方の一角を殆ど屈服させかけていたのに。


Long long ago, such maneuvers.
Those of the Orient under the virtue of the Moon,
In the year 1700 shall be taken away grievously,
Having almost subdued a corner of the north wind zone.


この詩は、1700年と、それよりもはるか以前の時の二回、「月の霊験を受けるオリエントの人々が北方の一角」に対して「同じような企み」を為した事、そして今回は「その企みは、ほぼ成功し掛けたが、結局は大敗北に終わった事」が示されている。

従って、ここですぐ思い浮かんで来るのは、「1529年と1683年のオスマントルコによる、その北方大世界の西辺隅に位置するウイーン包囲作戦」という東西決戦の二大類似事件である。1529年は、「遥か、遥か以前」と言えるし、1683年は、1529年が「遥か、遥か以前」と表現されたのに相応して、概数的表現で「1700年」と言われたとしても不思議ではない。特に、その戦闘の結末としての講和が「1699年締結のカルロヴィッツ条約」であるから、ますます「1700年」と言う表現が真実味を帯びて来る。しかも、「三日月」の旗を持つイスラムは「月の霊験を受けるオリエントの人々」であり、多くの解釈者が比定する「1700年の北方戦争」は当事者がロシア・ポーランド・デンマーク・ザクセン対スウェーデンであって、イスラムが関わらないという大難点があるからである。

「1529年5月10日、スレイマン大帝はイスタンブルを出発し西へ向かった。当時、ハプスブルク家の牙城ウイーンは、カール五世の弟であるフェルディナンドに任されていた。フェルディナンドはブダペストを奪回していたが、スレイマンはブダペストを初めとするハンガリーの諸拠点の再征服を進め、9月27日、ウイーン城外に到達した。オスマン軍は、その数12万、これに対しウイーン防衛軍は5万数千に止まったと思われる。包囲軍は直ちに攻撃を開始したが、ウイーンの守りは固かった。輸送困難のため、大型の大砲を途上各地に残して来ざるを得なかったオスマン軍の砲撃も、はかばかしくは成果を挙げなかった。しかも包囲の開始時期がやや遅かった。攻城に手間取るうちに、10月も半ばに近付いた。ウイーンの冬は早く訪れる。気候は厳しさを加え始め、大軍への物資の補給にも不安が生じて来た。10月14日スレイマンは、包囲を解いて撤退する事を遂に決意した。」(鈴木董『オスマン帝国』講談社、東京、1997, p.150-152 )

「この頃、1683年の第二次ウイーン包囲に失敗したオスマン朝は、ハプスグルク帝国との長く不毛な戦争を終結させる必要に迫られていた。メフメットは書記官長として交渉に当たり、1699年、カルロヴィッツ条約締結にこぎつけた。」(鈴木董『オスマン帝国』p.247 )

「17世紀末のウイーンを脅かしたものは、クルツ運動[反ハプスブルク武装民族抵抗運動]だけではなかった。ウイーンでは、1670年代末以来、ペストが猖獗をきわめ、ウイーンは都市としての体力を落していた。苦悶するウイーンに、1683年7月、大宰相カラ・ムスタファは巧名心から15万の兵を送り、帝都の陥落を期した。当時、ウイーンを守備する兵力はわずか1万人余りにすぎず、救援軍の到着まで、オスマン軍の攻撃を耐え忍ぶ以外に、ウイーンに方途はなかった。9月になってようやく、ヤン・ソビェスキ率いるポーランド軍と、ロートリンゲン公カール率いる皇帝軍が援軍として来襲し、窮地のウイーンを解放した。余力を残して自らの意思で引き揚げた1529年の第一次のウイーン包囲とは異なり、今回ウイーンを包囲したオスマン軍は、文字通り追われる如くにウイーンをあとにした。150年を隔てた二つのウイーン包囲は、ハプスブルクとオスマンの力関係の逆転を、結果として、鮮やかに浮かび上がらせているのである。」(南塚信吾編『ドナウ・ヨーロッパ史』新版世界各国史19、山川出版社、東京、2006, p.129-130)

「1699年に結ばれたカルロヴィッツの和約は、15年戦争[1591/93 - 1606]以降、徐々に明確になりつつあったハンガリー、バルカン地域におけるハプスブルクとオスマンの力関係の逆転を、最終的な形で明示化した条約であった。そして、この時引かれた境界線が、基本的には、1918年のハプスブルク帝国解体時まで維持されることになるのである。」(南塚信吾編『ドナウ・ヨーロッパ史』 p.131)

従って、問題点は「1700年」という予言詩の表現をどのように評価するかという1点に残存する。

ノストラダムス予言に対して懐疑的基調をもつレオニは、例のシニカルな調子で、"The prophecy is thus quite clear, and quite a clear failure" と断じる(Leoni, 1982,p.578)。つまり彼は、関連史実としては我々が取り上げた事実をそのまま認めるが、「惜しいかな!1699年は1700年ではないです、ノストラダムス先生!」とでも言いたげなのである。

しかし、では、レオニも指摘するトルコの「the war with Austria of 1682-99」という20年近い幅を持つ出来事を、「一方では隠し、一方では示唆する予言者の表現法」を以って、「1700年」以外のどのような表現で表すのが適切だというのだろうか。最も厳密には、上掲の歴史家が「17世紀末」と正に適切に表現しているようにすべきだとしても、それでは「真正の予言」にはならないだろう。ノストラダムスはこの点を完全に自覚している。つまり彼は、各予言詩に対して「時の計数」(年月日を明示すること)を附ける事はやれば出来るけれども、そうすると時の権力者や有力者、関係者から不都合な圧力を受ける危険に晒される。従ってヴェールに包んだ表現を選んだ、という趣旨の事をアンリ二世宛献辞で述べている。

そういう観点からすれば、「1700年」というのは、関連史実に照らしてみた時、「予言者の見事な表現」と言うしかないのである

予言が日常世界にありふれた「一種のあいまい表現」を活用する点は、日付のある預言詩5(§ 244,X-91)でも見た。つまり、そこでは、「年頭」と言う表現が、必ずしも年の第1日目に限定されず、幾らかの幅を許されていることを自明として前提した。国語辞書もそれを認めている。「年頭:1年の計画を立てるべき、年の初め。⇒年始・年初」「年始:新年(になってからの数日間)」「年初:年の初め。新年(になってからしばらくの間)。〔大体、一月いっぱいまでを指す〕」(山田忠雄ほか『新明解国語辞典第三版』三省堂、東京、1981)

このように、予言解釈は、日常世界の拡大され、組織化された推理的解釈の趣を持っている。

**補訂(2015年11月9日)
本詩の三行目原文の動詞は、上記解釈では seront (être の未来形)と取っていたが、feront (faire の未来形)と取るのが適切と思われる。その場合、上記では emmener の過去分詞形と考えられた emmenées という語は名詞としては辞書になく、ノストラダムスの造語で、「遠征軍」といった意味になるだろう (cf. Clébert, 2003, p.130)。そして grand という形容詞は、ノストラダムスにおいてよく見られるように、grandes に代わる性数一致欠如の形態である。すると和訳、英訳は次のようになる。

遥か、遥か以前に、このような企み。
月の霊験を受けるオリエントの人々が、
1700年、大いなる軍隊遠征を行うだろう、
そして北方の一角を殆ど屈服させかけるだろう。
Long long ago, such maneuvers.
Those of the Orient under the virtue of the Moon,
In the year 1700 shall send grand expeditions,
Having almost subdued a corner of the north wind zone.

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日付のある預言詩7: III-77

第三サンチュリ77詩 (§327)

 

第三時間帯で白羊宮の支配を受ける地。

1727年10月、

ペルシアの王はエジプトの人々によって奪い取られるだろう。

闘争、死、喪失;その十字架には大いなる恥辱。

 

The third climate covered under Aries, 

In the year a thousand seven hundred twenty and seven in October:

The king of Persia deprived of his by those of Egypt:

Conflict, death, loss: to the cross great opprobrium. (№ 2)

 

一行目の規定は、プトレマイオス以来の天文=占星学的伝統概念に基づいているものである。

最初に、「時間帯」(climate)とは、今日の「気候」の語源でもあるが、「人が住む世界の中の七つの緯度帯で、当該地帯の昼の最長時間を13時間から16時間に渡り、30分毎に区切って並べたもの。」(Liddell & Scott, κλἰμα) 更に詳しく規定するならば次のようになる:「赤道に平行な二つの緯線に挟まれた地帯で、極に最も近い緯線の昼の最長時間が赤道に最も近い緯線の昼の最長時間を、一定量だけ、例えば30分だけ凌駕する、そういう幅を持つ地帯のこと。」(Landais, CLIMAT )

 

プトレマイオスによれば、

昼の最長時間が13時間の緯度(赤道への距離)は、北緯16度27分である。

昼の最長時間が13時間30分の緯度(赤道への距離)は、北緯23度51分である。

昼の最長時間が14時間の緯度(赤道への距離)は、北緯30度22分である。

昼の最長時間が14時間30分の緯度(赤道への距離)は、北緯36度である。

昼の最長時間が15時間の緯度(赤道への距離)は、北緯40度56分である。

昼の最長時間が15時間30分の緯度(赤道への距離)は、北緯45度1分である。

昼の最長時間が16時間の緯度(赤道への距離)は、北緯48度32分である。

Halma, p.76-84; プトレマイオス著、藪内清訳『アルマゲスト』恒星社厚生閣、東京、1993, p.51-57

 

従って、第一時間帯は、定義に依り、13時間の昼の最長時間を持つ北緯16度27分の緯線と赤道に挟まれた地帯である。


また、第二時間帯は、同じく13時間30分の昼の最長時間を持つ北緯23度51分の緯線と北緯16度27分の緯線に挟まれた地帯である。

そして、第三時間帯は、同様にして、14時間の昼の最長時間を持つ北緯30度22分の緯線と北緯23度51分の緯線に挟まれた地
である。以下同様。

ちなみに、第三時間帯をオーヴァソンは、「近似的に28度から34度」
(Ovason, 1997, p.238; cf. 阿部秀典訳『ノストラダムス大全』飛鳥新社、東京、1999, p.276) としているが、正確性を欠く。また、ブランダムールは「プトレマイオスに依れば、アレキサンドリアと下エジプトは第三時間帯を占める。」(Brind’Amour, 1993, p.262; 1996, p.434-435) としているが、アレキサンドリアの緯度は北緯31度13分であるから、第三時間帯には含まれない。プトレマイオスが実際に述べているのは、「昼の最長時間が14時間の緯線は北緯30度22分にあって、下エジプト(ナイル川下流のデルタ地帯)を通る。」(藪内清訳『アルマゲスト』p.57-58ということであって、それは線として通っており、その線は第三時間帯の北限であって、幅のある時間帯そのものではない。従って、アレキサンドリアは、確かに大きくは下エジプトに位置するが、それでも北緯30度22分の緯線より北の北緯31度13分に在るから、第三時間帯には含まれないのである。第三時間帯そのものは、南限が北回帰線のすぐ北の北緯23度51分であるから、当然、上エジプトをも含んでいるのである。

 

これは地球上の一定の緯度の帯状の全体を表す概念であるが、次にそれを「占星学的地域特性論」に基づき、「白羊宮の支配を受ける地」という規定で更に絞って行く(もっとも、ノストラダムスはこれらの概念を単に世界地理用語として利用しているに過ぎない)。ギリシア古典文明(ヘレニズム)時代において「人の住む世界」を「東西」と「南北」の二本の交線で区切って、西北(ヨーロッパ)・東南(大アジア南部)・東北(大アジア北部)・西南(リビア=現アフリカ)の四つの区域を描き、それぞれに黄道12宮の中の火・土・空気・水の4種類のサイン群を配し、更に各区域内の配置により各細分地域に固有の個別サインを当てて、その意味から対応地域の特性を論じたのはプトレマイオスである。東西の線は地中海及びその東方への延長線上にある山系である。南北の線は、紅海・エーゲ海・黒海・アゾフ海である。その交点は地中海東端キプロス島東南沖合である。

 

それによれば、大なり小なり白羊宮の支配を受ける地域は、「西北」というキーワードを持つ。大きくは西北地域(ヨーロッパ)全体であり、それに加えて、大アジア南部の中の西北部分(世界交点の近傍)である。具体的には以下の諸地域である。

 

ヨーロッパ: イギリス、フランス、ドイツ、バスターニア(ロシア南西部と南ポーランド)、イタリア、シチリア、ポルトガル、スペイン、トラキア、マケドニア、イリュリア、ギリシア、ぺロポンネソス、クレタ、キクラデス諸島、小アジア沿岸部及びキプロス(Tetrabiblos, p.133-137)

 

大アジア南部の西北部分:イドメア(死海南端の周辺地域)、コエレーシリア(パレスチナの北で、レバノンとアンチレバン山脈の間)、ユダヤ(死海と海岸の間)、フェニキア(ユダヤとサマリアの北の沿岸狭小地帯)、カルデア(バビロニア南部とアッシリア南部)、幸多きアラビア(アラビア半島の南西沿岸部)(Tetrabiblos, p.142-143)

 

以上の諸地域が大なり小なり白羊宮の支配下にあるが、その中で「第三時間帯」に属するのは、北回帰線より若干北の北緯23度51分と北緯30度22分に挟まれた地域である。そうすると、ヨーロッパの中で最も南に位置するキプロス島南端の「ガータ岬(Cape Gata)」でさえも北緯34°より北だから、ヨーロッパはどこも第三時間帯には属さないことが明らかである。他方、大アジア南部の西北部分を見ると、イドメア(死海南端の周辺地域)の南部、バビロニア南部の一部、及び幸多きアラビア(アラビア半島の南西沿岸部)の北部が第三時間帯に含まれることが見て取れるだろう(cf. Duby, p.8-11; p.214)。他方、シナイ半島やその北の「岩のアラビアArabia Petraea」は、第三時間帯には含まれるとしても、元来「リビア(現アフリカ)」に属し、従って白羊宮とは無縁である(cf. Tetrabiblos, p.151-155)

 

ところで、これら三地域(イドメア南部、バビロニア南部の一部、及び幸多きアラビアの北部)は、1727年当時、オスマントルコ領であった(cf. Duby, p.214)。従って、本詩第一行の二つの条件(第三時間帯と白羊宮支配地)は、部分地名たる提喩として、オスマン帝国全体を指し示しており、オスマン帝国が本詩の主題になっていると解される。従ってまた、三行目の「エジプトの人々」という表現も、当時正にエジプトもオスマントルコ領であったから、これも提喩によって「オスマントルコの人々」という真意が明らかとなる(cf. Duby, p.214; Leoni, 1982, p.614; Ovason, 1997, p.239)。事実、ノストラダムスは、提喩 synecdoche として「部分地名」を使用する事が非常に多いからである(Cf. はじめに1; 日付のある預言詩8(§ 329,VIII-49): ポントロッソイタリア;フランス革命7:ローヌ河フランス;フランス革命14:女王の森ミューズ県)。この場合は、「エジプトの人々」を原義どおりに取っても解決は得られないが、「オスマントルコの人々」又は「その政府」と解すると解釈が可能となる。つまり、この見方では1-3行目は、「1727年10月に、ペルシアの王は [その西方領土の一部を]、オスマントルコに奪われるであろう。」という単純明快な意味となる。

 

これに該当する史実は既に1910年にエリゼ・デュ・ヴィニュワが提出している。「トルコ・ペルシア条約(1727年10月)史実:1727年10月、コンスタンティノープルとエジプトの支配者たるトルコと、ペルシア王との間の条約によって、トルコ帝国はペルシアの犠牲の上に領土拡大を成し、ペルシアはスルタンをカリフ達の正統後継者として認知する事を強制された。」(Vignois, p.49 )。そして1914年にはニクローが、ドレース著『世界史年代記』の次の引用を以て補強している: 『1727年:ペルシアとトルコ 平和条約 (10月): トルコはグルジアのエリヴァンからタウリスとハマダンに至るまでの全地域を保持した。コンスタンチノープルのスルタンはカリフ達の正当な後継者と認められた』(Dreyss, p.621) (Nicoullaud, p.115)。又1925年にはコラン・ド・ラルモルもこれを確認している。「事実、1727年10月に、エジプトの支配者にしてエジプトを作戦基地にしていたトルコのスルタン、アフメト三世と、ペルシア王、アシュラフとの間で一つの条約が調印された。ペルシアはスルタンアフメト三世をカリフ達の正統な後継者として認め、彼に自国領土の一部を譲渡した。」(Larmor, p.172-173)  更にその後1953年にはドイツのノストラダムス研究者ツェントゥリオもこれを補強している。「1727年には何が起ったか?1727年10月3日に、ハマダン平和条約が締結され、その条約においてトルコはペルシアの西部領土を獲得した。」(Centurio, p.83) 又、スチュアート・ロブも、この条約がオスマントルコに極めて有利な内容であったと適切な説明を加えている(Robb, 1961a, p.55-56)が、我々は基本的文献に遡って確認をとっておきたい。

[1727]10月の初め頃、平和条約が遂にハマダン陣屋において調印された。その条項は以下の通りである。

1.スルタンは、イスラム教徒の公認の元首とされ、且つカリフ達の真の後継者とされるものとする。

2.この資格でスルタンの名において公的祈祷が全ペルシアで行われるものとする。

3.スルタンが現にペルシアで確保している諸地方、諸都市は永久に彼に割譲されるものとする。

4.スルタンが戦争中に奪われたクジスタンは再び彼の領有に帰するものとする。

5.彼は同様にしてゼンガン、スルタニー、エブヘル、テヒランの諸都市、及びそれらの属地を領有するものとする。

6.オスマン軍から1726年に奪われた大砲、武器及び軍旗は返還されるものとする。

7.アシュラフは、スルタンによって、ペルシア王国の合法的君主として認知されるものとする。

8.アシュラフはかかる資格者として、公的祈祷においてスルタンに次いで名を呼ばれ、そして自身の名で貨幣を鋳造するものとする。

9.アシュラフは、毎年メッカに巡礼するペルシア・キャラヴァンの指揮官を指名するものとする。このキャラヴァンは、慣例通り、バグダッド・ルートを採るものとする。そしてバグダッド総督は、従前通り、当該指揮官を指図する長官を指名する権能は有しないし、当該指揮官はスルタンのいかなる官吏の権威にも服さないものとする。」(Hanway, 1753, p.254-255)

 

これを見ると、条約内容がいかにスルタン [「ベイ(君侯)」に対し、「皇帝」とも訳しうるであろう「スルタン」(鈴木董『オスマン帝国 p.53 ]に有利なものであったかが明瞭である。アフガン族出身としてアシュラフは公式にペルシア君主としてスルタンから認められたという実質以外には、彼は何も得ていないに等しい。第9条は既得権の再認でしかない。スルタンはそれに見合う以上の「ペルシア宗主権とカリフ並みの栄誉」と共に、実質的な、相当大きな領土的拡張を得ている。条項の諸地域を併せると、大体、東経50度線圏までオスマントルコは自国領土を東方に広げたと言える。これはオスマントルコの東方進出の史上最大版図である。それ以前は、北方が東経45度辺り、南方が同47.5度辺りの国境であった。

 

逆に、ペルシアは、それだけの広大な西部地域領土を失ったのだから、「1727年10月、ペルシアの王はエジプトの人々によって奪い取られるだろう。」という予言は的確に為された、と言うべきだろう。但し、この読み方は原文と必ずしも文法的に合致しないという主張も可能である。実際、ノストラダムスのフランス語原文は、Le roy de Perse par ceulx d'Egipte prins: となっていて、レオニなどは、The King of Persia captured by those of Egypt(ペルシア王がエジプトの人々に捕囚され).(Leoni, 1982, p.213) と訳し、They [the Turks] did not, by any stretch of imagination, capture (or even defeat) the Persian ruler... So this one [prophecy] must be considered a well dated failure(どんなに想像の翼を広げたところで、トルコ人達がペルシアの支配者を捕囚した、(或いは打ち負かしたことさえ)事実として無かった。故に、この詩の預言は見事に日付けされた失敗と見なされるべきである).(Leoni, id., p.614-615)と注釈を加えている。確かに、レオニがこのように懐疑論者として、いかにも勝ち誇ったようにノストラダムスをけなす根拠が無い訳ではない。というのも、原文に使用されている主動詞 prendre (to take) の用法として、能動態がすんなりと受動態に変換できない事情があるからである。

 

即ち、先に見たように、条約上、「ペルシア王がその領土の一部をオスマントルコの人々に奪われた」という史実の受け身の表現を、prendre という動詞を使ったフランス語では表現できないのである。なるほど、「オスマントルコの人々がペルシア王からその領土の一部を奪った」という同趣旨の能動態表現は可能で、その未来形「オスマントルコの人々がペルシア王からその領土の一部を奪うだろう」なら、Les Ottomans prendront une partie de son territoire au roi de Perse. となる。この時、フランス語文法では、「ペルシア王から」を「間接目的語」、「その領土の一部を」を「直接目的語」と称する。そこで、「オスマントルコの人々がペルシア王からその領土の一部を奪うだろう」という能動態を受動態に変える場合、その受動態の「主語」になり得るのは、「直接目的語」に限られて、「間接目的語は主語になれない」のがフランス語の決まりである。つまり、Une partie de son territoire sera prise au roi de Perse par les Ottomans. (ペルシア王からその領土の一部がオスマントルコの人々によって奪われるだろう)という形が合格であって、Le roi de Perse sera pris une partie de son territoire par les Ottomans.(ペルシア王はその領土の一部をオスマントルコの人々によって奪われるだろう)という表現は、日本語なら全く問題がないのに、 フランス語では文法上許されないのである。従って、本詩原文Le roy de Perse par ceulx d'Egipte prins: は、「ペルシア王が身柄を取られる」というレオニ的解釈の意味でなら可能であるが、「領土を奪われる」という意味なら可能ではない。

 

しかし、それはあくまでも文法的正当性の範囲内の話であって、時に文法的制約を超越して大きな預言的事態を、詩的に且つ謎めいて表現することを言語的工夫として駆使するノストラダムス(cf. アンリ二世宛書簡、p.8:『かような諸々の秘密の出来事は謎に満ちた文章によってしか言い表せない』)の場合は、別の考察が求められるだろう。特にこの場合、「その領土の一部がペルシア王からオスマントルコの人々によって奪われるだろう。」という正規の受動態表現が、謎めいた預言詩としては明らか過ぎて不都合であるという事情があるだろうから、その趣旨を、直接目的語を欠落させた「ペルシア王がオスマントルコの人々によって奪われるだろう」という非正規受動態表現に仮託したということは十分あり得る。その中に、歴史事実と照合しながら、「肝心の直接目的語を探し出すような、詩句の字義的地平を超えた推理、推量、想像力に訴える解釈」という作業は、ノストラダムス預言詩解釈家には常に課せられていると言わなければならない。

そして、事実、例えばレオニ自身も、こういった「字義的地平を超える解釈」と無縁ではない。例えば彼は、「
Nor did this oriental diplomacy [i.e. the peace treaty between the Turks and Persia in 1727] bring any particular shame to Christendom.」(又、1727年のこのトルコとペルシアの平和条約という東洋の外交が、キリスト教世界に何らの特別な恥辱をもたらしはしなかった)(Leoni, 1982, p.615) と言っているが、ノストラダムスの本詩の字句としては、そういう趣旨は語られてはいないのである。即ち、「一体、何が、十字架にとって大いなる恥辱なのか」という事は、明示的な表現としては詩中に述べられていないのである。それにも拘らず、彼はそれに一つの解答を呈示して、「1727年のペルシア・トルコ平和条約がそれだ」と主張しているのであるから、そこには彼なりの「超字義的地平の思考」が働かされたに違いないのである。しかし、彼のこの推測は的外れだろう。何故なら、本詩の一番の主題は、第一行の解釈から、「オスマン帝国そのもの」だという事が充分な理由を以て言えるから、第三行目も、第四行目も、オスマン帝国の歴史的事象として主題的に解釈されなければならない、と言えるからである。

同様の事は、ブランダムールの解釈についても見られる。彼は本詩解釈の中で、「
Nostradamus, en attribuant la Perse au Bélier, paraît suivre d’autres auteurs, comme Manilius.」(ノストラダムスは、ペルシアを白羊宮に帰属させるに当たり、[プトレマイオスとは] 別の著者達、例えばマニリウスに従っているように見える)と述べているが(Brind’Amour, 1993, p.262; 1996, p.435)、そういった事(ペルシアが白羊宮の支配を受ける地であるという事)は詩中に文言としては述べられていないのである。ノストラダムスはただ、第一行で「白羊宮の支配を受ける第三時間帯」を定義的に掲げているだけで、具体的に何処が白羊宮に帰属するかという事は何も語っていないのである。しかし、第三時間帯、白羊宮支配地域、1727年10月、ペルシア、エジプト、といった詩中のキーワードを合理的に、且つ、史実照応的に整合させてゆく時、第一行の定義は、「当時のオスマン帝国領の一地域」にしか該当しないことが判明するのである。(以下次回)

[改訂:2016214]
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日付のある預言詩7(続): III-77

第三サンチュリ77詩 (§327 続)

 

第三時間帯で白羊宮の支配を受ける地。

1727年10月、

ペルシアの王はエジプトの人々によって奪い取られるだろう。

闘争、死、喪失;その十字架には大いなる恥辱。

 

The third climate covered under Aries, 

In the year a thousand seven hundred twenty and seven in October:

The king of Persia deprived of his by those of Egypt:

Conflict, death, loss: to the cross great opprobrium. (№ 2)

 

次に、最終行の解釈であるが、前半、「闘争、死、喪失」は、1727年の講和がトルコ、ペルシア双方の休戦要求の事情から来た一時的なものであったから、再戦、又三戦とぶり返す事になる予言である。そして後半はトルコが十字架、即ちキリスト教国オーストリアに雪辱するという予言である。

 

先ず、「1727年10月」という規定は、流動する歴史の瞬間的断面を正確に捉えたノストラダムスの見事な予言の例であり、事実、その直後にはトルコとペルシアの死闘が再び継続されて行くのである。即ち、2年後の1729年には、スルタンからペルシアの合法的王として認知されていたアフガン族のアシュラフが、ペルシアのアフシャール族ナーディル・クリーによってサルガン(33.3°N, 59.6°E)で撃破されてしまい、アフガン族はペルシア中央部から故地アフガニスタンへ撤退せざるを得なくなった。1732年には、ナーディル・クリーはイスファハンに攻め上り、タフマースブ二世を退位させて、その幼息をアッバース三世として擁立し、自らは摂政となった。1733年7月、ナーディルはトルコ領に侵入し、オスマン軍勢を破り、バグダードを包囲した。トルコの軍事・政治指導者トパル・オスマンが8万の兵を率いて首都の救援に来た。チグリス川堤防の上で死闘 [闘争] が戦われ、彼の軍は大敗を喫し、ナーディルは重傷を負い撤退した。1734年以降、トパル・オスマンが戦死 []、彼の後継者キョプリュリュ・アブダラも敗死 []、ここに至ってトルコ政府は和平を求めた。1736年、ティフリスにて講和が成り、トルコ全権大使はそこでナーディル・シャーの戴冠に立ち会うことになった。そして、調印された条約により、トルコは近年の征服地を全部返還することになり [喪失]、その結果、両国国境は1639年条約通りに復した(40°N, 43°E30°N, 50°E の2点を結ぶ線に近似)。(Cf. 石橋・松浦他編『世界史大年表』; HH, XXIV, p.408-409

 

即ち、第一行が「オスマン帝国を本詩の主題として提示している」ことから、第四行目前半の「闘争、死、喪失」の中で、「闘争」はトルコとペルシア間のものであるが、「死、喪失」は専一的にトルコに関すると解釈出来、又その方が史実によく合致するのである。

 

他方、「その十字架には大いなる恥辱」とは、オスマントルコと隣国オーストリアとの抗争に関わる。この場合も、キリスト教国と関わる相手国はトルコであり、レオニのようにペルシアも関わると読むのは妥当ではない。

 

当時(1736-1739)、トルコは北の隣国ロシアとも争っていたが、対ロシアでは、アゾフをロシアに割譲という大譲歩を以って終結したから、トルコは負けたのである(「1739年9月 オスマン朝、ロシアとベオグラード条約を結ぶ:ロシアにアゾフを再割譲。」石橋秀雄・松浦高嶺他編『世界史大年表』p.371)。従って、ロシアもキリスト教国とはいえ、「大いなる恥辱」を受けた訳ではないから、ここに該当しない。しかし、オーストリアは、対トルコ戦大敗北後のベオグラード条約(1739年9月)において、1699年のカルロヴィッツ条約を無効にする、という大譲歩をトルコに対してせざるを得なかった。カルロヴィッツ条約(cf. HH, XXIV, p.402)では、トルコがハンガリーとトランシルヴァニアをオーストリアに割譲して「大いなる恥辱」を負ったのに対して、40年後の今度は全く逆の立場に置かされた。つまりトルコはセルビア、ワラキア等々を取り戻したのである。史書も"The Treaty of Belgrade annihilated the Treaty of Karlowitz and effaced its shame." (HH, XXIV, p.410) と述べている。これはトルコの立場の説明であるから、逆のオーストリアの立場であれば、「恥辱を被った」ことになる。また、別の史書も、この条約を「1739年9月22日の恥ずべきベオグラード条約」(Dreyss, p.626)と記している。かくして、四行目は、1727年に続く十数年の間のオスマントルコとその主要隣国との抗争と帰結を予言したものとして十分の理解が得られるのである。

 

この点、オーヴァソン (Ovason, id., p.239-240) は、1727年から実に20世紀にまで及ぶ関係諸国間の長大な歴史事実を第四行に関連付けているが、それは焦点の絞り込みの不足と云うべきだろう。なるほど、場合によってはノストラダムスは、数世紀に及ぶ事象を取り上げることもあるが、今はそういう場合ではない。

 

さて、最後に、本詩の二行目の解釈に関連する問題として、ノストラダムスの「月日表示」の仕方に関わる検証を行っておきたい。何故なら、解釈者の中に、二行目を、「1720年10月7日」又は「1700年10月27日」と読む例が見受けられるからである。

 

それというのも、二行目は、フランス語原文に最も忠実に訳せば、In the year a thousand seven hundred twenty and seven in October となり、In the year a thousand seven hundred twentyを「1720年」、 and seven in Octoberを「10月7日」と読む可能性、又は、In the year a thousand seven hundred を「1700年」、twenty and seven in October を「10月27日」と読む可能性があるように見えるからである。実際、医師・推理小説作家として高名な高木彬光『ノストラダムス大予言の秘密』(角川書店、1975, p.186-189)はまさにこのように読んで、そして対応史実が見当たらないのを確認し、ノストラダムス予言の根本的失敗を結論付けようとしたのである。

 

しかし、ノストラダムスの詩文に多少とも慣れ親しんだ経験があれば、むしろ、当該詩句をこのように読む事に対して強い違和感を覚えるし、又事実、主要なノストラダムス研究者の中にそう読む人は無い。思うに、高木氏は、「年と月と日を明示した予言詩」の存在を検証対象として求めており、且つ、「ベルギーの田舎に今でも残っているフラマン語的な方言的表現にこんな言い回しがある事を突き止めた」という事情がそのように読む事へ氏を誘導したということだろう。

 

けれども、ノストラダムスはプロヴァンスの人であり、フラマン語的方言の表現を使う事は殆どあり得ない。且つ、「原文の第二行は中世フランス語の特殊な表現が使われており、現代フランス語の表現とは全然変っている」という氏の主張も首肯出来ない。この主張は主客転倒している。何故なら、氏がそれを「年に加えて月と日も明示した語句」と初めから決めて掛っているからそういう事になるのだから。その証拠に、氏はフランス語が分かる人なら最初に解釈として出して来る筈の「1727年10月」という読み方を全く選択肢としても提出していない、むしろ、現代フランス語の表現に慣れた人は、10人が10人、「1727年10月」と読むだろう程に、原文は「現代的」であるにも関わらず。

 

実は、論理的にも、文法的にも、第二行を「1720年10月7日」、或いは「1700年10月27日」と読み取る可能性は初めから排除される事を論証しておきたい。

 

先ず、「1720年10月7日」と読む可能性について言うと、原文に忠実に訳すとそれは、「1720年と10月の七つ」(In the year a thousand seven hundred twenty and seven in October) といった漠然とした意味になるだろう。「10月の七つ」(seven in October) の「七つ」が、そもそも「日にち」を意味するという保証が十分には無いし、仮に「日にちの7日」(the 7th day) だとした所で、今度は、「1720年10月7日」という形になり、これはこれで奇怪な表現である。何故なら、我々は「1720年10月7日」と云うが、それを敢えて「1720年10月7日」とは言わないからである。また、「1720年と10月7日」と云う場合は、「10月7日」が必ずしも「1720年」に帰属するとは限らなくなるのである。

 

同様に、「1700年10月27日」と読みたいとしても、「1700年10月の27」というのが正直な意味である。その「27」は「任意の或る物の数」でしか無くて、確実に「27日」を表す保証はその表現自体には存在しないのである。

 

我々は今、「ベルギーの田舎に今でも残っているフラマン語的な方言的表現にこんな言い回しがある事を突き止めた。」という高木氏の言表を実証的に検討する何らの手段も持たないから、大上段から、「ノスタラダムスがそんな方言を使う筈がない」と云って片づける外はないし、仮にそういう表現があっても「フランス語としては日にちの表現にはならない」と批評しておく。

 

他方、同じ氏が、同じ主張を根拠づける為に、「原文の第二行は中世フランス語の特殊な表現が使われており、現代フランス語の表現とは全然変っている」という全く異なる説明を行うこと自体は奇っ怪ながら(それとも、フラマン語的方言とは中世フランス語の名残なのか?)、その主張の当否は検証に値するし、且つ容易に是非を判断できる。即ち、歴史的背景からフランス語を見た時、「フランス語の序数詞は1er を除いてすべて基数詞に接尾辞(-ième)をつけて作られる。だから、数詞の基本はもちろん基数詞にある。そこで日常の慣用でも、序数詞はつねに基数の前に後退し、その用途が狭まってくる。1) 時刻 []2) 日付:ここでも12世紀ごろまで、ラテン語の慣用に従って序数を使っていた。

L.[ラテン語]  dies duodecimus  12 [12番目の日]

A.F.[古フランス語]  le douzieme de mai  512日 [5月の第12番目]

F.[フランス語]      le douze mai  512

この古形は時刻のばあいと同じように、教会や裁判の用語では17世紀まで使用された。

C’était le dixième d’août. (Bossuet) 810 [8月の第10番目] のことだった。」

ただし「1日」だけは今も序数が使われ le premier mai 51日」と言う。」(島岡茂『フランス語統辞論』大学書林、東京、1999, p.363-364

「ある成句の中には、今日でも定冠詞が古い指示力をもつものがある。

日付le (ce) 10 mai  510

日付は古くは指示詞 ce によって、その当日をあらわした。」(島岡茂、同上書、p.147

 

以上に依って見るに、中世フランス語とほぼ同じと言ってよい古フランス語は、「定冠詞+序数詞+前置詞 de +月名」という極めて重厚な構成で日付を表現したと思われる。そして、ノストラダムスが他の場合に具体的に「月日」を書き残している実例に当たって見ると、そういう構成に非常に近い表記であることが分かる。つまり、フラマン語的方言語法というような無縁世界に飛び込む前に、「ノストラダムス自身に即した月と日の表現」を考察するのが有益だろう。すると、彼はそれについては常に一つの決った言い回ししか使っていない事実が浮かび上がってくる。つまり、ノストラダムスは、月と日の間に必ず「de(of) という前置詞を置いて繋ぎにしている。他方、日にちの前の定冠詞または指示詞は多くの場合は付くが、無い場合もある。以下の通りである。

 

1. XIII. de Fevrier (III-96: 13 of February).

2. Six de Fevrier (VIII-49: six of February).

3. le dix Kalendes d'Apvril (I-42: the ten from the 1st of April).

4. Premier d'esté ( VI-85: first of summer).

5. ce I. de Mars (Préface: this 1st of March).

6. le 14. de Mars (Épistre: the 14 of March).

7. sept du moys d'Avril (Épistre: 7 of the month of April).

8. le 25. d'Aoust (Épistre: the 25 of August).

9. 14. de Juin (Épistre: 14 of June).

10. le 7. d'Octobre (Épistre: the 7 of October).

11. le 17. d'Avril (Épistre: the 17 of April).

12. le 22 de Juing (Épistre: the 22 of June).

13. le 9. d'Avril (Épistre: the 9 of April).

14. le 22. de May (Épistre: the 22 of May).

15. le 3. de Fevrier (Épistre: the 3 of February).

16. le 27. dudit [Fevrier] (Épistre: the 27 of the said [February]).

17. le premier de Juing (Épistre: the first of June).

18. le 24. dudit [Juing] (Épistre: the 24 of the said [June]).

19. le 25. de Septembre (Épistre: the 25 of September).

20. le 16. d'Octobre (Épistre: the 16 of October).

21. ce xxvij. de Juing (Épistre: this 27 of June).

 

従って、実際的かつ客観的判断としては、本詩二行目は、ノストラダムスが常用する前置詞「de」を欠いているので、「日の規定を持たない年と月の表示」と見るべきである。

 

ところで、高木彬光氏の求めた「年と月と日を明示した予言詩」の存在は、しかし、これとは別のところに求める事が出来る。次回はそれを取り上げる事にしよう。

[改訂:2016215]
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日付のある預言詩8:年と月と日のある預言詩

日付のある預言詩8:「年と月と日」のある予言詩:VIII-49

第八サンチュリ49詩 (§329):
土星が金牛宮、木星が宝瓶宮、火星が人馬宮の、
二月六日という歳は多くの病死者があるだろう。
サルデーニャの人々も、ブルージュでも、非常に大きな突破口、
同じ頃ポンテロッソではバルベリーニ家当主が死去するだろう。

Saturn in Taurus jove in the water, Mars in arrow,
Six of February shall give mortality,
Those of Tardaigne at Bruge so great breach,
As in Ponteroso the Barbarin head shall die.


一行目の天象は明らかに土星、木星、火星という「三つの外惑星」が関与する非常に稀な機会を指している。それと、「2月6日」との関係は、

a) 2月6日に正にこの天象が見られる、というその年のその2月6日、
b) この天象が見られる年の2月6日、
c) 2月6日にこの天象が見られるその年、
という三つの選択肢が想定できる。

そこで先ず、最も広く、b)の前提:「この天象が見られる年」を列挙してみよう。これはデュフレンヌの考察の仕方と同じ事になる。尤も、彼はこの天象が約350年毎に起こるというだけで、直ちに1559年2月6日が本詩に該当する、としている。

彼のその前提をひとまず一般化すれば、我々の計算では、この天象が起こる年は以下の通りである(StellaNavigator StarFisher による計算)。

1559, 1736, 2234, 2352-2353, 2413, 2590, 3088, 3206, 3325, 3823, 3942, etc.

デュフレンヌは「1559年2月6日がカトーカンブレジ条約調印の成否を懸けた交渉開始日」である事に着目し、これを採用する(Dufresne, 1998, p.177)。2月6日が仮にそういう「フランスにとって重要な出来事」を示すとしても、しかしそういう評価を無効にする程度までも、「和平へのアプローチ」を以って「多くの病死者があるだろう」という予言内容に引き当てる彼の思考回路に潜む概念連関の不整合は大きいのである。

我々の立場からすれば、2000年をノストラダムス予言の終了年と想定するので、1559年と1736年の二つの選択肢しか残らない。即ち、1559年は2月15日~2月26日、1736年は2月6日~2月17日の期間にこの天象が見られる(パリ、地方平均時。StellaNavigator による計算)。そこでデュフレンヌの1559年説を否定すれば、1736年のみが候補として残る。

次に、a) とc) に共通の「2月6日にこの天象が見られる年」の事例を見てみると、1559年は2月15日から2月26日までに限定されるから該当しない。後は、上記1736年(2月6日~2月17日)しか無い。

そして、これは誠に稀有な生起パターンであって、クリスチャン・ヴェルナーによれば「1736年2月6日よりも後には、3797年まで(そして更にずっとその先までも)このような惑星布置が2月6日に生じることはもはや無い。」(Wöllner,1926, p.50 )

事実、我々の検算でも、1736年の次は、3942年(1月23日~3月19日)にようやく生起する。(後は5200年まで検討したが生起は無い。StarFisher による計算。)

故に、残る問題は、1736年という「歳」がテーマなのか、それとも「その年の2月6日」という特定日が問題なのか、という一点に絞られる。これは、「多くの病死者があるだろう」という関連予言内容、そして後続事項が「複数の地名」及び「1738年」という歳を含む事等を勘案すると、「1736年2月6日」という狭い限定ではなく、「その2月6日にしかじかの惑星布置が見られる歳たる1736年」と解するのが妥当だろう。

関連史実としては、ヴェルナーが次のように説明している。「レルシュ博士『国民病の歴史』は、この時代の健康状態に関して次のような概観を述べている。」「1736年、英国ではコレラが発生し、メキシコでは黄熱病、カイロではペストで一日に1万人が死亡、オランダでは伝染性の赤痢が発生し女性が特に罹患した。イタリアでは天然痘が猛威を揮い(1737年)、同様にフランドルでは悪性の熱病が猛威を揮った(1737-1741年)。」(Wöllner,1926, p.51; B.M. Lersch, Geschichte der Volksseuchen nach und mit den Berichten der Zeitgenossen, Berlin, S.Karger, 1896, p.353-355) 「バルベリーニ本家の最後の当主、1662年生れで助祭枢機卿、パレストリーナ司教、フランチェスコ三世が1738年に死去した。」(Wöllner, p.51)

1-2行目は、「1736年の罹病死者(mortality)の大」と解すると、「1736年、英国ではコレラが発生し、メキシコでは黄熱病、カイロではペストで一日に1万人が死亡、オランダでは伝染性の赤痢が発生し女性が特に罹患した。」というレルシュの記述と合致する。

又、3行目の「サルデーニャ(Tardaigne = Sardaigne)の人々も、ブルージュでも、非常に大きな突破口」は、「イタリアでは天然痘が猛威を揮い(1737年)、同様にフランドルでは悪性の熱病が猛威を揮った(1737-1741年)。」という記述と合致する。というのも、当時、サルデーニャ王国(主として北イタリアのピエモンテとサルデーニャ島から成る)は独立国家ではあったが、イタリアという地理的な一般的概念に当然含まれるし、ブルージュはフランドルに立地しており、且つ、1736年に続く1737年の事であり、更に「突破口(breach, 城壁の割れ目)」という表現は、mortalityのように「死」を直示するというよりも、「壁の突破口が大きな攻撃の可能性へ導く」如く、「大きな確率の死へ導く如き広範な罹患」という意味として精細に理解出来るからである。実際、辞書の説明でも、「手始めとなる損害(dommage qui entame)」(Petit Robert)とある。

そして、「同じ頃ポンテロッソではバルベリーニ家当主(the Barbarin head = the head of the Barberini)が死去するだろう。」という最終行は、「バルベリーニ本家の最後の当主、1662年生れで助祭枢機卿、パレストリーナ司教、フランチェスコ三世が1738年に死去した。」というヴェルナーの解説が簡潔ながら解答の殆ど全てを与えている。要注意点は、「ポンテロッソ」という地名がどこを指すかであるが、ルペルティエによれば、「ポンス-ロセウス、教皇領内のサビネ人達の橋」である(Le Pelletier, II, p.458)。他方、レオニによれば、「ジェノアの北8マイルにポンテロッソという小村がある」(Leoni, p.706)。いずれにしても、この場合ポンテロッソという地名は、先にIII-77において、ノストラダムスが部分地名(エジプト)を以って全体(オスマントルコ)を表すといういう提喩 synecdoche として「部分地名」を使用する例が非常に多いことを見たように、矢張り「提喩」として理解すべきだろう。実際、問題の人物は「ポンテロッソで」死去している訳ではないが、その地名が提喩として指示し得る「イタリアで」、即ち「ローマで」死亡している。

イタリアの名門の一つ、バルベリーニ家は、ガリレイ裁判を実施した教皇ウルバヌス8世(在位1623-1644)が出た家門である。この本家当主の死をリストアップしてみよう。

1. Carlo Barberini (1488-1566).
2. Francesco Barberini (1528-1600).
3. Carlo Barberini (モンテロトンド公)(1562-1630).
4. Don Taddeo Barberini (1603-1647).
5. Don Maffeo Barberini (1631-1685).
6. Don Urbano Barberini (1664-1722).
7. Cardinal Francesco Barberini (1662-1738).

この枢機卿のローマでの死(1738年)を以ってバルベリーニ家男子の後嗣が絶えた。従って、この家門に関する最も大きな意味での当主の死として、ノストラダムス予言がそれに敢えて触れた縁由という事が出来るだろう。そして年代的には、最初にも言及したように、1736年から始まり、1737年、1738年と、相次ぐ3年の史実を述べた予言のまとまりを成している。

しかし、それにしても、本詩の本当の意義は、そのような実際的歴史内容(諸世紀の中の史実としては軽すぎる感は否めない)よりも、「1736年2月6日」という全く稀有な天象から規定される年月日自体に籠められているのではあるまいか。それも、1736年という一点に懸っていると言えるだろう。何故なら、次回生起が2234年、又は3942年という極めて遠い未来であるから、1736年というのは年代的に極めて偏倚している。この極端な偏りにこそノストラダムスがこの年を選択した深い意味が秘められているのではないか。

つまり、我々の想定するノストラダムスの予言期間が妥当であるならば、その5世紀間のほぼ中間点として位置づける事が出来る年であり、且つ21世紀以降2233年又は3941年迄を完全に排除する年である。そして、この観点からは、何も1736年という特定の年が重要なのではなく、「予言期間の中間辺り」というその性格が重要である。つまり、「ノストラダムス予言の年代軸」といったものを想定した場合、1700年代は巨視的にはその中間を占めることになる。そしてほかにも1700年代の年への言及がノストラダムスの中に見出される。その意味もこの展望の中に置く時初めて理解されて来る。そこで次回は「ノストラダムス予言の年代軸」について考察しよう。
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日付のある預言詩9:ノストラダムス予言の年代軸

日付のある預言詩9:ノストラダムス預言の年代軸

ノストラダムスの『預言集』の中から具体的年号等を全て収集して順序付けると次のようになる。

1555.3.1(セザール宛序文の日付)
1557.3.14(アンリ二世宛献辞で言明された予言開始日)
1558.6.27(アンリ二世宛献辞の日付)
1580年代 (VI-2)
1585 (アンリ二世宛献辞で述べられた日付)
1606(アンリ二世宛献辞で述べられた日付)
1607 (VIII-71, VI-54)
1609 (X-91)
1700 (I-49)
1703 (VI-2)
1727.10 (III-77)
1732.6.12 (セザール宛序文:177カ年と3カ月と11日を序文の日付1555.3.1に加える) 備考1.
1736.2.6 (VIII-49)
1792 (アンリ二世宛献辞で述べられた日付) 備考2.
1999.7 (X-72)
2000 (I-48: 月の支配の20年= 20x100=2000)
2055 (III=94: ノストラダムス予言の全体が解明されて人々が満足する時期=予言集刊行から500年=1555+500=2055) 備考3.
3797 (セザール宛序文で言明された予言到達年)
9000 (I-48: 太陽の支配の継続期限=2000年から 7000年間=9000年まで)

ノストラダムスはどういう基準で、又意図で、これらの年号を明示したのか。

多分、個々の年号自体よりも、最後の三つを別にすれば、全て16世紀から20世紀の期間に限定されている、という点が重要だろう。太陽の支配の7000年の開始は、即ちノストラダムスの予言が終了する年である(I-48)から、そしてそれは西暦2000年の事と解されるから、セザール宛序文で言明された3797という予言到達年は彼の実質的予言のそれではなく、彼が太陽の支配の7000年を予言した限りにおいて、その範囲内に含まれる年として形式的に彼の予言範囲に含まれる、という間接的なものに過ぎない。

そして、「500年経過する中で、自分の予言への研究理解が段々と進み、そして一挙に大きな光が当たり、その時人々が満足する」というIII-94 詩の予言は、「難解な予言詩は出来事が生じた後に理解出来るようになる」という趣旨のセザール宛序文末尾の作者の説明を勘案し、且つ、物事の自然な進行をも斟酌すれば、2000年にその予言が終了し、そして従来の諸研究者の業績の総合の上に、一段大きな光がもたらされ、遂に彼の全予言が解明され、同時代の人々に理解されるようになるのに50年位かかる、と言う風に読み取れる。

従って、彼の実質的予言範囲は16世紀から20世紀迄であると断言してよい。

これら諸世紀をプロットするものとして、上記年代1555, 1557, 1558, 1580年代, 1585, 1606, 1607, 1609, 1700, 1703, 1727, 1732, 1736, 1792, 1999, 2000が、「ノストラダムス予言の年代軸 the chronological axis of the prophecies of Nostradamus」を構成していると言うことが出来るだろう。

備考1.「私がこの序文を書いている現在から177カ年と3カ月と11日経つより前に、そして現在とこの期限の間に、又その前後に幾度も、世の中の人間が災厄と長期の飢饉、戦争によって、更には洪水の如き大動乱によって、減少し、僅かの数になり、土地を耕そうとする人も居なくなるでしょう....」(ノストラダムス『予言集』初版セザール宛序文)

備考2.「時代の革新であると人々が思うであろう1792年....」(ノストラダムス『予言集』第3版アンリ2世宛献辞)

備考3.「 第三サンチュリ94詩 (§958, III-94):500年の間に、人々は、彼自身の時代の誉れであった人物への考慮を、次第に、益々大きく(plus = more)払うようになって行くだろう。次いで、突然、大きな光がもたらされて、その時代に、人々を大変満足させるだろう。」「大きな光、即ち、時代の誉れであったノストラダムスの予言集の完全な謎解きが、500年経て、従って、2055年頃に実現するだろうという意味である。」(ツェントゥリオ『ノストラダムス 世界史の予言者』p.86)

この詩については、大概の解釈者は一行目を否定文(plus = [ne] plus = no more)と解して「もはや尊敬しなくなる」と読むが、それでは事実に合わないから、ツェントゥリオ及びイオネスク(『ノストラダムス最後の勝利』p.208)のように肯定で読むべきである。

何故なら、難解この上も無いとは言え、ノストラダムス予言集の研究は弟子のシャヴィニを嚆矢として、幾世紀間、現在まで、連綿と継続されて来ており、過去の蓄積の上にその都度新たな寄与が加えられて、全体としては「過去456年(1555-2011)の経過の中で解明が徐々に進展して来た」という形態が間違いなく認められるからである。

例えば、各世紀の代表的研究者等について予言詩解明の先駆的研究例を概数で数えてみると次のようになる。

16世紀:45編(シャヴィニ)。
17世紀:20編(ジョベール、ギャランシエール、ギノー)。
18世紀:15編(ジャン・ルル、Vie et Testament de Nostradamus の著者、L'avenir dévoilé の著者H.D.)。
19世紀:270編(ベロー、ブーイ、バレスト、トルネ・シャヴィニ、ルペルティエ)。
20世紀:290編(ヴィニュワ、ヴェルナー、フォンブリュンヌ父子、ロブ、ツェントゥリオ、イオネスク、デュフレンヌ、オーヴァソン)。

もし、私の鑑識眼に大きな錯誤がなければ、世紀を辿る毎に、ノストラダムス研究の光は、
456580350640と増大し続けて来たのである。
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